知覧城は平安時代末期の郡司、知覧忠信によって築かれたと伝わります。
室町時代、足利尊氏の指示で島津氏三男、佐多忠光が城主となります。
城は11代当主の時代に謎の出火で焼け落ち、城としての機能を失っていたようです。
佐多氏は江戸時代に入ってからも、そのまま知覧を治め16代の時に島津性の使用を認められます。
知覧麓には国指定名所の武家屋敷庭園が多数あります。
佐多氏の私領であるはずですが代官所である知覧麓仮屋があります。
そのあたりの経緯も知りたいですね。
知覧城はシラス台地が雨による浸食で削られ各郭が完全に独立した構造になっています。
城域に入ってすぐに大堀切が通路の役割をしていて
本丸の西に蔵の城、本丸の南に今城、その西に弓場城と城の各郭がほぼ
完全に独立しています。本丸から蔵之城へ行くことはできるのですが
各郭同志の連携はほぼ不可能です。
城を構成する郭に城の名がついているのは薩摩の国の特徴ですが
援軍を期待せず、ここを死守しろという意味合いにも取れます。
死ぬまでここを守れということでしょうか。
薩摩藩各地に存在した麓の城は本城を守るために時間を稼ぐのが、
お役目だったのかもしれないですね。
さて、ここまできたら知覧特攻記念館に行かない手はありません。
私は登城前に訪問しました。
時間があったら国指定名勝の知覧麓もぜひ訪れてください。
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