かさいじょう

葛西城

東京都葛飾区

別名 : (青戸御殿)
旧国名 : 武蔵

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チェブ

青砥 藤綱さんとこち亀の両さん。 (2023/02/04 訪問)

「葛西城」は普通の公園でした。
子供たちが遊んでいて写真を写してません。
それはそれで健全で良いのですが。

室町時代に築城された「葛西城」です。
北条家と扇ヶ谷上杉家 等を取った取られた、を繰り返しました。
公園には「青砥 藤綱城」とありました。(子供たちが石碑に集合してたので写真ありません。)
青砥 藤綱さん?
北条 時頼さんに仕えた方なんだそうです。正義と弱者の為、忖度なしの裁判官だったそうです。

「葛西城」は中川の近くです。
葛飾区の中川なんて、こち亀の中川みたい。
子供たちが遊んでいる「葛西城」は庶民に親しみやすい方々を輩出したようです。

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ばばよ

ふつうの公園 (2022/02/23 訪問)

葛西城址公園はびっくりするほど普通の公園。
名前がこれでないと全くわからない。
環七向こうの御殿山公園に案内板があり、公園としてもまだ雰囲気はある(遺構はない)。

●アクセス
京成青砥駅から徒歩15分
または
常磐線亀有駅から徒歩25分
 または亀有駅からバス

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うっちー信繫

隠れたすごい城跡【葛西城】特集!

享徳の乱時には.双方の勢力境に位置し.矢切の渡しへつながる交通の要衝にあり.北条.豊臣.里見.徳川などの有名大名から重用された
戦国の城だ!
築城年は不明だが葛西氏が鎌倉期に城館として築いたのが始まり。中川沿いにあり.中川を天然の濠としている。堀が入り組み.
梯郭式縄張りのようだ. 敵を寄せ付けない縄張りは見事だ.
国府台城の戦いの際には北条方の前線基地として重用され.北条氏によって確立した古河公方.足利義氏の元服が行われた城でもあった.
天正18年.1590年の小田原攻めでは.周辺の城が開城しても屈せず奮戦したが.徳川氏.戸田氏に攻められ落城。豊臣政権下に置かれ廃城。
しかし徳川氏関東移封後に徳川政権下に置かれ.将軍家休息所陣屋として再利用された.(青砥御殿)
そして1658年の明暦の大火で焼失した江戸城再建のための資材として破却されてしまい.徳川の波に翻弄される.
発掘調査では頭蓋骨や陶器などが出土.
しかし城跡整備より道路整備が優先され.もう強力大名たちがしのぎを削った【葛西城】の姿はなく.今や車の波に落城した.

明日の投稿は 信長公記から見た安土城の実態に迫る! です。 お楽しみに!

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昌官忠

北総線沿線日帰り攻城③:葛西城 (2019/05/02 訪問)

国府台城➡矢切駅➡青砥駅下車。そこから徒歩15分で御殿山公園(35.755143、139.854667)に着きました。

鎌倉時代に桓武平氏の流れをくむ葛西氏が城館として築いたという伝承もあるが、その詳細は不明だそうです。
確実なところでは、関東地方における享徳の乱において旧利根川筋をはさんで西側に上杉・幕府方、東側に古河公方の勢力が対峙する情勢のなか、15世紀中葉に関東管領家の上杉方の城として築城されたと考えられています。
下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や北条氏によって争奪されました。
北条氏康が里見氏を攻略した国府台合戦の際には北条氏側の最前線として利用されました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐では戸田忠次らによって攻められ落城しています。
その後は廃城となりますが、徳川家康の関東入封後はここに「青戸御殿(葛西御殿)」と呼ばれる陣屋が建てられました。
この陣屋は3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されましたが、明暦の大火(明暦3年(1657年)頃)で焼失した江戸城再建の資材に利用するため破却されています。
現在は城址の中心部を南北に環七通りが横切っており、東西それぞれの城郭跡が「御殿山公園」「葛西城址公園」として整備されています。

葛西城址公園と御殿山公園とに分かれていますが、自分は御殿山公園のみ散策しました。
御殿山公園には、発掘の出土品の写真や青砥藤綱城址の城址碑がありました。
攻城時間は10分くらいでした。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 上杉氏
築城年 室町時代
主な城主 上杉氏、後北条氏
遺構 消滅
指定文化財 都史跡(葛西城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 東京都葛飾区青戸6、7
問い合わせ先 葛飾区郷土と天文の博物館
問い合わせ先電話番号 03-3838-1101