京成本線で京成佐倉駅に戻り、徒歩20分くらいで国立歴史民族博物館入口から入りました。
あいにく年末年始の閉館でしたので、姥が池を経由し公園センターに向かいました。
ハリス像・堀田公像・正岡子規句碑より本丸跡に向かい、土塁上を通り天守跡を見学しました。
その後大手門跡を通り駅に戻りました。
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2024/12/29 09:07
2024/08/13 17:12
一度で二度おいしい? (2024/08/11 訪問)
本佐倉城のあとに京成佐倉駅前の観光案内所に寄って御城印を購入。
そのあとに佐倉城へ。
歴博側ではなく薬医門側から登城。
水堀を眺めながら西方向の出丸を目指しました。
その後戻って本丸跡で一の門や角櫓、銅櫓、天守閣跡を見学。
モッコクの落書きも確認。
土塁がしっかりと高く、その上を歩いて回れるのも良かった。
佐倉城の礎石がある方向の空堀は深くしっかりと残っています。
二の丸跡、三の丸跡を見ながら見学していると旧陸軍の油脂庫跡まであるではないですか。
説明書きには歩兵第57連隊通称佐倉連隊の武器手入れ用の油保管庫となっていました。
グアム島、フィリピンレイテ戦でほとんどの隊員を失ったとありました。
いまこうやって城巡りさせてもらっているこの平和を願って亡くなっていった方々に胸が熱くなってしまいました。
最後に有名な馬出空堀を実際に見て感動。
お城散策に太平洋戦争の面影までありタイトル通りで満足しました。
今度は歴博にも寄りたいと思います。
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2024/07/16 11:45
2人の距離 (2017/07/04 訪問)
「老中の城」佐倉城(千葉県佐倉市)。代々9人もの老中が配置された特別な城ですが、幕府の要職ともなると、それぞれ一筋縄では行かない問題も抱えていたようで。
江戸を守る東の要。一方、西国から江戸が攻撃された際には将軍家が退避する地と定められていたといいます。三重の天守をはじめ、櫓や本丸御殿、8基もの大規模な櫓門が備わった重要拠点でしたが、残念ながら現在、建造物はほとんど残っていません。それでも、結構なサイズの城址をつぶさに歩き回ることで、この城がもつ意味合いが見えてきます。
前身は中世城郭。徳川家康の関東入国後、徐々に改修し完成は1617年ごろ。石垣を用いない土造りで、空堀は結構な深さ。北には印旛沼があり、湿地帯に掘られた水堀が本丸周辺を巡っています。ちなみに100名城スタンプは、復元された角馬出の空堀。渋い。
「出世城」というよりは、むしろすでに幕府の重鎮になった人物がその都度配されたという印象でしょうか。城内(二の丸入り口付近)にはそんな中のひとり、佐倉藩5代藩主・堀田正睦(1810-64)の銅像。藩内の蘭学を盛んにし、幕末期の老中首座として「開国に尽力」(佐倉市)した御仁。加えて、その近くにはアメリカ初代駐日総領事であるタウンゼント・ハリスの立ち姿、、。んー、どこか微妙な並び。
定説では不平等条約とされる日米修好通商条約。交渉で米側から圧をかけられまくった窓口が堀田一派だったはず。事実、調印後、最後まで朝廷の賛同を得られなかった失策により老中を罷免されます(*結果的に無勅許で踏み切ったのは大老・井伊直弼)。
もちろん、ハリスの存在が「開明派」の堀田を外交の舞台に引き上げたという点で2人の関係性は特別なのかもしれませんが、もし仮に今、堀田自身がこの距離での並びを見せられたら何と言ったか。興味は尽きないのであります。
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石を一切用いず、土塁と深い空堀・水堀で守りを固めた土造の近世城郭。水堀は湿地帯の本丸台地を巡るように掘られ、馬出のように突き出た出丸が今もよく残っている。土塁は天守台とセットになっていて、天守の一部が土塁に懸かっていたとされる。また椎木門跡の前面には、発掘調査を元に巨大な角馬出が復元されている。
城地種類 | 連郭式平山城 |
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築城年代 | 天文年間(1532〜1555) |
築城者 | 鹿島幹胤 |
主要城主 | 鹿島氏、千葉氏、久野氏、小笠原氏、土井氏、堀田氏 |
文化財史跡区分 | 市史跡(佐倉城跡) |
近年の主な復元・整備 | 千葉邦胤、土井利勝 |
天守の現況・形態 | 独立式層塔型御三階櫓[3重4階/1616年築/焼失(失火)] |
主な関連施設 | 馬出、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
住所 | 千葉県佐倉市城内町官有無番地 |
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問い合わせ先 | 佐倉市公園緑地課 |
問い合わせ先電話番号 | 043-484-6165 |