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零汰

昌官忠式東北南下1日目 (2024/05/24 訪問)

城びと一の元気印と言えば言わずと知れた昌官忠さん。昌官忠さんの通った跡は攻城し尽くされ焦土と化すのでは無いかと思われる程の訪問をされている。2.3日なら出来ると思われる方もいそうだがそれを1週間も2週間も繰り返されるとなると話は変わってくる。驚くべき事にそんなタイトな訪問を連日繰り返していながら投稿内容も的を得ているので恐れ入る。余程の事前準備をされており、人並み外れた胆力の持主なのでは無いかと密かに注目していました。一度は昌官忠式訪問を試してみたいと思っていて、北海道から帰る際に体力が残っているならとの条件で昌官忠式東北南下1週間を狙ってました。

函館からフェリーで青森入り、走行するルート沿いにある城跡の入口にマーカーし訪問しながら南下して行きました。昌官忠さんと違うのは城跡の情報の事前準備は全くしていなかった事。相変わらずの行き当たりばったりはこれまで通りでした。遺構が無ければサクっと訪問、遺構があるならじっくり訪問。

先に結果を言うと芳しくなかったです、頓挫しました。北海道に行った後の訪問はタイト過ぎました。頭は終始冴えていたのですが体が付いてこなかったです。とてもじゃないが私にはハードルが高すぎて昌官忠式には数段落ちるショボいシリーズとなりました。いつか場所を変えて仕切りなおして試してみたいと思います。

最近の投稿で昌官忠さんが登場していたのはたまたまですがこの投稿の伏線でも有りました。
最近お見掛けしていませんね、是非復活して日本各地の城跡を焦土と化すのを楽しみにしています。

1日目:青森県
1.横内城→2.陸奥高田城(写真1)→3.浪岡城(写真2)→4.高屋敷館(写真3)→5.原子館(写真4)→6.浅瀬石城(写真5)→7.黒石城(写真6)→8.黒石陣屋(写真7)→9.田舎館(写真8)→10.藤崎城(写真9)
この日の分は個別で投稿するかどうか分かりません。

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しんちゃん

小野藩一万石の陣屋 (2024/04/20 訪問)

小野陣屋は小野藩の藩庁で承応2年(1653)一柳直次によって築かれました。元々は一柳直家は伊予国川之江に本領を置き、分領である播磨小野には敷地陣屋(代官所)を置いていましたが、直家急死の際に嗣子がいなかったため、緊急に直家の娘に婿(直次)を取り藩を存続させようとしたことを幕府からとがめられ、1万8600石を没収され小野藩1万石に縮小されてしまいました。
当時まだ幕府は末期養子を認めていなかったため禁に抵触するという理由だったそうです。そんな経緯で敷地陣屋を廃して正式な1万石の陣屋として築かれたのが小野陣屋になります。城域は案外広く、馬場跡には好古館が建てられ、東は西池・中池・雁俣池の三池が堀の役目を果たしていたようです(現在は消滅)。
小野小学校が有るあたりに御西御殿や御手丸御殿などの主要部が置かれ、小野高校が有る場所には藩士の邸宅があったようです。陣屋とはいえ最低限の防御力を備えているようで、豊臣秀吉配下の頃から関ヶ原まで数々の武功を挙げた一柳直盛の後継としての誇りが残されている気がします。

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しんちゃん

太陽公園  白鷺城ではない姫路市の白鳥城? (2024/04/20 訪問)

太陽公園は兵庫県姫路市の峰相山山麓にある「石」をテーマにしたテーマパークです。ノイシュヴァンシュタイン城にそっくりな謎の城が山上にそびえたち、付近から見ると、すごく目立ちます。山上は「城のエリア」とされ隣接する「石のエリア」には万里の長城や兵馬俑の巨大な屋内展示があり、世界の石像のコピーが大量に設置されています。
城好きとして行くべきなのかどうなのかは、個人の判断に委ねるしかありませんが、私は以前から気になっていたので、勢いで行ってきました。見た目はヨーロッパの石造りの城ですが、中身は近代の鉄筋造りで、トリックアートなど、様々な展示物がありました。

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小城小次郎

瓜二つの門と石鹿(せきろく)地蔵尊 (2024/02/10 訪問)

城址公園の入口に建つ模擬城門はすぐ近くの膳所神社に移築された本丸大手門と瓜二つのようだ。城の別名石鹿(せきろく)が冠されたお地蔵さんは比叡山から坂本城・大津城を経て膳所城に運ばれてきたものなのだそうだ。

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零汰

カ・ラ・ブ・リ (2019/06/20 訪問)

最近意識して城跡に行っていますが体力の低下が気になっています。2年前の体力に戻る気配が無い。7月の大分侵攻はそこそこ体力が戻った気がしていましたが暑さのせいだけではないような気がしてました。そこで2年前に体力がピークと自覚していた頃を調べてみました。すると大阪から1週間かけて山口迄城巡りしながら南下していた時でそのほどんどが整備してある城跡でした。そういえば大分侵攻以降はほぼ整備してない城ばかり行っていた、それが体力低下に感じる原因らしい。そこで一度整備している城跡に行ってみるかと昨日訪問したのがこちら清色城、鹿児島でも珍しい見せる為の城跡です。

空振りました。

雨災害で立入禁止でした。折角なので昨日の写真と5年前の写真を載っけます。(写真1が昨日の状況)
常々自分の写真を撮るのは下手だと思っていましたが、5年前の写真を見て驚きました。そこそこ良い写真に見えるではないですか。
考えるに整備された城では何となくそこそこの写真を撮る事が出来るという事ではないでしょうか。
が、悲しい事に行きたい城や見たい城が必ずしも整備されてはいないと言う事。
仕方ありませんね、今後も汚い写真で我慢しましょう。

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零汰

苦い記憶 (2019/10/06 訪問)

多くの先輩方の投稿がある城については投稿を避けており、投稿が無かったり少なかったり自身にとって意味のある城のみ投稿しています。こちらは苦い記憶のあった城です。5年前に見るものが楽しくて勢いだけで訪問していた頃に行きました。

駐車場から歩きたくなく横着して登山口の隙間にバイクを停めようとした時に惨事が起きました。地面に勾配が付いていてスタンドがおりずにバイクが走馬灯の様にゆっくりと倒れてしまいました。倒したのはこれで2度目、慣れたもので写真を撮る気持ちの余裕は有ったのです。このバイクは海外仕様の大陸横断用でバイク屋の社長曰く城跡に乗って行くようなバイクでは無いから辞めなとずっと言われ続けていました。重量は300kg超でとにかく重い高速走行の得意なバイクでした。

時刻は朝6時過ぎ、人間には特殊能力が備わっているらしく看板との隙間に漸く体を入れて火事場の〇力発動、起こした後にはメンタル崩壊。初めて倒した時はそのまま訪問を取りやめて帰宅したがここはそうはいかない、気を静めてから痛い腰と肩を擦りながら訪問を開始した苦いながらも懐かしく今後起きる事のない記憶でした。

城の詳細は諸先輩方の投稿をご覧ください。

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しんちゃん

八陣の庭と復興天守 (2024/02/24 訪問)

岸和田城は岸和田氏によって築かれたとされる古城を小出秀政が五重の天守を備えた本格的な近世城郭として整備されたとされています。
淡路洲本城と同じく、和泉砂岩で築かれた総石垣の城で、江戸時代から現代まで改修を繰り返して現在に至ります。
同じ砂岩でも名古屋城などに使用されている河戸石とは硬度が異なるようで、石の劣化の仕方にも特徴があります。要は「脆い」のが特徴で、年月を重ねてくるとボロボロに崩れてきます。表面が剥離している石も多く、これも特徴の一つのようです。
国の名勝とされる本丸の「八陣の庭」は昭和28年に築造された重森三玲氏による砂庭式枯山水庭園です。かつては五重の天守が築かれていましたが、文政10年(1827)落雷によって焼失し、以後再建がされずに近代に至り、昭和29年に鉄筋コンクリートで三重の天守として復興を遂げました。

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ぴーかる

戦鬼たちの海 (2024/06/08 訪問)

【波切城】
<駐車場他>観光駐車場が各所にあります。300円
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅6城目。波切城は南北朝時代後期に九鬼隆良によって築城されたようです。1551年に当主の九鬼定隆が死去し兄の浄隆が家督を継いで田城城、弟の嘉隆が波切城を与えられます。嘉隆が志摩1国を支配し鳥羽城を築城したことにより廃城となったようです。
 ここも田城城と同じく、白石一郎氏著「戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆」を読んで行ってみたかった城跡です。宝門の浜から真珠店の前を通りまず城跡へ。城跡は断崖の段丘上を削平地して築かれています。虎口と思われる箇所に僅かに窪地になって虎口曲輪があります。灯台は寄らず須場の浜を通過し波切神社、崎山公園へと巡りました。北側の半島の方が断然大きいので城を築造するならこっち側の方がいいかなあと思いました。やはり城より船の戦力が重要視されていたのでしょう。暑かったですが、なかなか思い出に残る散策を楽しめました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

室戸岬周辺 (2018/01/04 訪問)

高知県室戸岬周辺には海岸が隆起して形成されたとされる奇岩が多数あり、それぞれに名前が付いているようです。付近には空海(弘法大師)19歳の時の青年大師像があり、全高は21mもあります。若き日の空海が籠り、修行をしたとされる御厨人窟(みくろど)もありますが、崩落の危険性があるとして立ち入り禁止になっていました。修行の際に、洞窟の中から見えた景色が空と海だけだったことから、「空海」の名を得たと伝わっています。

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シェル

おのれー!!スズメバチ!! (2023/11/11 訪問)

 古河城跡から南に進み、徒歩約20分で到着!!
 総合公園内に駐車場・トイレが設置されています。
 現在は古河総合公園となっています。茨城県民の感覚では、桃の名所として話題にあがる印象が強いです。
 北側の歩行者用入口から公園内に入場。桃林を南に進むと、徳源院跡があります。ここに五代 古河公方 足利義氏の墓所があります。徳源院は義氏の娘 氏姫の法号にちなんだお寺だったようです。
 そこから公園内の南側へ移動し、館跡のエリアへ移動。館跡のエリアは総合公園内の南側のエリアです。公園東側の駐車場を経由し、茶畑や移築された古民家のあるエリアを西に進んだところにあります。
 ここは 別名鴻巣御所と呼ばれています。西・南・北の三方を御所沼に囲まれ、半島のような地形になっており、攻めにくくなっています。
 館跡の東側(駐車場側)に石碑が設置されており、そこから空堀を見ることができました。
 それでは!! 古河公方館の曲輪にいざ突撃!!と思ったら、スズメバチの巣があるということで、土橋から先は立ち入り禁止になっていて入れませんでした…
 御所沼をぐるっと回って、反対の西側の入り口も同様に貼り紙があり、入れず・・・
 こればかりはどうしようもないので、スズメバチが落ち着いた時期に再訪したいと思います!!

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シェル

本丸は河川敷 ~町なかに遺構が点在~ (2023/11/11 訪問)

 JR東北本線(宇都宮線)古河駅西口から諏訪曲輪跡(古河歴史博物館)まで徒歩約20分。古河歴史博物館に駐車場があります。
 駅から諏訪曲輪への道中にあるお休み処坂長は、古河城の文庫蔵と乾蔵を移築したもののようです。お休み処坂長では、古河城の御城印が販売されています。
 その南にある福法寺には古河城二の丸御殿 乾門が移築されています。
 福法寺から西に進み、古河歴史博物館へ移動。
 博物館の周辺が諏訪曲輪(出城)跡で、こちらには土塁と空堀跡が残っており、きれいに整備されていました。
 古河歴史博物館の入り口部分には、「古河城出城諏訪曲輪跡」の石碑が立っています。博物館の常設展の方では、古河城の模型が展示されており、展示室で古河城の解説シートも配布されていたので、せっかくなのでいただきました。
 博物館を見学後、諏訪曲輪跡から移動し、西に5分ほど進むと桜町曲輪の獅子ヶ崎土塁も現存しており、案内板も設置されています。この周辺に、徳川将軍の日光社参の時に使用されていた御成門があったようですが、石碑等は設置されていませんでした。
 そこから西に進み、渡良瀬川の河川敷の堤防を南に進んでいくと堤防上に古河城の本丸跡の石碑が建っています。石碑は御三階櫓がデザインされています。堤防から見て、河川敷の野球グラウンドの周辺が本丸跡だったようです。
 本丸などの主要部は河川敷になってしまいましたが、諏訪曲輪や建造物が残っているので、かなり楽しめました!!

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しんちゃん

雑賀党の城  (2024/02/25 訪問)

雑賀城は雑賀崎の東2km弱に位置する丘陵の上に築かれており、この山自体が紀州青石と呼ばれる緑泥(色)片岩の岩山と見られ、本丸跡とされる妙見堂は巨大な扁平な岩肌の上に建てられています。
周辺は緑泥片岩の産地で、弥勒寺山城も岩盤上に築かれています。雑賀崎で採取される緑泥片岩は和歌山城の本丸周辺の石垣に多用されています。
雑賀党は雑賀の荘の鈴木・土橋・島村・栗村・松江・宮本の士族らによって結成されており、鈴木氏はその中心的な役割を担っていたようです。雑賀城は孫市の父・鈴木佐太夫によって築かれたとされています。
天正5年(1577)の雑賀合戦の際には石山本願寺に味方し、孫市は雑賀党の中心人物となって織田信長の大軍相手に活躍し、一度は敵を退けたそうです。その後、再度総攻撃をかけてきた織田の軍勢の前に屈服し、佐太夫は藤堂高虎の計略によって粉河で切腹したとのことです。城址には特に遺構らしきものは残っていませんが、山肌は急峻で、当時の周辺への眺望は良かったものと思われます。

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しんちゃん

日本三大水攻め 太田左近宗正と雑賀孫市 (2024/02/25 訪問)

太田城は「日本三大水攻め」の一つとして有名な城です。天正5年に織田信長が紀州に大軍を送った際には、当時雑賀党と対立していた太田衆は織田軍の先導を務めました。そのことで両者の間にしこりが生まれ、翌年 雑賀党は太田城を攻めますが、根来衆の援軍を受けた太田城はなかなか落ちず、雑賀孫市は太田左近宗正に和睦を申し入れたそうです。
これらの一連の出来事で、対立関係もあったこの地域の三つの勢力が結びついたようです。後に豊臣秀吉が寺領72万石、3万の僧兵を所有する根来寺に対し、寺領を納めよと要求したことに三党は反発し、天正13年(1585)の紀州攻めが始まります。根来寺が焼き払われた後も太田左近は5千の兵と共に強く抵抗したため、秀吉軍は総延長5~6kmにも及ぶ堤を築いて水攻めを行ったとされています。
太田城の兵は攻め手の船の底に穴を開けるなど、勇敢に戦いましたが、水攻めが始まって1か月後、太田左近ら首謀者50余人の首を差し出すことを条件に他の者は助命され、城は開城したとのことです。

来迎寺が本丸の中心だとされています。境内には大きな石碑が建ち、近くには自刃した武将たちの首を葬ったとされる小山塚が有ります。周囲は宅地化が進んでいるので三大水攻めとされる城の中では最も雰囲気から遠いですが、「紀伊名所図会」の「太田城水攻め図」には忍城などにも負けない立派な太田城が描かれています。
ちなみに堤跡には情報不足で行ってません。

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todo94

日本遺産「鮭の聖地」 (2024/08/09 訪問)

ヲンネモトチャシから100kmを遥かに超える道のりを運転して到達。標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡の中にあるチャシです。有料区域の中にありますが、330円を支払う価値はあります。零汰さんも投稿されている通り、湿原をはじめとして見どころがたくさんありますから。肝腎のチャシは、いただいた案内地図では円弧を描く遊歩道の外側のテラス、近くの案内板では遊歩道の内側にある「村長さんの家?」のくぼみになっています。とりあえず両方の写真を投稿しておきました。標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡は日本遺産「鮭の聖地」の構成資産になっています。ここに来る前に郷土料理の店で三代漬け丼を昼食としていただいたのはベストチョイスだったと思います。

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しんちゃん

諸行無常で御座い (2024/02/25 訪問)

秋月城は太田党の支城としての役割を持っていたとされ、天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めの際に廃城となったようです。かつては「城の内」と呼ばれる畑とみかん畑で、曲輪や堀が残っていたようですが、今では御立派な工場に御成りで遊ばされます。
堀はどうなった? なんとなく周囲の道路が不自然にまがっているので、これがその名残でしょうか?柵の内側の側溝も喰い違いになっています。しかし、こんな感じにカキカキにする必要があったのかな‥? 何かのこだわりですかね。

尺が余ったので、以前「ゆるキャン」を参考に造ったダムカレーを紹介します。ただ途中で方向性が変わってしまって「第一次信州上田城攻め 神川堤防決壊DE徳川軍急襲オムハヤシ」と相成りました。すでにカレーですらない‥。
ちなみに柿の種が真田軍、ピーナツが徳川軍です。
とりあえず配置して堤防を決壊してみたんだけど、夏の水難事故が多発する今の時期、これはまずいんじゃないか?‥‥徳川ピーナッツ軍の皆さんは泳ぎが上手で全員助かったことにしておこう‥‥。
写真を撮ったらあとはまとめて胃の腑の中です。

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しんちゃん

佐和山城遺構 (2023/04/09 訪問)

滋賀県彦根市の石田三成の居城・佐和山城は関ヶ原の合戦の後、徹底的に破壊され、遺構はほぼ残っておらず一部の石垣を残すのみです。しかし、東麓には大手門跡が残り、土塁らしきものも残っています。琵琶湖に流れ込む矢倉川から引いた水路が佐和山城の東側を流れていて、これがかつての堀跡であるようです。井戸跡とされる場所もあり、今でもそこは水が染み出していました。
肝心の城跡の写真はロストしてしまったので、またいずれ登城しなくてはいけませんが、それはそれで楽しみでもあります。

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三浦の晃ちゃん

円城寺門 (2024/08/11 訪問)

南部氏の家臣、北氏の居城です。市役所などが、敷地に含まれています。藩政期からの遺構として、円城寺門があります。

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しんちゃん

村上海賊の娘 (2024/02/25 訪問)

真鍋城は和田竜氏の小説「村上海賊の娘」で重要な役割を果たす七五三兵衛(しめのひょうえ)こと真鍋貞友の居城とされています。
松岡山・南溟寺の境内が城址とされ伯太藩渡辺家墓所もあります。
貞友は信長の命で淡輪より当地に拠点を移し真鍋城主になったとのことです。真鍋水軍を率いて第一次木津川口の戦いで毛利水軍と戦いますが討死を遂げました。家督は嫡男の貞成が継ぎ、関ヶ原の合戦では西軍に付いたと見られ、一時没落するも徳川秀忠の命で、紀州藩主・徳川頼宣の家臣となったそうです。

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T-Shionoya

西尾城の丸馬出・障子堀・転用石 (2024/08/10 訪問)

昨日は西尾市資料館の企画展「西尾城跡発掘調査40年のあゆみ」の展示解説を聴いてきました。

西尾城は一般に西条城が起源とされるが、鎌倉・室町時代の遺構・遺物はほとんどなく、当時の居館は吉良氏菩提寺の実相寺がある上町エリアにあったとする説が有力とのこと。

発掘される遺構・遺物は戦国時代以降のもので、個人的に興味深いのは小牧長久手の戦いの頃の改修とされる丸馬出と障子堀。
昨年の訪問時は見逃した丸馬出の二重の堀。現在は枯山水で表現されています。
二重堀は一方の堀が築かれた直後、もう一方に作り替えられた可能性もありますが、発掘結果では二重で存在したと考えられている模様。
また障子堀の独特な形状の障壁は、元の堀を更に深く広くしたためとのことで納得。

そして本丸表門の石垣には墓石が転用されているとのこと。
知らないと気付かないものですが、探すと真四角の石材が2~3個使われていました。

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零汰

猫派?犬派?それとも・・・。 (2019/08/03 訪問)

福岡県八女市に猫尾城という名の城跡があります。綺麗に整備され主郭の神社周りには立派な薄い石の石垣も残っており雰囲気の良い城跡です。城ひとの登録城で数名の先輩方が投稿されています、気になる方はそちらを参照ください。そこから西に犬尾城という名の城跡もあります。5年前の同日に訪問しました。猫尾城は黒川氏が在城しており、犬尾城はその黒川氏の長男が築城したそうです。
「さては黒川氏は親子で生き物の尻尾フェチなのか?」

すみません。昨日に続き動物の名前つながりの投稿です。サブカル好きの私としては歴史云々よりもこんなくだらない事柄の方に興味が湧くのです。しかし今回はもう少し続きます。

2年程経ち、福岡の未登録城の侵攻を始めようとしていた頃に福岡県の調査報告書で情報収集していました。すると八女の辺りで鷹尾城なる名前が飛び込んできました。「近くに似たような・・・」調べていくうちに犬尾城の支城とあります。「やっぱ動物の尻尾フェチの家系じゃん、だけどここでなぜ鷹?虎とかの方がしっくりくるけど」
さらに調べていくと近くに兎城もある。残念ながら築城者の記載は無かったし尾が付かないがおそらく同じでしょう。兎と付くからには確信犯じゃ、と妙に親近感が湧き楽しくなり記憶に焼き付いています。次の福岡侵攻の際はぜひ鷹尾城には訪れたいと思っています。

犬尾城は南北に長い主郭を持つ城で、主郭の両端には土塁が途切れながらも残っています。比較的に小規模なのですが南東にしっかりとした空堀も残存していて目を楽しませてくれます。この頃は城廻りを始めて3カ月くらいの時期で畝堀の存在を知りませんでしたが縄張り図と写真を照らし合わせてみたところ写真7は畝堀の中の1本だったようです。


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