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しんちゃん

鷹山氏 (2025/05/31 訪問)

高山城は富雄川の北の丘陵に築かれていて、東側に河川と街道が沿って北上しています。一条院方衆徒の鷹(高)山氏の城で、応仁の乱から戦国時代初期にかけては越智・古市方に属し、天文13年(1544)には筒井氏に味方して柳生城を攻めますが、筒井・松永両氏が争った際には松永方についています。
案内板には畠山氏や細川氏とも通じ、周囲の武士と敵対と連携を繰り返したと記載されています。畠山氏の重臣・遊佐長教に仕えた鷹山弘頼は山城上三郡の守護代に任じられるほど勢力を増しますが、天文22年(1553)に羽曳野市の高屋城で弘頼が安見宗房により自害に追い込まれると、鷹山氏の勢力は衰退していったようです。
豊臣秀吉による筒井氏の伊賀転封に伴い、鷹山氏も高山を離れますが、後に大和に戻って来たようです。

東の街道沿いに北上して行くと城址北側から西に向かって道が続いていて、標識もついています。登城口の前の空スペースは個人所有の土地かも知れないので、車はどこか余裕のあるスペースに停めておいた方が良いでしょう。登城道に沿って南に進むと西側に扁平地と入口のよな場所があるので、そこから城址に入ります。尾根上には浅い堀のような箇所があり、南に進んでいくとすぐに主郭らしき場所に至ります。主郭は東側と、南側に郭を持ち、その間に腰郭がついています。
南の郭を先に進むと石碑や鳥居のある郭が有り、そこから南側は通行止めのロープが張ってあるので、引き返すことにしました。
南側には土塁を備えた郭が有るようで、南の尾根伝いに訪問できるかもしれません。

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しんちゃん

郭Ⅲ・主郭西側の堀切群 (2025/05/31 訪問)

郭Ⅱのエリアから郭Ⅲのエリアに移動しますが、やはりここにも堀があります。そのまま北に向かうと、竪堀となって下に続き、東側に土塁と堀切があります。このまま竪堀に沿って降りて右手(東)に回り込んでいくと畝状の堀群が有るようですが、訪問していません。ちょっち爪が甘いです。
郭Ⅲの南の腰郭を確認した後は、主郭北西の遺構を目指して進みます。城址の見どころはやはり、主郭の周辺に集中しているので、ここだけはしっかり見ておきたい。主郭の二つ目の腰郭の脇から西下に道が続いています。目の前には堅土塁があって、大堀切が南北に続いています。高所が土橋になっていて、その先には郭Ⅰ-13が有ります。そこからでは大手道に戻れないので、サブコースに戻って下山と相成りました。

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トク

黒田六端城を行く:(4城目)益富城 (2025/02/16 訪問)

黒田六端城を行く、4城目は「益富城」です。嘉麻市の標高190mの眼下に街道が見渡せる地に、黒田長政は「後藤又兵衛」に16,000石で与えます。大河ドラマ軍師官兵衛では「塚本高史」さん、真田丸では「哀川翔」さんが演じられていましたね。

JR篠栗線「新飯塚駅」から大隈行のバスに乗り終点で下車、そこから国道211号線沿いにもう100m程進むと「一夜城」の標識があり、そこから舗装路を40分程歩いて登った場所に益富城はあります。よって車の方は直接山頂付近まで行けます。またバス停のすぐそばにある「麟翁寺」には、益富城の搦手門(写真②の場所にあった門)が移築されており、又兵衛の後に城主となった母里太兵衛の墓もありました(写真⑩)。

駐車場前から二の丸までは5分程の登りです。途中には一国一城令で破却された石垣や(写真③)、竪堀(写真④)や空堀(写真⑤)の跡などがよく残っていました。二ノ丸に入ると(写真①)。搦手門の跡の桝形虎口(写真②)や、櫓台も残っていました。

さらに本丸まで進むと(写真⑥)、大手門跡や建物礎石(写真⑦)もありました。ここで又兵衛は暮らしていたようです。さすが戦上手の又兵衛ならではの城だと思いました。

又兵衛の前には、秋月種実が隠居城としていましたが、豊臣秀吉に従わなかったため、秀吉は村じゅうの戸や襖をかき集め、(写真⑨)の場所で一夜にして城が建ったように見せかけたそうです。麓にいた種実はこれに驚き降伏したという逸話があり、それで地元の人は一夜城と呼んでいるようです。

後藤又兵衛は、父を亡くした後に伯父が黒田を裏切ったため追放されてしまいます。仙石久秀に従いますが戸次川の戦いで久秀は秀吉の命令に違反したため改易。又兵衛は官兵衛の下に戻る事を許され、8才年下の長政と兄弟のように育てられました。しかし長政とはあまり合わなかったようです。1604年に官兵衛が亡くなると、1606年には又兵衛がこの益富城にて、長政と犬猿の仲である細川忠興と密通していた事がばれ、立場が悪くなった又兵衛は黒田家を出奔し益富城を出ます。一時池田輝政の世話になりますが、結局京都で浪人暮らしをしていたようです。しかし1615年大坂冬の陣が始まると大坂城に参陣し豊臣方として活躍します。しかし奮闘及ばす、同年の大坂夏の陣の道明寺川原の戦いで命を落としたとされています。しかし近年、実は生き延びていたとの説もあり、この益富城を目指すも、玖珠の角牟礼城の北にある耶馬渓あたりまで着いた所で豊臣秀頼が死んだ事を知り、そこで悲しみのあまり自害したとの言い伝えがありその墓も残っています。どっちが本当なのか興味深い話です。
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑦ ~山上ノ丸 (2025/05/05 訪問)

久松山に登るのはこれで6回目です。2002年、最初に久松山に登った時は、とてもきつい山城に感じ、青息吐息でしたが、今はさほどに体力を消耗しません。天球丸から山上ノ丸の本丸まで15分の所要でした。老いてますます盛んといったところです。今回、ラッキーなことにピクミンブルームの山デコ、まだ持っていなかった赤ピクミンと羽ピクミンをゲットすることができました。久松山の文字が入っていてうれしい限りです。山上ノ丸の本丸は、昔に比べてその下の郭がよく見えるようになっているように感じました。時間にはもちろん余裕があるので山上ノ丸の二ノ丸まで戻って太閤ヶ平を目指します。

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しんちゃん

どこへ行ったか芥川氏 (2025/05/31 訪問)

芥川城は芥川氏の平城(館)であったとされ、平安時代から存在し、芥川氏が勢力を拡大するにつれ城の規模も大きくなっていったようです。応仁の乱以降は芥川氏の勢力も衰退していったようで、永正13年(1516)1月に細川高国の命を受けた能勢頼則によって芥川山城(新城)が築かれ、芥川城は細川氏勢力下において麓の居館(平城)として活用されたのだと考えられています。

極めて写真の撮れ高の低い城で、周囲が写らないように城址碑の写真を撮ることしかできません。周囲の道も狭いので、あまり入り込まないように気を付けないと・・すごい狭い道をくぐってキューブが入って来る。地元民強ええ・・。

このあと豊中市の「大坂らーめん 秀吉」に向かいました。こじんまりとしているけど、歴史好きなら何度も足を運びたくなる店です。
私は看板メニューの「太閤ブラック」をライス付きで注文。地鶏の出汁を使ったしょうゆラーメンで、そんなにしょっ辛くないのが良い。他にも
信玄らーめん・・塩 地鶏出汁
信長らーめん・・煮干魚介豚骨出汁
家康らーめん・・味噌豚骨出汁
利休・・利尻とろろ昆布と鯖を効かせた塩らーめん
茶々・・地鶏出汁醬油台湾らーめん 0~1辛
茶々ホワイト・・地鶏出汁塩台湾 1~3辛
謙信・・つけめん・和風醬油出汁
政宗・・まぜそば
以上、替え玉は2分かかります。お値段一律リーズナブル円

清正「わしは?」 正則「わしも」 三成「拙者も」 ・・キリが無いので。
秀頼「ボクは??」 そうですな、なんでいないんだろ。茶々さんは2種類もあるのに。 他にも誰か大事な人を忘れているような・・



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しんちゃん

郭Ⅰ(主郭)・郭Ⅱ (2025/05/31 訪問)

畝状竪堀群を堪能した後は郭Ⅰ(主郭)に、向かいます。主郭の虎口は南についていて土塁が西に続いています。東辺一帯には櫓台と呼ばれる一段高い扁平地が南北に続いています。櫓台は北西にも築かれていて、そこから北の腰郭(Ⅰ-5)を経由して水の手(井戸跡)を訪問し、そのまま主郭東の切岸を眺めながら、郭Ⅰと郭Ⅱのエリアを切り分ける堀切を確認しました。
郭Ⅱの西腰郭の間を通る堀道を通って、腰郭をいくつか経由して郭Ⅱに到達しました。郭Ⅱは東西をⅠ・Ⅲの郭に挟まれているので竪堀などの仕掛けが少ないですが、腰郭も多く、東西の境界を仕切る堀切もあるので、独立した郭としても成立すると思います。

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しんちゃん

見ごたえ十分の畝状竪堀(空堀)群 (2025/05/31 訪問)

鹿背山城は木津氏によって築かれたと考えられています。15世紀には南都興福寺の傘下の武将である古市氏らによって使用され、16世紀後半には松永久秀によって改修を加えられ、北方の防御の城として重視されたと考えられています。
南山城でも最大級の山城とされ、西から一郭(主郭)、二郭、三郭が並び、それぞれに腰郭が付いています。理想的な一城三郭の形態を持っています。余呉さんの縄張りを見ると、各郭の麓には池があり、主郭の北には水の手があります。東西の主要な郭には畝状の竪堀が付き、その縄張りの美しさを合体ロボで例えるなら「アクエリオン」実用性は「ダイオージャ」といったところでしょう。
なんのことかわからん?・・ググってくだされ。
西念寺の脇から大手道が続いていて、サブコースから回れば、すぐに城址に入ることが出来ます。早く畝状竪堀(空堀)を見たかったので腰郭群を登って行って西脇から訪問しました。比較的大きめの土塁が三条続いていて、その北側にも二条の土塁が竪堀と一緒に二条続いています。こちらの土塁は上の方で繋がっていて、西側を守っています。良く考えられた高度な縄張りで、隠れた築上名人として松永久秀の名を記憶する必要がありそうです(多聞山城・信貴山城・鹿背山城・龍王山城)。ちょっと地味かな・・。

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ナマズ

奈良ホテルになった城 (2025/06/06 訪問)

今日学校帰りに鬼薗山城の横を通りました
今は奈良ホテルになっていて何もないですがかつて古市氏が筒井氏に備えるために築城したみたいです

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朝田 辰兵衛

天候に恵まれて良かったです…☀ (2025/05/03 訪問)

横尾城からの転戦です。正確に時間を測ってませんでしたが,徒歩約60分くらいの感覚でした。結局,真田自治センター入口バス停から,横尾城そして洗馬城まで往路も復路も歩きました。しかも,復路では真田自治センター入口バス停で1時間待ち。そもそも,「最悪のパターンで計画しよう」と腹をくくらないと,攻城に踏み切れないと思います…。
個人的には,天候に恵まれてホント良かったです。雨男なので。

洗馬城ですが,ぜひ主郭背後の堀切,そして堀切から落ちる竪堀を(いろいろと想像を巡らせながら)散策してほしいです。

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翡翠

岩国城 (2021/08/30 訪問)

城びとさんを始めたのが、本当に最近なので、行ったのは4年くらい前です。ロープウェイに乗って上がります。

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にのまる

一歩前進。 (2025/03/20 訪問)

数年前の初登城時は焼米ヶ原と増長天礎石群、鏡ヶ池で時間切れとなってしまいました。
それはそれで満足しているのですが、百間石垣を見てみたいのと、何を見ても読んでも全体像が掴めないあの山の中が一体どうなっているのか自分の足と目で確かめたいという気持ちが募って再訪してきました。

麓の大宰府政庁から市民の森を経て岩屋城へ。
岩屋城からさらに進んで太宰府口城門へ向かいました。

太宰府口城門は前回下りなかったことを激しく後悔していたので、一も二もなく突進しました。
そして出会ったパラダイス✨
1300年の時を超えて今この姿を見、かの時代に思いを馳せることができる幸せを噛みしめました。
両袖に延びる石塁と土塁もまた目と心にぐっと迫り来るものがあり、強さに魅せられるというのはこういうことなのかと感じ入りました。

広々とした焼米ケ原。どこまでも続く青空。どこからでもかかってこい!な眺望。
版築模型や公衆トイレの新築工事など楽しく安心してお城を学べるサポートもありがたいです。

尾花礎石群、増長天礎石群に行きました。鏡ヶ池から大石垣まで遊歩道で行けそうなのですが、途中で案内がなくなり、わからなくなってしまいました。
土塁の工事をしているところがあり百間石垣まで通じていて一周できるのかな?とも思いましたが、行っていいのかどうかわからなかったのでやめておきました。
子供の国も人の気配がなく、ここから先どう行けばいいのか行き詰まってしまったので、仕切り直して車道から県民の森センターに行くことにしました。

県民の森センターでスタッフの方に見どころや安全に歩いていけるかどうか、所要時間などを伺い、いろいろ考えて車道から百間石垣へ行き、北石垣経由で戻ることにしました。

てくてく歩いていると自動車が2台停まっていたので何かあったのかな?と思ったら、そこが百間石垣でした!
こんな風に現れるとは思っていなかったのでびっくりです。
階段があったので登ってみるとかっこいい土塁が続いています。登山道の案内もあり、ここを歩けたんだろうなぁと思いましたが、全体像もルートも今ひとつ把握できていないビギナーの単独登城なので、今回は車道ルートでOKだったとしました。

そして北石垣に向かったつもりが「鮎返り滝」の案内につられて道を一本間違えてしまい、外側の遊歩道に行ってしまいました(ノД`)
そのおかげで北端の土塁を見ることができ、いい具合に小石垣(北石垣ではなく!)に出ることができたのですが、まあまあ彷徨うことになってしまいました。(しかもこのあたりは電波がない。)
見上げる小石垣は露出部分は少なめながら古城感を纏っており、暫し見惚れてしまいました。

「小石垣100m・北石垣290m」という案内があります。小石垣は目の前なのであれ?と思い、290m登るのはきついかもと少し躊躇しましたが、せっかくなので北石垣へも行ってみることにしました。ロープ伝いに登り、案内が立っているところを何度も見たのですが、草に覆われた行き止まりのロープの先だったのか確認はできませんでした。

そろそろ戻ります。
北石垣から主城原に遊歩道が延びていたので、通り損ねた百間石垣への土塁ルートではなくこちらを通ることにしました。
静寂の中の礎石群。
迷ったり悩んだり間違えたりしてたどり着いたので、導かれたんだなぁという気持ちになりました。離れがたいです。でもここにとどまり続けるわけにはいかないので“また来るね”と言ってあとにしました。

遊歩道をずんずん歩いて県民の森センター近くに抜け出しました。疲れていたらタクシーを呼ぼうと思っていたのですが、あとは帰るだけだから平気だろうとまた車道を焼米ヶ原に戻り、そのまま太宰府駅へくだりました。なかなか遠くて、ここがいちばんきつかったです。

行く前は謎だらけで全体像もイメージも全く把握できなかった大野城。
完璧には程遠いながら歩いてみて大枠で掴めた気がします。次回の目標もできました。

帰宅後、改めてみなさまの投稿を読むと、書かれていることがものすごくよくわかりました。
ー登城体験を共有できた喜びー。
これが城びと投稿欄のいちばんの意義なのではないかと思いました。
そして、まだまだ行ける、行ってみたいところをリストアップすることができました。みなさまの現地情報のおかげでますますお城めぐりが楽しくなってきています。改めてお礼申し上げます。ありがとうございます🙇‍♀️

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ナマズ

綺麗な復元天守と好きなこうの史代の原画 (2025/06/01 訪問)

6月1日ずっと行きたっかた福智山城に行きました。
大量の転用石をじっくりみながら天守に行きました。
天守は複合・連結式望楼型の綺麗な復元天守でした。そして天守に登り明智光秀の展示を見大好きな映画『この世界の片隅に』の作者の
原画を見ることができました。
帰り黒井城と鬼ヶ城に行きました。

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翡翠

赤穂城 (2024/02/17 訪問)

赤穂大石神社から赤穂城へ歩いて、すぐでした。

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑦ (2025/05/05 訪問)

4連休の最終日には所用が入っていたため、この日が因幡の城めぐりの最終日となります。本当は、市場城もターゲットにしていて鳥取県の城びと登録城、一気にコンプリートしてしまうつもりでいましたが、続100名城のスタンプ帳を忘れてしまったため、若桜鬼ヶ城攻略を来年以降に先延ばしすることにしました。かなり手ごわそうな市場城は、若桜鬼ヶ城の比較的近くに所在していますので、その折に攻略したいと思います。ということでこの日は鳥取城のみに専念することになりました。今年のゴールデンウイーク後半の目的地を鳥取県にしたのは、鳥取城にてこのたび渡櫓門が竣工し表門と共に中ノ御門となっている桝形を拝むためでした。ホテルの朝食をいただいて、7時にはチェックアウト。7:10の段階では、まだ県庁の吉川経家像前の駐車場もガラガラです。青空のもとで、竣工したばかりの渡櫓門、4月26日に開門式が行われた中ノ御門を拝むことができました。擬宝珠橋を渡るのも今回が初めてです。初めて鳥取城に来た20年以上前に比べると、鳥取城の整備がかなり進んでいてうれしい限りです。天球丸まで脚を伸ばしてから、山上ノ丸へと進みます。

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赤い城

目立つ模擬天守 (2025/05/28 訪問)

遠くからでも存在感を持つ模擬天守、河原城の案内板があります。
秀吉が鳥取城を攻める際に陣を置いたとされます。
麓から散策路が整備されていますが車でも山頂まで行くことができます。

広い駐車場もあり、眺望も良いですが遺構は無さそうです。
曲輪の跡っぽい部分や竪堀っぽい地形もありますがおそらく違うでしょう。
主郭から駐車場を挟んだ反対側には古墳がありました。
物見の役割もあったのかな?

朝早かったので模擬天守内には入れず、おとなしく仕事に向かいました。

【見どころ】
 ・山頂からの眺望
 

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翡翠

福山城 (2025/03/14 訪問)

1966年に木造外観復元された御湯殿も見れました。裏から見た福山城も、お勧めです。

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しんちゃん

北の高城神社は眞城跡とされる。 (2025/05/07 訪問)

月山日和城は高城町の市街地の北の丘陵上にあり、慶正寺の西側、内の城・池の城のあたりに模擬天守が築かれています。北を堀切道が東西に走り、その北側の丘陵上も城址になります。最も訪問しやすいのが眞城(西の城)とされる高城神社のある郭で、南側は厳しい切岸になっています。眞城の東に本城、中の城と呼ばれる二つの郭が有ったようですが、現在は原型を留めていないようです。その東には樽原と呼ばれる比高15mの扁平地があります。
後醍醐天皇の初年(1318)肝付八郎兼重が三俣院司としてここに在し、暦応3年(1340)南朝方として畠山直顕の大軍と戦いました。兼重は家臣・江田家定の犠牲によって落ち延び、本城である肝属(鹿児島県)の高山に帰り着くことが出来たようです。
延文3年(1358)肥後の菊池武光が城を奪取し、明応4年(1495)には伊東氏の城となり、八代長門守が置かれました。天文元年(1532)島津氏が伊東氏の八外城を奪回にかかった際には、島津氏に従う都城の北郷氏に落とされ、天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を統一した際には都城を伊集院氏に与えたので、その支城となったようです。

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小林城 (2025/06/05 訪問)

 愛知県名古屋市にある城址です。清浄寺一帯が跡地で、城びとには未登録です。
天文17年(1548年)頃、尾張国守護斯波氏の一族牧下野守長義が築いたと伝わっています。子の長清は織田信長の妹「おとくの方」を娶っています。「おとくの方」は姉妹のお市の方と同様に美人の誉れが高く「小林殿」と呼ばれていました。長清は老後、仏門に入り、死後、廃城になったとされています。
 跡地は尾張徳川家2代光友の時、剣術指南役となった柳生兵庫助利厳の屋敷となりました。その後は1701年清浄寺が建立され現在に至っています。境内には小林城主牧氏の墓があり、石碑、説明板があります。遺構はありません。

 名古屋市の中心地である栄から近く地下鉄矢場町駅から徒歩5分で行くことができます。栄付近に所用があり、帰りに立ち寄りました。

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しんちゃん

飯盛山城の支城 (2025/05/31 訪問)

野崎城は慈眼寺の裏山の標高114.4m(111とも)・比高約80mの位地に築かれています。河内守護畠山氏の内紛の際に、畠山義豊が尚順の籠る野崎城を攻めたという記録があるようです。また若江城の支城として守護代の遊佐氏の一族が守っていたともされ、飯盛山城が築かれた後は、その支城(出城)となったようです。
また現地の案内板には「太平記」に、四条畷合戦(1348)において北朝方の縣下野守が、ここに陣を敷き、南朝方の楠正行と対峙したと記述があるとしています。主郭の西に二つの郭を持ち、主郭は二段になっていて、上下に展望所があります。主郭の南東には長さ10mほどの堀切が有り、そこから降って行くと、その先にも郭が有るようです。北西の尾根上にも郭があり、主郭の他に4の郭を持っています。
今回は吊り橋を渡って石造九重層塔のある郭に戻ってから下山しています。

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しんちゃん

信貴山城の出城、かつては4のエリアで構成される要衝だった。 (2024/11/10 訪問)

立野城は現在は城山台第二児童公園になっていて、その上の墓地も城址に含まれます。墓地の写真をはしょっていますね、申し訳・・。
とはいえ、現在城址はかつての姿を留めてはいません。かつては信貴山ケーブルの下駅近くの張りだした丘陵上に築かれていて、信貴山旧参道を挟んで、南側に二段の郭、北側に三段の郭と帯郭を配置し、北東に枡形の様な馬出を備えた郭があり、さらに北東に櫓台を備えた広くて長い郭が有ったようです。概ね、4のエリアで構成されていて、それぞれに土塁や堀などを備えた要衝と呼ぶにふさわしい城郭であったようです。できれば、その状態で見たかったとは思いますが、時代の波には逆らえないようです。
至徳元年(1348)には大乗院方の立野氏の居城であったとされ、戦国時代の城として完成されたのは永禄年間(1558~70)の末頃、松永久秀の信貴山城の出城としてのようです。

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