見事でした。杉の木の風景。街並み。
行って良かったです。
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2025/07/27 22:48
2025/07/27 22:42
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立花宗茂 (2014/10/09 訪問)
柳川城は文亀年間に蒲池治久によって築かれたとされています。戦国時代に龍造寺隆信や鍋島直茂の攻撃に耐え抜きますが、天正9年に蒲池鑑並が龍造寺隆信によって謀殺されると柳川城は龍造寺氏の支城になりました。その後、大友氏の将・立花道雪と高橋紹運が柳川城を攻めるも落城させることは出来なかったようです。
豊臣秀吉の九州征伐後は立花宗茂の居城になりますが、関ヶ原の合戦後は田中吉政が筑後一国32万5千石で入り、城を全面改修しました。
元和6年(1620)に田中忠政が後嗣なく病没し田中家が改易になると立花宗茂が10万石で再び柳川城主となりました。
現在は柳川中学校と高等学校の敷地内にあり、石垣や天守台跡が残っています。
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2025/07/27 20:52
資料館もオススメな安田城 (2025/04/29 訪問)
富山の城の縄張図入手を兼ねて訪れた富山県富山市の安田城。
富山平野を東西に二分する呉羽丘陵の東麓、井田川の西岸で水堀に囲まれた3つの曲輪からなる平城。
1585年に豊臣秀吉が富山城の佐々成政を征伐する際、呉羽丘陵上の白鳥城が本陣となり、安田城はその支城の1つとして前田家臣の岡嶋一吉が配置されたとのこと。
成政降伏後の城主は不確かなところもあるが、最近ではこの時期に本丸が築かれたとの説がある様子。
1599年の前田利家の死去に伴い岡嶋一吉が金沢へ移ると、家臣の平野三郎左衛門に引き継がれ、間もなくして廃城になったと伝わります。
現在は水堀と土塁がほぼ全域復元され、小さな資料館も建つ国指定の史跡公園。
訪問時は雨が降ったり日が射したりの忙しい空模様。
本来は右郭が唯一の入城口だそうで、L字型の曲輪レイアウトは横矢を意識したものでしょうか。
他とは異なる直線を基調とした本丸は、幅の広~い土塁を装備し、土塁の上がまるで1つの曲輪の様。
滞在時間は約1時間。
県内60以上の城の縄張図を配布する資料館もオススメな、私の城郭巡りの206城目でした。
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2025/07/27 19:24
宇土櫓(素屋根内部特別公開) (2025/07/13 訪問)
宇土櫓の素屋根内部の特別公開があったので見に行ってきました。素屋根の中には初めて入るので、ちょっとドキドキです。しかし中に入ると、現在はちょうど解体工事が完全に終わったところのようでした(ガク!)。解体中の様子が見たかったので、もっと早い時期にも来ればよかったと後悔です(写真①②③)。
宇土櫓は昭和2年にも一度解体修理されていたようです。私も初めて知りました。完全な現存櫓とばかり思っていたのですが・・・。現在その昭和2年当時の補修部分を見る事ができます。礎石の上にあった土間に、コンクリートを敷き詰め鉄筋で補強していたようです。また筋かいの鉄筋も発見されたそうで八幡製鉄所の文字が刻まれていたとか。その当時の様子が100年経った今になって現れ、初めて明らかになったそうです。現在は当時の床面の古いコンクリートがはがされた状態で、その下から江戸期の土間の石垣と間詰石が現れ、礎石の上には昭和2年のコンクリと鉄筋がまだ残っている状態になっています(写真③)。
また江戸時代にも、宇土櫓は何度か災害などで補修工事がなされていたようです。初期の加藤時代の瓦と、修復に使われた細川時代の瓦が発見されたとの事で展示されていました(写真④)。また鯱も左右対称ではない事が分かり、左の口を開けている阿形は雄で、右の口を閉じている呼形は雌だそうです(写真⑤)。
解体工事は今月で終了したので、次回8月10日(日)の公開がとりあえず最後で、一旦公開は休止するとの事でした。また来年から2年間かけて始まる、宇土櫓の土台部分を補強し、保存されている高石垣の石を積み直す工事や(写真①下の足場部分)、この間に解体した建材を補修し、それらを使った櫓の再建工事(三重五階)が3年後から始まります。その再建工事の途中に特別公開がまたなされると思うので、その時にまた様子を見に行こうと思っています。これまでの解体の様子は、熊本城公式HPに動画で公開されていますので、そちらを御覧下さいとの事でした(写真⑥)。
また未着手だった天守北面も新たに足場が組まれ、やっと北面の石垣復旧工事もが始まったようです。少しずつですが着実に復興が進んでいると感じました(写真⑦⑧)。暑い中、工事関係者の方々には、本当に頭が下がる思いです。
熊本城全体の完全復旧は2052年の予定なので、まだ気が遠くなるくらい先ですが、でもせめて宇土櫓が完成する2032年までは、私も何とか健康でいて見届けたいなと思いました(写真⑥宇土櫓行程表)。
猛暑の中を歩き回り疲れたので、帰りに熊本ラーメン(焦がしにんにくたっぷりの濃厚豚骨)を注文して食べました(写真⑩)。これは・・・かなり効きました!(笑)。
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2025/07/27 17:17
元離宮 (2025/07/26 訪問)
近くまで来たので寄ってきました。最初の予定にはなかったのですが、外から西南隅櫓や堀を見ていたら素通りはできなくなりました。時間もなく暑かったこともあり二ノ丸御殿、本丸御殿はパスしてさらりと散策しました。
前回来た時は新型コロナウィルス感染症の流行期で出張で京都へ来たときに空いた時間を利用して登城しましたが、観光客も少なかったのですが、今回は多くの人が見学してみえました。
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2025/07/27 16:55
豊臣秀吉妙顕寺城 (2025/07/26 訪問)
二条城東大手門から東へ徒歩約10分の場所に石碑と説明板がありました。城びとには未登録の城址です。豊臣秀吉が聚楽第を築くまで京都における拠点となった城と伝わります。普段は前田玄以が在城して政務を執り、秀吉が上洛したときには宿舎となりました。堀に囲まれ天守もあったと伝わりますが、実態はまだわかっていないようです。
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2025/07/27 16:49
出雲大神宮 (2025/07/26 訪問)
出雲大神宮背後の神体山である御影山の頂にある城址です。御影山は出雲大神宮の御神体で入山は禁止となっています。出雲大神宮に参拝して山を見上げて撤退しました。二重堀切などそれなりに良い遺構はあるようです。
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2025/07/27 12:20
居館から平城に (2016/01/01 訪問)
江田館の主郭は東西約80m、南北約100mの広さを持ち、周囲に土塁と堀を巡らせていました。本丸の西と南をカギ状に囲んで二の丸が配されていたようです。古くは新田義重の子孫である江田行義の館跡(平城)とされ、行義は新田義貞の北条氏討伐に参加し軍功を立てました。文禄年間に子孫の守下大膳が祖先の居住していた、この地に戻ってきたとされています。
戦国期には金山城の出城としての役割を与えられ、由良氏の四天王の一人とされる矢内四郎左衛門の居城となりました。土塁上には新田義貞を祭る石宮があります。
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2025/07/27 11:07
明治の世に近世城郭として生まれ変わるも、すぐに廃城 (2013/09/22 訪問)
中世には波多野氏の家臣・荒木氏綱の居城があったとされています。近世の園部城は元和5年(1619)小出吉親が3万石で入り園部藩を立てたのが始まりとされ、陣屋の完成と共に宍人から園部に入りました。幕府より城と名乗ることを許されていませんでしたが、実質的に城としての外観を備えていたようです。
幕末の動乱の中、元治元年(1864)京都の守護を目的として幕府に築城(増築)を願い出ました。櫓門3か所や櫓9か所を増設し、実質的に本格的な近世城郭とする改修が目的でしたが許可が下りず、慶応3年(1867)徳川慶喜の了承を得るものの明治維新を迎え、なんと明治政府によって許可が下り、明治2年に上棟式が行われ櫓5つが増築され、明治の世に近世城郭に生まれ変わりました。
とはいえ、すぐに廃藩置県が行われ、園部県が置かれ県庁となるものの、すぐに園部県も廃止となり廃城となりました。
現在は隅櫓や櫓門の一部が残っています。
後ろの写真は北に100mほど行った所にある南丹市国際交流会館で外観は城郭を模しています。北西の小麦山には三層の小麦山櫓(子向山櫓)が立てられ、明治10年まで残っていたようです。なんとなく隠れ天守の雰囲気で、できれば残しておいて欲しかったですね。
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2025/07/27 10:41
将軍の宿館 (2013/09/14 訪問)
水口には天正13年(1585)に豊臣秀吉によって水口(岡山)城が置かれ、その城下町として発展しました。関ヶ原の合戦後に交通の要衝である水口は徳川家の直轄地とされ、宿泊地に指定されました。徳川家康はこの地を訪れた際には大徳寺などに宿泊していたようです。
寛永11年(1634)に徳川家光上洛の為の宿館として築かれ、本丸の周囲は石垣と水堀で固められ、北と西側に枡形が附けられていたようです。北に二の丸が配され、本丸の四隅の坤・乾・艮・巽の方向に櫓が建っていました。
建物の構成は京都の二条城に通じるものがあったとされています。現在は西の出丸(枡形)の部分に櫓が復元されて資料館として公開されています。山の上の水口城からごっそり持って行かれた石もどこかに残っているかも知れません。
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2025/07/27 09:57
改めて、尊敬してます。 (2025/06/28 訪問)
「宍戸城」の支城として築かれた「湯崎住吉城」。
ここまで来たから、1つでも『行った』をポチッするために向かいました。
写真①の所で『目的地周辺です。案内を終了します。』と車のナビ。
鳥居の前に車を駐車しました。
この周りは背の高い藪が多かったです。早目に退陣しました。
私はだいたい車でお城巡りしてます。
その道中、あまり歩いている方に出会いません。
そもそも、土地勘のない所で丸腰で歩き回る勇気がありません。
なので、公共交通機関とご自分の足でのお城巡り、尊敬します。
遅くなりましたが、にのまるさん、日本100名城制覇おめでとうございます。
車で、やっと到着したお城に、にのまるさんのレポートを見つけると、『どうやって来たの?』と驚かされます。
これからも城旅のレポート、楽しみにしてます。
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2025/07/27 08:18
地名の由来 (2025/05/04 訪問)
詳細は不明ながら、鎌倉期に北条氏傍流の浮気時房が築いたとされ、室町期には浮気氏は六角氏に仕えていましたが、六角氏が織田信長に追われると信長に従い、金ケ森城の一向一揆に対する拠点となりました。
城跡は住吉神社になっていて、境内奥の社叢林には東辺から北辺にかけて土塁と堀が明瞭に遺っています。境内側からは社叢林への立ち入りが禁止されているようには見えませんが(むしろ社叢林でのスズメバチや虫さされへの注意書きがある)、県道側にはロープが張られ、「森の中へ入らないでください」の注意書きが立てられていました。…どっち?? 一応、社叢林には(ほとんど)入らず、境内側からと県道側から眺めるに留めましたが、それでもひと通りは見ることができたと思います。
ところで、「うわき」とか「フケ」とかとかく城名でネタにされる浮気城ですが、どうしてこんな地名が…と思って調べてみると、「ふけ」とは低湿地帯を指す言葉で、このあたりは野洲川の伏流水が湧き出て森が茂る自然豊かな地だったことから、「紫気天に浮かびて雲間に動かず」の詩にちなんで浮気と名付けられたとのこと。そういえば住吉神社の周囲の道路脇にはきれいな水路が縦横に走っていて、鯉も泳いでいましたっけ。マイナスイメージどころか思いのほか高尚な由来でした(笑)
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2025/07/27 07:27
三連休初日・献血後の攻城③ (2025/07/19 訪問)
須屋城からの転戦です。熊本電鉄八景水谷(はけのみや)駅に着いた時にはかなりの雨が降っていました。ウェザーニュースの雨雲レーダーを確認してみたところ、すぐにあがりそうだったのでしばらく駅で雨宿りをしました。小降りになってきたところで亀井城へと向かいます。皆さんの投稿の通り、石垣遺構は民家の敷地に入り込まない限り拝むことができません。熊本地震の後、民家解体工事の折には石垣の全貌を拝むことができたとのことでした。石垣については石碑や矢印付きの案内表示があるだけに蛇の生殺しだよなあと感じてしまいました。光照寺境内にお邪魔して梵字石など拝見して亀井城を後にしました。この後、藤崎宮に行くために乗った熊本電鉄の車両は、東京メトロ日比谷線のお下がりでした。藤崎宮の境内の土は乾いていました。楼門は修復工事中でした。17時開店の店に徒歩で向かうところで、またまた雨が落ちてきました。お気に入りの店で、揚げたての辛子レンコンと絶品の馬刺し、球磨焼酎を堪能してホテルにチェックインしました。
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2025/07/26 18:24
隠れた名城が国の史跡に (2013/08/13 訪問)
水口岡山城は天正13年(1585)に豊臣秀吉の家臣・中村一氏によって築かれました。東海道を見下ろす要衝の地に築かれ「水口城」と呼ばれていたようです。以前登城してから随分時間がたちました・・なにもかも皆なつかしい・・というか良く覚えていない。
いやいや、マイナーだけど滋賀県にこんな凄い山城があったのかと感動したことは覚えています。当時は市の史跡でしたが、後に国の史跡に昇格し、一人ドヤ顔で喜んでいました。感動もひと塩(パッパ)です。
主郭には安土城に匹敵する高石垣が築かれていたと案内板には書かれています。城域は広く遺構も多い、関ヶ原に関する小説で長束正家が内府殿をこの城に宿泊させようとして断られた記述が有ったような気がします。
その長束正家は関ヶ原の合戦で西軍に付き敗れ、水口城に籠城するも、池田長吉・亀井茲矩らに攻められ降伏開城しました。長束兄弟は切腹を命じられ、水口城は廃城となりました。その後、水口城の石垣は将軍の宿所として新たに築かれた「水口城」に持っていかれて、本丸の周辺にちょこちょこ残っているだけです。
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2025/07/26 17:50
「赤い奴」で見るとどうなる? (2016/08/12 訪問)
後瀬山城は大永2年(1522)若狭国守護の武田元光によって後瀬山に築かれました。主郭には石垣が配され愛宕神社が祀られています。案内板によれば主郭から山麓の現・空印寺の居館跡に通じる北側の陵線と、登城道に平行する東側の陵線に大小139ヵ所の郭が設けられているようです。「赤い奴」で見ると凄いことになりそうですね。
これらの陵線の郭の間を繋ぐ道が北東谷間に幾つも見られ「谷の横道」と呼ばれているようです。北側の陵線の先端に幾つもの防御機能を持たせ、丹後国守護一色氏を意識し西の小浜への入口の防御を意識しているようです。
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2025/07/26 16:42
佐倉城 (2025/05/18 訪問)
【百名城81城目】
<駐車場他>自由広場駐車場数十台分あり。
<交通手段>京成電車京成佐倉駅から徒歩
<見所>櫓跡礎石・土塁・堀
<感想>1泊2日江戸満喫旅ラスト7城目。2日目江戸城散策後、帰りの新幹線まで時間があったので来ました。大手門跡から通り、城址公園センターにてスタンプ押印⇒三の丸跡⇒二の丸跡⇒馬出⇒歴博にて御城印購入⇒二の門跡・一の門跡⇒本丸⇒台所門跡から清水出丸跡⇒北の出丸跡・薬医門⇒帯曲輪を通って戻り終了しました。角馬出と曲輪の内部は芝が植えられ比較的整備がされていますが、二の丸跡の空堀等は手入れされた様子がなく、堀の醍醐味が見られなかったのが残念でした。駅から歩くと結構坂を登っていくので、台地上に築かれた丘城なのがよく分かる感じになっていました。石垣が無い土の城跡、平たいので、現存建物が無いと少し寂しい感じがしました。もう少し散策したかったのですが、帰りの新幹線があるので終了としました。結局お昼ご飯抜きの強行軍で東京駅で駅弁(高い!)を買って夕食兼としました。
<満足度>★★★☆☆
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2025/07/26 14:42
2025/07/26 10:26
2025/07/26 09:56
吉田松陰誕生之地 (2013/10/04 訪問)
吉田松陰は天保元年(1830)に家禄26石を持つ萩藩士・杉百合之助の次男として誕生しました。幼名は寅之助で吉田家に養子入りした際に大次郎を名乗っています。杉家と吉田家、久坂家は養子縁組や婚姻などでの親戚筋にあたるみたいです。
誕生地は団子岩と呼ばれる丘陵地にあり萩市内を眺望できます。写真にある小山は萩城の詰城のある山でしょうか。
吉田松陰の銅像の脇の人物は久坂玄随かな?と思いましたが、下田に同行した金子重之助(重輔)らしいです。下田海岸でペリー艦隊を眺望している時の姿を再現しています。
杉家は元々、萩城下の川島に住んでいましたが文化・文政の大火を機に俳人・八谷聴雨の別荘を父の百合之助が購入し当地に移り住んだようです。その後、嘉永元年(1848)一家は松本村清水口に戻り、現在の松陰神社の境内に居を移しました。家禄26石くらいあると、いろいろ引越しも出来るみたいです。実家も松陰さんが講義を出来るくらいの広さはあったようなので。
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