権現山城は現在は幸ヶ谷公園になっていて、遺構は残っていません。かつては青木城も権現山城に組み込まれていたようで、線路で遮断されている部分が堀切だったようです。
古くは観応3年(1352)足利尊氏が新田義宗・義興らに追われて鎌倉を逃れ武蔵狩野川の城に立て籠もったとされますが、それが権現山城ではないかと言われています。
永正7年(1510)には権現山合戦の舞台にもなりました。伊勢新九郎長氏(北条早雲)は長尾景春と共に、越後守護代長尾為景に通じ、扇谷・山内両上杉氏と敵対しました。権現山城には長氏に扇谷上杉氏からの離反を促された上田政盛が蜂起し、上杉方の二万の軍勢が権現山城を取り囲んだそうです。今でこそ面影はありませんが、権現山城の守りは堅く9日に渡って敵の猛攻に耐えますが、ついには火がかけられ落城したようです。
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