小机城址市民の森として遺構が整備されている。1438年頃、関東管領上杉氏により築城と伝わるが詳しくは不明らしい。文明8年(1476)に長尾景春方の武将として、小机城主矢野某が載る。2年後に豊島氏が太田道灌に敗れ、小机城に立てこもるが、太田道灌により落城する。道灌が陣を構えた場所が、鶴見川対岸の亀之甲山。その後北条氏綱により修復され、家老の笠原信為が城代として入り小机衆が組織されたとある。1590年の秀吉の小田原征伐では、戦場とならず開城し、家康の関東入封後に廃城となる。
西曲輪(本丸とも)虎口前には馬出が設けられているのだが、明確な判断が難しい。虎口には模擬冠木門、曲輪の四周の東部を除けば高い土塁で囲まれている。南・北の堀は深く造られている。虎口から東に行くと右下には幾段かの平地が見える。先の小さな祠のある小曲輪辺りから眺める土塁・堀は見所であり、堀底まで入れる。散策路は北に向かい、井楼跡標識まで上るが、本来の道ではないようだ。
上った左はつなぎの曲輪と呼ばれ、南北に細長い曲輪になる。南端には櫓台跡とあり、空堀からは相当の高さがある。右が井楼跡だが、正面の土塁が続いていたらしく、東曲輪(二の丸とも)の虎口は少し東にあったと言われ、急斜面の道だったようだ。西曲輪同様、畑時代に土塁などは削られ、部分的に遺るのみ。東曲輪北隅からの堀も深く、散策路が付けられ堀底へ下りて半周できる。下りた正面の高まりに櫓があったらしい。西曲輪虎口から第三京浜を潜り、上り返せば富士仙元大菩薩の石碑が建つ小山があり、如何にも櫓があったように思える。
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