久しぶりの長浜城です。羽柴秀吉の城として有名な城ですが、遺構はほとんどありません。それなりに周囲を散策し石碑などから当時の規模を想像して楽しんできました。
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2024/07/25 22:12
2024/07/25 21:14
じょうじょうじょう (2024/05/25 訪問)
【上条城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑がある月極駐車場フェンス前に停車しました。
<交通手段>車
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾9城目。上条城の築城は1218年に小坂光善という鎌倉時代の武将によって築城されました。築城した後に小坂光善は近江国に移り住みましたが室町時代に子孫が上条城に戻り林氏に改称します。織田信長の時代に林氏は領地を信長に献上して帰農します。城は信長の家臣の尾張吉田城主である小坂雄吉に与え城の大改修を行います。小牧長久手の戦いでは林氏は池田恒興軍の道案内等を務めますが、秀吉の撤兵条件として取り壊す諸城うち上条城も含まれていて城は廃城となります。廃城後林氏は大庄屋として明治まで残ります。
城跡地の本丸跡は現在月極駐車場になっています。土塁や天守台が残されているようですが、ガードフェンスが立てられていてほとんど見ることができません。林氏の末裔で明治の農民運動家、林金兵衛重勝の石碑があります。
<満足度>◆◇◇
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2024/07/25 21:02
鴻巣御殿 日本一小さい御殿跡 (2024/05/05 訪問)
埼玉県鴻巣市にある鴻巣御殿跡は文禄2年(1593)徳川家康によって鷹狩や視察などの目的に築造されました。その後、寛永7年(1630)に至るまで徳川将軍家三代によって使用されたとのことです。かつての敷地の広さは1.4ヘクタールにも及びましたが、いまは小さな東照宮が民家の間に祀られているのみです。かつて御殿地に祀られていた東照宮は明治三十年代に鴻神社に合祀され、御殿跡の比定地も明らかではなかったのですが平成6年の試掘調査によって、一部が確認されたようです。
現地には「江戸図屏風」の一部の写しのパネルがあり、かつての壮大さを窺い知ることが出来ます。
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2024/07/25 20:58
跡地は本城寺境内 (2024/07/24 訪問)
山門脇の案内板に、室町時代中頃に酒井定隆の居城があった場所で、今でも周囲には空堀と土塁の跡が残っています。本城寺は下総国に・・・云々、と載っている。酒井氏が土気城に移るまで機能していたらしい。夏草の生い茂る時季で遺構が分かりづらく、やはり冬場が最適でしょうか。また本堂裏手は行けますが、遺構のあるらしい居住建屋の背後は、承諾がとれず奥は遠慮しました。
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2024/07/25 20:27
「推し」の城? いえいえ「のぼう」の城です。 (2024/05/05 訪問)
映画「のぼうの城」を見た後で現・忍城を見に行くと「?」マークが浮かんでくると思います。立派な御三階櫓があって結構なんだけど、映画で見たあの「ショボイ汚城」は何処に行った? これが正直な感想だと思います。すっかり開発がすすんで、周囲の景観もガラリと変わってしまっています。かつては本丸を中心に周囲に幾つもの曲輪が水堀に浮かんでいて、周囲は湿地帯に囲まれ、これらの地形的条件が石田三成の水攻めを招くことになるのですが、本丸周囲のほうがわずかに微高地にあったので完全には水没には至らなかったようです。
豊臣秀吉にしてみれば、つまらない城攻めで優秀な官僚を失うよりは、忍城の戦闘能力を奪ったので良しとしたかもしれませんが、三成は悔しかったのではないでしょうか。今の立派な忍城は江戸期の松平時代のものと思いますが、個人的には「ショボイ汚城」も見たかった気がします。ちなみに「汚城」ですが、ネットで見た一般的(?)な評価で、私が言いだしっぺじゃないですぜ。
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2024/07/25 20:23
遺構アリマシタ (2024/07/24 訪問)
初めての神社や寺院が存在している城跡の投稿になります。
城の由来や歴史などに無頓着な私にとって遺構が無ければ書くことが無くなるので毎回ダイジェスト写真1枚でサラッと終えています。
こちらは遺構は無いとの事でしたが行ってみたらそこそこ残っていました。
当時堀切だった道路から2郭にある天真寺の階段を上がると堀切裏側には土塁が残っています。
そこから東に向かうと鉄塔のある主郭が見えてきて、その先に3郭に降りる虎口がありました。
3郭から南側の大手らしい場所を覗くと竹の中に堀切道を確認出来ました。
どうやら大手は南側にあったよう、後で南に廻ってみましたが立ち入る事が出来ません。
主郭に登ろうとその辺を物色していた所、犬に吠えられ続けあえなく中止。そんなに私は怪しいか!
この後、人吉盆地の南側の相良氏由来の城跡を5か所訪問しました。
1か所当り30分~2時間弱の城跡でしたが中には楽しい場所もありました。
諸々がひと段落終えた後で投稿したいと思います。
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2024/07/25 20:16
2024/07/25 19:56
2024/07/25 19:29
ズドン! (2024/05/05 訪問)
何年持ちますかね~‥いや、こっちの話、最近雷が発生しやすいので気を付けた方がいいですよ。ズドドンドン!(こらこら‥)
皿尾城は忍川を挟んで忍城の北西1kmの所にあり、現在は雷電神社とふるさと館の敷地になっています。神社の北側に土塁が残っており、ふるさと館には城址碑が建っています。忍城を攻略するために永禄4年(1561)上杉謙信により築かれ,木戸監物入道玄斎を置いて、忍城の成田長泰に備えたとされています。
石田三成の忍城攻めの際には陣城として使われたともされ、忍城を守るにも攻めるにも有用な城であったようです。めっちゃ近いですし。
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2024/07/25 18:59
公園化されているので,ファミリー層が多かったです👪 (2024/05/04 訪問)
天白城からの転戦です。猛暑の中でしたが,徒歩でも余裕です。とても暑かったのですが,ファミリー層が多くて撮影に苦慮しました…<苦笑>。
人気があるのは,ネーミングから「真田」の「本」来の「城」との発信力では…と推察。たしかに,上田城に移るまで,真田氏の拠点となっていた城に間違いありませんが,歴史を少しでもかじったうえでの訪城か,いささか疑問に感じるシーンも見受けられました。
なお,こちらの別名は「松尾新城」ですが,「松尾古城」ほど難儀ではありません。車なら,定番の標柱ワキまで行けます。
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2024/07/25 18:49
2024/07/25 17:40
何をするにも便利な場所 (2018/12/02 訪問)
日曜日ということもあってか周辺は相変わらずランナーや散歩を楽しむ人が多い。
それでも中に入ると、ゆったり回ることができました。
駅も近いし何をするにしても便利な場所にあります。
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2024/07/25 16:29
公園内にあります (2024/05/22 訪問)
公園内チャシ3か所目
こちらは探し当てても、んーとなりました。
砦だろうけど平滑跡も見受けられないし、周囲の濠もありません。
写真2の道路位置が濠若しくは帯曲輪跡ではないかという方もあるようです。
どうなんでしょうかね、偉い人がチャシだって言うんだからチャシで良いかな。
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2024/07/25 15:44
2024/07/25 14:42
2024/07/25 11:10
111【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (小牧長久手の戦い(1/2)-小牧山城) (2023/09/06 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑬です。
直政がついに侍大将となり、秀吉との決戦のため初めて「井伊の赤備え」を引き連れて布陣した小牧山城を訪れてきました。名古屋駅から名鉄犬山線に乗り岩倉駅で下車。東口から小牧行のバスに乗って30分、小牧市役所前で下車すると目の前が小牧山城です。
バスを降りると、まず大きな土塁が目の前に現われます。榊原康正がわずか5日で築いたという有名な土塁です。高さ8mと大きくて深いですが、さらにその上にも土塁があり(二段構え)、秀吉がこれを見た瞬間「小牧山を攻めるは容易ではない」と語った理由が分かる気がしました。そして外側は鋭く内側は緩やかな傾斜だったようです(写真⑤⑥⑦)。つまり守りやすく攻めにくい作りになっていたという事ですね! さすがは康正です。
信長・家康時代には天守はなく、土造りの城に最上部を石垣で固められていたようです。今ある天守(写真①)は、昭和42年に名古屋の実業家(平松茂さん)が私財を投じて建てたと書いてありました。その天守に登って見渡すと、360°濃尾平野が見事に一望できました。そして北東の方角を眺めると、秀吉が布陣していたという楽田城があの位置にあったようです(写真②)。そして南東の方角には合戦地、長久手がかすかに見えました(写真⑧)。
井伊直政は御幸橋口付近に布陣していたと思われます(写真③④)。楽田城にいた秀吉軍10万の壮大な軍勢を、家康と直政はどんな思いで、ここ小牧山から見つめていたのでしょうか?
家康はこの時から井伊の赤備えを主力部隊にしようと考えていたようです。というのも石川数正がこの直前に秀吉の元へ出奔したため、徳川軍の戦力や戦術などの情報は秀吉側へ筒抜けとなっていました。よって今までと違う部隊で、違う戦い方を余儀なくされていたようです。そこで家康は軍制を甲州流へ変更、主力は井伊直政軍1万、酒井忠次・本多忠勝・榊原康正軍はそれぞれ5千の陣容に変更しました。。
対する秀吉は、この膠着状態を打開するため「中入り」の策をとります(中入りとは、空白となっている背後の相手の居城を攻める事です)。池田恒興と森長可の秀吉軍別動隊が夜陰にまぎれて岡崎城を攻めるために出陣。家康は伊賀衆の報告でこの動きを知ります。
多数のかがり火を焚いて、いかにも家康はまだこの小牧山城にとどまっているかのように見せかけ、本多忠勝を残し、家康は直政らとともにこの堀を密かに通って城外へ抜け出し、長久手へ向かいました。どうして秀吉の間者(忍者)にも気づかれず、うまく抜け出す事ができたのでしょうか? 深い堀なので気づかれなかったと伝えられていますが、本当にそれだけだったのでしょうか? 深夜で足元が暗いのに、全くかがり火を焚かないで、どうやって長久手までの写真⑧の長い距離を行く事ができたのでしょうか? これだけの軍勢が移動するので、鎧のガシャガシャという音や人間の足音、馬の足音や鳴き声など、秀吉の間者や地元の農民などから気づかれない理由がないと思うのですが🤔? 私には何だかとても不思議に思えてなりませんでした。
次は(長久手古戦場)へ続きます。
引き続き赤備え隊の活躍を追います。
【余談】名古屋の居酒屋
夜は名古屋の居酒屋に入ってみました。濃い味噌ソースをかけたカツや土手煮、名古屋コーチンの手羽やその出し巻き卵といったメニューが多く(写真⑨)、どうやら濃い味噌を使った味で、鶏や豚などを食すのが名古屋文化なのかもしれません。ならばこれらにはチューハイが合いそうだなと思って注文すると、こんなものが出てきてビックリしました😲(写真⑩)。このレモンも名古屋文化なのでしょうか??
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2024/07/25 08:05
とことん江戸城・番外編(上野東照宮) (2024/05/28 訪問)
上野東照宮も昨年は開門時間前で入れなかったので、寛永寺に続いて訪れました。言うまでもなく東照大権現・徳川家康を祀る神社ですが、寛永寺の一角に創建された東照社をはじまりとし、徳川家光が日光までお参りに行けない江戸の人々のために日光東照宮に準じて建立した社殿が現存しています。
大石鳥居から水舎門を抜けて両側に石燈籠の立ち並ぶ表参道を進むと、右手に江戸前期再建の五重塔が建っています。明治の神仏分離令を受けて寛永寺の所属とすることで破却を免れ、その後、東京都に寄付されたことから現在は上野動物園の敷地内にあり、東照宮境内からは柵越しに眺められるのみです。
前回は入れなかった門の中に入ると右手に神楽殿、左手に水舎があり、水舎の隣に境内案内図が立てられています。そして突き当りには絢爛たる唐門が建ち、その背後には金色殿と呼ばれる社殿も覗いています。透塀の内側で社殿を間近に拝観することもできますが(拝観料大人500円)、帰りの新幹線の時間まで余裕がないので断念…。唐門の両脇には徳川御三家が奉献した銅灯籠が三基ずつ並び、御三家灯籠と呼ばれています。参道沿いに立ち並んだ約200基に及ぶ銅灯籠や石灯籠も全国の大名家から奉献されたもので、境内案内図をよく見てみると全ての灯籠が番号付きで書き込まれていて、案内図下段に灯籠の番号と奉献者名、奉献年代が記されていました。時間が許せば案内図を参照しながらひとつひとつ見て回りたいところですが、帰りの新幹線の時間まで(以下同文)。最後に、佐久間勝之が奉献し日本三大燈籠に数えられるお化け燈籠を見て、上野東照宮を後にしました。
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2024/07/25 06:58
庭瀬城と一体の沼城 (2024/07/07 訪問)
庭瀬城から徒歩で5分かからないくらい。
南側に撫川知行所総門が移築されています。
まずは外側をと歩きますが周囲は住宅地で西側から石垣を望むしかありませんでした。
大手に戻り、門から中に入ります。
東側には土塁が残り、北側には三神社が鎮座します。
撫川城址公園となっていてこの日も虫採りの親子が遊んでました。
それにしても子供の頃には平気だった虫が大人になると苦手になってくるのはなぜなんでしょうか?
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2024/07/24 23:18
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