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しんちゃん

滝境城 馬場美濃守の縄張りとされる。 (2021/02/13 訪問)

牧ノ原市片浜の比高60mほどの丘陵上に滝境城は築かれていました。曲輪はほぼ茶畑になっていて、縄張りは連郭式で、角郭の間を堀切で区切ってあり、二重堀になっている所もあるようです。東の先端部に本曲輪が築かれ、西に二の丸が配され、その先にも幾つか曲輪が配されています。主要部の周囲は急な斜面になっており、地元では「ホッカケ」と呼ばれているそうです。
地元の案内板によると元亀2年(1571)武田信玄の命で、馬場美濃守が築いたとされ、後に武田勝頼が高天神城を落とす際に大いに役に立ったようです。

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零汰

それでも遺構は残る (2021/04/25 訪問)

写真1が南側の入口なのですが躊躇してしまい北側から入りました。結局出る際はこちらから出てきました、倒竹を避けながらでしたケド。

北側は耕作地や低木の植樹地となっており現役として活用されていました。城域には昔の牛舎だかなにかの建物跡が有ったりとそれなりに荒れてはいます。石積があるとのことでしたので目を凝らして見つけてみると確かに見る事が出来ます。まぁ見ようによっては後年の石積に見えなくもありませんがここでは当時の物と考えました。(城郭放浪記さんにもそうあったし、信頼できる長い物には巻かれておかないと)

耕作地のあたりが主郭なのでしょうが私には確信は持てませんでした。空堀が始まる周辺は竹が猛威を奮っていましたがそこを抜けると一転して空堀がきれいに見えてきます。常に思う、たとえ荒れていても遺構は残るものなのだと。見せるのが目的の城跡では無い場合は一寸踏み込んでみないと遺構を見る事は難しそうです。こちらは見せる城跡ではなく見る城跡です。

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しんちゃん

遠州は意外と穴場 佐馬武神社 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎市新野は井伊直虎の叔父であり、井伊直政の命の恩人とされる新野左馬助親矩公ゆかりの地です。けっこう遠州も穴場が多く、武田・今川・徳川ゆかりの城址が豊富にあります。新野には親矩公の墓と、彼を祀った左馬武(さまたけ)神社があり、付近には地味ながらもなかなか魅力的な城跡が残っています。
釜原城は堀切などの遺構を残す、連郭式の山城で武田氏か徳川氏の手が入っているとされています。
舟ヶ谷の城山は親矩公の居城とされ、後に武田氏によって改修を受けたのではないかとされています。
天ヶ谷の城山も武田氏によって改修を受けているとされ、二重堀などの遺構を良く残しています。
少し離れて牧之原市の滝境城は武田信玄の命で馬場美濃守が築いたとされ、空堀や土塁が残っています。
甲斐から遠く離れた遠州にもこれだけ武田氏ゆかりの城跡が残っているわけです。

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零汰

(2024/05/23 訪問)

洲崎館・花沢館・勝山館の次に訪問したのはこちら原口館です。
厳密には想定地のようです。

現地の周囲は見渡す限り緑が広がっていました。
ナビの案内で到着した所、案内を放棄した看板が目に入ります。
すると脇には緑の中に誘うような入口が有りました。
緑の中には「ここだよ」と言わんばかりの畑が忽然と現れました。

何故ここだけ畑?

見渡す限りの緑の中で畑と姿を変えて残っているのも悪くは無いと暫く一人畑とその先を眺めていました。

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朝田 辰兵衛

海津城ができるまでの北信濃重要拠点ということで… (2024/05/05 訪問)

海津城ができるまでの北信濃重要拠点ということで,猛暑の中ではありましたが,興味が高まり決行しました。
往路も復路も,玉依比賣命神社からのコースを選択しました。登城口から,徒歩約70分です。
プランでは,復路は北側尾根で下山でしたが,本郭周辺をスズメバチが回遊していたためです。「5月でもダメなの…?」と,落胆しましたが,なんとか本郭までは辿り着き,撮影することができました。頂上ではゆっくりしたかったのですが,スズメバチの数が次第に増えてきたので,慎重かつ速攻で下山しました。
ホンネは,とある煩悩の登城目録さんや昌官忠さんのように,ゆっくりと山全体を堪能したかったです…<泣>。

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イタさん

次浦城跡 千葉県香取郡多古町 (2024/08/06 訪問)

築城年代は不明だが、北の山中に次浦八郎常盛の館跡がある。千葉氏一族が次浦を領有し、次浦氏を名乗り、その後本拠地を次浦城に移したものと推測・・・と案内に載っている。

多古町次浦地区は道が狭く、曲がりくねっており分かりづらい。城跡入口周辺には駐車場はないが、車の通りはほぼないので端の駐車可能な場所に駐める。入口から虎口、主郭に入った場所までは草刈りがしてある。虎口は坂虎口で両土塁は高い。主郭内の東から南の土塁は確認出来るが、北から西は下草が多く踏み入れられず確認出来なかった。中央北側に鳥居が見えるが側に寄れない。虎口下から北を見ると、郭跡かと思えるが、藪になっている。奥に土塁状の高まりが見えるが、城に関係するものだろうか。主郭南西隅から北に向かう堀跡と思われるが、ここも木々・下草が多く分かりづらい。

城跡南で農作業していた男性が、この地区は4つに別れており、その1つで城跡の草刈りをしているそうだ。毎年2月に実施するので、その後に来たらいいですよ、と言っていた。また主郭は地権者が前に売りにだしていたらしいが、他の郭辺りは所有者が違うので整備にも差がでるらしい。主郭内の神社は稲荷を祀り、月に一度当番で管理するとも。他の情報では妙見社とあるが、千葉一族なら妙見神社か。多古城郭保存活用会さんと連携しているのだろうか。

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三浦の晃ちゃん

東北の関ヶ原 (2024/08/07 訪問)

直江兼続と最上義光が、戦った東北の関ヶ原と呼ばれる長谷堂城ノ戦いの舞台です。城址公園があり、車を停められます。険しい要害の感じです。大雨の影響が、ありそうなので、途中まで登りました。

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イオ

とことん江戸城・番外編(赤穂浪士御預先) (2024/06/21 訪問)

(続き)

2月放送の英雄たちの選択「赤穂浪士・最期の49日」を観て、泉岳寺だけでなく赤穂四十六士の御預先の大名屋敷にもいつか行ってみたいな…と思っていましたが、それぞれ泉岳寺からわりと近くにあるようなので、品川台場を取りやめにした余り時間でめぐってみました。

まずは大石内蔵助ら十七士が御預けになった細川越中守高輪下屋敷から。泉岳寺から北に徒歩約5分、都営アパートの入口脇に大石良雄等自刃ノ跡の石碑が、その奥に赤穂義士史蹟碑と大石良雄外十六人忠烈の跡の説明板が立てられています。十七士を義士として手厚く遇した細川家だけあって、石碑や説明板があちこちに見られます。屋敷跡は見学できませんが、窓越しに中を眺めてここで十七士と堀内伝右衛門が…と考えると感慨深いものがありました。屋敷跡から白金高輪駅に向かう途中、屋敷跡沿いに設けられたあじさいロードが見ごろで、その先には旧細川邸のシイが立っていました。なかなかの古樹のようですが内蔵助たちも見上げたのでしょうか…。

白金高輪駅から地下鉄で三田駅へ。三田駅の北西部にあった水野監物芝中屋敷には一番槍の間十次郎ら九士が御預けとなりました。屋敷の痕跡は残っておらず、三田駅から慶応義塾大学への道中に水野監物邸跡の説明板がある…はずですが、見落としてしまいました。慶大の北側、現在の駐日イタリア大使館が松平隠岐守三田中屋敷跡で、大石主税、堀部安兵衛ら十士が御預けとなりました。大使館敷地内に「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の碑が立てられているようですが、当然ながら見学はできません。

大使館から赤羽橋駅まで歩いて地下鉄で六本木駅へ。六本木ヒルズの毛利庭園あたりが毛利甲斐守麻布上屋敷跡で、岡島八十右衛門ら十士が御預けとなりました。毛利家では十士を罪人として扱ったこともあってか、毛利庭園内の毛利甲斐守邸跡の説明板には元禄赤穂事件が淡々と記されています。

…ということで、3年にわたって東京出張にかこつけて江戸城と関連する史跡をめぐってきましたが、今年で一段落ということになりそうです。細かく見ればまだ見落としもありますし、この間にリニューアルされたところもあるようですが、その辺はまたいつかの機会に。長らくお付き合いいただきありがとうございました。
 

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赤い城

狭間城 愛媛県西条市 (2024/08/02 訪問)

伊予西条駅南口に標柱が立つのみで遺構はありません。
城びとでも未登録です。
標柱には高峠城主石川氏の幕下、徳永信貞の居城とあります。

伊予西条駅には鉄道博物館があります。
新幹線の生みの親、十河信二縁の地でもあります。
四国新幹線の計画もあるようですがどうなるのでしょう。

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todo94

青春18きっぷでの城めぐり③ (2024/07/28 訪問)

毛馬城から徒歩にてアプローチしました。常宣寺は城北公園の隣接地にあります。櫓風の建造物は野田城に通じるテイストがありました。「なぎ」は難読城名と言えるのではないでしょうか。この日はこれにて攻城を終了。普通列車を乗り継いでの帰路につきました。

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しんちゃん

中村城山砦 続き満勝寺 (2021/02/13 訪問)

掛川市の高天神城包囲六砦の一つ、中村城山砦。先ほどは若宮神社の砦の方を紹介しましたが、満勝寺の周辺も砦の比定地とされているようです。これに関してはとにかく情報が少ないので「武蔵の五遁」さんのHPから位置の情報を取得しました。
距離的には若宮神社の北西になりますが、そんなに離れていないので、同じ城塞として機能していた可能性もあるかな?
満勝寺から西に伸びる丘陵上が比定地で堀切があったり、見張台らしき曲輪があったりと砦の雰囲気はあるようです。

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しんちゃん

高天神城包囲六砦 三井山砦 (2024/06/22 訪問)

三井山砦は第二次高天神城の戦いの際に、高天神城を包囲するために築かれた砦の一つです。掛川市大阪にある大浜公園の東にある比高40mほどの丘陵の上に築かれていて、間を深い天然の堀に遮られているので、鉄橋を渡って訪れます。
まずは西の腰曲輪に到達すると、周囲には堀も残っているようです。そのまま登城道をのぼっていくと最高所である主郭に到着し、南側周辺には腰曲輪が幾段か配されているようです。全体的にコンパクトにまとまっていますが、城ではなく、あくまで砦であるということを考えると、これで十分ではないでしょうか。

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しんちゃん

高天神城包囲六砦 中村砦 (2024/06/22 訪問)

中村砦は第二次高天神城の戦いの際に、高天神城を包囲するように築かれた六つの砦の一つです。徳川方は馬伏塚城から横須賀城に拠点を移し、なおかつ高天神城の周囲に砦を築いて対象を孤立させていきます。小笠山砦には家康の本陣が置かれ、天正7年(1579)ごろには三井山砦・中村砦が築かれ、天正8年(1580)には獅子ヶ鼻砦・火ヶ峰砦・能ケ坂砦が築かれたとされます。
城址の西側には若宮神社が建立され、その背後が物見台跡とされていますが、藪に埋め尽くされているので放置とします。
東の丘陵上には逆コの字の形に曲輪(物見台)が配され、北側の曲輪は東に向かって段々に続いています。比高はさほどでは無いのですが、周囲は平地なので、この城址からでも十分に見晴らしは良く、十分に砦として機能したと思われます。

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零汰

道路で分断 (2022/01/14 訪問)

こちらの城跡は国道で分断されています。残った北側の城域には曲輪が残りその曲輪と川の間には幾つもの空堀が残っています。
川は下流のダム建設により水位が上がり、遺構が部分的に川の中に沈んで居るように現地では見受けられました。
残存の曲輪は広いのですが高低差がさほどなく主郭の位置は確定できませんでした。

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零汰

気軽に訪問出来る (2024/05/23 訪問)

北の大地はチャシや陣屋など普段見る事が出来ない城跡が多くて一種独特な場所に思えます。
その中に有ってこちらは普段の城跡の雰囲気を醸し出して安心して気軽に見て廻れることが出来ました。
花沢館自体は本土で言うところの一般的で小規模な城跡ですが、北の大地にあっては逆に異質でした。
見所としては最高所にある主郭背後の土塁と堀切です。

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ぴーかる

三瀬の変 (2024/06/08 訪問)

【三瀬館】
<駐車場他>「北畠家の遺跡をたどるみち駐車場」3台分程に駐車しました。館跡にも2台分程のスペースがあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・山腹の詰めの曲輪
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅2城目。現地説明板によると三瀬館は伊勢国司8代北畠具教の隠居地で1569年に大河内城の戦いに敗れ和睦の条件として織田信雄を養継子とした後、この地に居館を造り隠居します。北畠具教は1576年に三瀬の変において織田信長の刺客により誅殺されてしまいます。
 まず館跡の南にある北畠具教公の胴塚にお参りし館跡を散策しました。館跡は説明板には3段とありますが最上段の砂防壁の曲輪(石積み跡が僅かに残っているので)まで入れると5段程のひな壇状の曲輪になっています。正面虎口の大石の石垣が見事です。中段程に庭園跡らしき池や石組暗渠が残っています。また石段も良く残っていて当時の館の雰囲気が残ります。
 次に見張り台跡に登りました。東屋のある曲輪と秋葉神社がある曲輪の2つの曲輪が南北にあり、間を堀切で仕切っています。神社のある曲輪からは三瀬地区が一望できます。
 以前から三瀬の変は歴史小説か何かの本で読んで、信長の苛烈さに衝撃を受けて知っていました。プランを立てている時から散策終わりまでずっと頭の中に「三瀬の変」がくっついていました。

<満足度>◆◆◇

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前ちゃん

JR、駅から城巡りスタンプラリー (2024/08/06 訪問)

JRのウエスタの企画「駅から城巡りスタンプラリー」ついでに登城!遺構はなし公園です。

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トク

平和について考える旅(岩国徳山2/4)-周防大島 (2024/08/03 訪問)

平和について考える旅(2/4)です。岩国城の天守から見えた周防大島へ渡ってきました。岩国駅からJR山陽本線に乗り「大畠駅」で下車。駅前から(写真②)のバスで島内を1時間ほど走ります。島は橋でつながっていて、とても大きな島です。

そして「陸奥記念館前」のバス停で下車しました。そこが沈没点に最も近い場所(写真①)で、そこに記念館が建っています(写真③)。海底から引き揚げられた、陸奥の巨大なスクリューや副砲や高角砲などが野外展示されていて、また館内には同じく引き上げられた乗組員の遺品や、また海底調査からの沈没状況がビデオや模型で説明されていました(写真④⑤⑥⑦)。

記念館の前はキャンプ場になっていました。とてもきれいな場所で、いつかここでキャンプしたいな~と思いました(写真⑧)。さらにその先には水族館やきれいなビーチが広がり、大勢の海水浴を楽しむ家族連れや若者たちでにぎわっていました。ここは「瀬戸内のハワイ」と地元の方々は呼んでいるそうです(笑)。そのビーチを抜け、暑い中海沿いの道を20分ほど伊保田まで歩きました(写真⑨)。 やっぱり海はいいですね! 潮風の爽快感が暑さを忘れさせ、私を平和な気分にさせてくれました。

帰りはその伊保田港に寄港する(松山~柳井フェリー)に乗って(写真⑩)柳井港で下船し、JRで柳井港駅から次に目的地「徳山」へ向かいました。

次は「徳山城」を訪れ、続きを考えていきます。
 

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イオ

とことん江戸城・番外編(泉岳寺) (2024/06/21 訪問)

江戸初期に徳川家康が今川義元の菩提を弔うために外桜田に創建した泉岳寺が寛永の大火で焼失したことにより、徳川家光が毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じて高輪に移転復興させて、現在に至っています。…なるほど、泉岳寺と浅野氏のゆかりはそうして生じたものだったんですね。

昨年、吉良邸に行った時から泉岳寺にも行ってみたいと思っていましたので、高輪大木戸から訪れました。総門は失われていますが、中門を通り抜けた先に立派な山門が聳え立っています。山門には立ち入れませんが、一階部分の天井には江戸三龍に数えられる銅彫大蟠龍がはめ込まれていました。山門の右手には連判状を手にした大石内蔵助良雄の銅像が建てられています。さすが泉岳寺。境内には浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭先で切腹した際に血がかかったとされる血染の石と血染の梅が、同じく大石主税が切腹した松平隠岐守中屋敷跡に植えられていたとされる主税梅や、浅野内匠頭正室の瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したと伝わる瑶池梅が並んで植えられています。その並びには、主君の墓前に供える吉良上野介の首級を洗ったとされる首洗い井戸もありました。

首洗い井戸の先には浅野家鉄砲洲上屋敷の裏門が移築され、門をくぐると赤穂義士墓地です。現地の説明板を見て知りましたが、墓は御預先ごとに並んで建てられているんですね。入場料代わりに線香を買って四十七士それぞれのお墓にお供えして回るつもりが、あいにくの雨天のため屋根付きのお墓(大石内蔵助、大石主税、浅野長矩公、長矩公夫人)にしかお供えできず、他の四十五士と萱野三平のお墓には心の中で手を合わせるに留めました。一人ひとりの名前を見ていると、ドラマや映画で演じられた俳優さんの顔が浮かんできて、何とも言えない気持ちになります。ちなみに内蔵助では「元禄繚乱」の中村勘九郎(当時)さんの昼行灯ぶりが印象的でした。

墓地を出ると、赤穂義士記念館と義士木像館を見学して(撮影は不可)、泉岳寺を後にしました。泉岳寺に続いては品川台場に行く予定でしたが、雨天に加えて時折強風が吹きつける中、レインボーブリッジを歩いて渡る根性はなかったので、予定変更して一応下調べしてあった赤穂浪士御預先の大名屋敷跡をめぐることにしました(続く)。
 

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赤い城

やまびこ打線 (2024/07/27 訪問)

私の年代、高校野球のヒーローといえばKKコンビですがその前は池田高校でした。
当時やまびこ打線と名付けられていた猛打が印象的で強かった。
今年も夏の甲子園開幕がもうすぐ、どんなドラマが見られるかな?

さて、その池田高校の近くに池田城(大西城)があります。
少し高台にある学園通りには池田高校の他中学校、幼稚園、小学校が並んでいます。
この辺りが城趾ですが幼稚園の建物の下に石垣が残る他には遺構は無さそうです。

戦後期は長宗我部氏家臣の中内氏の居城でしたが、秀吉の四国平定後は蜂須賀家政が徳島城の支城として定めました。
阿波九城のひとつです。

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