(26人目)井伊直政の続き㉕です。
「井伊直政陣跡」です。JR関ケ原駅からすぐの線路脇にありました。またこの写真③の左側には関ケ原古戦場記念館と徳川家康陣跡があります。直政は現在の関ケ原駅と線路上のこの一帯に3,600の兵を率いて布陣していたようです。
話を布陣の前に戻し、調略の話を続けます。
最後に残ったのは毛利の調略でした。家康は、朝鮮帰国後に秀吉から越前北ノ庄12万石に減封左遷されていた小早川秀秋を、三成の反対を押し切って元の筑前35万石にもどす事で恩を売ります。直政は長政と親しい毛利の重臣吉川広家を調略にかかります。広家には毛利120万石の本領安堵を条件にしますが、なかなかうまく行きません。それもそのはず、大坂城にいる輝元が決断しないからです。また輝元と広家のやり取りの手紙が途中で奪われるなど、うまくコミュニケーションがとれなかったようです。
福島や池田らの先導による小山評定や岐阜城攻めで予想外の結果で清州城まで進軍した家康ですが、唯一の誤算が・・・主力の秀忠軍がまだ信濃の山の中、これでは間に合いません。ならば得意の野戦に持ち込もうと清州城から美濃赤坂へ陣を移しますが、島左近が牽制するのみ大垣城の三成らは出て来ません。西の南宮山にはやる気満々の毛利秀元と安国寺恵瓊がいます。
しかしここで「大津城が陥落! 立花宗茂ら15,000の軍勢が明後日には到着するもよう」との知らせが入ります。家康はこれが蔚山で明の大軍を破った部隊である事を知っており、三成がこの精鋭部隊の到着を待って攻めてくれば完全に不利です。もはや秀忠を待っている余裕はありません。
この時、吉川広家は独断で毛利は戦をしないで中立の立場をとると、毛利の総大将で南宮山に陣を敷く毛利秀元にも黙って、本領安堵の条件を受け入れる旨の起請文を直政と交わし、ここで直政はついに広家の調略に成功しました。この起請文には長政の連名もありこれも大きかったようです。
ここで家康は三成を大垣城からおびき出すため、関ケ原へ移動するという最大の賭けに出ます。そしてその夜、広家は家康ら東軍の軍勢を南宮山の下に陣を敷く自分の目の前を黙って通します。この動きに気づいた三成は、「このままでは吉継が危ない!」そして「玉城が奪われてしまう!」と思ったのかもしれません。急ぎ全軍を大垣城から関ケ原へ、雨の中を飲まず食わずで一晩中かけて走らせ、家康に気づかれぬよう伊勢街道に迂回しながら先回りし移動させます。
明朝8時、雨が止み霧が晴れると突然鉄砲の音と軍勢の声が・・・、いるはずのない東西両全軍が眼下にいる事に、松尾山で驚いた毛利の重臣小早川秀秋は、これでもはや輝元は大坂から来ず・・・そして広家や秀元はすでに・・・毛利はもはや東軍に寝返った!と悟り、自らも恩のある家康へ寝返り大谷吉継を攻めたのではないかと私は思います(ここは諸説あります)。そして広家は、弁当を食べているなどとはぐらかし、秀元と恵瓊が南宮山から下りられぬよう阻んだのでした。
関ケ原の戦いの2年前から始まり、前日ギリギリまで粘りに粘って成功したこの直政の調略が、関ケ原での東軍勝利をもたらした最大の功績ではないかと私は思いました。
ここまでの内容に異論や反論のある方は多いと思います。しかしここは、あくまで私の個人的な見解なので、そこは御容赦願いたいと思います。
では、次は直政が鉄砲を放ち火ぶたを切ったと言われる開戦地へ向かいます。
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