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零汰

城とバイク

先月大分侵攻に行った際に、岐部城でバイクで城巡りをしている人と遭遇しました。
自分は見終えた後、彼は北陸ナンバー、歳はひと廻り程若い方でした。
荷物は満載、でもデント類は積んでいなかったのでホテル泊なんでしょう。
車の中から眺めていてとてもシンパシーを感じて思わず声を掛けたくなりました。
と同時に寂しさと羨ましさの混じる複雑な気持ちが襲ってきます。

昨日の投稿で北海道シリースは一区切り、実際はもう少々続くのですが区切りもいいので。

本格的に城廻りを始めたのは5年前、19年の春だったと思います。それ以来9割以上をバイクと共に訪問しました。
山城の魅力に取りつかれて19年に九州本土内登録城の8割を勢いだけでバイクと共に訪問しつくしました。
登録城以外の城に行くようになってからも、西日本の正続100城廻りもずっとバイクが一緒でした。
数年前には自分が日本中を走り廻るなど想像していませんでした。
逆に言うと沖縄を除く都道府県をバイクで走破出来たのも城の存在があったからで城とバイクがが自身の世界を広げてくれました。

加齢により山城を廻りながらバイクを運転する事を繰り返すのが徐々にきつくなって来たのは当然の成り行きだったと思っています。それに昨年のバイク事故も何かのメッセージだったのかもしれない。今回の北海道行はバイクで行く最後の城廻りで出かけました。予想以上の成果だったのでバイクと城の良い終わり方が出来て本当に良かった。今は車で城廻りをしています。

城廻りをされている若い方々はまだまだ時間があります、是非自分のスタイルで沢山の城を廻って直に見て欲しいなと思います。

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しんちゃん

和泉砂岩と桃色花崗岩 (2024/02/24 訪問)

岸和田城はかつて周囲を三~四重の堀で囲まれていました。今でも本丸の周囲と二の丸周辺に見事な水堀が残っています。石垣の部材の中でも最も脆い「和泉砂岩」を用いており、当然のように崩れてくるので延宝(1675)以降、花崗岩を用いて修復し続けてきた結果、複数の色が混在する石垣になっています。江戸時代の修復跡はそれほど目立たないですね。さすがに石垣が主体の時代の人達なので上手にまとめています。主郭北側に上側がうっすらと赤い石垣がみられますが、そのあたりですね。
問題なのが南東部分でモザイクみたいになってしまっています。地元ボランティア曰く「お金がないから」だそうです。違和感しかない。
「じゃあ、お金ちょーだい」と言われましたが‥返事は「出ません~」 こんな掛け合いが出来るのも大阪ならではです。
いろいろ地元自治体なりの事情があるようです。

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しんちゃん

鎌刃城 (2017/05/20 訪問)

少し古い写真ですが、鎌刃城の投稿です。標高384mの高所に築かれ、南東に伸びる尾根は細く「鎌刃城」の名の由来になっています。
案内板によると応仁の乱の頃にはすでに存在していたようで、城主掘氏は当初浅井氏の家臣でしたが元亀元年(1570)織田信長に与したとされています。天正2年(1574)堀氏は改易され鎌刃城は廃城になってしまいます。少しもったいないですが、近江を信長が完全に支配し、湖北地域を秀吉に与えたことで当城の必要性が無くなってしまったみたいです。
主郭の枡形虎口は石垣で固められ、この城の見どころの一つになっています。

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小城小次郎

存分に役割を果たしたお城 (2024/02/10 訪問)

宇佐山城の戦いの舞台となり、和議の条件として破却されたという解釈が正しければ極めて短命なお城なのだが、京~近江の往来を制限し朝倉・浅井に存分に脅威を与えた点では存分にその役割を果たしたと言えるのだろう。

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しんちゃん

西伊豆の海岸は険しく、海は美しい (2024/07/14 訪問)

安良里城は城というよりも、安良里港を監視する砦の様な感じで、自然歩道から延びる尾根上にはいくつか見張りを置けそうな場所が有りました。途中後世のものらしい石垣もありました。
この日は晴れ間も見え、西伊豆から見た海が美しかったので、一緒に載せます。駿河から見た時より綺麗な青色に見えるのは光の加減でしょうか?

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しんちゃん

土々累々 (2024/02/25 訪問)

淡輪城というよりは館の跡のように見受けられます。道路に面して南側に土塁に囲まれた一角があるのでわかりやすい。
淡輪氏の祖先は義経に仕えた佐藤忠信らしきことが案内板に記載が有ります。別の辞典には橘兼重なる人物が淡輪荘の下司職を源頼朝に認められ、これが淡輪氏にあたるようです。
戦国時代には淡輪微斎の娘「おこよ」が豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが、三条河原で斬首されたとのこと。微斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙直之(団右衛門)とともに壮絶な討死を遂げたとのことです。

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モト

一度は行く価値のある城跡ではないかと思いました (2024/07/28 訪問)

波多氏から代わり、寺田氏の時代に石垣の城への変貌を遂げたとの事です。
城跡ではその見事な石垣を見る事ができました。
城跡へ車である程度近くまでは行く事ができます。
駐車場と登城口が2箇所ありいずれも城跡までの距離はほぼ同じくらいで行けます。
そこからは往復1時間ほどのまずまずの登山となります。
遺構を眺めながら進むとおよそ2時間を過ぎるくらいの往復になるかと思います。

登城して、最初の旗竿石との分岐点以外は城の縄張りは尾根を三の丸から本丸、その先にある姫落としの岩まで順に見学できます。
三の丸前の堀切も素晴らしいのですが、二の丸との間の二の堀切には見事な石垣が残ってました。
石垣には苔のような物も付いていて、なんとも言えない雰囲気です。
本丸の石垣にも感動させられながら先に進むと、三左衛門殿丸石垣の登場です。
これもまた素晴らしいです。
所々抜けてしまった崩れそうな石垣も一見の価値ありだと思います。
その先には、抜け穴と伝わる穴や姫落としの岩もありました。

ここはよく心霊スポットとして載っているのを見ました。
秀吉から受けた波多氏の無念の怨念が残るのも理解できるので少々怖い気もしましたが、訪れてみると怖さを凌駕する素晴らしい城跡でした。
佐賀の城跡では10本の指に入る城跡だと思いますので、皆様もぜひぜひ訪れてみてください。

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todo94

4度目のヲンネモトチャシ (2024/08/09 訪問)

根室半島チャシ跡群へ行ったと言うには、スタンプのデザインになっているヲンネモトチャシは外せません。3回スタンプラリーを完遂しているのでこれが4度目のヲンネモトチャシです。階段が設置されていて、他の観光客が複数いました。観光客の流入により、漁港のガードは厳しくなっています。初めて訪れた2007年7月に撮影したような海越しの遠望の写真は撮るのが少しずつ困難になってきています。

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外堀とその周辺 (2024/08/10 訪問)

 名古屋城は周囲にも遺構が多くあります。正門から三の丸外堀とその周辺を名城公園近くまで散策しました。見事な外堀の他にも石垣や土塁が残っています。この季節は生い茂っている草木で見づらいですね。2年前に2月にも散策したときとは全く違いました。やはり城の遺構を見るには秋冬がいいです。それなりに楽しんで散策しました。

(余談)
 以前にも投稿しましたが、自分が高校の頃まで外堀の中を電車が走っていました。今の名鉄瀬戸線は城の東側から南側へと巡っていき、名古屋市の中心街を流れる堀川の近くまでつながっていました。お堀を通っていたのは、東大手駅から堀川駅の区間で、「お堀電車」とも呼ばれていました。瀬戸物を堀川で舟に載せ替えて名古屋港まで運び輸出していたようです。1976年名古屋市の中心地である栄へ路線が変更されるまで走っていました。当時、自分も乗ったことがありましたが、堀の中を走るのかと興味津々でした。

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名古屋城夏まつり (2024/08/10 訪問)

 今年も名古屋城夏まつりが今日から開催されています。昨年も行ったのですが、今年も行って来ました。といってもイベント等に参加するわけではなく公開されている西南隅櫓を見学して城内と周囲を散策してきました。天守閣は耐震性に問題がり入館できません。ただ外観は昭和実測図に基づき正確に再現されていますので外観だけでも楽しむことができます。本丸御殿が復元されていますが、いつも混んでいます。何回か見学しているので今回もスルーしました。櫓も3基現存しています。西南隅櫓と東南隅櫓はときどき公開されています。自分が好きなのは石垣と堀で、比較的良好に残っています。小学生のときから何回か来て、人生で一番多く登城している城址です。
開門前10分前に行ったのですが、券売機の前には多くの方が待ってみえました。

 昼飯は矢場とん金シャチ横丁店さんでみそかつ丼御膳をいただきました。超久しぶりの矢場とんでした。

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しんちゃん

故郷は遠いねぇ (2024/02/25 訪問)

永禄5年(1562)の「久米田の戦い」の際に貝吹山古墳の上に三好実休が本陣を敷いたとされています。実休はこの戦で討死し、長慶の実弟であり右腕ともいえる実休を失ったことで三好氏は大きな痛手を受けたとされています。この時、実休を討取ったとされるのが根来衆徒の往来右京という人物であったとされています。
城址は現状・古墳で遺構らしきものは残っていません。
草カラス霜又今日ノ日ニ消テ因果ハ爰(ココ)ニメクリ来ニケリ とは実休が前日に読んだ辞世の句とされています。
自らが阿波国主・細川持隆(氏之)を殺害したことを気にかけていたようで、自身を草を枯らす霜に例えたようです。後世の創作ととらえる向きもあるようですが、実際のところはどうなんでしょう?
弟・安宅冬康の返しの歌が 
因果トハ遙車ノ輪ノ外ニメグルモ遠キ三芳ノ原
とのことですが‥しんちゃん流に直訳してみると
「因果なんて知ったこっちゃねーけど故郷は遠いよなー」になりました。ひどいポンコツ直訳ですがこれでいいんでしょうか?

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零汰

獅子と猫と頴娃氏 (2024/08/08 訪問)

日本の南端のその中でも南の開聞岳の見える地域にネームバリューもさほど無い頴娃氏が築城した頴娃城が有ります。城ひとにも登録されて数名の先輩が投稿もされている城跡です。別名は獅子城と言い長らく頴娃城と獅子城は別の城と言われていたそうで「体系」では別の城と案内もされています。過去の謎は解決して今で同じ城だと認識しているみたいです。

5年前に訪問しましたが高低差の少ない連郭式でだいぶ大人しい城です。そして主郭には獅子城の石碑が残っています。

その近くに猫城がある事は以前から知ってはいましたが行く機会は有りませんでした。ひとつ目当ての城跡を見つけたのでそちらの訪問と合わせて猫城に行きました。事前に調べてみると築城者は頴娃氏とあります。「頴娃氏って頴娃城だよね、アレっ頴娃城って獅子城じゃないっけ」「獅子と猫?さては頴娃氏は動物好きか?」

すみません、今回は単に築城者が同じで城名が動物つながりなだけの投稿です。

猫城は標高100m地点に直径15m程度の一段高い円型を主郭とし、主郭には360°帯曲輪を配置しています。当初石碑のある場所を主郭と思っていましたが歩き回りながら縄張りを考えてみるとしっくりきませんでした。そこで一旦引き返して再度探していくと主郭に行き着きました。石碑の場所は城域の北側で物見の役目があったと思われる場所でした。その地点から北側に付け尾根がが有ったので進んで行きました。きっと堀切が有って城域は終了と考えていましたが堀切は無い。代わりに写真7の様に垂直岩が堀切の代用となっているようです。

全体的に自然石が多く石積が多く見られます、と同時に植林に伴う耕作も多いので大半は後年の石積でしょう。植林が杉の木から広葉樹に変わった辺りが曲輪跡かと思いますがそう広くは有りません。石積写真は現地で考えるに当時の物だと思われました。

こちらは不思議な事に堀切や自信をもって答えられる空堀等一切ありません。頴娃城は空堀が多いのにちょっと意外です。

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しんちゃん

高井城  根来衆と高井村の人々が立て籠もった城 (2024/02/24 訪問)

大阪府貝塚市の高井城は城びとの城ではないし、名のある城主がいるわけでもないし、特に遺構が残っているわけでも‥ないですが、天正13年の紀州攻めの際には根来衆の出城として、秀吉軍の攻撃を受けています。近木川の東に位置し、川を挟んで千石堀城と対になる城とされ、城が築かれる以前は「高井天神寺」という寺院があったと推定されています。
現在は高台が公園となって案内板が設置されていますが、解放されているエリアはそれほど広くありません。豊臣秀吉の紀州攻めの際には、根来衆や高井村の人々・約200人が籠って福島正則の軍勢と戦いますが落城しています。
紀州攻めというと千石堀城から語られることが多いですが、その前哨戦となった城です。

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零汰

行きましたケド (2024/05/23 訪問)

北の大地の城跡廻りもいよいよ終盤、こちらを訪問したら残すは五稜郭のみ。ラスト手前の訪問になります。
こちらで印象に残った事は神社の敷地に入る迄の砂利道の砂利が大きくてヒヤヒヤしながら到達した事です。
丁度砂利坂を登る時に4tダンプが砂埃を上げてタイヤを滑らせながら降りてきました。
重い気持ちで恐る恐る上がって行くとそこは神社でした。後は前回大館と同じ状況。

そして後日昌官忠さんの登場。どうしてこんなにも的確に遺構を発見できるのだろうとここでも驚きました。
余程丹念に事前準備をされているに違いない、以前熊本の城訪問で困った際も昌官忠さんの投稿で解決出来た記憶がある。
過去の昌官忠さんの投稿を是非参考にされるとこちらに限らず確実に遺構を見る事が出来ますよ。

この後、五稜郭を訪問し延べ16日間、走行距離5400km、訪問城跡60数か所の日程を終え北海道シリーズは終了です。
誤算だったのは北海道は思ったより寒くなく、緑の成長が予想よりも早いということ。
道南の気候は九州とそんなに変わらないのでは無いかとさえ思いました。
そして城跡に関しては一種独特な土地柄なんだと思います。
今はこの経験が今後の城跡訪問に良いスパイスとなるような気がしてなりません。

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ぴーかる

田城城 (2024/06/08 訪問)

【田城城】
<駐車場他>加茂川ふれあいパーク3台分あり。
<交通手段>車

<見所>切岸
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅5城目。現地説明板によると田城城は九鬼氏の居城で九鬼嘉隆の兄である当主九鬼浄隆の城でした。浄隆の死後、澄隆が当主となりましたが幼かった為に叔父である嘉隆が補佐役となります。澄隆は不穏な死をしたため嘉隆の毒殺説もあるようです。九鬼嘉隆は志摩国を統一後、鳥羽城が築城されると田城城は廃城となったようです。
 白石一郎氏著の「戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆」を読んで行きたかった城跡です。物語の中では当主浄隆の田城城が志摩の諸豪族に攻められる度に何度も波切城から後詰めに行くことが書かれています。澄隆の代になっても同じように何度も攻められ、ついに田城城・波切城を捨てて澄隆と一族を連れ朝熊山に逃げ再起をはかります。
 城跡は本流の加茂川と支流の河内川に挟まれた段丘に築かれています。小さな直線状の丘の上に細い曲輪が削平されています。九鬼岩倉神社の奥に竪堀状地形(判別できず)があり土塁上も少し凸凹になっています。加茂川は現在は流れが急で当時は海船が入り込めたかどうかはちょっとよく分からない感じでした。期待が大きかっただけに見応え的には少し残念でした。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

北条戦隊の黄レンジャー。 (2024/07/21 訪問)

もともと今川氏が築城した「深沢城」。
その後、北条家VS武田家の争奪戦になり武田家の「深沢城」になりました。
「深沢城」は道路沿いに立派な石碑と、説明板があります。
説明板には『黄八幡で有名な北条 綱成』の記載がありました。北条家には『北条五色備』という色分けされた隊があり、黄・赤・青・白・黒と編成されてます。

猛将 北条 綱成さんは、降伏を促す矢文で開城してしまったそうです。

説明板には『地元関係者以外の車輌は乗り入れできません。』と注意喚起。この日、35℃あったので退陣しました。涼しくなったら、また来ます。

北条家のお城攻めをすると、『北条家を大河ドラマへ!』と、地元の方々が頑張っています。
個人的に『北条家を戦隊ヒーローへ!』でも、見たい気がする「深沢城」攻めでした。

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しんちゃん

しゃくぜん(釈然)と‥ (2024/02/24 訪問)

積善寺城は「しゃくぜんじじょう」と読みます。「せきぜんじ」だと思ってたのに‥。しゃくぜんとしない(ポカッ!)。
天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めの際には、豊臣の軍勢が10万を超えるのに対して、根来・雑賀衆は9千人程度が沢城・積善寺城・畠中城・千石堀城などに詰めていたようです。
千石堀城が陥落したのち、積善寺城も攻撃を受けますが、この時には増援を含め9千以上の兵が城内にいたようです。
城址に関する遺構は残っていません。かつてあった堀(溝)も宅地化に伴って埋められているようです。東を流れる近木川が天然の堀の役目を果たし、集落に向かう橋の手前に案内板が立ち、城址に向かうという雰囲気を盛り上げてくれます。この橋は一方通行の上、交通量も多いので写真撮影の際には注意が必要です。

追記‥「赤いヤリ」の投稿に二番槍の「緑のヤリ」の写真を追加して、タイトルを「一番槍と二番槍」に改修しました。
 追っかけで見ていただけると有難いです。三番槍はホームランバーかな‥(ポカッ)

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しんちゃん

自然歩道を行く(急がば回れ) (2024/07/14 訪問)

文字通り安良里港を抱え込むように海に突き出した丘陵の先端部に安良里城は築かれていました。標高はおよそ100mで比高も同様と見られます。網屋崎方面から登城は無理なようで、城址から降りてくることも難しそうです。周辺のヤブが凄いですね。
「急がば回れ」で南東の自然歩道から登城します。しばらく歩くことになりますが、道はしっかりしているので安心感はあります。城址に向って行く途中にも見張などを置けそうな扁平地がいくつかあるようです。城址の入り口(虎口でいいと思う)に近づくと石垣らしきものが見えてきて、加工されていない巨岩もあります。尾根上を北に向かうと東屋らしきものが有り、ここが主郭になるようです。
主郭周辺に矢穴石らしきものもあります。目立つところに置いてあるのかな? 案内板には北側の急な下り坂を降りると網屋崎へ降りれそうな記載がありますが、先ほど見た感じでは脱出は難しそうなので、元来た道を戻ります。

戦国期の安良里港は軍船を隠しておくにはもってこいの場所だったようです。北条氏は梶原備前守兼宗を大将とする水軍の基地として活用したようです。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際には徳川家康の家臣・本多重次率いる水軍に攻められ兼宗以下多数が討死し、落城したようです(城郭大系より)。

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todo94

ポンモイチャシ (2024/08/09 訪問)

この夏の避暑は7年ぶりに道東に脚を伸ばしました。タウシュベツ川橋梁崩落のニュースを聞き、慌ててガイドツアーに申し込み、雨中の橋梁を8月8日に楽しんできました。浜中町霧多布に泊をとり、9日は最東端の城郭ポンモイチャシを目指しました。標柱迄の枯れかかった蕗の踏み跡は零汰さんのものだったのでしょうか。この日はソ連が不可侵条約を破って日本に参戦した日なので納沙布岬では右翼団体が神主を戴いて儀式を行っていました。

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しんちゃん

豊臣秀吉の紀州攻めの激戦地 (2024/02/24 訪問)

千石堀城は石山合戦の際に、石山本願寺に味方した根来衆の城で、和泉国に築かれた根来寺の支城の一つとされています。天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めの際には弓の名手大谷左大仁法印が城主として千数百名の兵で籠り、大軍相手に善戦しますが、筒井定次隊が放った火矢の起こした炎が火薬箱に引火して爆発し、それに乗じた豊臣秀次隊が乗り込んで来て落城したそうです。
千石堀城は主郭を中心に周囲に堀を巡らし、東側は二重の堀切になっています。掘の間は腰郭のようになっていますが、このあたりが二の丸になるのでしょうか? 入り口は東側に付いているようで、土塁などはみあたりません。
千数百人が籠るにしては少し手狭に感じますが、二の丸だけで300人が討死し、本丸にいた残兵もことごとく討ち果たされたとのこと。積善寺城・沢城はさらに規模の大きい城だったようで、落城せずに和睦に応じ開場したようです。

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