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しんちゃん

大庄屋諏訪家屋敷 こいつはマニアだ! (2024/02/11 訪問)

滋賀県守山市にある大庄屋諏訪家屋敷は淀藩の飛び地で代々農民をまとめる大庄屋の屋敷です。元々は諏訪左近将監長治が永正年間(1504~1521)に信州より移住して来たことに始まるようなのですが詳細は不明です。
主屋や書院は江戸期の文化年間(1804~1818)に築かれたようなのですが、この建物がなかなか一癖あるのです。門をくぐって正面に主屋の玄関が見えますが、右手にも門があり、その先は書院になっています。
この書院に隠し通路が付いていて侵入者を見張っているんですね。ドアノブは内側についていますが、外側からは隙間から紙などを通してスコッとあける仕掛けになっていたと思います。すこし変態じみていませんか? 玄関の天井も通路が回り込んで屋根裏に逃げ込めるようになっています。脱出用の仕掛けがあるとさらに完璧なのですが‥。
鬼門には社が置かれ、北西の隅部には茶室が置かれていて、まるで櫓のようにも見えます。北には水路が流れ、水門が水路に面して設けられ、少し手を加えれば枯山水の堀に水を引き込むことも可能なようです。鬼門に設けられた社から南西への延長線上は絶妙に建造物の配置を逸らしています。この構造は米沢城に似ていますね。
こうしてみると防御性を備えた居館というより、ミニチュアの城郭のようにも見受けられます。ここの城主は平時は庄屋のふりをしていますが、実は根っからのマニア(変態)だったのではないでしょうか?
ちなみにこのマニアックな屋敷は市の文化財の指定を受けていますが、日本遺産にも登録されています。

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しんちゃん

称念寺寺内町 (2024/02/23 訪問)

今井環濠は称念寺の寺内町で、一説には天正元年(1573)に近江から来た河瀬兵部が今井に入って称名寺を建てたとされています。
本願寺が織田信長に降ると、今井も降伏し赦免状には「土居構」を崩し、陣取りを禁止することが記されているようです。
かつて周囲は環濠に囲まれ、土塁を築き、櫓まで備えていたようです。現在も周囲を環濠で囲まれ通路の一部は喰い違いになっています。
そうそう‥肝心の称念寺に寄って無いですね。ま‥いいか‥メインはあくまでも「堀」なので。

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石像銅像等散策 (2024/07/27 訪問)

岡崎公園内および街中にある石像、銅像などを求めて彷徨ってみました。
桜城橋付近の道に徳川四天王の石像がありました。少し離れている岡崎城総堀跡の説明板のある御旗公園に田中吉政の石像がありました。田中吉政は家康が関東へ移ると岡崎城主となり城の改築に着手しています。城域を拡張し、石垣や城壁を整備して近世城郭につくり替えています。関東へ移った家康対策でした。それが理由ということでもないのでしょうが、岡崎城址からやや遠いところに石像があります。徳川家康の像は多くあったのですべては添付できませんでした。

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城下町と三河武士の館家康館付近 (2024/07/27 訪問)

 岡崎の街を歩いていると総堀跡、信濃門跡などの説明板や標柱を見かけます。また岡崎の城下町の特徴のひとつに二十七曲りがあります。岡崎城下の東海道は敵の侵入を拒むために屈折した道となっていたようです。平岩城の説明板を見つけました。西郷氏が今の岡崎城の地に城を築く前まで居城としていた城です。
 大河ドラマ館は三河武士の館になっていました。からくり時計がちょうど動き出したので撮影しました。
暑かったのでカクキュー八丁味噌さんの味噌ソフトクリームをいただきました。

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堀散歩 (2024/07/27 訪問)

 空堀なども思ったより残っています。思うままに散策してきました。日本城郭大系には本丸の北ある内堀(清海堀)は近世城郭として明治まで存続した城でありながら、谷を人工的に加えた程度のもので、内堀としてこれほど短く、幅の狭い堀は珍しく、ここだけは中世城郭の遺構をよく残しているといえると書いてありました。個人的には好きな空堀です。

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石垣散歩 (2024/07/27 訪問)

 この城の石垣は天正18年(1590)田中吉政が入城した後に導入したとされています。その後の積み直しもあるようで積み方も場所により違う所もあります。菅生川(現在は乙川)端沿いに石垣城壁の一部が残っています。岡崎藩3代藩主本多忠利が築造したものです。

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夏の登城 (2024/07/27 訪問)

 今年も岡崎城へ行って来ました。昨年行ったときは冬でしたが、今年は夏に登城しました。夏は葉が繁っていて冬に比べると遺構は観にくいのですが、緑に囲まれた城址もそれなりに味のある景観で楽しめます。

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零汰

フェイク石垣 (2024/07/27 訪問)

名前と場所以外は殆ど情報の無い城跡に行くと色々驚かされます。まぁそれが楽しみでもあるのですが。
今日行ったことの無い城跡に5か所程行ってきた中の一つです。
場所柄から島津氏に抵抗していた国人衆の城跡だろうと思います。

城域に入るとすぐに写真1~6の様な石垣が現れて来ました。
最初は興奮していましたが次々現れると我に返り?マーク、ちょっと待て。
鹿児島の城跡は殆ど土一択なのにこれはおかしい、国人衆の城跡で石垣を見た事はない。

疑惑の目で取り合えず写真を撮りながら本丸に向かいました。
元々自然石の多い地域の様でゴロゴロ転がっていて所々石積が見受けられます。
写真7~10は本丸周囲の石積です。こちらはおそらく当時の物でしょう。

1~6は石の質・形状は全然違いますので間違いなく後年積まれたフェイク石垣でしょう。
ですが積んだ目的が分からなくて、手の込んだ事しているなとは思います。
それにしても全く人騒がせなフェイク石垣でした。

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ぴーかる

末森城 (2024/05/25 訪問)

【末森城】
<駐車場他>城山八幡宮参拝者駐車場10台分程あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾ラスト11城目。末森城は1548年に織田信秀が築城しました。信秀は古渡城から居城をここに移します。1552年に信秀が死去後に信長の全弟である信行(信勝)に城が譲られます。御存じの通り信行は2度目の謀反で清洲城で信長に誅殺されるのでその時城は廃城となったようです。
 本丸跡の城山八幡宮に8台程度の駐車場があります。本丸東面にある空堀は初夏で鬱蒼としていたので入り込めず。御城印を買いたかったのですが、16:30までの社務所が16:25に目の前ブラインドをぴしゃりと降ろされて買えません、何とも冷たい(あくまで個人の感想です)神社でした。駐車も30分以内でしたので早々に立ち去りました。これにてこの旅終了、濃尾平野制覇にはあと2回程訪問が必要です。418㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

遺構はなかなか残っている。後はアクセスの方法が問題。 (2024/02/23 訪問)

大和田城は小和田氏の城とされますが、詳細のわからない謎の城です。周囲の道は狭く、なんとかポリスに捕まらない場所に車を置いて歩いて城址に向かいます。南側からアクセスしてみますが柵が行く手を遮ります。じゃあ「廃屋」から攻めてみようかと思ったら明かりがついてる。人いるじゃん‥。廃屋じゃないのかな? しょうがないので倉庫のあたりから直接城址に取りつきますが、なかなか急です。
結局直登のようになりましたが、上の方は曲輪のようになっていて帯曲輪が付いているようです。北側になかなか立派な土塁が付いていて櫓台のようになっている箇所もあり、土塁の先は堀切になっていました。
現状不審者以外の何物でもないので、物音ひとつ立てるのにも気を使います。長居は無用‥見るもの見たらさっさと立ち去るのでありました。

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とばつびしゃもん

大きなケヤキに目をうばわれる城 (2024/05/04 訪問)

迷いに迷って大井城の一区分である王城跡(王城公園)の入口を発見し登城開始。公園の駐車場は発見できず。
公園内では大きなケヤキの木に目を引かれる。遺構らしきものは確認できず10分ほど攻城し撤退。

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しんちゃん

五條代官所 奈良県五條市 (2024/02/24 訪問)

文久3年(1863)「天誅組」の襲撃により、五条代官所は焼き払われました。天誅組は「暴徒」として扱われ、各地を転戦し高取城を攻撃したりしますが、統率力や計画性が欠如しており東吉野村周辺で終焉を迎えます。
こんなぶっそうな連中ですが、京都霊山護国神社に祀られていたりします。時代ですな。

五條代官所は元治元年(1864)にこの地に建てなおされ、現在は史跡公園として整備されています。代官所の正門であった長屋門が修復され、五条市立民族資料館として公開されています。跡地は奈良地方裁判所となっており、当時の石垣も残っているようです。

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零汰

パーツはありますが・・・ (2024/05/19 訪問)

こちらは不思議なチャシです。
横濠見つかる。土塁見つかる。平滑になっていない曲輪っぽい場所もある。
しかしながら各パーツが離れていて連動性が無くチャシとして成立していません。
場所を間違ったかなと見渡すと開発局の表示があります。
ここに間違いないようですが・・・。

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とばつびしゃもん

埋もれた山城 (2024/05/04 訪問)

雲興寺の駐車スペースに車を駐車し、寺の右手の登城口から登城開始。城縄張図を入手できずまた城跡に案内板もなく、ネットの情報を参考に攻城。
10分ほど進むと前方を遮断するように大きな岩場が出現。左に回り込み進む。枯れ葉が大量に積もっている箇所があり、足をとられ滑らないようゆるゆると進軍。登城口から30分で主郭と思われるエリアに到達。登城途中には、自然の岩場や曲輪、堀切など城の痕跡を目にするが、案内板がなく正確な情報を確認できない。
下城は同じルートを進むつもりが道に迷って時間を要す。

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ヒロケン

三橋架け替え工事 (2024/07/26 訪問)

小浜城は、北川・多田川・南川の河口に挟まれた三角州に築かれた水城です。現在、城域の殆どは河川の拡張工事や埋め立てられて宅地化しており、天守台と本丸を囲む石垣が残っている程度です。当時は、北川と南川に挟まれ両河川を外堀とし、東側は湿地、西側は若狭湾、内堀に囲まれた本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸、北の丸が四方に配置された城でした。

関ヶ原の合戦の後、小浜藩初代藩主である京極高次公によって後瀬山城から拠点が移され築城が開始されましたが、二代藩主忠高公は小浜城の完成を待たずして、出雲松江へ転封。代わりに11万3500石で川越から小浜に転封となった、酒井忠勝公が小浜城の築城を引き継ぎ1641年に完成させました。(酒井忠勝公は3代将軍徳川家光公を補佐する幕府大老)
現在の小浜城は本丸跡のみが残り、この酒井忠勝公を祀る小浜神社が鎮座しています。

この日、兵庫県→京都府→福井県の日本海側の城を訪問しており、10年振り二度目の訪問でしたが小浜城をナビで検索し、走行していたところ、ナビに回避できない通行止めが発生しているとの案内(; ・`д・´)調べると、小浜城に通じる大手橋・城内橋・西津橋の三橋架け替え工事で令和4年7月16日~5年の期間で行われているとの事"(-""-)"ただし、自転車と徒歩では通行可能との事で、小浜城手前にある若狭小浜お魚センターに駐車。小浜城まで1.2kmで15分程です。この日の気温36度、3分も歩けば汗が噴き出る暑さ"(-""-)"途中にある、日本百名水の”雲城水”で喉を潤しながらの歩きでした。迂回路南川上流の橋を渡り中州の堤防沿いを行けば車でも小浜城まで行くことが出来ます。

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シャンシャン

海沿いに佇む総石垣の城 (2024/07/27 訪問)

島根にある続100名城のひとつ。
平山城に分類されているけど、麓からだと頂上の本丸跡まで15分程かかるので、山城と言っても差し支えないと思う。
散策路は整備されておりとても登りやすく、多くの石垣が残っており見どころ満載でおススメの城跡。
頂上の本丸跡からの景色は絶景!

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モト

縄張りも把握しやすい上に素晴らしい遺構が見れます (2024/07/26 訪問)

元々は在地領主の三瀬氏の居城だったのを神代勝利を招いて譲ったと言われているそうです。
この神代勝利さん、かなりの勇猛果敢な武将だったそうです。
ご当地のキャラにもなっているようです。

登城口から山へ入るとしばらく山道をすすむと堀底道のような所をさらに進みます。
程なくしてニの郭の虎口が見えてきます。
そこまでいきますとちらほら石垣の跡も見る事ができます。
虎口を入った二の郭は土塁に囲まれた空間です。
さらに先に進み見事な竪堀を見ながら本郭の虎口です。
虎口にも石垣が配置され往年の姿を想像します。
本郭はさらに見事な土塁に囲まれた素晴らしい空間です。
その囲んだ土塁に石垣が所々残っています。
城跡はそこそこの角度はあります。
また、蜘蛛の巣や虫なども結構いますが、その嫌な思いも一瞬で忘れるくらいの城跡です。
ま、それは夏に訪れたからですが…。
本郭、二の郭と縄張りも確認しやすく、石垣などの遺構も見る事のできる素晴らしい城跡だと思います。

糸島と佐賀をつなぐ263号の有料の道路に沿うようにある旧道に入ると料金所に近い所に城跡への目印のある林道の入り口があります。
林道をすすんで行くと駐車場があります。
そこから登城です。
ココからがおすすめです。
駐車場を過ぎた所にも登城口はあり、川の横を通る石が敷き詰められたきれいな道もありますが、150メートルほど進むと道が塞がっておりました。
(もしかしたら行く事ができるのかもしれませんが)

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しんちゃん

開会式にドン引き (2024/02/24 訪問)

パリオリンピック‥始まっちゃいましたね~。しかし、セーヌ川汚いな~(汗)、雲っているので余計に目立っちゃいますね。
それはさておき、今井城は三箇氏の居城(居館)と伝わっています。東が腰郭のようになっていて、東を除く三方に堀が残っているようですね。主郭は水田になっているようで周囲に畔が盛られています。城址の東側は急な斜面になっているようです。皆さんの投稿にあるようにGoo〇〇〇マップで見てみると形状が良くわかります。周囲の田畑がまるで曲輪のように配されていますね。

Oの話題に戻りますが、セーヌ川は100年遊泳禁止だったようですがパリ市長は競技の実施にすごい前向きのようですね。選手村にはエアコンも無く(床冷房らしい)移動用のバスはエアコンが無いうえに窓には目張りがされているようです。
相変わらずドSな国ですね。選手の皆さんには競技で頑張ってほしいですが、その前に体調を崩さないようにして欲しいです。
ではがんばれジャパン! みんながんばれ~ 

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しんちゃん

天守台再現 どこまで成るか (2024/07/13 訪問)

駿府城は明治維新の後、明治5年までに払い下げられ、豊橋師団の所属、歩兵第29旅団第34連隊が置かれ、本丸は壊され水堀も埋められてしまいました。現在は本丸と二の丸が一緒になった状態で公園化されています。
当時は景気対策で軍隊の誘致が活発化していたようで天守台もこの時に埋められてしまっていたようです。時代の流れとはいえ、罪深い話です。現在駿府城跡天守台野外展示プロジェクトが行われており発掘の工程が解るように公開がされています。天守台の再現は完全とはいかないようですが、やむを得ない処置だとは思います。

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しんちゃん

葛山館 静岡県裾野市中村 (2024/07/16 訪問)

葛山館は葛山城主・葛山氏の居館で起源は鎌倉時代(平安時代末期)にまで遡ります。東西約97m、南北約104mほどの規模で周囲に良く土塁を残しています。これらの遺構は戦国時代のものと見られ、西側南の開口部がかつての門跡とされています。
南に大久保川が流れ、東側一帯は宮川の峡谷に遮られた天然の要害の地に築かれています。詰の城とは少し離れた位置に存在するのが特徴です。また城郭大系の「葛山城要図」には館の北東に池久保(古池)という地名が見られ天然の堀(もしくは水瓶)の役割を果たしていた可能性があります。
永享10年(1438)の永享の乱の際に今川範忠は足利持氏の討伐に向かい、葛山氏はその先鋒を務めています。しかし「文中年間御番帳」には将軍・足利義政の御番衆の中に今川氏と葛山氏の名が併記されているようなので、徐々に今川氏に従属するようになり、北条氏とも近い間柄であったと思われます。

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