こものじょう

菰野城

三重県三重郡

別名 : (菰野陣屋)
旧国名 : 伊勢

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①城址碑と表御門の説明板
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:菰野城 (2024/09/25 訪問)

ホテルでの朝食前に菰野城を攻城しました。
中菰野駅より徒歩5分くらいで、案内板/石碑前(35.011522、136.508920)に着きました。その後、隅櫓跡案内板前(35.011678、136.508028)➡菰野藩邸案内板前(35.012908、136.508687)の順番で巡りました。

1601年(慶長6年)ひしがた丹波守雄氏によって築かれました。それ以前は滝川一益時代の代官所跡であったそうです。
ひしがた雄氏は織田信長・信雄に仕えた雄久の長男で豊臣秀吉に仕えて3,000石の所領がありましたが、秀吉没後のに徳川家康と本多正信が画策した「幻の家康暗殺事件」の容疑者として父雄久に連座して改易となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦直前に罪を許された雄氏は、徳川家康の命で加賀の前田利家の説得にあたりその功で菰野12,000石を与えられ大名に列したそうです。

初代雄氏の時代の菰野陣屋は滝川一益時代の代官所跡を修築した程度で、雄氏は主に京の屋敷に住んでいましたが、織田信雄の娘八重姫を正室に迎えるにあたって「堀もないような城の主には娘をやれない」といわれ二日間昼夜兼行で堀を設けてたという逸話が残っているそうです。
陣屋の建物と城下町は二代雄高の時に整備されました。また幕末の1868年(明治元年)には堀と二重の隅櫓を整備しました。

菰野陣屋跡には現在、菰野小学校が建っており、小学校の南側道路脇に案内板と石碑が建っています。
遺構はほとんど残っていないようです。
城門が金蔵寺と光徳寺に移築され現存しているようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=萱生城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、電車で中菰野駅から近鉄四日市駅に向かいました。

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三浦の晃ちゃん

小学校 (2023/10/21 訪問)

道の駅菰野に、車を置いて、徒歩で、現地に向かいました。案内板があります。敷地は、小学校になっています。土塁らしきものと、たぶん、お堀だったのかなという跡がありました。

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しんちゃん

二日でなんとか堀きった。土塁はおそらく固めてない。 (2023/10/07 訪問)

菰野城は菰野陣屋とも呼ばれ(土)方雄氏の代に徳川幕府より12000石で菰野の地を与え
られています。元々織田信雄が北伊勢五郡を統治していた時代に雄氏の父、雄久が
菰野を治めていたので雄氏は菰野に返り咲いたことになります。雄氏の妻は織田信雄の
娘の八重姫で、信雄に堀もないような城の主に娘はやれないと言われ、二日昼夜兼行で
幅6mの堀をめぐらし、なんとか輿入れに間に合わせたというエピソードが残っています。
菰野町の金蔵寺といなべ市の光徳寺に城門が移築されており、近鉄湯の山線横には
二重櫓の石垣が残っていると城郭体系には記載があります。菰野町池底の民家には
二重櫓が移築され倉庫に転用されているとありますが未確認です。
補足‥ヒジカタ氏と入力しようとすると不適切な内容とエラーが出ます。ドカ〇じゃ
なくてヒジカタなんですが‥めんどうくさい時代になったものです。

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ぴーかる

菰野城 (2022/09/25 訪問)

【菰野城】
<駐車場他>道の駅菰野
<交通手段>車

<感想>菰野は信長支配時代に北勢5郡を与えられた滝川一益が代官所を置いた場所です。1583年にひじかた雄久が7000石を与えられ統治します。1600年関ケ原の合戦後にひじかた雄氏が初代菰野藩主となり見性寺に城があったのを代官所を更新、屋敷を設けて整えました。ひじかた氏はその後藩主として明治時代まで続きました。
 道の駅菰野に駐車し遺構の散策をしました。角櫓跡には巨石が1つと石垣の一部とみられる石があります。城跡碑のある場所は庭園の一部だそうです。小学校の北側に回ると堀と土塁の一部が残る場所があります。
 この辺りはお茶が名産らしく道の駅で購入しました。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 土方雄氏
築城年 慶長6年(1601)
主な城主 土方氏
遺構 土塁、横堀、移築門(金蔵寺)、移築櫓
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県三重郡菰野町菰野
問い合わせ先 菰野町教育委員会社会教育課
問い合わせ先電話番号 059-391-1160