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しんちゃん

大納言塚 奈良県大和郡山市北郡山町248-4 (2024/11/10 訪問)

大納言塚は天正19年(1591)郡山城内で亡くなった豊臣秀長の墓所です。近くには大納言塚会館もあるのですが、周辺の道は狭く歩いて訪問したほうが良いでしょう。豊臣家が健在なうちは菩提寺である大光院が墓所を管理していましたが、豊臣氏が滅んだ後、大光院は京都に移され墓所は荒廃しました。今ある五輪塔は安永6年(1777)春岳院の僧である栄隆と訓祥らが郡山町中の協力を得て整備したとされています。墓前には「お願いの砂箱」が置かれ、自分の名前と願い事を言いながら三回砂を通すと願い事が叶うと案内板には書かれています。

後ろの写真は道の駅で食べた「にゅうめん」です。暖かいそうめんといった感じですが、なかなかいけますよ。

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しんちゃん

南のピークを南北に長い土塁と堀が仕切る。 (2024/11/09 訪問)

城域に入って最初の郭の北側に虎口があり、その先に進むと北側にも大きな郭があります。正面に立派な虎口を備え、周囲を堀と土塁が囲んでいます。堀は東から北側へ折れ、その先の沢に続いています。この郭、切岸も険しく、なかなか防御力も高そうです。
私は主要部は南側にあるピークの周辺に有るのでは?と思っていたので、まずは東に迂回し、そのまま南に進みます。最初に入った郭の北側から東側にも土塁と堀切が続いていて、その外側を迂回するように南に進みます。
南のピークに近づくと東寄りに土塁と堀が南北に続いていて東西を仕切っています。かなり長い土塁で、なかなか面白い縄張りです。堀の内側、外側いずれが主要部になるのか、それとも北にあった郭が主要部になるのか? マイナーではありますが、興味深い城です。

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朝田 辰兵衛

左沢は難読地名&駅名です… (2024/10/26 訪問)

JR左沢線の終着駅が左沢駅。初見で「あてらざわ」と読める人はいるのかな…?
三の丸を起点に蛇行尾根を散策。八幡平という曲輪を経由して,八幡座という主郭を目指します。
三の丸には碑とパネルとトイレがあり,蛇行する最上川の絶景を眺望できます。晴れている日を選択しましょう。
主郭の八幡座の一段下にはゴホンマルという曲輪があり,主郭西側の曲輪はかつて宗教施設が存在したそうです。

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しんちゃん

古代の城 後日談 (2024/11/10 訪問)

古代の城の続きです。個人的にはこちらの方が好きですね。中世の方はいささかありきたりなので‥。
古代の倉庫址が6号まで確認されていて、2号と3号の倉庫址は礎石がしっかり残っています(再現?)。3号の方は見晴らし台にもなっているようで周囲を見渡すことが出来ます。ここから先のルートは個人の判断に拠りますね。中世の高山城へのルートは裏ワザを含めていくつかあるようです。
後日談になりますが、朝護孫子寺で購入した小さい張子の虎ですが、先住みやげの赤べこたちと最初はバチバチやってたのですが、いつの間にか和解したようです。タンクモードへの合体技も習得したようで、我が家の守護神としての活躍を期待しています。留守はまかせたぜ!

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あき

ぜひ天気の良い日に (2024/11/26 訪問)

中国地方が低気圧の影響で荒天の日に登城 三の丸番所でパンフ貰いスタンプ押して出発 まだ雨は降ってなかった 三の丸(工事中)から枡形へ 本当に見事な四角形!!感動 ポツポツ雨に降られながらも内膳丸等の曲輪や登り石垣見等ながら本丸へ登ります 天守台が見えた時には1人で声出して喜んでました 周りに誰も居なかったのでゆっくり写真撮りつつ堪能 天守台の上へ その時いきなり天気急変 大雨と強風 天守台の端に居たので本当怖かった💦 慌てて東屋へ避難 雨風治ったタイミングで天守台の上をウロウロ 忘れ石撮ってたらまた急変 慌てて避難の繰り返し 天気の合間見つつ何とか周りました 本当に美しい石垣 天気の良い時にまた行きたいな

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赤い城

久しぶりに立ち寄ってみました (2024/11/19 訪問)

東京出張から帰陣し中1日おいて再度東京へ。
今回は有給消化で遊びです。
ジェットスターで成田へ、相方が都内で所用があるので空き時間で行けそうなのは・・・と。

京成に乗るので師戸城と臼井城に登城することにしました。
まずは師戸城、京成臼井駅から徒歩で40分ちょっと。
印旛沼公園として整備されています。

久しぶりに私の三大栄養素のひとつ、堀底道です。
讃岐では土橋や堀切は補給できますが堀底道がなかなか採れない。
栄養補給できました 
主郭からは印旛沼を望みます。

元は臼井城の支城で師戸氏の居城でしたが戦国時代には原氏が入りました。
秀吉の小田原攻めで家康によって落城させられました。

整備された公園ですが遺構も良好で気軽に攻めるには良い城かと思います。
写真は前回のアングルとあまり変わりありませんがよろしければどうぞ。

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しんちゃん

堀切と土橋の遺構が多く残り、切岸は険しい。 (2024/11/09 訪問)

三の郭の先に堀切が有り土橋がかかっています。この城は尾根上に堀切と土橋の組み合わせが結構多く配置されており、いずれも遺構や形状が良く残っています。切岸は急で土塁などは残っていないようです。よほど切岸の守りに自信があるのか、南の中腹部にのこる居館も同様に切岸の側には土塁が有りませんでした。二の郭の先に土盛り(石垣)があって、その先が主郭になります。奥の石積みの上は櫓台と見られますが、石垣はいつの時代のものか解りません(おそらく後世)。櫓台の上には城址碑がありました。
主郭の背後は堀切で仕切られ、その先の尾根にも堀切があり土橋がかかっています。その先を南西に降りていくと居館跡になりますが、勘違いして南の尾根をまっすぐ進みました。とはいえ、そのあたりも城址には違いないと思うのですが。

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カズサン

素屋根は撤去されたかと仲ノ御門渡櫓復元工事を訪ねる (2024/11/14 訪問)

 母の17回忌法要に合わせて鳥取帰省、昨年の10月にも仲ノ御門渡櫓・土塀の復元工事を見学してるのですが、1年も経ったので渡櫓の棟上げ、復元工事も相当進んで居る事だろうし、ひょっとして素屋根が外されて屋根だけでも見る事が出来るのではと期待しながら鳥取城へ帰省度の登城。
 期待は外れて1年前と同じ仲ノ御門渡櫓・土塀の復元工事は素屋根と仮設足場に覆われて復元工事の最中、予定通り令和7年3月が完成予定日、来年の春が待たれます。

 内堀の復元擬宝珠橋を渡り復元されてる表門を潜ると、復元仲ノ御門渡櫓枡形周りの復元図と工事注意事項の看板、QRコードが付記されていてスマホをで読み取ると仲ノ御門渡櫓枡形周りのCG動画を見るとこが出来ました。
 また進むと1回5人以内で復元工事中の渡櫓、土塀を仮設足場に登ってみる事が出来ると!、安全ヘルメットをかぶり透かしシート腰に見学。見学前には見学者の住所と記名して届出箱に入れて開始です、家内は内堀で待たせて一人でワクワクしながら見学。
 
 来年の桜の頃が楽しみです!
  

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しんちゃん

本丸・天守台は確認できる (2024/11/09 訪問)

春日神社から登り宇陀松山城にやって来ました。南西に虎口(雀門跡)があり、大手口の石垣を見て本丸の下に至ります。南から続く、大御殿と二の丸への道はまだ塞がれたままのようです。土や石垣の城も年月を経るにつれ劣化していくので、いまこうして400年以上前の遺構を見ることが出来るのは非常に有難いことなのだと痛感します。
本丸の西側は中小の石が散乱してます。小さいのは栗石でしょうか? とにかく本丸には入れるので、入れるうちに訪問します。

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あき

見どころいっぱい 迷いそう (2024/11/30 訪問)

家からも一時間半くらいのアクセスだがなかなか行けなかった八王子城に行ってきました 土曜日だったのでガイダンス施設の横までバスが行きます 施設で勉強 パンフ貰い百名城スタンプも押して本丸目指して出発 なかなかのキツイ登り紅葉目当ての登山者さん達と挨拶しながら登りました 上からの関東平野の景色はサイコーです 本丸までは写真撮りながら登って40分くらい 周りの曲輪ウロウロして今回は滝山城も行きたかったので下山 御殿跡見てバスへ 御殿跡はガイドさんいないと入れない所があり今度は願いしたいのです 詰城にも行きたいな

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しんちゃん

藤森環濠 奈良県北葛城郡広陵町南郷 (2024/11/10 訪問)

藤森環濠は大和平野中心部に多い、周囲を濠(水堀)に囲まれた環濠集落の一つです。姿を良く留めている環濠集落として案内板なども設置されています。とにかく道は狭いので歩いて回ります。中心となる位地には勝善寺があります。やはり畿内は寺社勢力が強いですね。東の濠にそって十二社神社があり本殿は国の重要文化財に指定されています。境内にある旧慈雲寺(観音堂)の十一面観音立像と二天王立像も市の文化財に指定されています。北西には長さ12.8mの太鼓橋があるようです。

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しんちゃん

メタケ (2024/11/16 訪問)

雄岳の主郭周辺には悲劇の皇子・大津皇子の陵墓があります。謀反の疑いをかけられ自害(?)したとされているので、こんな山上にあるのでしょうか? 周辺にも郭が有るようなのですが、小雨も降ってきているので雌岳に向かいます。馬の背渡りを戻って登って行くと、雌岳の山頂に到着します。藪に覆われていますが腰郭もあるようです。すこし木が多いですが東側の眺望は良いです。東側の山腹には複数の腰郭が配されているようです。そこから麓に戻って行く途中に石切場に寄って行きました。細かい楔の様な跡がいっぱいあります。
ふと思い立って鹿谷寺跡に寄って行きました。雨もまだ本降りにはならないみたいだし、せっかくなので。

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しんちゃん

石見銀山遺跡とその文化的景観 (2013/10/05 訪問)

実は私、石見銀山は二回訪問しています。投稿の写真は初回の物になるので古いです。ご容赦を‥。最初に訪問した時の感想が、世界遺産なのに地味だな‥というものでした。実際、すごい地味です。でもそこがいいんですよ。
世界遺産の構成要素が多いのですが、そこに入ってない寺や神社なども市の史跡などに登録されています。世界遺産になる以前からとても歴史的価値が高い地区だったようです。一番の見どころは龍源寺間歩だと思いますが、その前に山吹城を訪問しています。今では改善されていると思いますが、道中の表示の「あと〇〇〇歩」と実際の歩数ではかなり差があったので時間と体力に余裕を持って訪問すると良いと思います。

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todo94

特別設定 えきねっと限定 大人の休日パス スペシャルで青森の城めぐり④ (2024/11/16 訪問)

平舘台場からの転戦です。続・東北の名城を歩く~北東北編に所収の城ですが、そこに「私有地があるので注意が必要である。」との記述があり、いやな予感はしていました。舗装された林道の入り口には立入禁止の大きな看板が建っていたので登城は断念しました。このあと、風の吹きすさぶ竜飛崎に足を延ばすものの、青函トンネル記念館はすでに冬期休館に入っていましたし、帰りがけに寄ろうと思った柴崎城に続く国道339号竜泊ラインも前日に冬期閉鎖となっていました。ちょっと残念な1日目の終わりとなってしまいました。

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しんちゃん

世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観 (2013/10/05 訪問)

石見銀山は島根県太田市にある戦国時代後期から江戸時代前期にかけ最盛期を迎えた日本最大の銀山です。最盛期には世界で産出される銀の三分の一を産出したとも言われており、2007年には日本で14番目の世界遺産に登録されています。
一時期は登録が危ぶまれていましたが、木々を伐採したり、山を崩したりせずに狭い坑道を掘り進んで採掘するという、エコロジーな方法が委員の共感を得たようです。じゃあ、山を削りまくっている佐渡の金山が登録されたのはなぜだろうという新たな疑問が生まれてきますが、それは置いておきましょう。
坑道では最もメジャーな龍源寺間歩や代官所跡(石見銀山資料館)、羅漢寺五百羅漢などの寺社、山吹城などの城郭群、変わった所では石見銀山処刑場なども登録の対象になっています。街中に車を乗り入れるのは禁止されているので、駐車場から鉱山まで2kmほど歩きます。
思ったより散策に体力を使います。

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しんちゃん

土 方歳三資料館 東京都日野市石田2-1-3 (2024/05/04 訪問)

土 方歳三資料館は土 方歳三の生家の一部を資料館として公開しています。古い家屋は平成二年に建て替えられ、今風の建物に代わっていますが、土 方歳三がぶつかり稽古をしたという柱が一部残されています。2022年11月末に一度、長期休館に入りましたが、2024春に公開を再開しました。ちょうど私が訪れたころだと思います。個人宅を資料館にしているので、それほど広くない館内に大勢の土 方ファンが詰めかけていました。なかなか良いお値段のするグッズが飛ぶように売れていましたね。
確かにここでしか買えない貴重なものもあるし、推しのためならば‥というやつですね。

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しんちゃん

とうかん森 八坂神社 宝泉禅寺 (2024/05/04 訪問)

とうかん森‥東京都日野市石田一丁目23-3
とうかん森は幼き日の土 方歳三が遊んだと伝わる場所で、樹齢250年と言われる樹が2本残っています。かつては祠(稲荷神社)に鳥居が有り、ムクやカヤの木が7本ほどあったようですが、今はこのように姿を変えてしまっています。それでも姿を消さずに残っていることが有難いです。近くには土 方家の菩提寺である石田寺があります。

八坂神社‥日野市日野本町3-14-12
安政5年(1858)に近藤勇、沖田総司、井上源三郎ら天然理心流の門人たちが剣の上達祈願の為に奉納した額が納められています。

宝泉禅寺‥日野市日野本町3-6-9
境内には新選組の六番隊隊長・井上源三郎の碑と墓所があります。天然理心流の免許皆伝まで10年かかった努力家で、近藤勇の兄弟子でもあります。浪士組の頃から近藤と行動を共にし、六番隊隊長として近藤を支えますが鳥羽・伏見の戦いで敗退した後の「淀千両松の戦い」で腹部に敵の銃弾を受け戦士し、首は甥の井上泰助が持ち帰ろうとするも重くて運びきれず、やむをえず墨染(伏見区西桝屋町)の欣浄寺のあたりに埋めたと考えられています。

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三成にすぎたるものが三つ??? (2024/11/30 訪問)

 龍潭寺より登城し本丸周辺を散策し大手である鳥居本方面へ下山しました。鳥居本方面では大手の跡や堀の跡を見ることができます。
佐和山自歩道トンネルを通って彦根駅まで歩いて帰ってきました。佐和山自歩道トンネルの石碑に「三成にすぎたるものが三つある・・・島左近と佐和山城と百間橋」と書かれていました。すぎたるものは二つじゃないのか。百間橋って何と思い調べると彦根市観光ガイドに「通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540m)に及ぶものと伝えられています。」「石田三成はその佐和山統治期に松原内湖の西側を三ヶ所切り、運河とするとともに松原と東の蒲生坂に向けて、内湖に土堤(大道・大海道)と百間橋を架けました。」と記載してありました。また「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に百間の橋」という言葉もあるようです。龍潭寺の近くの踏切を渡ってすぐの所に「百間橋跡」の石碑がありました。
 龍潭寺に行く前の民家から野猿に遭遇し、境内や城域にも野猿に注意するように表示がありました。実際にかなりの数の野猿と遭遇しました。たまたま画面に入った猿の写真を撮りましたが、ビビってて少しボケていますね。

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三成に過ぎたるものが二つあり (2024/11/30 訪問)

 久しぶりの佐和山城です。鎌倉時代初期、佐々木時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。戦国時代、浅井氏、六角氏、織田氏が、この北近江の重要拠点を巡って攻防を繰り広げました。ただ石田三成の城というイメージが強い気がします。石田三成の時代には、五層の天守を構え、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、東山道に面して大手門があり、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋など形成されていたと伝わります。「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた佐和山城も彦根城の築城に際して破却され、石垣や建物が彦根城築城のため運ばれました。今は当時の雰囲気はありませんが、曲輪の跡や土塁、井戸、石垣のほんの一部などを観ることができます。
 龍潭寺から登城しました。西の丸を経て本丸、千貫井、石垣を観て太鼓丸へ行こうとしましたが、太鼓丸は通行止めになっていました。12年前に来た時は行けたような気がします。また千貫井も前に来た時は祠がありましたが、倒木で潰れていました。太鼓丸の通行止看板の横に道があり進んで行くと法華丸方面への道でした。こちらからも登場路が整備されていると登って来られた方に教えていただきました。後で確認すると佐和山トンネルの脇に登城口があります。法華丸付近は深くは進んでいませんが、曲輪と思われる削平地がありました。二の丸方面へも行きたかったので道を探していると、西の丸から本丸へ上がる所に土塁を備えた曲輪があり、そこから二の丸方面への道がありそうでした。途中まで行きましたが、「私有地につき決められたルートをお通りください」と書いてあった案内板を思い出し断念しました。帰りは鳥居本方面へ下りて大手を見て帰りました。主要な場所は整備されていて気持ちよく散策できます。

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しんちゃん

近藤勇墓所 土 方歳三墓所 (2024/05/04 訪問)

東京都三鷹市の龍源寺に近藤勇の墓所があります。近藤は「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた後、隊名を「甲陽鎮撫隊」と改名しますが「甲州勝沼の戦い」で敗れます。江戸に引き揚げ再起を謀るため名を「大久保大和」に改めますが、下総国流山で新政府軍に捕縛され東京都板橋区の板橋刑場で斬首され、首は京都の三条河原で梟首された後に行方が分からなくなったようです。
一説には新選組の隊士により持ち出され(斎藤一とも)愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたとする伝承が残っています。
また山形県米沢市の高国寺にも近藤の首を葬ったとする伝承があるようです。
三鷹市の龍源寺の門前には近藤勇の胸像があり、岡崎の法蔵寺にある胸像とよく似ています。

土 方歳三の墓は東京都日野市の石田寺にあります。函館戦争の最後に五稜郭の周辺で戦死したと伝わり、遺体は発見されていませんが、土 方家の墓所である石田寺に墓碑と墓が建てられています。

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