続日本100名城

たかてんじんじょう

高天神城

静岡県掛川市

別名 : 鶴舞城
旧国名 : 遠江

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高天神城
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天守無しがアツい

高天神社 無人のため御朱印授与ならず (2024/12/13 訪問)

(参考サイト)https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/fs/3/7/0/1/7/2/_/______.pdf

政局という家康の家臣(外戚でもある)が囚われていた石窟(1枚目)が…城跡の一角にありました。この城にて天正二年(1574年)に激戦がおこなわれた際に武田側に降り、それから勝頼の怒りを買ってこの石窟に幽閉されたそうです

なんか…護良親王や日蓮上人が幽閉されていた土牢を連想させられますね…夏場は虫が湧き、冬場は寒風がヒューヒュー吹く…過酷な環境が容易に想像できるシチュエーション…ここに何年も閉じ込められた政局

こんな所…絶対入りたくない😅😱

天正九年(1581年)城陥落の際に家康に救出されて温泉療養♨️ それから3年後の小牧長久手の戦いで討死…と説明書にありました。せっかく助かった命なのに…それから数年後にそれを落とす事になるなんて…なんか切ないですね

最初の分岐点…本丸or高天神社の場所まで戻り、今度は神社方面に向かいました🚶‍♂️ (名称忘れたけど)小さな社に井戸があり…賽銭箱に10円玉を入れてお詣り

それから階段を上って…高天神社の本堂(2枚目)に辿り着きました。100円を賽銭箱に入れてお詣り…柱にチャック付きの透明ケースが掛けてあり、その中にメモ書きノートが入っていて、参拝者が自由にコメントできるシステムとなってました

そのノートに「◯◯市からきました。ここは思っていたより城の規模が大きく、階段を昇ると息があがってしまいました。高天神社にて参拝を済ませましたが御朱印は受けつけてないのでしょうか?よろしければ書いてもらいたかった。けれど悔いはありません」と書き残しました🖊️

それからもう一度…社務所の側まで足を踏み込んで確認すると…なんと御朱印受付の案内が…サンプルも窓にしっかり飾られてました。1枚300円…と言っても対応してくれる職員がいなければ授与できない…という事で残念ながらもらえずじまいで終わりました

高天神社との分岐点があり、もう一つの方向へ進むと二の丸がありました(3枚目)建物の具体的な規模こそ不明…けれど天目茶碗など国内外の陶磁器が多数出土されており、この城が単なる軍事施設ではなく、城内に詰める兵士たちの生活の場にもなっていた様子が伺えるそう

現在は木々が並んでいるだけの様子…けれどここでは柱跡が幾つも見つかっており、武田氏の勢力圏だった頃は何百人もの人間が暮らせるほどの規模の建物があったようです🏠

本間八郎三郎氏清と丸尾修理義氏清の墓🪦(4枚目)…二の丸からさらに右手に…奥に進むとそれがありました。その近くには天正年間の合戦で戦死した者への慰霊碑…空堀も(高低差がエグくて、堀に落ちた敵兵をフルボッコにできたらしい)

墓に葬られてる人物に関しては全く存じてませんが…おそらく城陥落の際に戦死した武田側の武将でしょう。降伏を潔しとせず最期まで戦い散っていった

一応…一回でほぼ全部周れたけど…やっぱり思っていたよりこの城は見どころが多かったですね。それだけ城の規模および機能が多様…そして二の丸で帰りのタクシーを電話手配した私は…入口まで戻って無事にタクシーと合流して乗車🚕 駅まで戻ったのでした

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天守無しがアツい

短期間で消えた模擬天守 (2024/12/13 訪問)

(高天神城 参考サイト)
https://takatenjinjyo.com/

静岡県掛川市…掛川駅からタクシーで15分ほどの所に、高天神城があります🏯 本当はバスで行きたかったけど…最寄りのバス停を通るバスを見つけられなかったので、楽な手段(タクシー)を選んだ私🚕

その代わり片道3000円…往復6000円少しの出費を強いられました💸 北口の駐車場で降ろしてもらい、鳥居を潜ると…城全域の想像図という大きな案内板が(1枚目) これを見て「予想してたより城の規模がデカい🫢」と思えました

奥へと続く道は階段が石を敷き詰めた造りになったおり、少し上がっただけなのにもう腿にくる…肉体的疲れを伴いました🚶‍♂️ ある程度進むと道が2つに分かれており…片方が本丸行き…もう片方が高天神社行き⛩️ でした

城巡りに来たからには…まずは城跡…本丸を見学したかったので、そっちから行くことに🚶‍♂️ 途中にこの城の歴史…誕生から武田氏の拠点になり…それから武田勝頼と徳川家康の抗争の場となり…最後は1581年に徳川方の攻撃を受けて落城🏳️ 直後に廃城となり現在に至る…流れを紹介した年表が左手にあったので少し目を通したりもしました

本丸には天守は無く…石垣さえ存在しませんでした(2枚目)。ただし西側は土塁(少し離れた所にクランク状の土塁があり)…東側は絶壁となっており、天然の要塞。案内板の説明によると、籠城に備えて食料や武器などを収納した倉庫のような建物がこの辺りにあったそうです

この付近に石碑が色々建っており…日清戦争において掛川から出征した陸軍歩兵のものがありました。高天神城とは直接の関係は無いんじゃ…とツッコミたくもなりますが、それでも何故かあるのです😅

本丸→三の丸へ向かう途中に徳川方の居城跡が見えるスポット(3枚目)が写真付きで紹介されていました。火ケ峰砦という(3枚目右上に見える丸い球状の森)場所などがそれ…そこを拠点にここ高天神城を攻めていた

高天神城アプリというものをインストールしていれば(3枚目左下に写る)指定の場所にスマホを置いただけで…当時の様子を復元した映像が流れるそうです。けれど私はそのアプリの存在を知らない…のでそれを見ることはありませんでした

御前曲輪跡(4枚目)…ここも本丸と三の丸の間に位置し、しかもここには二層の模擬天守が存在していたそう🏯 昭和9年に建てられるもの昭和20年に落雷が発生して焼失⚡️🔥 今は(ご覧のとおり)天守台だけ残る小さな場所

本丸には天守どころか天守台さえ無かった…「やはり天守が無いとお城として満足できない…よし、こうなったら作っちゃえ😁」というノリで戦前の軍医少尉が建てたらしいのですが…史実に反するというか、史実を捻じ曲げる存在にさえなってしまうと思うので…(どうせ短期間で無くなってしまう運命だったのだし)造らないほうがよかったんじゃないですかね?😅

入口から本丸まで向かう際…実は分岐点があり、左は本丸…右は三の丸および個室が使用不能なトイレと表示されてました。まずは本丸へ向かい…再びその分岐点に戻ってきたので…今度は三の丸方面を選び…そして辿り着きました

三の丸に存在する休憩スペース(5枚目)。この城が現役だった頃は…この辺りにも食糧や武器を収納する建物があり、武田勝頼の家臣である小笠原与左衛門により、250騎という僅かな手勢で徳川軍の侵攻を迎え撃っていたそう

おそらく相手の方が数では勝っていた…けれど土塁や空堀、崖という天然の要塞を生かして、味方は少数でも…何年も耐えていたのでしょう。それでも度重なる攻撃と数の暴力に耐えきれず…武田氏滅亡の前年に落城🏳️

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POYO58

主郭が二つあるお城 (2024/08/25 訪問)

実はこれも2年ぶりなのですが、4連続の2年ぶりタイトルはウザいと思うのでやめておきます。
高天神城はもともと今川氏の家臣、福島氏が築きました。福島氏滅亡後は今川家臣、小笠原氏が支配しました。しかし、織田信長により今川義元が打たれると、小笠原長忠は徳川家康に味方し、のちに武田信玄の2万5千兵をたった2000人で撃退します。ただその後の武田勝頼による攻勢で小笠原氏は倒れ、高天神城は勝頼の手に渡りますが、後に徳川家康の兵糧攻めにより落城します。

2年前行った時は本丸探訪に留まってしまいましたが、今回は西の丸、二の丸も探訪。
本丸には枡形虎口が設けられ、土塁も残っています。昭和時代にもともと模擬天守が建っていたそうで、その天守台も残っていました。その行方はというと、第二次世界大戦で標的になることを避け、取り壊されたそうですが、詳しいことはわかっていません。
二の丸には大きな堀切とそれを跨いで長ーい横堀があります。どちらもなかなか大きいもので多分これが1番見どころ。
西の丸には大きな堀切があります。眺めも最高でした。
三の丸には土塁があちこちにあります。ちかくに着到櫓台があり、綺麗に土塁が高々と残っていました。
最後は追手門跡を通って帰りました。
さすが世界最強の城
評価★★★★☆

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トク

105【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の初陣(2/2)-高天神城攻め) (2024/02/16 訪問)

(26人目)「井伊直政」の続き⑦です。
直政の初陣で、水の手を断った事で有名な高天神城を訪れました。

さすがに人気の山城です、確かに遺構も多く見ごたえがありました。城の詳細については、カズサンなど地元の方々が過去に多数投稿されてますので、私からはあえて井伊直政にこだわった内容にしたいと思います。

高天神城を武田から奪還すべく、家康は1579年に勝頼からの援軍が来ないと知ると、横須賀城を本陣とし、回りに六つの砦を築いて兵糧攻めにて落とそうと考えます。直政はその一環として、水の手を断つ策を発案して高天神城を陥落させ、この功績で大幅に加増されたというのが、訪問前の私の予備知識でしたが・・・

彼岸桜が咲く追手門(写真①②:訪れたのは2月です)から登り本丸に到着すると、なぜか(🤔?)飲み水用の水道がありました(写真③)。蛇口をひねってみると水が出ました。現在は水の手は断たれていないようです(笑:あたりまえ)。

どこかに穴を深く掘った形跡はないか探しました。すると大河内政局が幽閉されていたという牢(ほら穴)がありました。この奥ではないか?と思い中に入りたかったのですが、厳重で中へ入れそうにありません(写真④)。しかしよく考えると、ここは井戸の上なので、ここはありえない? 水を抜くためには、井戸の下から掘らなければ意味がないので、今度は井戸の下を探すことにします。

高天神城には井戸が二つあります。まずは「三日月井戸」の回りをぐるりと見渡しました。ここは今でも水が残っているので、水は断たれていないようです(写真⑤)。なぜだか考えました🤔。当時は井戸の回りに今のような杉の木はなく、するとここは下の搦手門から丸見えなので、ここで水を汲むは敵に姿をさらすようなもの。また小さな溜め井戸なので当時はもしかして枯渇していたかもしれません。よって籠城中に汲む井戸ならこの上の井戸曲輪にある「かな井戸」かなと思い今度はそちらに向かいました(写真⑥)。

この「かな井戸」を、まず上から恐る恐る覗いて見ました。とても大きくて深い井戸です(写真⑦)。そして何と水がありません(ここだ~😲!)。私は井戸曲輪の回りをぐるりと一周し、さらに曲輪の下を歩き、どこかに水抜き穴らしき跡がないか探しました。曲輪の下の崖を忍者のようにへばりついて探していると、「大丈夫? 何やってんの? 危ないよ!」と声をかけられました。大丈夫です、私は決して怪しい者ではありません(いやどう見ても怪しいと思うが・・🤔)。30分くらいへばりついて探したのですが、だんだんと体力に限界を感じ、滑り落ちそうになってきたので、そこで断念しました。よって結局はそれらしき穴を見つける事はできませんでした(残念です)。

よく考えたら、わずかな時間でそう簡単に見つかるわけないですよね。高天神城まで来て他には目もくれず、井戸曲輪の下の崖にへばりついて、水抜き穴を探していた怪しげな城びとは私だけでしょうか? 発案したのは直政ですが、実際に実行したのは伊賀衆だとか? その証拠に直政は家康の傍にずっといたのか敵首を上げた記録がありません。穴は埋められ今は残っていないのでしょうか? 疑問が残ったまま、ちょっとモヤモヤした気持ちで終わってしまいました(くやしいな~😩)。

最後に、高天神社の階段から西の丸に登り(写真⑧)、馬場平から見た景色は最高でした(写真⑨)。

「高天神を制する者は、遠江(とおとうみ)を制す」

この場所から遠州灘を眺めると、まさにこの意味が解かる気がしました。そしてここで、駅で買ってきたメロンパンを食べました(ああ~おいしい😊)(写真⑩)。

高天神城を落とした万千代は、どんな思いで家康とともにこの景色を眺めたのでしょうか? 初陣を無事果たし、そして自分の功績を喜んでくれた家康を見て、「家康様のために一生働こう」と固く心に誓ったのではないでしょうか?

この功績で万千代は3千石から井伊谷を含めた2万石へ加増されます。万千代この時20才。事実上の井伊家再興を果たした万千代の元へ、井伊谷に潜んでいた井伊家の旧臣達が、続々と集まってきたようです。

この後、武田滅亡を果たした家康をねぎらうため、信長は完成したばかりの安土城に家康を招待します。直政も家康とともに安土を訪れました。そこで直政は、いったい何を見たのでしょうか? 次は直政の気持ちになって(安土城)へ登城します。
 

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城郭情報

城地種類 連郭式山城
築城年代 16世紀前期
築城者 今川了俊
主要城主 福島氏?、小笠原氏、岡部氏
文化財史跡区分 国史跡(高天神城跡)
近年の主な復元・整備 武田勝頼
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、井戸
住所 静岡県掛川市上土方、下土方
問い合わせ先 掛川市役所観光交流課
問い合わせ先電話番号 0537-21-1121