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昌官忠

(東海&関西)遠征23日目:稲垣西城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/06 訪問)

稲垣城(城びと未登録 三重県津市)から、そのまま山中を西に向かい、しばらくすると、稲垣西城(城びと未登録 三重県津市)に着きました。

1529年(享禄2年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われています。
1584年(天正12年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れました。
その後、氏郷に内応していた岡村修理亮、その子・修理允が居城したが、天正年間(1573年~1592年)長野左京進と争い、自害したようです。

主郭の北側には堀切、南東下には堀がありました。
稲垣城(城びと未登録 三重県津市)からの下城は、万福寺東鉄階段付近(34.655750、136.325387)に向かいました。
階段付近は結構、籔がひどく足元が見えません。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、関ノ宮駅から電車で松阪駅に戻り、コインロッカーより荷物を取り出した後、松阪駅から電車で静岡駅に向かいました。
静岡駅での夕食はしらす丼、お土産にお茶を購入しました。
歩行歩数=22306歩、歩行距離=15.6Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征23日目:稲垣城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/06 訪問)

稲垣北城(城びと未登録 三重県津市)から稲垣城道標に戻り、今度は南側に回ります。しばらくすると、稲垣城(城びと未登録 三重県津市)に着きました。

1529年(享禄2年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われています。
1584年(天正12年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れました。
その後、氏郷に内応していた岡村修理亮、その子・修理允が居城したが、天正年間(1573年~1592年)長野左京進と争い、自害したようです。

稲垣城はいくつかの小さな郭で構成されており、各郭間に堀切がありました。
主郭は高土塁で囲まれ東中央に虎口があり、郭2と土橋でに繋がっています。
主郭の西背後と東側(郭2との間)、郭2の西側にも堀切がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=稲垣西城(城びと未登録 三重県津市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征23日目:稲垣北城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/06 訪問)

山田野城から徒歩30分くらいで、稲垣城道標前(34.655825、136.327555)に着きました。

1529年(享禄2年)に北畠氏から稲垣の地を与えられた川原田相模守実秀によって築かれたと云われています。
1584年(天正12年)実秀の子隆秀が城主であったとき蒲生氏郷によって攻められ落城、隆秀は山田野に逃れました。
その後、氏郷に内応していた岡村修理亮、その子・修理允が居城したが、天正年間(1573年~1592年)長野左京進と争い、自害したようです。

稲垣城道標から北側の山に直登します。
谷に面した南端部分の主郭に土塁と堀切、堀切の東端部が土橋なっています。
主郭の北側は平坦地になっていて、その先に土塁と堀、その北側にやや離れて堀切がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=稲垣城(城びと未登録 三重県津市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征23日目:山田野城 (2025/06/06 訪問)

家城城から徒歩40分くらいで、登城口付近(34.643060、136.3147830)に着きました。

天正年間(1573年~1592年)に長野左京進が築城したとされています。
長野左京進は北畠具教の家臣であり、1568年(永禄11年)織田信長が伊勢に進行し、北畠氏は大河内城に籠城しましたが、その際、左京進は奮戦しました。
しかし、北畠氏が織田氏陣営に吸収され、左京進も信雄の家臣となります。
1576年(天正4年)三瀬館に隠居していた具教を左京進は、柘植、滝川らと殺害しています。それ以後にこの地を与えられ築城したと思われます。 
北畠(織田)信雄と羽柴(豊臣)秀吉が対立した1584年(天正12年)には信雄から蒲生氏郷を通じて秀吉方に寝返ったとされます。
同様に蒲生氏郷に内応していた小倭の岡村修理亮とは仲が悪く、その子清次郎に津の半田山で殺されました。
その後、城は織田信包が守岡金助にこの城を与えたとされます。

城跡には倒木が多いですが、土塁、堀切、竪堀などが確認できます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=稲垣北城(城びと未登録 三重県津市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征23日目:家城城 (2025/06/06 訪問)

松阪駅から電車で家城駅に着きました。
家城駅から徒歩10分くらいで、登城口付近(34.626048、136.325670)に着きました。
山には獣よけの柵を設けてありますが、北西麓の民家の前のところが開きます。

築城年代は定かではないようですが、正平年間(1346年~1370年)に家城主水正によって築かれたと云われています。
戦国時代の城主は家城主水祐之清で槍の名手だったそうです。
1568年(永禄11年)織田信長が伊勢に侵攻、北畠氏は大河内城に籠城、之清も籠城し奮戦しますが、翌年和睦が成立し、事実上北畠氏は織田氏に吸収されました。
1576年(天正4年)に北畠具教が殺害され、翌年の1577年(天正5年)に具教の弟の具親が北畠氏再興の志で挙兵、この際、之清は具親に従いましたが、川俣山での戦いで討死しました。

堀切、竪堀、土塁などが確認できます。堀切は素晴らしい。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=山田野城へ徒歩で向かいました。

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しんちゃん

伊達騒動 (2025/01/03 訪問)

涌谷城は江合川に面した丘陵上に築かれています。大崎氏の庶流・涌谷氏の居城で涌谷神社のある場所が本丸とされています。豊臣秀吉によって大崎氏が改易されると亘理重宗が入り、以後277年の間、涌谷要害として維持されました。
亘理重宗は伊達政宗の庶子・宗根に末娘を嫁がせて婿養子とし亘理氏の名跡を継がせました。その代わりに重宗の嫡男・定宗には伊達氏を名乗ることが許され、これが涌谷伊達氏の始まりとされています。涌谷伊達家は江戸時代を通して涌谷要害を中心に2万2600石を有していました。
涌谷伊達家二代目の伊達宗重は、伊達家内部で専横を行っていた伊達一門の伊達宗勝の不正を幕府に訴えました。追い詰められた宗勝の家老・原田宗輔は江戸の大老・酒井忠清邸にて宗重を斬りつけ殺害します。原田もその場で殺され原田家は改易されました。
これらの騒動が「伊達騒動」と呼ばれ江戸の三大お家騒動とされますが、宗重は藩内で忠臣として評価をされています。

城址南部は公園となっていて、模擬天守風の資料館が建っていますが、冬季は閉館しているようです。また寄れる機会があったら、寄って見たいものです。伊達騒動に関わる展示もあるのかな?

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にのまる

99/100 (2025/04/24 訪問)

勝連城からバス移動しました。コミュニティバス「グスクめぐりん」がベストなのですが時間が合わなかったので喜舎場から歩きました。結構距離がありましたが「日本の歩きたくなる道500選」の碑を見つけると急に元気が出てきて、また昭和40年ごろまで使われていたという共同井泉を見ることもできて、振り返れば楽しい町歩きでした。

中城城敷地内の“GUSUKU ROCK CAFE”のスタッフさんに99個目のスタンプを押すところを見届けてもらい、ラスト1個に向けてエールをいただきました。ありがとうございます!

入口からカートで「正門」に連れて行ってもらったので1郭→2郭→3郭の順でまわりました。
とにかく広くて気持ちよかったです。
空と海と緑と石垣の他に何も視界に入らない!!
解体修理で明らかになった築造当時の工法や形状の説明を読みながら石垣を見上げると城の一生、城の寿命よ永遠に!という気持ちが湧いてきました。
そしてずーっと、すごい!すごい‼︎を連発。時々、一体私はどこの世界にいるんだろう⁉︎という感覚になりながら隅々まで歩きました。

200枚近く撮った写真を見ながら思い出に浸っています。写真ってすごい。“映えない”写真でも自分で撮った写真を見るとその場所や風景がすぐに思い出せますし、肌で感じた空気やその時思ったこともよみがえってきます。
いつ壊れるかわからないスマホの写真もPCから外付けHDDに保存してバックアップを取ることにしました。

初・グスク巡りは100名城・続100名城の5城+浦添城の計6城で終了です。
グスク以外では識名園と崇元門に行くのが精一杯で、沖縄戦の跡を辿ることもできませんでした。機会をつくってまた訪れたいです。

「1人で路線バスでまわる」というので周囲からは心配しかされませんでしたが、無事に目的を果たして帰ってこられたので大成功です💯


朝田さんへ。
ラーメン屋さんでアイスクリームですか!!今度さがしてみます。
羽越本線は「いなほ」で秋田まで乗り通しました。(新潟⇄新発田は白新線なのか……)

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しんちゃん

赤崎台場・国の史跡 鳥取藩台場跡 (2025/06/29 訪問)

赤崎台場跡は鳥取藩が文久3~元冶元年(1863~1864)にかけて築いた台場の一つです。因幡の国に三箇所(浦富・賀露・浜坂)
伯耆の国に六箇所(橋津・由良・八橋・赤崎・淀江・境)が築かれました。
珍しい半円形をしており、三段の土塁で構成されています。一段目から「護胸壁」「砲壇」「往来」と名前が付いています。国道9号の工事の残土によって埋め立てられ、かつての形状を留めていませんが、平成25~26年に行われた発掘調査で三段の土塁が良好な状態で残っていることが確認できたようです。実際の規模は絵図に書かれているものより小さかったようですが、今でも土の下に遺構が眠っていると思うと感慨深いものがあります。

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朝田 辰兵衛

本光寺も行きました… (2025/03/22 訪問)

本光寺も行きました。写真でわかるとおり,本光寺の滞在時間のほうが圧倒的に長かったです。JR三ヶ根駅が最寄りとなります。

さて,7/11(金)~14(月)まで遠征となります。書き込みはお休みします。

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しんちゃん

いろは姫 (2025/01/02 訪問)

現地の案内板から情報をいただきました。西館の跡地にはかつて、伊達家の家臣・山木氏修理之助の屋敷が有りました。元和7年ごろから仙台藩の重臣・茂庭了庵(綱元)の屋敷となり、伊達政宗が何度か訪れたことが有るようです。
伊達政宗が無くなった寛永13年(1636)に了庵は栗原郡文字村に移り、屋敷は修築され政宗と愛姫の長女・五郎八(いろは)姫の仮御殿になりました。
いろは姫は徳川居家康の六男・松平忠輝ち結婚しましたが、忠輝が改易になると離縁し、江戸屋敷に戻った後、仙台城西屋敷に移り住みました。仙台城では「西館様」と呼ばれていたので、姫がこの地に移り住むようになってから「西館」と呼ばれるようになったそうです。
比瑪は43歳の時から、仙台城と西館の両方で生活し、68歳の時に仙台城で亡くなりました。
館跡には池跡や土塁、井戸跡などが残っています。

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小城小次郎

どんどこ整備が進んでいく (2024/11/30 訪問)

2024年に多賀城碑が国宝に指定され、2025年には南門がついに完成し一般公開されるに至った。ガイダンス施設も完成するなど整備が進められ、見どころがどんどん増えていくので今のうちに一度見ておくのをお勧め。

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赤い城

鷹ヶ森城 愛媛県今治市 (2025/06/22 訪問)

鈍川温泉近く、県道154沿いに登城口があります。
登城口には石碑が立っていてアスファルトの道路がついています。
一見、車でも行けそうですが自重、徒歩で登りました。
山頂までアスファルトのロング&ワインディングロード、山城2つの後なので体力も奪われます。

山頂部には鉄塔が建っているのでこのための道路だと思います。
コンパクトカーなら大丈夫かな?
石碑が建つところが二郭、その上の鉄塔が建つところが主郭と思われます。
主郭背後は草ぼうぼうで突入は止めておきました。
特に遺構は見られませんでしたが眺望はよかったです。

河野氏配下の越智氏の居城とされ、小早川隆景の伊予侵攻で抵抗し敗れました。

この日は結構な暑さ、山城3本はさすがに堪えました。

【見どころ】
 ・山頂からの眺望

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:松坂城 (2025/06/05 訪問)

阪内城から自転車で50分くらいで、①来迎寺入口(34.571018、136.531816)に着きました。
そこから以下の順番で巡りました。
 ②来迎寺移築城門(34.57144、136.532690)来迎寺裏門
 ③御城番屋敷土蔵(34.575076、136.527304)
 ④本居宣長からくり人形(34.575076、136.527304)

松阪城は今回2回目の攻城です。1回目は2018年8月7日に来ました。
前回は松阪公園を中心に攻城しましたので、今回はその他の建造物を巡りました。
最後に見学した「本居宣長からくり人形」ですが、歩道に電話ボックスのような物があり、その中に本居宣長の人形があり、特定の日時に動くようです。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、松阪駅の松阪市観光情報センターに自転車で向かい、自転車を返却した後、ホテルに向かいました。
歩行歩数=23439歩、歩行距離=16.4Kmです。
ちなみに、夕食は牛肉弁当(松阪駅の駅弁です)を食しました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:阪内城 (2025/06/05 訪問)

岩内城(城びと未登録 三重県松阪市)から自転車で45分くらいで、「天守・ガイコツ峠」の案内表示(34.522837、136.435169)に着きました。
そこから阪内城を攻城した後、城阯碑と城跡・坂内御所跡の説明板(34.523143、136.433439)に向かいました。

1415年(応永22年)北畠雅俊によって築かれました。 伊勢国司北畠氏の一門である雅俊がこの地を治め坂内氏を称しました。
坂内氏は北畠一族として有力な勢力を誇っていましたが、1576年(天正4年)七代具義が北畠信雄(織田信長次男)の謀略によって田丸城で殺害され城も廃城となりました。

坂内御所と呼ばれる平時の居館が、現在の子育て支援センターの場所にあったといわれています。遺構は残っていませんが、碑と説明板があります。
詰城の坂内城は、御所の東にある山の頂上にあり、山頂と南と西にわずかな削平地があります。
本丸の北側には堀切が残っており、山頂部分の曲輪跡には小社があり坂内城遺構の石碑も建っています。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=松坂城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:岩内城(城びと未登録 三重県松阪市) (2025/06/05 訪問)

枳城から自転車で10分くらいで、瑞巌寺入口(34.572767、136.460613)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、北畠氏の一族で北畠13人衆の一人であった岩内主膳正光安が城主であったと云われています。
岩内氏は一時廃絶しましたが、1512年(永正9年)年に再興されました。
1569年(永禄12年)の織田信長伊勢侵攻に対しては、北畠氏は岩内城に光安ら兵500を置いて迎撃態勢をとります。
光安は信長の降伏勧告に応じなかったが、織田勢は軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったそうです。
光安は1576年(天正4年)に田丸城にて織田信雄によって殺され家は断絶しましたが、光安の子息・玉千代は2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称しました。
成人した玉千代は北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいしたそうです。

登城口がわからず、途中で断念しました。
攻城時間は35分くらいでした(30分は登城口を捜している時間です)。次の攻城先=阪内城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:枳城 (2025/06/05 訪問)

高城から自転車で15分ちょっとで、分岐点(34.584816、136.464287)を右折し、この場所(34.585213、136.461295)に自転車を置きました。
そこから、登り口(34.585310、136.460721)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に北畠氏により築かれたと考えられ、高城とともに阿坂城の出城のひとつとされます。
1569年(永禄12年)織田信長軍が阿坂城を包囲し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によって開城された際に運命をともにしたと考えられています。

細長い主郭をもつ単郭の城で、東西両尾根が堀切で遮断されています。
要所要所で案内標識があるので迷わず辿り着けます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=岩内城(城びと未登録 三重県松阪市)に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:高城 (2025/06/05 訪問)

八田城から自転車で15分くらいで、西側入口(34.599403、136.4666667)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に北畠氏により築かれたと考えられ、枳城とともに阿坂城の出城のひとつとされます。
1569年(永禄12年)織田信長軍が阿坂城を包囲し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によって開城された際に運命をともにしたと考えられています。

「ほりこし観音・高城跡」の標識のあるところを登ってゆき、墓地の先へ行くと、高城跡に着きます。
主郭は東西に虎口が開いており、周囲を土塁が囲んでいます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=枳城に自転車で向かいました。

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天守無しがアツい

御三層櫓 (2025/07/01 訪問)

忍城のシンボル的存在…御三層櫓は行田市郷土博物館と隣同士(というか本丸のあった位置に博物館が建っている)

それぞれの一階が渡り廊下で繋がってるのでダイレクトに移動ができる

櫓…と言っても江戸時代のものそのままではなく…昭和63年に再建されたもの…だから中はコンクリ製…中央に段差の低い階段があり、それを上がっていく造りが…小田原城などに似てる

あくまで博物館用に造られた…再建された城機能🏯

展示は2階と3階でおこなわれており…2階は江戸時代の忍城…3階は明治以降の忍城ならびに行田市…明治初期におこなわれた城の取り壊しにより、忍城の建物もほとんどが無くなってしまった

最上階からは行田市の街並みを一望できる…近所に学校があるようでそこからの掛け声が聞こえた…「虫が入るので網戸を開けないでください」という窓もあった

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朝田 辰兵衛

丸根砦からの転戦です。 (2025/03/22 訪問)

丸根砦からの転戦です。クマのモニュメントがある公園側から入り,長寿寺側に抜けました。簡単には落ちそうもないな…と思いましたが,緒戦で全滅とのことです。

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しんちゃん

留守ですよ。 (2025/01/02 訪問)

岩切城は高森山の山頂から伸びる尾根上に自然地形を利用して築かれています。
平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣・伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命し、伊沢氏は留守姓を名乗りました・・ってそのまんまやん。
留守氏は岩切城を居城とし、後に室町幕府内部でで足利尊氏と弟・直義の対立が激化すると、留守氏は尊氏の勢力に加担しますが正平6年(1351)の「観応の擾乱」にて、岩切城での合戦に敗れ岩切城は落城し、留守氏は衰退しました。後に留守氏は伊達氏の一門に加わり勢力を回復し、留守氏が居城を利府城に移すと、岩切城は廃城になりました。

西尾根上に連なる郭群の脇から登城道が伸びています。主郭には東屋があり、南側に土塁を備えた郭が有りました。主郭の脇から東尾根に向かって道が続いていて、堀切が間にありました。虎口らしき箇所を抜けると所々に土塁を備えた東の郭群があり、南の方にも道が伸びています。余湖さんの縄張り図を見ると東の尾根を進んだ先に堀を備えた枡形の様な虎口があるようです。

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