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トク

123【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (関ケ原の直政陣跡-直政の調略2) (2022/10/25 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉕です。
「井伊直政陣跡」です。JR関ケ原駅からすぐの線路脇にありました。またこの写真③の左側には関ケ原古戦場記念館と徳川家康陣跡があります。直政は現在の関ケ原駅と線路上のこの一帯に3,600の兵を率いて布陣していたようです。

話を布陣の前に戻し、調略の話を続けます。
最後に残ったのは毛利の調略でした。家康は、朝鮮帰国後に秀吉から越前北ノ庄12万石に減封左遷されていた小早川秀秋を、三成の反対を押し切って元の筑前35万石にもどす事で恩を売ります。直政は長政と親しい毛利の重臣吉川広家を調略にかかります。広家には毛利120万石の本領安堵を条件にしますが、なかなかうまく行きません。それもそのはず、大坂城にいる輝元が決断しないからです。また輝元と広家のやり取りの手紙が途中で奪われるなど、うまくコミュニケーションがとれなかったようです。

福島や池田らの先導による小山評定や岐阜城攻めで予想外の結果で清州城まで進軍した家康ですが、唯一の誤算が・・・主力の秀忠軍がまだ信濃の山の中、これでは間に合いません。ならば得意の野戦に持ち込もうと清州城から美濃赤坂へ陣を移しますが、島左近が牽制するのみ大垣城の三成らは出て来ません。西の南宮山にはやる気満々の毛利秀元と安国寺恵瓊がいます。

しかしここで「大津城が陥落! 立花宗茂ら15,000の軍勢が明後日には到着するもよう」との知らせが入ります。家康はこれが蔚山で明の大軍を破った部隊である事を知っており、三成がこの精鋭部隊の到着を待って攻めてくれば完全に不利です。もはや秀忠を待っている余裕はありません。

この時、吉川広家は独断で毛利は戦をしないで中立の立場をとると、毛利の総大将で南宮山に陣を敷く毛利秀元にも黙って、本領安堵の条件を受け入れる旨の起請文を直政と交わし、ここで直政はついに広家の調略に成功しました。この起請文には長政の連名もありこれも大きかったようです。

ここで家康は三成を大垣城からおびき出すため、関ケ原へ移動するという最大の賭けに出ます。そしてその夜、広家は家康ら東軍の軍勢を南宮山の下に陣を敷く自分の目の前を黙って通します。この動きに気づいた三成は、「このままでは吉継が危ない!」そして「玉城が奪われてしまう!」と思ったのかもしれません。急ぎ全軍を大垣城から関ケ原へ、雨の中を飲まず食わずで一晩中かけて走らせ、家康に気づかれぬよう伊勢街道に迂回しながら先回りし移動させます。

明朝8時、雨が止み霧が晴れると突然鉄砲の音と軍勢の声が・・・、いるはずのない東西両全軍が眼下にいる事に、松尾山で驚いた毛利の重臣小早川秀秋は、これでもはや輝元は大坂から来ず・・・そして広家や秀元はすでに・・・毛利はもはや東軍に寝返った!と悟り、自らも恩のある家康へ寝返り大谷吉継を攻めたのではないかと私は思います(ここは諸説あります)。そして広家は、弁当を食べているなどとはぐらかし、秀元と恵瓊が南宮山から下りられぬよう阻んだのでした。

関ケ原の戦いの2年前から始まり、前日ギリギリまで粘りに粘って成功したこの直政の調略が、関ケ原での東軍勝利をもたらした最大の功績ではないかと私は思いました。

ここまでの内容に異論や反論のある方は多いと思います。しかしここは、あくまで私の個人的な見解なので、そこは御容赦願いたいと思います。

では、次は直政が鉄砲を放ち火ぶたを切ったと言われる開戦地へ向かいます。
 

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赤い城

模擬天守は資料館 (2024/10/26 訪問)

この日は久しぶりのゴルフ、その前にサッと立ち寄れそうだったので近くの朝日山城へ。
麓の道路からも模擬天守がよく見えます。

朝日山森林公園の一部で伊勢朝日山本宮も建っています。
車で駐車場まで登り、模擬天守までは徒歩で行きました。
登城路には桜が植えられているので春の訪問がよさそうですね。

模擬天守は資料館になっていますが早朝の登城につき入れず。
周りを少し歩きましたが遺構は見当たりませんでした。

この後のゴルフですが・・・ここは城のサイトなので触れないでおきます😢

朝田さん、日蓮着目?東京コンプ最後の城の伏線ですかね?考えすぎかな。

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城① (2024/10/20 訪問)

日帰りと言いつつ、家を出たのは日が変わる前の夜の11時過ぎ。土曜の勤務を終え、早めに就寝して3時間の睡眠をとってから自宅を出ました。一気に城びと登録の城の中で山形県最北の城を目指しましたが、ガソリンがとても持ちそうになかったので鶴岡市内で給油。ということでこの日の最初の攻城は尾浦城となりました。いくつもの郭があって一通り巡ってみましたが、本丸三吉神社後背の土塁とその後ろの空堀が一番の見どころになるのかと思います。天気が良ければ鶴岡市の眺望も楽しめるでしょう。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:貝吹山城 (2024/10/01 訪問)

久米田駅から徒歩10分ちょっとで、公園入口(34.458975、135.409983)に着きました。

1561年(永禄4年)三好実休(義賢)によって築かれました。
高屋城を三好に奪われて敗走していた畠山高政が再起をはかって岸和田城を攻めると、これの後詰として三好実休がきて久米田寺を本陣とし貝吹山城に陣を構えました。
翌1562年(永禄5年)に畠山高政に攻められ、三好実休が討ち取られ三好勢が敗れました。

貝吹山城は前方後円墳の古墳を利用した陣城であったようです。
現在は公園として整備されています。攻城した時、ゲートボール会場になっていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=伯太陣屋を目指す為、久米田駅から電車で信太山駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:積善寺城 (2024/10/01 訪問)

畠中城から徒歩20分弱で、説明板前(34.429667、135.362944)に着きました。

1558年(永禄元年)頃に根来衆によって築かれました。 根来衆が岸和田の三好氏と戦ったとき、砦として築かれたのが始まりと云われ、その後、根来衆の拠点の一つとして整備されました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉が岸和田城に入って本格的な戦いとなりましたが、この頃には積善寺城は二重・三重の堀を巡らせた堅固な城になっており、出原右京を大将として九千五百名の根来衆が立て籠もっていたそうです。
秀吉方の攻撃にも落城せず、貝塚寺内の卜半斎了珍の仲介により開城となりました。

積善寺城は現在の橋本集落一帯に築かれていました。 本丸は明教寺付近であったそうですが、行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=貝吹山城を目指す為、和泉橋本駅から電車で久米田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:畠中城 (2024/10/01 訪問)

羽衣駅から電車で貝塚駅に着きました。そこから、徒歩20分くらいで、長屋門前(34.437105、135.353585)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、土豪神前氏の屋敷を城郭とし、天正年間(1573年〜1592年)には根来衆などが籠もっていたそうです。
江戸時代は庄屋を務めた要家の屋敷となりました。

畠中城は要家の庄屋屋敷が本丸のようで、ボロボロの土塀で囲まれた居館城郭です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=積善寺城へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:真鍋城 (2024/10/01 訪問)

泉大津駅から徒歩7~8分で、南溟寺門前(34.504675、135.401612)に着きました。

詳細は不明のようですが、南北朝時代に南朝方の真鍋主馬大夫の居城であったそうです。
眞鍋城は南溟寺の境内一帯に築かれていたそうです。

遺構らしきものは見当たりませんでしたが、本堂前の石碑は確認しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=畠中城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、電車で泉大津駅から羽衣駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:綾井城 (2024/10/01 訪問)

ホテルでの朝食前に綾井城と真鍋城を攻城しました。
羽衣駅から高石駅に電車で向かいました。高石駅から徒歩7~8分で、専称寺門前(34.519941、135.437345)に着きました。

詳細は不明のようですが、鎌倉時代に綾井氏によって築かれたと云われています。 南北朝時代には北朝の足利氏に属し、戦国時代は綾井日向守仁世が城主であったという。
綾井城は専称寺の境内一帯に築かれていたそうです。

境内東側の濠と、石碑、標柱を確認しました。
朝早く、専称寺門前に着きましたが、カラスが多くてちょっと怖かったです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=真鍋城を目指す為、高石駅から電車で泉大津駅に向かいました。

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しんちゃん

キューピーの鼻より (2024/10/12 訪問)

今日はあいにくの雨模様です。せっかくなので晴天の時の写真を‥。伊木山山頂の主郭から尾根を伝ってキューピーの鼻と呼ばれる展望所を目指します。かつては郭で見張台が有った場所だと思われます。
キューピーの由来は不明ですが、展望台の柵にキューピーの絵が貼り付けて有ります。「?」
眺望は素晴らしいです。木曽川の向こうに犬山城が良く見え、西手には遠く、小牧山城が見えます。主郭より少し歩きますが、ここはぜひとも訪れて欲しい場所です。やはり景色のよい山城は良いですね。帰り道の途中、麓で謎のスリッパを発見しました。良く見るとおにぎりもあります。「???」なんかモヤモヤする今日この頃です。

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にのまる

一期一会 (2024/09/29 訪問)

新利府から仙台方面にひと駅戻って岩切下車。駅から徒歩で向かいました。
八坂神社を過ぎた青麻道の道標から県民の森へ続く道路を上ります。歩道は埋もれてしまっているので後ろから轢かれないように車道の右側を歩き、急カーブでは前から轢かれないように外側に移動して上り続けること約20分。突然、城址碑と説明板が目の前に現れました。到着したうれしさもありましたが、この道で合っていたんだという安堵感の方が大きかったです。
その先は車が入ってこない安心の堀切道です。たくさんの郭が階段状に連なる山城だったようで、まだ夏の盛りの緑が生い茂る時期ではありましたが、いくつかの郭や土塁、竪堀らしきところを確認することができました。眺めもよくE5系が小さく見えました。
草叢を分け入ることはせず無理なく行けそうなところまで見学して終了としました。
多賀城へ行く前に乗り換え駅で降りて寄ってみた、というのが抑の訪問理由ではありますが、山道を黙々と歩きながら、また目的地のお城の地面を踏みしめながら、見知らぬ土地を歩くことが私はとても好きだ!ということを再認識すると同時に、ひとつひとつのお城との出会いを大切に覚えていたいなと思いました。

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しんちゃん

曽根氏館 (2024/09/29 訪問)

曽根城の近く、尾鷲市曽根町字殿池のあたりは曽根城の城主・曽根弾正の屋敷が有った場所とされ、今でも住宅の土台にかつての石垣が使われているとされています。東西40m、南北65mほどとされ、周辺の住宅の石垣がかつての屋敷跡ということでしょうか。

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コロスケコロコロ

石垣山城! (2024/10/31 訪問)

石垣が立派で、天気はイマイチだっけど眺めも素晴らしくて、良かったです。

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しんちゃん

鬼ヶ城と獅子岩 世界遺産 (2024/09/29 訪問)

国指定名勝で天然記念物で世界遺産。ずいぶん肩書がすごい「獅子岩」鬼ヶ城のすぐ近くです。案内板によると海岸の隆起と海蝕減少によって生まれた奇勝で高さは約25m。熊野灘に向かって吠える獅子のように見えることから、「獅子岩」の名が付いています。
私にはカラス天狗のように見えますが、なんにせよ草木が気になる。根を張って、岩を壊さなければよいのだけど。
鬼の城の千畳敷の下を見ると、地元の釣り人が数名います。そういえば、駐車場に猫がいたような。おこぼれにありつけるのでしょうか?
ぴーかるさん、鳥取市には「鳥人」というラーメン屋さんがあったと思いますが、行かれました?

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ぴーかる

小波城 (2024/10/05 訪問)

【小波城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅ラスト7城目。小波城は1333年に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し船上山城に立て籠もります。隠岐国守護の佐々木清高は小波城を拠点に船上山を攻めますが逆に天皇方の名和長年に攻められ佐々木清高は隠岐に逃げます。また小波城は大石橋氏の居城とも伝えられているそうです。
 現地は丘陵地、畑地にあり、城びとポイントは山を削って周囲を土塁とした削平地にはなっていますが、曲輪跡なのかどうなのかは判別できませんでした。私有地かどうかもよくわからなかったので早々に退散しました。
 これにてこの旅終了。賀露港市場食道で昼食をとり、かろいちで農産物、羽合の道の駅で魚干物と長芋、島根に突入し道の駅あらエッサで新米を買いました。夕食は下記のラーメン悟空を食べ帰路に着きました。今回も日帰りで沢山走った、鳥取縦断605㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

<グルメ>小波城跡に近い国道9号線にある「ラーメン悟空」は山陰地方名物の牛骨ラーメンで特に地元人気が高いようで午後の部開店5時過ぎに行きましたがほぼ満席でした。チャーハンのセットを頼みましたがチャーハンも美味しかった。また来よーっと。

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しんちゃん

西の城、主郭背後の四重堀切は必見 (2024/09/29 訪問)

一之瀬城は東の城と西の城の二つがあります。城びとの城のマップの位置が示しているのは東の城ですが、時間に余裕があったらぜひ、西の城も訪ねて欲しいと思います。
地元の方々や子供たちによって大事に整備され、案内板に沿って主郭まで道が続いています。東側より道が続いていて、主郭下には土塁や堀切があります。圧巻なのは主郭の西側で、主郭背後に四重の堀切が続き、さらに尾根に沿って進んだ先にも二重の堀切が有ります。
堀切や竪堀によって主郭の西側を厳重にガードしてあるのが伝わってきます。

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しんちゃん

椎の木城から白米城 (2024/09/28 訪問)

阿坂城の投稿のラストです。けっこう城域が広く攻め甲斐のある城址です。椎の木城と白米城の二つの城で構成されていますが、途中にも郭のような扁平地があったような気がします。白米城は単郭ですが、なかなかの広さで眺望も良く、本城の風格があります。
周囲には堀切や竪堀も残り、比較的良く遺構が残っている城址です。
この日は天気が安定せず、帰りに雨に見舞われましたが、傘をさしても歩けるほど、上り下りしやすい道でした。ただし私は傘を持ってきていなかったので擦れましたが。

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しんちゃん

食は旅の糧 道の駅・スカイドーム神岡 (2024/10/13 訪問)

イオさんの記事にあるように、食は旅の糧。城攻めの重要な栄養源です。
飛騨の城を攻略中、道の駅「スカイドーム神岡」に寄りました。どうやら「熊汁定食」が有る様子。これまで熊肉を食べたことがなかったので、これはぜひ食べたい。開店まで時間があるので、先にいくつか城を攻略してきます。
数量限定なので、早めに店に入る。どうやら、本日から熊汁定食がスタートするようで、私が2024年の一番最初に、熊汁を食すようです。
光栄ですわ~。これは熊汁定食の一番槍です。なんでも最初は良い物です。
熊汁は肉をたっぷり煮込むので、肉はほとんど原型を留めませんが、その分ダシはしっかり出ています。うん、うまい。
私、熊肉気に入りました。「神岡ドーム」はニュートリノ研究で有名なカミオカンデのおひざ元で、「カミオカラボ」ではカミオカンデに関する展示が充実しています。

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イオ

ご当地グルメとお土産 (2024/09/14 訪問)

せっかく城めぐりであちこちに行くんだからご当地の美味しいものを食べたい! と常々思いつつも、日帰りだと時間の制約から諦めざるを得ないことも多いですが、今回は泊まりで余裕があるし岡山市のご当地グルメを、ということで、昼食にえびめし、夕食にデミカツ丼を食べました。

えびめしは東京・渋谷の「いんでいら」発祥のえび入りのチャーハン(のようなもの)を、岡山出身の店員が暖簾分けで故郷に持ち込んだもので、「えびめしや」が岡山での発祥になりますが、この日は岡山城から徒歩圏内(ももちゃりで約3分)の「ラーメン西本」で塩ラーメン・えびめしセットを。さっぱりしたスープの塩ラーメンに思ったより真っ黒いえびめし…。コールスローサラダがついていることからも、ソースの濃厚な味が想像されましたが、スパイスのピリ辛感はあるものの全体的にあっさりとしていて、見た目のイメージを覆す不思議な味わいでした。わかりやすく美味しい! というのとは少し違いますが、何やらくせになってしまいそうな味です。次は「えびめしや」に行ってみよう…。

デミカツ丼は玉子とじに替えてデミグラスソースをかけたカツ丼で、どうせ行くならと発祥の「カツ丼野村」へ。20時過ぎの入店でしたが私の後にも次々と来客があり、お目当てのドミグラスソースカツ丼も間違いのない美味しさで、さすがの名店でした。ただ、インパクトという意味では、想像もしない味だったえびめしに一歩譲りますが(笑)

お土産には定番の「大手まんぢゅう」に加えて「おかやま、城さんぽ」を(お土産というより自分用)。岡山県内の国史跡の岡山城、備中松山城、津山城、備中高松城を取り上げた本で、城内はもとより城下の見どころや特産品も紹介されていて、岡山の城めぐりのお供として活躍してくれそうです。…というか、この後の備中松山城や津山城で大いに活用させてもらいました。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:芝村陣屋 (2024/09/30 訪問)

三輪駅から徒歩15分ちょっとで、慶多寺(34.534572、135.839164)に着き、その後、織田小学校石垣土塀前(34.535403、135.843720)に向かいました。

1615年(元和元年)織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ10,000石を分知して隠居しました。
この長政を祖とするのが戒重藩(後の芝村藩)で、始め戒重陣屋を居城としました。
1704年(宝永元年)四代織田長清のとき、陣屋を戒重から岩田村(1713年(正徳3年)幕命により芝村に改名)へ移すため幕府の許可を得ましたが、完成したのは1744年(延享元年で織田輔宜の代であったそうです。
以後芝村陣屋を居城として芝村藩となり、代々織田氏が続き十一代織田長易のとき明治に至ります。

芝村陣屋は現在の織田小学校一帯に築かれていました。
最初に織田氏の菩提寺である慶田寺に行って、移築された陣屋門を確認しました。
その後、織田小学校に移動して石垣と土塀を確認しました。織田小学校の南側の正門脇に陣屋の案内板が建っています。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず三輪駅から王寺駅に向かい、コインロッカーより荷物を取り出した後、大阪府の羽衣駅に向かいました。
大阪府の羽衣駅に向かう途中、新今宮駅で551蓬莱の豚まんを購入しました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:柳本城 (2024/09/30 訪問)

柳本駅から徒歩10分弱で、柳本小学校説明板前(34.559176、135.843854)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、楊本氏によって築かれたと云われています。
楊本氏は十市氏の勢力が伸びると越智氏と結んでこれに対抗しましたが、1471年(文明3年)筒井氏と結んだ十市遠清に攻められ、楊本範満は敗死しました。
その後、勢力を伸ばした木沢長政に従いましたが、1542年(天文11年)木沢長政が敗死すると楊本氏も没落し、楊本城は十市氏の持城となったそうです。
1615年(元和元年)織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ10,000石を分知して隠居しました。
この尚長を祖とするのが柳本藩で、大泉村の庄屋に仮住まいし、寛永年間(1624年〜1644年)に柳本に陣屋を築いて移りました。以後、代々織田氏が続き、十三代織田信及のとき明治に至ります 。

柳本陣屋は柳本小学校と北にある黒塚古墳(柳本公園)一帯に築かれていました。古墳が確認できます。
織田有楽斎の供養塔がある専行寺や移築御殿(橿原神宮にあるそうです)については、時間の都合で行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=芝村陣屋を目指す為、柳本駅から電車で三輪駅に向かいました。

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