多賀城復元外郭南門と東北歴史博物館で約3時間半充分堪能して、東北道沿いの未踏の城は?と探し、直近のしんちゃん投稿の八丁目城は比高も比較的低く足腰の弱い私でも登城できるのではと目的を定めました。
多賀城ICから東北道南下約100km超、福島市の福島松川SICを降りて東に約1km程の旧松川小学校跡体育館を目指す。
駐車場:松川地区体育館(旧松川小学校)下のグラウンド、もう一段下の駐車場、利用。
参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さん城びと投稿者グーグルマップに依る。
県道52号線沿い旧小学校入り口に白い「八丁目城址」の標柱が立っている、グラウンドの駐車エリアに駐めて、いざ登城グラウンドの北東隅の坂道脇に、古木手造りの「八丁目城址」標柱と解説板がある、表には文章解説、裏には八丁目城址案内図、坂道を登って東横に「まつかわ西幼稚園」、北に大手口、大手道が北上に真直ぐ伸びて居る、草刈されて歩きやすい、大手口の指示案内板に北に愛宕館(本曲輪)西に八幡館(南曲輪)と出ている、北の本曲輪を目指す、両脇は多段曲輪の様ですが、畑耕作が続いていた畑跡かも?、現在は草が茂っている、多段曲輪の切岸が連なり見ごたえあり、愛宕神社下の階段を登って帯曲輪、東側に愛宕神社鎮座、奇麗にして祀られている、帯曲輪から虎口階段を登って本曲輪(愛宕館)内部へ、カラスが二羽鳴き叫びうるさい、この時期はカラスの繁殖中?以前青森県の七戸城でカラスに襲われた経験があり、急いで下城。
歴史は案内板に依ると
八丁目城は伊達稙宗桑折西山城の支城として築かれた。伊達稙宗と子息晴宗と争った天文の乱の頃には稙宗が在城、勝利した晴宗は清野備前守・遠江守父子を城主に据えた。
遠江守が晴宗の子輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏に背き、二本松畠山氏に通じたが天正2年(1574年)大森城主伊達実元(サネモト)(晴宗の弟)が、この城を奪回した。
実元が八丁目城に隠居した後は、その子成実(シゲザネ)が、また天正14年以降は政宗の重臣片倉小十郎景綱が、大森城主として八丁目城を支配した。
天正18年の秀吉の奥州仕置により破却廃城、おおよその城構えは残されて現在に至る。
八丁目城-2/2 南曲輪・八幡館編に続く。
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