国吉城は佐柿国吉城の名でも知られ、若狭国の守護大名・武田氏の家臣であった粟屋勝久によって戦国の城として改修されました。勝久は越前朝倉氏の数年にわたる攻撃に耐え、粟屋勝久の国吉籠城として後世にも評価を受けています。籠城戦は永禄6年(1563)から永禄12年まで行われました。そのうち大きな戦いは二度ほどで、永禄6年の戦いでは武士200人、百姓600人ほどが籠城し、勝久は百姓勢を上手く使い、百姓が大石・古木を落として敵を苦戦させている間に武士団が敵を蹴散らし、攻め手は四分の一を失い敦賀まで退却しました。
麓にある居館跡は城主の者とされ、石垣も残っています。山上の城の主郭周辺にも整備中の石垣が有りました。
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