、、、と松本家康が言ってくれるとか、くれないとか。
群馬県太田市世良田町。そしてお隣は徳川町。ここまで読んでピンと来たあなたは、どうしようもないくらいの家康マニアに違いない。
ご存知のとおり、家康は三河松平。それが父祖の地を東国・上野に求めます。自分たちを名門・新田源氏の血筋とするためというのが自然な考え方でしょうか。史料による検証は難しいようなので、系譜が歴史的事実かどうかはグレー(ほぼブラック?)。ただ、それだけ必死に宣伝する必要があったという部分は、営みとして興味深いものがありますね。
さて、豪族としての世良田氏は、鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立。新田荘世良田郷を拠点にします。一方、松平は遅くとも家康の祖父・清康の代には公的な場で「世良田」を称したもよう。一説によると、とある新田の子孫が放浪の末に三河に移り住んだのが機縁だったそうですが、定かではありません。
何はともあれ、そんなじっちゃんに影響されたのか、家康も世良田への改名を目論んだと指摘する向きがあります。ただ、紆余曲折あって(ここは端折ります。近衛前久とかが登場しますので、興味ある方は調べてみてください)、苗字は徳川に。
徳川。根本は得川(前者は後者の嘉字)。ちょっと新田に戻ると、始祖・義重(太平記のヒーロー義貞から見て、曾曾曾曾曾祖父にあたる)の四男・義季は得川と称し、この地域を開発。そこから得川姓と世良田姓に枝分かれ。さらに時は流れて家康は、征夷大将軍となった後、源氏長者の立場から新田世良田氏の末裔として、その系譜を書き加えたとされます。
とまあ、話すだけで息切れしますが、結果、世良田駅前の案内板には「徳川氏発祥の地」の文字。一方、周辺に「どうする」の幟やポスターは見つけられず(12月末時点)。家康があくまで“つながり”を求めた町は意外と静かな印象です。
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