豊臣秀吉が京での拠点として平安京大内裏故地に築いた城館で、関白の城として豊臣秀次に引き継がれましたが、秀次切腹事件を受けて破却されました。
本丸と南二ノ丸、西ノ丸、北ノ丸の周囲を堀で囲んだ平城で、各曲輪を削平して堀を埋め立てるなど徹底的に破却されたため、地表面に遺構はほぼ見られません。そのため6年前は西堀跡と東堀跡の2つの石碑を見ただけで満足してしまいましたが、遺構はなくても痕跡はあちこちに見られるようですので、今回は聚楽第の堀跡をたどってみました。
ハローワーク西陣北側の聚楽第址石碑が本丸東堀跡、正親小学校北側の聚楽第址石碑が本丸西堀跡にあたり、辰巳公園北側には発掘調査で確認された本丸南堀石垣の説明パネルが設けられています(読みづらくなっていますが)。本丸の南東隅部には聚楽第の井戸と伝わる梅雨の井がありますが、堀の推定ラインによれば堀の中になるため後世のものとも考えられるようです。梅雨の井から南に約150mの松永稲荷社には聚楽城鵲橋乃旧蹟の石碑が立てられています。鵲橋は南二ノ丸の堀に架けられていた橋でしょうか。松永稲荷社から西南西に約250mの松林寺は山門から境内は一段低くなっていて、南外堀跡とされます(石碑もあります)。境内の南側はまた一段高くなっていて、なるほど堀跡とされるのも頷けました。また、北ノ丸北堀跡のマンション駐車場奥にも高低差があり、聚楽第の遺構とされる石垣が見られました。
この日は阪急レンタサイクルでの登城ですが、自転車でも堀跡をたどるのは思いのほか時間がかかり、聚楽第の巨大さを身をもって体感しました。さて、堀跡に続いて…というか並行してですが、周辺の武家地屋敷跡をめぐりました(続く)。
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