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城下町散策 (2024/08/01 訪問)

 浜松城周辺を散策しました。よく来ていた城ですが、周辺は曳馬城跡付近しか行ったことがありません。

浜松秋葉神社
 浜松城が築かれた1570年、家康が武運長久と城下の安全を願って城の裏鬼門の方角に建立した神社です。もともとこの場所には、奥平信昌の屋敷があり屋敷跡を示す碑が建っていますが、草が繁ってわからなくなっています。また、浜松秋葉神社は家康が武田の遺臣を迎え入れる際、臣従することを誓わせた起請文を奉納した神社でもあり、これによって井伊直政が武田軍の象徴だった「赤備え」を継承したことから、「井伊の赤備え発祥の地」といわれています。

西来院
 家康の正室・築山殿の廟堂「月窟廟」があることで知られます。月窟廟の西側には、家康の異父弟・松平康俊の墓もあります。

遠江分器稲荷神社
 家康が三河国から浜松へ入った1568年に創建されたと伝わる神社で、西側には本多忠勝屋敷があったと伝わっています。

 他にも松下之綱屋敷跡の標柱や徳川秀忠公誕生の井戸などがありました。


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野面積み (2024/08/01 訪問)

 昨年に続いての登城です。浜松城がある元城町は浜松市役所等があり市街地化が進んで、城の大部分が失われてしまいました。堀があったようですが、すべて失われています。現在残っているのは天守曲輪、本丸の西側部分、清水曲輪の北端、作左曲輪北東部のみです。多くは残っていませんが、石垣は好きです。無骨な野面積みが当時の雰囲気を醸し出してくれます。石は浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の珪岩で水運を使って運ばれました。天守曲輪の西面南側の石垣は屏風折れと呼ばれる石垣で全国的に見てもめずらしいようです。天守閣から富士山が見えるはずですが、夏のせいか年をとったせいか今回はよくわかりませんでした。

 ところで最初にこの城に登城したのは昭和という時代でしたが、当時ここに浜松市動物園があったことを天守閣内の展示で思い出しました。昭和58年に現在の場所に移転したのですね。

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零汰

調査中 (2024/05/23 訪問)

「アレ?本当にここ?」到着した際に一番に思った事です。
「何でここに城建てようと思ったんだ?」次に思った事です。

南北に道路で分断されています。
その日は発掘調査をしていました。
南側に立派な土塁が入っています。
北側は空堀と呼んで良いのかどうか。
築城時も現在の様に南側以外は見晴らしの良い平地だったのでしょうか?
江戸時代の末期で戦を想定していない城造りだったのかな・・・。

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しんちゃん

駿河湾海戦 (2024/07/14 訪問)

長浜城は発端丈山から内浦湾に伸びる尾根の先端に築かれています。また発端丈山から湾を周遊するようにして尾根が連なり、近年いくつもの砦や城跡が発見されています。
天正7年(1579)ごろに小田原北条氏によって築かれたとされ、駿河湾の覇権を争う上で重要な城になっています。長浜城には梶原備前守景宗が入り、この時期に発端丈山周辺の尾根上の複数の城が整備されたものと思われます。また翌年、千本浜(沼津市)で武田水軍と北条水軍との間で駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦が勃発しています。千本浜は長浜城から北西へおよそ8kmの位置にあります。
現在は県道17号線に接するように田久曲輪跡に原寸大の安宅船の看板の模型が設置してあります。そこから登城道に沿って腰曲輪から北側の腰曲輪群を見て第二曲輪から第一曲輪に到達しました。その間には見張櫓のようなものが再現され、10年前の訪問時には土が露出していた堀跡がコンクリで補強され整備が進んでいるようでした。

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三つの郭群の奥にも (2024/07/28 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。毛利元就の伝記でも記憶にあり。吉田郡山城の北東約6kmの五龍城 宍戸氏は、当初、毛利氏と戦いますが、同盟関係を結び、以降、重臣としてずっと従っていきます。
江の川と本村川が侵食した半島型の城域は、急斜面ながら尾根上は広いです。突端の東の郭群、中央の本丸を含む郭群、西の長大な郭を含む群の三つの領域があり、大きな堀切または自然の狭隘部で隔てられています。元就が落とせなかっただけあり、厳しい地形&大規模な土木作業量です。さらに、カズサンさんが書かれているように、真砂土で足下が滑ります。
西の郭群の堀切の外側(半島型の根元側)に足軽の段があり、井戸跡もあります。足軽の段の西は、更に高くなっていますが、そちらに、堀や土塁もなく、足軽の段は防備の外側? しかしながら、東の郭群にある、司箭神社の絵図には、足軽の段の西に、岡佐丸と関所が書かれており(参道口の縄張り図は足軽の段まで記載)、納得。

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イオ

布引五本松堰堤 (2024/06/08 訪問)

新神戸駅から滝山城への登城ルートには、尾根沿いの曲輪群をたどる大手道ルートと、布引の滝から布引貯水池に至るハイキングコース途中の猿のかずら橋から向かうルートがありますが、どうせならブラタモリで観た布引貯水池にも行ってみたいので、布引の滝ルートから登城しました。

新神戸駅のガード下を抜けると六甲地域の案内図があり、登り始めてすぐに大手道ルートへの分岐がありますが、そのまま直進して、分岐から約3分で布引の滝の雌滝に到着です。布引の滝は那智の滝、華厳の滝とともに日本三大神滝に数えられ、雌滝、鼓ヶ滝、夫婦滝、雄滝の4つの滝で構成されています。名前くらいは聞いたことがありましたが、岩盤の上から流れ落ちる雄滝はなかなか見応えがありました。

布引の滝からさらに登って行くと、滝山城へと分岐する猿のかずら橋が架かっていますが、素通りしてまずは布引貯水池へ。谷川橋を越えて、布引五本松堰堤の放水路としてできた五本松かくれ滝(この日は流れていました)を過ぎると、目の前に聳える巨大な石垣…。これが布引五本松堰堤!? 神戸水道のために建造された日本最古の重力式コンクリートダムとのことですが、想像よりはるかに大きく、堤高33mを超える布積の石垣(型枠用の石積をそのまま残したもの)は大坂城の石垣よりも高く、圧倒的な迫力でした。こうして貯えられた水が国際貿易港・神戸を支えていたんだなぁ……などとブラタモリを思い返しながら布引貯水池の畔を歩いていると、布引断層の露頭も見られました。つくづくブラタモリ的な興味の尽きない場所ですね。

思いがけず布引五本松堰堤だけでも満足してしまいましたが、猿のかずら橋まで戻って、本題の滝山城に向かいます(続く)。
 

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todo94

青春18きっぷ・猛暑下の城めぐり③ (2024/07/27 訪問)

この日の攻城の締め。名鉄津島線・佐屋駅から2km余りの道のりを徒歩にてアプローチしました。現地の表記は「古木江城」でした。小さな鎮守の杜があったのでわずかでも土塁なんかが残っていないかと期待したのですが、遺構はなさそうです。道の駅周辺整備事業の工事中で蓮見の会は中止とのことでした。このあとは関西本線経由で大阪へと向かい大阪にて泊をとりました。

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しろりん

360°の眺望が素晴らしい (2024/07/28 訪問)

1394年、木村頼直によって高山川と八坂川の河口にあたる台山に築城しました。これが杵築城(木村城)のはじまりです。1615年に幕府の一国一城令によって破却されました。1970年(昭和45年)に市内外の多数有志の協賛によってコンクリート造りの模擬天守が建てられました。館内は資料館になっていてお城関係のもの以外に、地元出身の名士関連の資料も展示されています。天守閣展望台からは360度の展望が素晴らしかったです。入館料大人400円、無料駐車場があります。

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赤い城

滝の宮公園 (2024/07/15 訪問)

滝の宮公園の駐車場に車を置き登城します。
すぐに「天正之陣滝の宮口」の石碑がありました。
そう、四国の役の一部である天正の陣の舞台でもあります。
小早川隆景の攻めにより落城しました。

舗装された道路を登って上の駐車場から藤棚をくぐると主郭部となります。
石碑が立っていますが遺構は無さそうです。
主郭には展望台があり、瀬戸内海を望むことができます。
展望台の先を下ると段になった曲輪のような地形もあったのですが遺構かどうかは不明です。

下山し、金子氏館跡の慈眼寺へ。
なかなかのお寺で山門横に慈眼寺の歴史が書かれた説明板があり、金子氏館跡に慈眼寺が建った経緯がわかります。
枯山水や庭園も整備、金子氏の墓所もあり金子山城とセットで訪問するのが良いと思います。

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しんちゃん

宮脇城① 平成14年に発見された城‥らしいのだが (2024/07/14 訪問)

youさん、日本城郭検定3級・2級合格おめでとうございます。おいらも来年あたりからトライしてみようかな‥
まずは3級といいたいけど、年齢的に最近記憶力が‥。百歩歩くと忘れる カァ~(トリ頭か)
城びとの城ではありませんが 宮脇城の投稿です。静岡県沼津市内浦三津にある城跡で静岡古城研究会によって平成14年に発見された詳細不明の城とされています。
ネットで先人の投稿を見ると墓地の西側の丘陵の先端に築かれているようです。これなら楽勝と思って車をポリに捕縛されない場所に置いて、墓地から分け入ります。正直、すぐ攻略できると思って、ストックや水を持って行きませんでした。
後でしまったと思うことになるのですが‥腰郭が幾つかあって、それにつられるように登っていくと東の尾根上に行き当たります。
そこまでの行程はとても険しく、先日の雨も手伝って足元が滑ります。引き返すことも考えたのですが、けっこう進めてしまうので、行けるところまで行くつもりで山上を目指します。比高100mほども登ると扁平地にたどり着きました。
なんとなく城址の雰囲気はありますが、遺構はまだ見当たらない。進んでいくと謎の石がごろごろしてます。加工して城の防御の強化に使ったりしたのだろうか? 水を持たずに来たので喉が渇く。木々の葉に雨水がしたたっているので口に含むと少し気が楽になります。そのまま先に進む。引き際は気を付けつつも行けるところまで行くことにしました。

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you

第24回日本城郭検定の結果が返ってきました。

結果は、、、

3級・2級合格!!うれしすぎるので書き殴ります。
結構前から検定は受けたいと思っていたのですが、なかなか勉強を始めず、、、
気づいたら8年くらい経ってました。
4級が廃止された事すら知らなかったというところからのスタートです。
当初は3級のみの挑戦を考えていましたが、城好きとして2級は欲しいところと思い、併願を申し込みました。
対策中の手ごたえとしては、2級がなかなか伸びが悪かったです。
過去問で十分に対策ができるという声をよく耳にしていましたが、2級に関しては本番で足元を掬われるだろうと感じていました。

6月23日。いざ、迎えた本番!
まず3級からの受験、過去問と比べて難易度が大幅に上昇していましたね。
この検定では3級が初級、2級が中級とされているのですがね、、、
どんな試験でも、回を重ねるごとに対策がされるので難易度が上がるのは自然なことですがそれにしてもねぇといったような。
解答中、自信がない問題には?マークを付していましたが、その数が3割を超えてしまい一気に不安になりました(得点率7割で合格)。
終了後も、2級に向けた最終チェックも十分にできないまま1つ目の戦いは幕を閉じました。

午後からは2級の試験がスタート。
多くは語りませんが、3級と同様いやもっとひどい、、、
自信がない問題は約半分を占めていました。

公式解答が発表されてから合否が分かるまでの約1か月。
3級に関しては自己採点で合格ラインを超えていたのですが、2級に関しては得点調整が入るのを願う毎日でした。
とても長い1ヶ月でしたね。結果発送予定1週間前後は家のポストを逐一確認していました。
今回私が受験した3級と2級はいずれも得点調整が入っており、ボーダーラインが大幅に下がっていました。
どちらも難化していると言って差し支えない。
何はともあれ、1発で合格できたのがめちゃめちゃうれしいです!

最後に、近年の城郭検定は初級の3級ですら過去問を解くだけでは対策しきれないと断言できます。
繰り返し出題されている問題もありますが、それだけで合格点に辿り着けるような構成には当然なっていません。その年の時事問題なども出題されます。
参考書を眺めるのも手ですが、観光・旅行等で現地に赴いた方が城の外観や歴史が思い出とともに自然と記憶に残るので、無理に頭を使わずに知識をつけることができます。
是非、勉強がてら足を運んでみましょう。
今回受験した2級の問題にも、私の地元のお城に関する問題が1題ありました。
参考書で勉強しているときには一度も目にしませんでしたが、何度か訪れたことがある城だったので、本番ですんなりと答えることができました。
これから受検をされる方にとってこの駄文が少しでも参考になれば幸いです。

長々と書き殴りましたが、目の前には準1級の文字がかすかに見えています。
知の天守閣へ、いざ。

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トク

元気をもらいに熊本へGO! (2024/07/31 訪問)

あまりにも暑い日が続き、もう夏バテ気味だったので、ここは元気をもらおうと熊本城へ行ってきました。

まずは私の好きな加藤神社からのアングルです(写真①)。そしてそこから間近に見える「宇土櫓」です。素屋根がおしゃれになっていました(写真②)。中の様子はわかりませんが、この余裕から工事は順調に進んでいると思われます。そして、この工事中に新たな事実が! 宇土櫓下の石垣の高さは堀底から21mとされてきましたが、さらに堀底の下には土が堆積されていて実際は25mある事が新たに分かったそうです(写真③)。

奇跡の一本足「飯田丸五階櫓」は、石垣の積み直しも終わり、足場や重機も撤去されていました(写真④)。そして気になっていたビスのような金属は、やはり積み直した石垣の隙間にセメントが注入され、固まるまでの補強に使われているようです。最終的に撤去するのかどうかはわかりませんが、この後いよいよこの上に、解体保存されている櫓の建物を組み上げていく作業に入ると思うので、引き続き注目して行こうと思います。

そしてまた、くまモンスクエアへ寄ってきました。夏休みなので子供達がとても多かったです。でもこんな事くらいで・・・トクおじさんは負けません! たとえ火の中ガキの中、あえてその輪の中へ突入し、そしてハイタッチに成功! これで元気をもらいました~!(写真⑤⑥⑦)。

最後に、スクエア横の「味千」で熊本ラーメン食べて帰りました。こってりとした黒胡麻入りにんにく醤油とんこつでさらに元気をつけ、路面電車で熊本駅へ向かい帰りました(写真⑨⑩)。


ここでくまモンからの伝言を、お伝えします。

熊本城へお越しの際は
くまモンスクエアへもぜひ
「遊びにきてはいよ~!」
「待っとるけんね~!」

との事です (え!それ本当ですか😱?)
 

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零汰

北の大地最終日:道南一周 (2024/05/23 訪問)

最終日は函館を起点に半時計周りで道南一周しながら城跡訪問しました。

北海道14・15泊目は函館内のホテルに宿泊しました。函館入りの日にテント装備は宅配便で鹿児島に送り装備重量はマイナス20kgとなりました。終始頭は鮮明でしたが、毎日350~500km走行していると装備重量40kgはだんだんと重くなってきていました。10日目辺りからどことなく身体には疲労が溜まっていた様で運転がへたっぴになって来てました。本来の生物学的な人間の寿命は現在の私の年齢程度らしいので無理もありません。

朝4時半にスタートし夕方6時にホテルに到着。約13時間かけて道南一周しながらの城跡訪問でした。

1.弁天台場跡・・・・写真1
2.南部陣屋・・・・・写真2
3.志苔館・・・・・・写真3
4.四稜郭・・・・・・写真4
5.館城
6.洲崎館
7.花沢館
8.勝山館・・・・・・写真5
9.比石館・・・・・・投稿済
10.原口館
11.松前城・・・・・・写真6
12.徳山館
13.隠内館・・・・・・写真7
14.脇本館・・・・・・投稿済
15.茂別館
16.五稜郭・・・・・・写真8
番外:津軽藩シャリ陣屋・・・写真9、南部砂原陣屋・・・写真10

写真付きはダイジェストです。それ以外を個別投稿予定です。

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しんちゃん

春の久能山 (2015/03/28 訪問)

春の東照宮です。山城でなくて久能山東照宮としての投稿ですね。日本平からロープウェーで渡るわけですが、日本平に向かう途中の橋の上から清水港と富士山が良く見えるスポットが有るんですわ。
知る人ぞ知る富士山撮影スポットですが、港町と富士山の組み合わせもなかなか乙なものです。東照宮のしだれ桜もキレイでした。展示してあるプラモデルもじわじわ増えていますね。では、赤猫ヤマト発進ニャ(火事?)。

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しんちゃん

日進月歩 (2021/11/20 訪問)

富樫館跡は加賀国守護・富樫氏の居館跡で建武2年(1335)富樫高家以来代々、守護を継承してきました。令和6年4月からの発掘調査で堀の一部が発見され「和鏡」が発掘されています。最近なんですね、正確な位置が解ったのは。
自分が訪問した時は石碑を確認して、近くの山川館跡を散策し、周辺をあたりをつけてうろついてます。外れたかな~‥。

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たか

鶴丸城と夏蔭城 (2024/07/19 訪問)

「鹿児島城へ」とタクシー運転手に言ったら「鶴丸城」だねと言われて、鹿児島城ですと再度言ったら「鶴丸城だね」と…
なんだかモヤモヤした気持ちで到着。
立派な御楼門に思わず感嘆の声が…
この御楼門を復元させた方々の苦労を見てさらに感激。

御楼門をくぐりいきなり石垣に無数の弾痕。
西南戦争のすさまじさを感じました。

一通り見学が終わりせっかくなので本丸跡に行こうと思い、近くのご城印を売っている案内所で話をしていると、夏蔭城というところが夏蔭公園にあるとの情報。
さっそく車で城山展望台近くをパンフレットを片手に散策するも全くわからず…
困っていたところ城山霊園管理事務所におられた非常に親切な女性に詳しく場所を教えてもらい移動。
場所的にはそこからはかなり離れており、草牟田小学校の南側の小高い場所でした。

行ってみると石碑と説明板しかありません。
説明板によるともともと鶴丸城の裏手の見張り場所で砦などは無かったけれど、大きな楠などがあった高涼地で夏蔭と呼ばれていて、いつしか夏蔭城と言われるようになったと記載されていました。

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しんちゃん

史跡広場 春日山城の総構 東城砦 (2023/09/13 訪問)

春日山城は約2km四方に遺構が分布していて非常に広い城域を誇っています。山城の東裾野に監物堀と呼ばれる総構があり水堀も配されていたようです(案内板より)。総構の北端に春日山城史跡広場があり周囲に土塁や水堀が再現されています。
そこからすぐ近くに東城砦があり総構の一角を成し、周囲に土塁等が復元されているようです。堀秀政の従妹で掘家家老の堀監物直政が監物堀の由来だそうで総構は堀氏の時代に築かれたようです。監物堀や東城砦は城郭放浪記さんから情報をいただいています。
上杉謙信公の像は春日山城の登城道にもありますが、写真の騎馬像は上越市埋蔵文化財センターの広場に設置してあるものです。上越市には上杉謙信公の像が10体以上もあるらしく、今でも地元で根強い人気を誇っていることが伺えます。
歴史の転換期に上杉氏は会津に移封となりますが、やはり上杉は越後とは切っても切れない繋がりがあるような気がします。

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たか

熱い思いについ感涙 (2024/07/17 訪問)

なかなか行けなかった熊本城へ行ってきました。
震災の傷跡は未だに残っており、それを多くの工事関係者が着実に復旧作業を続けていました。
わたしの会社関係にこの復興に携わっている方がいます。
その方の言葉が重く、いかに熊本城が象徴であるのかを教えてもらいました。
そうしてひとつひとつ見学していると込み上げてくる思いがあり思わず感涙してしまいました。

安全には留意してもらい、一刻も早く象徴の復旧をできるべく祈っております。
宇土櫓が現在見れなくなっており残念ではありましたが、いずれ公開された際には再度訪問したいと思います。

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しんちゃん

春日山城 ひと昔 (2013/08/23 訪問)

七尾城の写真をがさごそしてたらか春日山城も一緒に出てきました。城めぐり初めて2年あまりで百名城と後の続百名城はたいがい周っているので、いくらでも出てくるんですわ。
七尾城と並んで日本の代表的な山城です。春日山の山頂から周辺一帯に築かれていて、広い城域を持っています。為景、晴景、謙信、景勝の長尾2代(3代)、上杉2代の計4代に渡って居城として使われました。上杉景勝の会津移封の後、越後に入った堀氏は福島城を新たに築いて入り、春日山城はその役目を終えています。すこし古い写真になりますが、春日山城自体はほとんど変わっていないと思います。
悠久の永い時間を越えて存在して来た城址で、これからもその姿を留め続けてほしいものです。

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しんちゃん

がさごそ (2013/08/23 訪問)

三浦の晃ちゃんさんの情報では本丸に入れないそうです。今年の1月1日の能登半島地震の影響ですね。被災地の復興を願うとともに、できるだけ早い復旧を願います。がさごそ‥
ふむふむ‥駐車場から調度丸までの区間は復旧しているようですね。ちなみに本丸駐車場のトイレは使えないようです。
七尾城は能登国守護・畠山氏が16世紀前半に築いた山城で石動山系一帯に城域が広がっています。天正5年(1577)上杉謙信によって落城させられ、上杉方の城になりますが天正9年(1581)に前田利家が入っています。利家が拠点を小丸山城に移したあとは、子の利政が入りますが天正17年(1589)に廃城になりました。

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