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にのまる

春の18きっぷで🚃 (2025/03/22 訪問)

仕様が変更になった18きっぷの5日間ver.で山陽山陰城めぐりに出かけてきました。
最初の下車駅は炎のストッパー⚾️津田恒美投手の故郷、新南陽です。

線路沿いに歩いて数分で勝栄寺に着きました。城館的寺院だったそうで、残存土塁を見学できました。環濠の水紋も表面再現してあり往時をイメージしやすかったです。

毛利元就がこの地で「三矢の訓」を認めたことを示す碑や豊臣秀吉か朝鮮出兵の際に植樹したと伝わる「太閤松」の切株の説明板がありました。(切株は探したのですがどれなのかわかりませんでした。)

線路沿いなので列車と土塁を撮れたらいいなと時刻表を見ましたが来そうになかったので駅に向かおうとすると貨物がやってきました。が、あと10秒くらいのところで間に合わなかったです。

10枚目の写真は防府市の毛利邸・毛利博物館です。(別日に行きました。)

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シャンシャン

外郭櫓跡の石垣 (2025/06/12 訪問)

広島城は何回か来てるけど、今回は本川沿いに外郭櫓跡の石垣があるという情報を得たため訪問。
本丸西側の外郭には、川に沿ってかつては13もの櫓が建てられていたとのこと。石垣は調査後保存のため埋め戻されたので、石垣はわずかに上部が露出しているのみ。でも、こういった少ない遺構にも歴史の息吹が感じられて感慨深い。
広島城はかつて88もの櫓があり、秀吉の大阪城を凌ぐとも言われた壮麗な五重天守がそびえていた。コンクリの復元天守は2026年3月に閉館予定。その先は未定とのことだが、2つの小天守と共にぜひ木造再建して欲しい。

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トク

「花手水」の紫陽花 (2025/06/14 訪問)

梅雨も2週目に突入。近場で雨でも楽しめる場所は他にもないか、また引き続き探していると、大宰府天満宮で紫陽花のイベントがあっているようなので行ってきました。「花手水」には、赤・青・紫・白などの紫陽花1000本以上が鉢を埋め尽くして、訪れる人の目を楽しませていました。帰りは雨の中を、天満宮から政庁を通り都府楼駅までの「さいふまいり」の道を1時間かけて歩きました。雨霧にむせぶ岩屋城と大野城が神秘的でした。
 

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イオ

堀切と切通道 (2025/02/23 訪問)

築城時期は不明ながら、南北朝期よりこの地を治めた田原氏が三方を川で囲まれた丘陵に築いた城で、戦国期には三好長慶に従って飯盛城の支城として機能しましたが、三好氏の没落に伴って廃城となったようです。

駐車場はないので、東登城口近くの道路脇に路駐して登城開始。案内表示に従って民家の間を進むと田原城址の説明板が立てられていました。平面図にある一の門、二の門は住宅地になっていて見当たりません。説明板の脇を上って行くと、高さも幅もある見事な堀切がお出迎え。本丸と二の丸を隔てる堀切で、その先は切通道として水郭へ続いているようですが、まずは右に折れて東郭を抜け本丸へ。本丸は南辺に土塁がめぐり南西部は櫓台状になっています。最近まで住吉神社があったようですが、現在は基壇が残るのみです。北西辺には14枚もの説明パネルが設置されていて、田原城や田原対馬守について詳細に解説されていました。

本丸から堀切まで戻って水郭へ下りて行きます。本丸西下には西郭が南北に続き、本丸との間には横堀を設けています。切通道をさらに下りたところには水郭(井戸郭)が広がり、二つの井戸と堰堤を設けての溜井戸が見られます。堰堤を渡って進んだ先が搦手(北登城口)で、北谷川に架けられた橋の南詰に搦手郭を配していました。

最初の堀切まで戻って、今度は二の丸に突入します。二の丸はほぼ竹藪と化していますが、いくつかの曲輪を越えた先には分厚い土塁と虎口が見られました。二の丸の西側にも堀切があり、東側の堀切より小規模ながら切通状に水郭へ続いています。堀切の西側には裏山郭(と呼ばれる笹藪)と、そこから南にのびる尾根の突端に西砦(西出丸)が設けられていました。

比高わずか30mの小規模な丘城ですが、堀切に切通道、水郭などなかなか見応えがありました。田原城から北に約350mの千光寺跡(田原氏の菩提寺)からはキリシタンだった最後の城主・田原レイマンのキリシタン墓碑が出土しているそうで、またの機会にはそちらも訪れてみたいものです。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:勝楽寺城 (2025/05/19 訪問)

高室山城から車で15分くらいで、勝楽寺池横空スペース(35.194283、136.288091)に着きました。

勝楽寺城は南北朝期の婆沙羅大名・京極高氏(佐々木道誉)の命により高築(高筑)豊後守によって築かれた城です。
戦国時代には多賀豊後守が居城していましたが、織田信長に攻められ、廃城となりました。
現在城址はハイキングコースとして整備されています。また、山麓にある勝楽寺は道誉の菩提寺として有名です。

近江の山城では珍しい畝状竪堀群や石垣、礎石などの遺構を確認することができるようですが、レンタカー返却の時間がせまっていた為、早めに撤退しました。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、米原駅でレンタカーを返却し、米原駅から電車でびわ湖浜大津駅に向かいました。
歩行歩数=30644歩、歩行距離=21.5Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:高室山城 (2025/05/19 訪問)

西高木家陣屋から車で45分くらいで、佐目自然公園駐車場(35.205985、136.340579)に着きました。

詳細は不明のようです。

各城の攻城時間が少しずつオーバして、ここまで予定時間の1時間オーバとなっています。
レンタカー返却時間を考慮して、高室山城の登山は取りやめ、麓の十兵衛屋敷跡の見学で攻城としました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=勝楽寺城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:西高木家陣屋 (2025/05/19 訪問)

菩提山城から車で30分くらいで、上石津郷土資料館駐車場(35.286718、136.466453)に着きました。

高木家は関ヶ原の合戦の功により、1601年(慶長6年)に時・多良を拝領しました。
高木家の石高は西高木家2300石・東高木家1000石・北高木家1000石でしたが、交代寄合として大名の格式を許され、幕末までこの地を治めていました。
高木家を区別する為に、陣屋の位置により西高木家、東高木家、北高木家となっているそうです。
また、(水奉行)として木曽三川の治水にもあたり、宝暦治水(1754年(宝永4年)から4年の歳月をかけて行われた木曽川流域の治水工事)にも深く関わったそうです。

上石津郷土資料館(開館時間9:30~17:00 休館日は火曜日(祝日の場合翌日)、入館料100円)です。
入口にも掲げられている島津の退き口もこのあたりだそうです
表門と呼ばれる長屋門は唯一の現存建物で、嘉永5年(1852年)の棟札が確認されています。
この門は本来ここにあったものではなく、もともとは下屋敷御門だったものを移築したものです。長屋門の奥には主屋が残りますが、非公開です。
埋門の石垣を経て西高木家陣屋の石垣は、高く積まれていて何段も重なっており非常に立派です。
お隣の東高木家陣屋跡こちらは遺構少なめですが、立派な土蔵が残ります。文政年間(1818年~1831年)の建物と伝えられる蔵は、修復を経て今も綺麗な海鼠壁を残しています。
また、石垣に挟まれた坂道がなんとも言えない良い雰囲気です。
反対側の石垣は、北高木家陣屋跡のもので、北高木家陣屋跡は三家の中でも最も保存状態が悪いとされ、遺構はほぼこれだけのようです。

陣屋が三軒並ぶ珍しさ。いずれも遺構を残す珍しさ。圧倒される折り重なる石垣。
長屋門も含めて非常に興味深いところでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=高室山城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:菩提山城 (2025/05/19 訪問)

上平寺城から車で20分くらいで、菩提入口(35.385139、136.489889)に着きました。

本曲輪の説明板によると、『美濃国諸家系図』に1413年(応永20年)岩手弾正左衛門頼重が居城していたとしていますが、「菩提山城」の名が見える最も古い記録は、1544年(天文13年)美濃国守護職・土岐頼芸が岩手四郎に宛てた書状に見えるそうです。
1558年(永禄元年)竹中遠江守重元は、岩手氏を攻略して岩手付近一帯や福田、長松(現大垣市)をあわせた6,000貫の領主となり、翌1559年ここに城を築きました。
重元の子・竹中半兵衛重治は菩提山城を居城にしていたが、1565年(永禄7年)稲葉山城を攻略し、その後織田信長、豊富秀吉に仕えました。
1579年(天正7年)竹中半兵衛重治は播磨三木城攻めの陣中で病没しました。
1588年(天正16年)重治の子・重門は菩提山城を下り、岩手に陣屋を構えました。陣屋は行ったことがあるので、今回はパスです。

遺構としては曲輪、竪堀、土橋、虎口、堀切、土塁、空堀を確認できたので、個人的には満足です。
攻城時間は100分くらいでした。次の攻城先=西高木家陣屋に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:上平寺城 (2025/05/19 訪問)

京極氏館からの転戦です。車はそのまま、伊吹山登山者用駐車場(35.388200、136.415796)に駐車したまま、京極氏館跡に建てられた伊吹神社の脇にある登山道を登っていきます。

上平寺城は京極高次の先祖にあたる京極高清が築いた城です。
美濃と越前を結ぶ越前海道(北国脇往還)が通る交通の要所にあり、山麓の京極氏館(京極氏上平館)の「詰の城」として機能していました。
1523年(大永3年)、家臣の浅見氏や浅井氏ら国人衆が反乱を起こしたため、高清らは尾張へ逃れました。
その後、北近江では小谷城の浅井氏が台頭し戦国大名化を果たしたため、京極氏は没落しました。
1570年(元亀元年)に浅井長政が織田信長を裏切り敵対関係となると、長政は織田氏に対する防衛ラインとして上平寺城(刈安城)を改修して備えましたが、城を守備していた鎌刃城主・堀秀村らが織田方に寝返ったことにともない廃城となりました。

伊吹神社境内奥の鳥居左手に「上平寺城50分」の立て札がありますが、45分くらいで主郭に着きます。
土塁に虎口、大きな竪堀が見所で、山麓にある上平寺集会所に案内板があります。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=菩提山城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:京極氏館 (2025/05/19 訪問)

八講師城から車で20分くらいで、伊吹山登山者用駐車場(35.388200、136.415796)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)頃に京極高清によって築かれたと云わっています。北山腹にある上平寺城を詰城とした平時の館です。

京極氏上平館は上平寺集落の北山腹に祀られた伊吹神社の境内を最高所とし、その下段に京極氏の庭園跡が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=上平寺城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:八講師城 (2025/05/19 訪問)

山本山城から車で40分くらいで、林道入口(35.330861、136.380974)に着き、そこから長い林道を走り、登城口前の空スペースに着きました。

詳細は不明のようですが、城主は京極氏の家臣多賀豊後守高忠、佐々木氏の家臣沢田民部大輔などが伝えられています。

中心部の曲輪は、石積や石積で脇を固められた虎口があります。
何本もの竪堀と中心部の曲輪の北方向に延びる尾根に、高低差のある切岸が設けられています。
曲輪Ⅰ(主郭)の中央に大きな岩がありました。
下山時、道に迷い、滑って上着とズボンが泥だらけになり、そのままでは車に乗れないので上下ともに着替えました。人のいない所でよかった。
攻城時間は60分(林道走行時間含む)くらいでした。次の攻城先=京極氏館に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征5日目:山本山城 (2025/05/19 訪問)

米原駅でレンタカーを借り、車で30分くらいで朝日山神社参道入口(35.445895、136.213348)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 平安時代末期に山下兵衛尉義経によって築かれました。
その後、京極氏の被官阿閉氏の居城となりますが、永正年間(1504年〜1521年)頃には浅見氏の居城となっています。
浅見氏は一時期浅井亮政と対立しましたが、後にその傘下に組み込まれ再び阿閉氏が城主となりました。
織田信長による浅井攻めに際して、阿閉氏の籠る山本山城が1573年(天正元年)羽柴秀吉謀略によって開城となり、小谷城は孤立し落城しました。
「本能寺の変」で明智光秀に加担して、秀吉方の長浜城を攻めたために、「山崎の合戦」で光秀を破った秀吉に追討され、阿閉氏は滅亡し、山本山城も廃城となりました。

朝日山神社の脇の登山道から登りました。 道は険しく、休んでは登り40分ほどで登れました。
登りきったところで琵琶湖側の景色が広がります。本丸跡は土塁で囲まれ後ろに堀切が残されています。
攻城時間は75分くらいでした。次の攻城先=八講師城へ向かいました。

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しんちゃん

楠木正成の奇策。籠城戦の最終兵器も投入。 (2024/11/03 訪問)

千早城は金剛山城とも呼ばれ、元弘の乱(1331~1333)において楠木正成が籠り、鎌倉幕府の大軍相手に戦ったことで有名な城です。金剛山への登山道から裏参道を通って社務所のある三の丸下まで登り、そこから本丸を目指しました。千早神社は二の丸の跡とされ、その上が本丸になりますが、櫓台と見られる最高所は聖域とされているので登ることは出来ません。
千早城の籠城戦では、大石や大木を落としたり、矢を四方八方から射かけたり、火攻めを行ったりと、あらゆる奇策を以て、幕府の大軍をさんざんに手こずらせたようです。一説には例の最終兵器を煮詰めて敵に撒いたりしたとか・・「フン尿」を戦に用いたというのは後にも先にも「千早・赤坂城の戦い」でしか聞かないエピソードですが、当人の騎馬像が皇居の前にカッコ良く鎮座しているのを見ると、結局何でも有りなのか? という気持ちにならんこともないです。

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しんちゃん

島原・天草紀行 (2023/01/03 訪問)

島原城の古い写真が残っていたのでもう一稿。島原城は松倉重政による築城ですが、禄高4万3千石で有りながら10万石の大名に相当する城を築いたために領民に負担が重くのしかかり、後の「島原の乱」の原因にもなりました。
重政は当初キリシタンを黙認していましたが、幕府に対策の甘さを指摘されると、苛烈な弾圧を行うようになりました。自らの領土的野心もあり、幕府にスペイン領であったフィリピンのルソン島攻略を進言し、現地を調査する許可を取ることに成功します。寛永7年(1630)出兵準備を行っている最中に重政が急死したため、侵攻計画は一時中断になります。少し意外でしたが、この時期には幕府もけっこうその気になっていたようです。
寛永14年(1637)重政の子・勝家の代にもフィリピン征服の計画が練られていましたが、同年に起きた「島原の乱」によりそれどころではなくなってしまいました。こうしてみると「島原の乱」は幕府(島原藩)とスペインの代理戦争的な役割りもあったのでしょうか?
結果的に得をしたのはフィリピンを無血で守ることができたスペインということになりますが。

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カズサン

二本松城-2/6 三の丸箕輪門編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-1/6 三の丸石垣城塁編の続です。

 二本松城復元箕輪門は昭和57年で今年は昭和100年の年、43年も経過してるのですね、二本松城の見所の一つシンボルに成って居ます。
 枡形の石垣は高く威圧感があります、後ろから櫓門から、二階脇櫓、三の丸下段の平櫓から狙い撃ちです、門を潜って裏側から門を眺める、三の丸下段の東は箕輪門郭と言いう感じで、折れて三の丸下段への桝形虎口が控えてる、西に登って三の丸下段郭へ入る、桝形虎口周りの植え込み松が綺麗に手入れされて美しい景観です。
 丹羽氏は二本松城で明治を迎えます、それにしても丹羽氏は関ケ原後移封されて棚倉城、白河小峰城と土の城、石垣の城の築城改修を短期間にさせられたものです。
 そのお陰か織豊系城郭が後世残って城好きを楽しませて呉れていますが、幕末戊辰戦争は悔やまれます。

 二本松城-3/6 本丸Ⅰ編に続く。
 

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カズサン

二本松城-1/6 三の丸石垣城塁編 (2025/06/06 訪問)

 八丁目城、土合舘を堪能、まだまだ良い城がありますね! 地道で二本松城を目指す南に約7km程。

 駐車場:二本松城千人溜東、第一駐車場利用

 二本松城は3度目の登城、前回は平成21年(2009)5月15日16年振りです、先ず新しい「にほんまつ城報館」によって情報、リフレットを入手。
 いざ登城、以前に比べて大手口前までがスッキリしたような気がしました、大手口を入ると幕末戊辰戦争の悲話「二本松少年隊」群像が目に入って来ます。
 大手道の登り石垣、登り土塁を眺めて、西の駐車場から三の丸下段の西側の高石垣を眺める高く威圧感があります、千人溜、車を駐めた第一駐車場から三の丸下段の東側高石垣を眺める途中に折れが有ります。石垣と白土塀、松が美しい景観を醸しています。
 大手道を登り箕輪門枡形石垣へ。

 二本松城-2/6 三の丸箕輪門編に続く。
   

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スティクラ

丸1日かけて新城・長篠を堪能 (2025/06/08 訪問)

今年は長篠の戦いから450年とのことで、1日かけてゆっくり
堪能。
最初に馬防柵を見学し、武田勝頼布陣を目指して散策。
その後、織田信長陣、徳川家康陣、真田兄弟の墓や新城市設楽原資料館を見学。

続いて長篠城周辺へ。
お城を見てまわった後、長篠城址史跡保存館や鳥居強右衛門の墓・磔の地、中山砦跡、鳶ヶ巣山砦、医王寺近くの武田勝頼本陣を見学。

車で行ったが、1日かけて十分に楽しめた時間だった。

観光地化していないので、当時を想像しながら楽しめる反面、車を停める場所がほとんどなく、探すのに苦労した。
秀吉の陣地や鳥居強右衛門の磔の地は、有名どころなので、2,3台でもあってはいいのではと思った。
バイクや電動自転車なら、停めるところもあまり気にせず、1日あれば十分楽しめるかも。

長篠の戦いから450年の記念タオルを購入したが、文字がローマ字だったり、タオルの質が良くなかったので、評価は❌️。

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ぴーかる

浪岡城 (2025/04/27 訪問)

【続百名城78城目】
<駐車場他>浪岡城跡案内所が近い。中世の館に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>2重堀・曲輪
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅2日目2城目。中世の館が開館時間前だったので、浪岡神社⇒城跡の西側入り口から南側の河川敷から城跡切岸を眺め⇒案内所⇒東館⇒北館⇒西館⇒内館を巡りました。各曲輪はそれぞれに堀が設けられていて堀の間に武者走りのような細い中土塁というのが走らせてあります。曲輪から見ると2重堀となって見応えがあります。畠山氏の後裔の築城とあって、埼玉県の畠山館跡と非常によく似た縄張りや、防御遺構が共通するようにも感じました。ソメイヨシノが植えられている各々あり、特に検校館という西端の曲輪にはコブシと桜が満開で綺麗でした。城跡見学後に中世の館にてスタンプ押印、御城印購入、館覧しました。

<満足度>★★☆

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しんちゃん

四郎さん紀行 (2023/01/03 訪問)

四郎さんといっても、某編集部では無いです。天草のほうですよ。
本渡城の投稿をしたので、天草四郎関連の投稿もしたいと思います。以前にもやったかな? 天草四郎は本名・益田時貞とされ小西行長の旧臣の子供いう説がありますが、詳細は不明です。
寛永14年(1637)に勃発した「島原の乱」では一揆軍の総大将に掲げられ、本渡城の戦いでは富岡城城代・三宅藤兵衛を討取るなど快進撃を続けますが、富岡城を陥落させることが出来ず、船で原城へ逃れ三ヶ月に及ぶ籠城の末 幕府の大軍により一揆軍は全滅し、四郎は細川家の兵・陣佐左衛門に討たれ「天草の乱」は集結しました。
一揆を主導していたのは豊臣方の遺臣達(浪人)や庄屋たちと見られ、結局「島原の乱」というのはキリシタンを扇動しキリスト教宗主国の力を借りた「幕府転覆計画」だったのか、純粋に虐げらられているキリシタン達を助けるための戦いだったのか評価は分かれる所だと思います。
ドライな考え方ですが、宗教勢力や貴族・武士などの支配階級が農民や平民の為に純粋に「行動」を起こすことは稀だと思います。
「君たちのためだよ」とキレイごと言われて、その気になってついてくと利用されて、あとでえらい目に合うような気がしますね。

森宗意軒神社・上天草市大矢野町・・一揆軍の参謀で医学者でもあった森宗意軒を祀っています。由井正雪に妖術と軍略を授けたという伝説もあるそうな。

天草四郎ミュージアム・上天草市大矢野町・・ここに行けば天草四郎のことが、だいたいわかります。

三宅藤兵衛の墓・天草市本渡町・・富岡城の城代で明智光秀の孫と言う説もあるそうな。

天草四郎乗船之地・天草郡苓北町・・ここから西北西1.5kmの所に「おっぱい岩」がありますので、ぜひ訪問して下され。西へ直線5kmの所には「富岡城」があります。

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しんちゃん

千人塚 (2023/01/03 訪問)

本渡城は戦国時代の有力国人「天草五人衆」の中でも最も有力な天草氏の拠点でした。天正18年(1590)天草種元(ドン・アンドレア)と小西行長・加藤清正の間で戦いが起こり、城内には付近のキリシタンや宣教師も立て籠もったそうです。同じキリシタンと言うことも有り、小西はこの戦いには消極的でしたが加藤清正の攻撃は容赦なく、本渡城は落城し種元は切腹、籠城側は1300人の犠牲を出したそうです。また籠城側の抵抗も激しく、攻め手の加藤側も2000近い兵士が命を落としたとルイス・フロイスの「日本史」に記録されています。
現在は「切支丹殉教公園」となり、「天草キリシタン館」は二の丸跡になるようです。
殉教千人塚は後に起こった天草四郎軍と三宅藤兵衛率いる唐津軍の戦いの犠牲者を合祀したものとされています。城域は思ったより広そうで、今度訪問した際には山の上の出丸なども訪れてみたいと思います。

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