立派な模擬天守閣です。天守閣のそばまで、車で行けます。中は森林博物館のようですが、着いたのが、早朝だったので、入れませんでした。天気が良かったので、景色が良かったたです。本来は、砂沢城址が、正しいようです。
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2024/08/04 16:32
2024/08/04 14:54
親切なお城 (2024/08/04 訪問)
酷暑が続く中、朝5時に愛馬忍者250に乗り出発。8時ごろ公園の登城口に到着。まず三日月堀が目を引きました。丸馬出上に民家があり、堀に囲まれ、家の裏は枡形虎口になっています。すごい家だと思いました。三の丸、二の丸、本丸、堀や土塁も見ごたえあります。トイレにパンフレットがあったりいろいろな場所に説明看板があったり
見る人に親切です。土塁を利用してゴルフコースがあるのも面白かったです。夏なので予想通り草や虫に少しやられましたが、無傷で登城し生還しました。
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2024/08/04 12:47
お台場は幕末、軍事施設だったんです (2024/08/03 訪問)
ゆりかもめ(モノレール)に乗り、お台場海浜公園駅にて下車🚝 そこから砂浜沿いにひたすら歩き、着いた先の四角形の岬が品川台場
入口側に(1枚目の)公演案内があります。ペリーの黒船来航後に、国防の意味合いで建設された砲台跡…しかし本来12門設けられるはずだった砲台は全て完成せず6門のみ
一度も実戦で使われることはないまま時が流れ、1926年に国の史跡として公園となり現在は2門のみが残されている
(参考URL)
https://www.tptc.co.jp/park/01_01/history
その現存する2門(2枚目)…砲台と言っても現在では大砲の筒は取り外されて跡しか残ってません。公園としての安全性を保つため、そりゃそうなんでしょうけど
あと…大砲のすぐ前には松の木が生えており、砲撃する場合にそれが邪魔になってしまうので当時(幕末)は無かったかも…ですね。つまり公園として…史跡として残される事が決まってから植えられたもの…多分🌲
現存する2門のうち片方から内陸を撮影(3枚目)。そこには弾薬庫に陣屋、かまど…があったそうです。要は砲撃のための補充の役割を担う場所。弾薬庫から弾を砲台まで運び、そこに詰める…数十メートルの距離があるので運ぶ姿をイメージしただけで重そう…2,3人がかりだったのではないでしょうか?💣
ちなみにこの品川台場(お台場公園とも呼ぶのかな?)…ここ以外にも(4枚目に写る)陸地…海に浮かぶ島があり、もしかしたらそこにも幕末に幕府が何らかの軍事施設を設けたかもしれません
けれどそこまでアプローチする橋はない…連絡船はあるのかな?多分無いんじゃないかと思います。なのでただここから眺めるだけ…緑の生い茂った小さな島という見た目🏝️
「おっ…島の内部に何らかの史跡があるぞ」というノリで5枚目を撮影。ここが陣屋跡。当時はここにちゃんとした建物があったのでしょう
伊豆半島の付け根に現存している韮山反射路…それを手がけた江川英龍がここ、品川台場の砲台建設も担当したそうです。さらに(当時国内屈指の近代化を成し遂げ、軍事大国的存在であった)佐賀藩にも協力を仰ぎ、江戸を守るための…それなりの防御施設を建設
軍事演習くらいはおこなわれたかもしれませんが、戊辰戦争においては江戸が無血開城してしまったため実戦導入されることはなく…明治初期の不平士族の反乱は東京が戦場にあらず…日清日露の戦役では日本が戦場ではないため使われず…第一次大戦の対独戦も同様…そして大正の末に公園になり軍事施設は解体…という流れ
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2024/08/04 12:40
棚田散歩 (2024/02/24 訪問)
今、南北朝時代が静かに熱いです。個人的には戦国時代の背景や武将たちが好きですが、洗練された戦国の武将たちに比べて、無骨で荒っぽいネイティブな南北朝時代の戦や武士(もののふ)達にも魅力を感じます。
南北朝時代だと私が好きなのは楠木正成や護良親王(大塔宮)ですね。親王は皇子なのにゲリラ戦ばっかりやってるのが良いですね。
「逃げ若」だと、痛鎧の石塔範家ですかね(なんで?)。
下赤坂城は標高185.7m 比高61.4mの丘陵状に築かれた山城(案内板による)です。最近は比高100m以上を山城にしようという動きが学会を中心に起きているようです。確かに高低差は重要な要素ですが、詰の城って大概、50m~100mぐらいの間に築かれているんですよ。厳密に言えば江戸城や名古屋城も、元々は丘の上に築かれているし、それだと城郭は平山城ばっかりになってしまうんですね(カオス)。
歴史や用途(築城者の意志)、地形的要素や城郭の構造などを考慮すると比高100mに満たない城でも山城に匹敵する城は山ほどあり、比高100m以上にある単郭の砦を山城とするなら比較自体がnonsenseになります。現状では誰も明確な区別をつけることが出来ないのではないでしょうか。
高低差のみで判別するのなら、kodomoで事足ります。
下赤坂城の駐車所から10分ほど歩くと城址碑のある場所に到達します。周囲は棚田として開墾してあり、正直山城としての雰囲気は感じません。とはいえ、平山城というとちょっと違う気がします。当時の城址の面影がまったく無いので、どのような防御態勢を取っていたかがイマイチ判別できない。とはいえ楠木正成や護良親王ゆかりの城でもあるので、ここに来るだけの意味は十分にあるわけです。
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2024/08/04 11:15
富士山山頂 (2018/07/15 訪問)
空を仰げば雲ひとつとして無し。下を見やれば一面雲海が広がる。富士山山頂の投稿です。
富士山に一度は登ってみたいと思われている方は多いのではないでしょうか。もう登ったよという方も多いと思います。一年を通じて、その山容は美しく戦国時代には織田信長公をして「天晴れ」と言わしめています。特に富士山に強い執着を持っていたのが徳川家康公で関ヶ原の合戦後、富士山本宮浅間大社の建造物30棟ほどを造営し、山頂付近を事実上の富士山本宮浅間大社の境内地としたとされます。
賽銭が行われいていたことから参拝は許されていたようで、安永8年(1779)八合目以上が富士山本宮浅間大社の境内になることが幕府に認められたようです。
とある事情で、山頂で野宿することになり、ちょっとした地獄を経験しました。奥宮を風よけにしようとしたのですが、四方八方から強風が吹きつけ体感温度はマイナスです。一睡もできませんでしたね。天の川はやたらとキレイでした。
そのあとは御来光を見て感動。奥宮に参拝して、最高所に到達、御鉢めぐりをする体力は残ってなかったので下山。そのあと葛山城に行きました(ちょっとだけ回復)。登山の際には体調を万全に整え、宿の予約を必ず取っておくことをお勧めします。
データフォルダが2回も破損したので写真はほぼ消滅しているのですが、ちょっとだけ別枠に保存してあったものが残っていました。
他にもいくつか富士山に関わる写真を掲載しておきます。
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2024/08/04 10:41
尾山神社 藩祖・前田利家を祀った神社 (2015/10/24 訪問)
金沢市尾山町にある尾山神社は明治6年に建立された藩祖・前田利家を祀った神社で平成10年には芳春院(まつ)の合祀されています。
塔のような独特の形状を持つ神門が建てられ、境内には前田利家公の騎馬像があります。境内にある摂社・金谷神社は2代・利長から17代・利建公までが祀られており、若衆達が力比べに興じた「さし石」が近くに置かれています。
東神門は金沢城の二の丸門とされ宝暦9年(1760)の大火でも類焼を免れたとされています。利家公の騎馬像に話を戻すと、赤母衣衆筆頭の利家をはじめ9人の赤母衣衆と、佐々成政を筆頭とする10人の黒母衣衆が織田信長の下で連絡役を務めたと案内板には書かれています。
母衣は流れ矢を防ぐ役目をしていたようで、風に膨らんだ形状を示すために竹串や、クジラの骨やヒゲを骨組みに入れるようになったようです。空気抵抗が大きくなりそうですが、それを言うのは野暮ってやつでしょうかね。
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2024/08/04 07:13
2024/08/03 21:17
小笠山砦③ 家康さんらしい本陣の設置場所 (2021/02/06 訪問)
ひとしきり回って戻ってきました。これまでいろいろな城址を周ってきましたが、大きなケガもなくこれたのは僥倖だと思っております。これからも怪我をしないように注意していきたいです。怪我をしたら城めぐりができなくなりますからね。
天然の崖や堀切に目を奪われがちですが、土塁等の遺構も残っているようです。こんな場所に本陣を置きたがる家康さんにも困ったものですが、その分防御力はバッチリです。帰りに神社から見る富士山も赤みがかかってキレイです。見るだけでパワーをもらえる最強のパワースポットですね。でも私は山頂で山小屋から締め出されて野宿したことがあるんですよ(予約しないと)。死ぬかと思いましたね、マジで。
天の川がキレイだったなあ‥。
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2024/08/03 20:54
小笠山砦 落ちたら大変 (2021/02/06 訪問)
高天神城包囲六砦、最大の規模を誇る小笠山砦。写真の崖の形状から見て北西の最高所に向かうところだと思います。けっこうスリルを味わいながらの訪問だったはずだけど3年たつと忘れてしまいますな。カァ
地形図を見てもこの辺は、なんというかメチャクチャ あっちこっちに崖が迫ってきています。城びとの城に登録されなかったのは危ないからかな? でもそれいったら戸吹城なんかもっと危ないし。100万円くれるんだったら命綱つけていくけど、そうでなかったら絶対行かない、あんなとこ(戸吹城の詰の城のこと)。
このあと南西の城域も訪問してるけど、ここもなかなか道が険しい。でも遺構はイイんだよな。最近たまに落ちたりするので再訪は考え物です。落ちたら死にはしないけど大ケガしそうだし。皆さんもお気をつけて。
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2024/08/03 18:51
2024/08/03 18:08
氷川神社 (2024/08/03 訪問)
豊島氏の庶流である宮城氏の居館跡です。氷川神社付近が跡地で石碑がありました。遺構はありません。
豊島氏館跡(清光寺)より徒歩にて登城しました。帰りは近くの宮城小学校前バス停よりバスに乗り王寺駅へ向かいました。徒歩で王寺駅から登城された方もいたので歩こうかとも思っていましたが、暑さに負けてバスを利用しました。
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2024/08/03 18:03
2024/08/03 17:57
2024/08/03 17:52
2024/08/03 17:27
恥ずかしがり屋の富士山。 (2024/07/21 訪問)
築城時期は不明ですが、足柄街道を見張る為に「足柄城」は築かれました。
秀吉さんの北条討伐で落城し廃城したんだそうです。
県道78号線、グネグネの山道を進軍。途中に石畳の足柄古道を何回か見かけました。
車だとグネグネ、歩きだと石畳、どちらも大変です。
「足柄城」の登城口を探そうと、写真⑩の案内板とトイレがある場所に駐車。案内板の反対側に写真①を見つけて入城しました。虫除けにハッカ油を振りかけ進軍しました。山道を歩いていると、写真②。下は道路です。もう一度、草木の中をくぐると、開けた郭に出ました。右手に写真③の池があります。
皆さんの投稿では、きれいな富士山の写真。どこだー富士さーん。
、、、残念な事に見えません。
落胆していたのは私だけでなく、海外の方お二人と案内の方。
案内の方によると富士スピードウェイの音や自衛隊の富士演習場の音も聞こえるそうです。
海外の方は、また明日チャレンジするそうです。
因みに、この方々は違う登城口から現れたので、入口はいくつかあるようです。
「足柄城」の石碑を写真を写し退陣。キノコを見つけ1UPしました。
車に戻る途中に金太郎の顔はめパネルがあります。
金太郎を調べてみたら、大河ドラマ『光る君へ』に御出演中の藤原 道長さんの名前がありました。
道長さんの家臣の下毛野 公時さんが、金太郎さんのモデルではないかと?
どの地域にも、金太郎さんのような勇ましい方がいたんでしょうね。
あの海外の方、富士山 見られたかな?
富士山もだけど、お二人の喜んでいる顔が見たいなぁと、思った「足柄城」攻めでした。
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2024/08/03 13:52
小笠山砦 高天神城包囲六砦 (2021/02/06 訪問)
小笠山砦は徳川家康が高天神城包囲のために築いた六つの砦の一つで、高天神城の北、やや西寄りに4kmほどの位地にあります。県道から分岐した道を小笠神社方向に進み、突き当りに駐車し、そこから城址に向かいます。小笠神社も城址に含まれているようで、遠く富士山が望めます。北西に尾根上に広く曲輪が配されていて、山城と呼んでも差し支えないほどの規模と防御力を誇っています。る家康の本陣が置かれたとされる笹峰御殿と呼ばれる曲輪があり、ここが本丸に相当するようです。さらに先にも多数の堀と曲輪を配し、細い尾根道が断崖絶壁の様相を示していました。
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2024/08/03 11:41
竹林と空堀 (2019/01/01 訪問)
小机城の投稿です。続百名城の中でも地味な城だと思うのですが、市街地の中に遺構を多く残しているのが特徴ですね。地主の皆さんありがとうございます。文明8~12(1476~1480)年に起こった長尾景春の乱の際に景春に味方した豊嶋氏が立て籠もり、敵方の太田道灌に攻められ二か月の攻城戦の後に落城したそうです。
「小机は先手習いの初にて、いろはにほへとちりぢりになる」とは道灌が味方を鼓舞するために読んだ歌とされています。道潅は一連の戦いで獅子奮迅の働きを見せ、名声を覆いに高めますが、危機感を抱いた主君・上杉定正によって謀殺されてしまいます。
後に小田原北条氏の城となり、笠原信為が城主として入り、子孫は代々付近に居住しているようです。
城址は「小机城址市民の森」として整備され本丸、二の丸を中心に曲輪や空堀が良く残ります。傾斜は比較的緩くなってはいますが、竹林の中に残された空堀は独特の美しさを持っています。
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2024/08/03 11:03
変身 (2024/08/01 訪問)
鹿児島城跡にある黎明館に行きました。
出先で貼ってあったポスターで知りました。
「THE仮面ライダー展」なんとも心地良い響き。
テレビを見ない生活をしているので見逃すところでした。
早速孫たちに連れて行ってもらいました。
歴代ライダーが1号から最新ライダー迄大勢展示されてます。
行く前はここ迄期待はしていなかったのですが大正解でした。
推しは当然旧1号ライダー。
ライダーに限らずオリジナルを超えるものは中々ありません。
密かに期待をしていた桜島1号が居ないのは仕方がない。
冒頭はこの日の復元門です。
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2024/08/03 10:12
仏御前の墓 / 屋敷跡 (2015/10/24 訪問)
所在地‥石川県小松市原町208-2
平清盛と妓王(祇王)の伝説に出てくる佛御前は小松市の原町の出身で承安2年(1172)14歳で京に上り白拍子となりました。当時清盛の寵愛を受けていた白拍子の妓王のはからいで清盛の前で舞を舞う機会を与えられ、天性の美貌と才で清盛をたちまちトリコにしてしまったそうです。妓王さんも余裕こいてて後で「しまった」と思ったとは思いますが、後の祭りというやつで、その後清盛に佛御前を慰めるためとして舞を舞わされたりしています。清盛もすっかり妓王のことはどうでも良いかんじですね。
結果、妓王(当時21)は母と妹の妓女と共に出家してしまうのですが、佛御前も世の栄華の儚さを知り17歳で出家してしまいます。今でいうストライキに近いですが、清盛公にはたいして応えていないような気もします(体裁は悪いですが)。
個人的には21、19、17歳の若い女性が3人も出家してしまったのはもったいなかった気がします(オイオイ‥)。白拍子というと今でいうトップスターみたいなもんですからね。
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2024/08/03 09:16
うさPYON (2013/08/23 訪問)
越前大野城の写真です。去年の11月、大野城を訪問した時にはすでに閉館していて入れなかったんですね。閉館はやいな~。そのあと、地震が来たり石垣が崩れたりで大変だったんだけど、もう修復は終わったのかな?
土井氏の兜の前立てにウサギをあしらったものがありました。戦場でもすばしこく駆け回れるようにとの意味らしいです。まさにウサギそのものですが、ちょっとかわいすぎませんかね。いかついオッサンがこの兜で襲いかかってきたら一瞬思考停止しそうです。
恐るべし‥。
話は変わりますが、大多喜城の改装工事はまだ続いているようです。あと数年かかる見通し?
大多喜城の天守は千葉県立中央博物館大多喜城分館というらしいですが、隣接する建物で写真などの展示を行っており、そこにもウサギの前立ての写真の展示がありました。しかし、このウサギ‥かなりシュールです。大野城のウサギはリアルに振っていましたが、こっちのウサギは怪人ウサギ男か「鬼滅の〇」のムキムキネズミみたいですな。
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