(続き)
明智光秀の居城である坂本城(滋賀県大津市)は、安土城に先がけて天主を擁し、フロイスから豪壮華麗と評される城でしたが、山崎の戦いの後、羽柴軍に包囲される中、明智秀満が天主に火を放って自刃し、現在では琵琶湖の渇水時にのみ本丸の石垣が確認できるくらいです。昨冬には発掘調査により検出した三の丸西辺石垣の現地説明会が開催され、説明会後に埋め戻される予定が一転保存が決定したというニュースに歓喜しましたが、現在は埋め戻されているとのことで一体どうなってるんだろう…とモヤモヤしています。本丸周辺には、落城時に宝物を埋めたとも明智一族の墓所とも伝わる明智塚が、東南寺にも明智一族の首塚(供養塔)があり、聖衆来迎寺と西教寺には坂本城の城門が移築されています。
穴太衆の石積みの町並みで知られる城下には、光秀ゆかりの史跡があちこちに見られます。天台真盛宗総本山の西教寺は比叡山焼き討ちにより全焼しましたが、光秀が坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建するなど復興に努めたことから、大本坊(現在の建物は昭和に改築されたもの)には光秀と妻・熙子の位牌が安置され、境内には光秀と明智一族、熙子の墓、妻木一族(熙子の実家)の供養塔が祀られています。また、書院の隣には明智光秀公資料室が設けられ、光秀が寄進した坂本城の陣鐘(非公開)、戦死した家臣を弔う光秀直筆の供養米寄進状、光秀所持と伝わる硯箱、明智秀満の湖上渡りの際の鞍と鐙など、ゆかりの品が収蔵されています。
明智寺とも呼ばれる盛安寺は穴太積みの石垣が見事なお寺で、境内には光秀の供養塔や位牌が祀られ、光秀ゆかりの陣太鼓が伝えられているそうです(未確認)。他にも、光秀が坂本城で茶会を催したときに用いたと伝わる志津ケ池があったり、坂本城址公園には光秀の石像と曲の流れる歌碑「光秀(おとこ)の意地」が立てられていたり、坂本の町を歩いていると、光秀が確かにこの地にいたことを実感させられます(続く)。
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