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小城小次郎

国宝・勝興寺の故地だという (2023/04/22 訪問)

越中一向一揆の一大拠点であったが焼き討ちされて移転したという。古図には堀跡も記載されるが圃場整備によって遺構は消滅した。ちなみに移転した寺とは古国府城の跡に建ち国宝の本堂を擁する大伽藍・勝興寺なのだそうだ。

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しんしんちゃん

結城合戦の舞台となった結城氏の本城。 (2019/11/03 訪問)

結城城は治承年間(1177~1180)に結城家初代・結城朝光が築いたとされていますが確証はないようです。北西から南東に至るまで田川に囲まれた低丘陵地に築かれていて実城(主郭)は城址公園になっていて東側は切岸になっています。西館との境目あたりに聰敏神社が鎮座し水野家初代水野勝成公を祭神として祀っています。実城の南に中館・東館が配され、結城家御廟のある慈眼院周辺が東館になるようです。実城から南西1kmほどの場所に結城家初代・朝光の墓所のある稱名寺(称名寺)があります。
結城城は結城秀康の越前への移封後に一時廃城となりましたが、元禄13年(1700)水野勝長が一万八千石で入り明治維新まで水野氏の居城となりました。

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しんしんちゃん

三度に渡る激戦の地。 (2019/11/03 訪問)

皆川城築城に関する伝承はいくつかあり、古くは長沼淡路守宗政の孫・宗員が築いたとされています。宗員は皆川荘に居を構え皆川氏を名乗り、その子孫は元亨3年(1323)に断絶したか、この地を放棄したと考えられています。
もう一つは応永23年(1416)~永享12年(1440)ごろに築かれたとされ、長沼惣領家の秀宗かその父・憲秀によるものと思われています。主郭を中心に周囲に幾重にも郭が連なり西には二郭が配され南西に竪堀が走ります。とにかく郭の多い城で主郭にある展望台からは周囲や郭を見渡すことができます。激戦の記録が幾つも残る城で、大永3年(1523)の宇都宮忠綱との合戦(川原田合戦)では城主宗成が流れ矢で死亡し弟の平川城主・成明も討死しています。天正12年(1584)には北条氏政・氏直父子の一万八千の大軍が来襲し(草倉合戦)三カ月にも及ぶ戦いの末和議を結んで休戦しますが皆川氏は北条氏に従うことになります。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に上杉景勝・浅野長政ら一万五千余騎に攻められ降伏・落城したとされています。

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しんしんちゃん

なんだか評判のよくない国の史跡。 (2019/11/03 訪問)

写真が古くてゴメンなんだけど中久喜城の投稿です。城址はJR水戸線によって分断されており本丸は線路の南に位置し土塁らしきものが残るのですが主要部は畑地になっていて、その他は藪になっています。国の史跡なのに藪なんですね。
城址碑は線路の北側にあり、北西部は西城と呼ばれていたようです。かつては泥田、湿地に囲まれた要害の地であり小山政光が先祖藤原秀郷の由緒のある当地に築いたとされています。天正18年(1590)には結城秀康に家督を譲って隠居した結城晴朝が越前に移るまで居城としたとされています。

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POYO58

姫路城4(最後) (2023/11/03 訪問)

備前門を通った後は太鼓櫓へ向かいました。残念ながら太鼓櫓をちゃんと写真に撮れていませんでした泣。ちなみに太鼓櫓はなんと、池田輝政以前の建物と伝えられていて結構貴重なものですよ。江戸時代以前の建物が残っているのは興味深かったです。
太鼓櫓と繋がっているりの門を通って二の丸へ出ると扇の勾配と呼ばれる武者返しのような石垣を見ることができます。藤堂高虎のような直線のような石垣ではなく、上へ行くほど急になっていく勾配の石垣です。
この時点でちょうど16時を過ぎ、営業が終了間近だったので、急いでスタンプを押して夕陽に染まった姫路城天守閣を写真に取りながらホテルへと向かいました。
夜は姫路の大通りにあるガブリチキンで夕食を食べました🎵お酒はまだ未成年なので飲めませんが、久しぶりに贅沢なご馳走をしました。ちなみにガブリチキンは名古屋発祥なのになんで姫路で行ってんだか…
夕食後は宿に戻る前に少し散歩がてら姫路駅に行ってみました。兵庫の都市といえば神戸ですが、姫路もなかなか栄えている場所でした。新幹線が通っているのとJRの終点の駅でもあるため、駅周辺は人が多かったですね。どうやら家から姫路までは電車の本数も少なく行けそうな気がしました。姫路駅の踊り場に出てみるとライトアップした姫路城が見えましたよ。写真では全然綺麗じゃないですけど肉眼では綺麗に見えました。

ここでとりあえず兵庫旅行の1日目が終了しました。竹田城、篠山城、姫路城と1日に3箇所の名城に行くという充実した1日を送りました。
2日目は明石城に行きました。では次の投稿では明石城について紹介します。長々とありがとうございました。

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しんしんちゃん

写真古くてゴメン。現状小学校。 (2019/11/03 訪問)

真岡城は宇都宮氏と縁戚関係のある芳賀氏(清原氏)の居城で築城時期については諸説あるようです。慶長2年(1597)宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易され真岡城もその時に廃城になったようです。現状は真岡小学校になっていて本丸跡はグラウンド、二の丸跡には校舎が建っているようです。

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しんしんちゃん

現代人(おいら)には二宮尊徳スピリッツが足りていないかも。報徳・献身・節約・忠節‥ (2019/11/03 訪問)

桜町陣屋は元禄12年(1699)に大久保家の分家で旗本の宇津家が桜町三ヶ村を治めるために設けた陣屋で国の史跡に指定されています。二宮尊徳さんが文政6年(1823)に小田原藩主大久保忠真の命で赴任し26年(36年とも)過ごしたとされています。
陣屋建物が現存し、周囲には土塁や壕が残り虎口は折れ曲がって侵入者の直進を阻んでいます。陣屋の東側には二宮尊徳氏に関わる遺構や建造物が残ります。北から桜町二宮神社・二宮尊徳資料館そして二宮尊徳本人とゆかりあるの人物たちの墓地がある蓮城院が有りました。

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トク

2024初登城と初詣(2/2)-飯田丸五階櫓とくまモン (2024/01/08 訪問)

2024初登城と初詣(熊本城)の続きです。

次に、熊本市民に勇気を与えてくれた奇跡の一本足、飯田丸五階櫓を訪れてきました。あれからもうすぐ8年目を迎えます。その奇跡の石垣は、ほぼ元通りにまで復旧していました(写真①)。約1年前は、まだクレーンで石垣を積む作業が行われていましたが、今は終了しクレーンや足場も撤去され、石垣は元通りに修復を終えたようです。しかし、石垣の石の隙間に何やら謎の鉄の杭のような物が埋め込まれていました。補強のためでしょうか? 近くで見る事ができないので何か解らずに気になりました(拡大写真②) 写真を倒壊直後から1年前と現在まで(写真④→③→①)の順に見て頂くと今までの復旧の過程が解ると思います。復旧作業は順調なようです。次はいよいよ上の五階櫓部分の復元工事ですね。どうやって復元するのか、楽しみに見て行きたいと思います。

帰りに、またくまモンに会うために「くまモンスクエア」に寄ってきました。出勤時間に遅れて着いたら、すでに場内は満員大盛況!(写真⑤~⑨)。相変わらず元気なやつです。私もつられて「今年もがんばるモン!」と、またものまねをしながら帰りました(やっぱり似てないかな🤔?)。

【余談】くまモンの動くLINEスタンプ(写真⑩)が、今なら期間限定無料でGETできますよ! 詳しくは「ラブくまプロジェクト」で検索して下さい😊。
 

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イオ

陣跡めぐり(伝多賀貞能陣~伝滝川一益陣) (2023/11/04 訪問)

小谷城の正面に立ち塞がるように聳える虎御前山に織田信長が築いた陣城で、小谷城攻めの本陣として機能しました。

小谷城の展望台から虎御前山城のあまりの近さに驚いて以来、いつか行ってみたいと思っていましたが、ようやく果たすことができました。中腹まで車で行けるようですが、全ての陣跡をめぐるつもりなので、南麓の虎御前山公園の駐車場から歩いて登城開始です。

矢合神社の参道に入ったところに虎御前山の案内板が立てられています。北端の伝柴田勝家陣まではなかなか距離がありそうです。境内の手前で参道から右手にそれると多賀貞能陣地跡の石碑と説明碑が立てられています。矢合神社の境内一帯が陣跡のようですが、改変されていて遺構は見当たりません。矢合神社の裏手から倒壊した案内表示に従って山道を登った先には前方後円墳があり、後円部の上に蜂屋頼隆陣地跡の石碑と説明板が立てられています。蜂屋頼隆陣の北麓には展望台があり、北に小谷城を望み東側の眺望が開けています。ここから見られる田んぼアートは今年が最後だったようです。展望台の先の石段を上って行くと整備された広場に丹羽長秀陣地跡の石碑と説明板が立てられていました。伝丹羽長秀陣からいったん下って伝滝川一益陣へと続く坂道沿いには、33基の古墳からなる信長馬場古墳群が連なっています。いくつかの円墳が見られる伝滝川一益陣には石碑と説明板が立てられていますが、南側は電波塔の敷地として大きく改変されています。

ここまでは陣跡めぐりと言っても、櫓台や曲輪として活用されたと思しき古墳があるくらいでしたが、この先の伝堀秀政陣からは城郭遺構が見られるはずです(続く)。
 

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todo94

かなり広大 (2023/12/09 訪問)

長者山城からの転戦です。河和田小学校の校門に説明板がありますが、堀、土塁などの見ごたえのある遺構は天徳寺、報佛寺にあります。また、報佛寺山門脇には城址碑もありました。

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朝田 辰兵衛

チェブさん,ご心配ありがとうございますm(__)m (2023/11/05 訪問)

石川県と新潟県ではタイムラグがあったのではと思います。また,通信レスポンスの遅延もあり,16:12の表示だと思います。ポチとほぼ同時に揺れました。ちょっとしてもう一度揺れました。これが激しく長かったです。縦にも横にも揺れてローリング状態でした。ローリングは,2004年の新潟県中越地震以来でした。その時の教訓として,「額は飾らない」と決めました。賞状類は,専用のクリアフォルダーにしまってあります。
ご心配おかけしました。
気になるのは,余震の震源地が佐渡にどんどん近づいてきていること。酒田沖の断層が刺激された場合,新潟市中心部は7~8mの津波がハザードマップで予想されております。

さて,平山季重居館ですが,裏手に墓所および平山城址公園があります。
「ここは山城?」
「平山城」
「・・・」

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しんしんちゃん

最北地にある本格的山城。そして‥ (2021/05/06 訪問)

尻八館は古代に蝦夷(アイヌとも)が築いたチャシを土台に正安年間(1299~1302)に安東孫次郎師季が築いたとされています。ため池から西方向に登城道が続いていて二の郭を経由して主郭にたどり着きます。城域かどうかは不明ですがその先にも扁平地があり周囲の眺望は素晴らしいものがあります。
詳細を書くと、まずはため池から案内板に従って登っていくと陣場を経て長い竪堀が見えてきます。この長い竪堀は登城道にそって二の丸まで続いていくので古の大手道だったのかもしれません。二の丸の先に堀切があってその先に本丸があるのですが、「とある煩悩の登城目録」さんの投稿にもあるとおり熊のフン様が置かれているのですね。しかも三個ですよ‥。たしか二の丸の入り口と本丸の手前、本丸から先に向かう途中にも鎮座しておられました。おかげでスリルあふれる訪問になりましたが、その割には本丸の奥手まで訪問しているんですね。アホですねえ‥本当に。今ではほぼほぼ動じなくなりましたが野生動物の機動力は人間の想像を絶するものがあるので、どんなに準備をしても万全というわけにはいかないと思います。

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シェル

国道6号に分断されたお城 (2023/10/20 訪問)

JR常磐線(各駅停車)北小金駅から徒歩10分ほどで到着。
 主郭部分は国道6号(水戸街道)で分断され、大幅に失われていますが、主郭の南側の部分は、根木内歴史公園内に残存しています。
 国道6号の「根木内」の交差点から東に進むと歩行者用の公園の城址口があり、そこから入城。
 車の場合は、上富士川にかかる根木内城址橋の手前に8台ほどの公園駐車場があります。トイレは駐車場の所にあります。
 歩行者用の城址口を進むと、土橋があり、そのそばには根木内城の標柱があります。公園内に土橋、土塁、空堀などの遺構が残っており、説明板も充実しています。空堀も遊歩道になっており散策しやすいです。上富士川のそばは、湿地になっており、散策もできます。

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しんしんちゃん

東西に伸びる丘陵上に郭が連なる。 (2023/12/31 訪問)

己斐古城は厳島神社の神領衆である己斐氏によって築かれたとされ、己斐新城である平原城と区別するために己斐古城と呼ばれているようです。東西にのびた丘陵上に郭が複数配置されています。公園から道が続いているので登っていき、まずは西を目指します。西の郭の先に堀と土塁が残り攻め手を遮断しています。ここで引き返し東の郭を目指します。東の高地にある郭が主郭のようで裏手に登り口が有りました。頂部に何か建っていたようですが見事にブッた斬られています。城郭放浪記さんの記事によると展望台があったようですね。
この城が大晦日、2023年最後に訪問した城になりました。広島城に行った残りの時間で攻略して滑り込みセーフです。道の駅で車中泊し年越しです。紅白歌合戦をナビのTVで見るつもりだったのですが電波が届かずNGでした。

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しんしんちゃん

いろいろと謎の多い城。朝から雨が降ったりやんだりで‥ (2023/12/31 訪問)

勝山城は北西に川に面する丘陵にありました。結構急な坂を登って行った先にある寺の左手から取りつくのですが、南西の方向に御調八幡宮の大きな駐車場があるので、ここに車を停めさせてもらって歩いてくるのが無難だと思います。
グーグルマップに名前の出てこないお寺の左の御堂の脇から道が続いているのでそこを登っていくと堀切に至り、北側(左手)が主郭のようです。直登していくと上に扁平地が有りました。堀切の右手・南側にも幾段かの扁平地があったようです。
主郭周囲にもいくつか扁平地があったようですが正確には覚えていません。いろいろ調べても詳細のわからない謎の城です。

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POYO58

姫路城3 (2023/11/03 訪問)

天守閣の最上階に行くと四方を見渡せますが… 混んでてなかなか思ったようにみえないと思います。この時は16時過ぎで夕陽が天守閣を照らし始めていました。
特に西側の方を見るのがおすすめです。にの門などの多くの建物がバランスよく並んでいるのが見えますよ♪
天守閣からの眺めは3枚ほど載せていただきましたが、どこから撮ったか、何かも正直わかりません… すみません。
本丸の大きな広場からは大きな天守閣を真正面に見ることができます。
本丸終了後は備前門を通って旧番所を見ながら太鼓櫓を通って高石垣越しから天守閣を写真に撮りました。この高石垣は打ち込みはぎっぽいですが、どうなんでしょうか?
さて次で姫路城を絞めようと思います。続く

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しんしんちゃん

頭崎城をリタイアした後に訪問。山名氏の攻撃に三年耐えた城。 (2023/12/31 訪問)

御薗宇城は平賀氏の城の一つで弘安年間’(1278~1287)に築かれたとされています。応永10年(1403)山名満氏によって攻められ3年に渡る長期戦になり平賀弘章の子の共益・惟益・惟元が討死しますが国人衆の助けを受け山名氏を退けたとあります。
この日は雨がふったりやんだりで、直前に訪れた頭崎城は林道から分かれた城への急激な坂を車が登れずリタイアと散々だったのですが御園宇城はすんなり散策できました。案内板に沿って登っていくと石垣がありそこから左へ折れて主郭にたどり着きます。
主郭の周囲は切岸のような斜面に囲まれていて、それを登っていくと北の郭にたどり着きます。この郭二段になっていて東の方がすこし低くなっているようですね。
広島や山口の林道はなかなか荒れているものがあり3城ほどリタイアしています。まともに歩いていくとかなりの距離があるので時間や体力の都合で割愛したりしています。頭崎城はいずれまた訪問したいですね。北からの道は有れているので南側から訪れる予定です。
途中からは坂が急すぎて四駆の軽でないとキツそうですね。酷道ならぬ通行不可な林道・ムリン道ですわ。

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いんげん丸虫

小池城(おいけ)(大池城)長野県生坂村 (2023/12/02 訪問)

標高788mの山城です。
この地を制していた丸山氏の城跡です。
細長い尾根に曲輪が並び、2つの堀切
があります。
麓のいちょう公園付近に駐車可能です。
看板等は一切無いですが、登城道は
あります。
しかし、この山は10数年位前に
松くい虫か何かの被害にあったようで
すね。
ほとんどの木が根元から朽ちてます。
無数の倒木を越えて登らねばならず、
崩壊している箇所もあるので、山歩き
に慣れてない方はお薦めできません。

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ぴーかる

名胡桃城 (2023/11/25 訪問)

【続百名城65城目】
<駐車場他>名胡桃城址駐車場無料数十台分あり
<交通手段>車

<見所>大空堀・堀切・土塁
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅3日目12城目。上記駐車場は般若郭跡になっていて曲輪内をぐるりし案内所にてスタンプ押印・御城印を購入、少し資料が置いてあるので見学してから登城しました。順路は南北を大空堀で阻まれているので3郭・正面馬出し跡から奥へ奥へ行くしかないので馬出し跡⇒3郭跡⇒2郭跡⇒本郭⇒ささ郭の順で進みました。各曲輪間を仕切る堀切・曲輪土塁は見応えがあります。二の丸櫓台・2郭北虎口跡には腰巻石垣がわずかに残されています。
 北東側に流れる利根川段丘上の断崖沿い縁に築かれた城で西側からは僅かに低地、北東側からは断崖上に築かれた山城になっています。南北に仕切る大空堀もダイナミックで小諸城と同じ、構造上は小諸城とそっくりでミニ小諸城と言ってもいいのに小諸城は平山城、名胡桃城は山城分類されていて何だか分類上変に思いましたが見応えはありました。

<満足度>★★☆

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しんしんちゃん

幕末期の広島藩の隠し城 (2023/12/31 訪問)

八条原城は南に関川が流れ周囲を山に囲まれた、三つ掛山の山麓に築かれています。幕末の動乱期に広島藩が高間多衛を軍事奉行に任命して築かせた城で、藩士の子弟を以て組織した八旗隊の修練の場所という名目になりますが実情は有事に備えた広島藩の隠し城のようです。
かつては周囲を石垣で囲まれていて東南側に本門を設け兵営舎・炊事場・風呂場・道場などが建て並んでいたようですが今は何も残っていないようです。現状神社の境内になっており東側と北側に土塁が残り、本丸は周囲より微高地にあり、西側の一帯がさらに微妙に高所になっています。かつては城内に米蔵が有り、志和盆地八千石の年貢米が入れられていたそうです。
案内板には軍事奉行は高間多須衛とあり内容は城郭大系と若干異なります。内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川口の六か所の関門を設け軍監・木原秀三郎率いる神機隊留守隊が守備し志和盆地を要塞化できるようにしていたようなので、その際には八千石の年貢米が重要な籠城のための兵糧になったと思われます。

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