うねめじょう

采女城

三重県四日市市

別名 : 北山城
旧国名 : 伊勢

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主郭と二郭の間の堀切
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しんちゃん

季節が良ければ最高の気分で散策できる城。 (2023/07/15 訪問)

采女城は三重郡地頭職、後藤氏の城で、後藤采女正藤勝の時に織田信長の軍勢に
攻められ城主は討死、千奈美姫も井戸に身投げして父の後を追ったと伝わります‥
そんな可哀そうな伝説の残る采女城ですが
整備の良く行き届いている、素晴らしい山城(平山城)で、各郭の間は堀切で仕切られ
各郭には土塁が残っています。
季節が良ければ散策していて最高の気分を味わえるのですが、今回訪問したのが7月半ば
しかも記録的な猛暑とあって、なかなかきっつい‥
主郭を中心に各郭が配置してあって、南東に八郭、北側に二郭と三郭と続き
それぞれの郭はかなり大きな堀切で仕切られていますが
木橋がかけられていたりして移動にはそれほど苦労しません。
三の郭から四郭に移動できるのですが、その道中の北側には土塁が配されています。
主郭に戻って南西部の五郭に向かいますが周囲にロープが張ってあって
立ち入りを制限しています。
その中に入り込んで南西に向かえば六郭、七郭に至るはずなのですが
今回は五の郭までで探索を終了しました。

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おっちゃん

采女城跡市民緑地、采女城跡図 (2017/01/28 訪問)

現地案内板より抜粋。

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pascal

とにかく、気持ちの良くなる 采女城 (2016/01/23 訪問)

采女城は又兵衛基次でお馴染みの播磨後藤氏の一族の城です。
鎌倉初期、武功のあった(承久の乱か?)後藤伊勢守基秀という人が采女の地頭職を与えられ、移り住んで築いた城だそうです。
以後15代300年余りにわたり、この地を統治した後藤氏ですが、永禄10(1567)の織田信長の侵攻に際しては防備を固めて果敢に戦い、玉砕・滅亡してしまいました。

地元の方の話によると、後藤氏は領民にとても慕われた領主だった様で、廃城となった城址も領民の手によって“聖地”として守られて来たのだそうです。
城址の周囲では、住宅団地や霊園の開発が進んでいますが、自然林に覆われた城域には、住居や耕地の痕跡が認められません。
お陰で、縄張り図通りの遺構がハッキリと遺っていて、次々に現れる郭や堀切には、嬉しさを越えて感動すら覚えます。

史跡指定の無い采女城の整備を担っているのは地元の有志(老人会)の方達だそうで、適度な手作りの整備でもてなしてくれます。
城址とそれを大切にし行動する地元の人達のベストマッチ。
遺構の残存度と相俟って、『行って良かった♪』と思える気持ちの良い城址です。

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昌官忠

東海北陸遠征 (2020/03/05 訪問)

南側登城口・城跡碑近辺(34.929839、136.574601)に路駐して攻城。
雨中、足元を気にしながら登城したがそこそこ整備されており、曲輪間の堀、堀切が印象的な城跡でした。攻城時間は40分位でしたが、雨中の為、見学したのは1郭から5郭までで、6郭~8郭は見ていないので、全部見るととなると、もう少し時間がかかると思います。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 後藤基秀
築城年 文応元年(1260)
主な城主 後藤氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、土橋、枡形虎口、井戸
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県四日市市釆女町字北山
問い合わせ先 四日市観光協会
問い合わせ先電話番号 059-357-0381