大宰府政庁(紫式部ゆかりの地を訪ねて⑤)
(2024/11/16 訪問)
紫式部(まひろ)がしばらく滞在したとされる大宰府政庁を訪れました。今では礎石が残るのみですが、ここが奈良・平安時代の九州の政治の中心地でした(写真①)。大宰府政庁内にある大宰府展示館(写真②)には、平安時代の様子を解説する資料が残っています。
亡き夫の宣孝は、かつてこの大宰府に赴任していました。紫式部が訪れた当時は、道長と敵対関係にいながら目を患って下向したあの藤原隆家が赴任していました。隆家は中宮彰子の女房であった紫式部の事を憶えていて、宴を開いてもてなしてくれたそうです(写真④⑤のような感じかな?)。隣の観世音寺には歌も残っていました(写真⑥)。紫式部が訪れた時(1018年頃)は、菅原道真が没してから約100年経っているので、道真を祀る大宰天満宮もおそらく建てられていたのではないかと思います。ならもしかして、紫式部も梅ケ枝餅も食べたのではないか? と想像し買って帰りました(写真⑩:やっぱりおいしい😊)。
しかし、紫式部(まひろ)はここで滞在中に、刀伊入寇(といにゅうこう)という事件に巻き込まれてしまいます。これは外国(満州の族)が日本を初めて襲って来たという、元寇よりまだ250年前の出来事です。対馬・壱岐・博多と攻めて来た彼らを隆家は果敢に戦って守り抜き、これらを撃退しました。そのため紫式部はなかなか京へ戻れず、2年後にようやく隆家とともに戻る事ができたようです。しかし隆家には援軍を送らなかったどころか、何の恩賞も与えられなかったようで、当時の関白藤原頼道(道長の子)やこの時代の公卿たちにいかに危機意識がなかったかが分かります。
その間に紫式部(まひろ)の娘の賢子(かたこ)は、大宰府へ旅に出た母の意志を継いで土御門第邸へ上がり、皇太后となった彰子の世話をしつつ、また彰子の孫(後一条天皇の子)の乳母となったそうです。そして従三位(女房の筆頭)にまで登りつめたとか。道長がこの時、賢子は自分と紫式部(まひろ)との間にできた子だと知り、取り立てたのではという説もありますが、実際の賢子は仕事のできるキャリアウーマンだったようです。紫式部(まひろ)は、低い身分の女性でも社会で認められて自立し、自分の成し得なかった夢を実現してくれた娘の姿を見て、とても喜んでいたのではないでしょうか。
一方では、天皇の後見職である摂政となった道長は、後一条天皇が幼くして亡くなると、また同じく自分の孫(敦良親王)を後の天皇(後朱雀天皇)に即位させ摂政関白となり、やりたい放題の栄華を極めます。しかし、あまりの独裁政治に他の公卿たちの反感を買い、またここで再び体調を崩したため、子の頼道に摂政関白の座を譲り出家する事にしました。そしてここで京へ帰ってきた紫式部(まひろ)と再会しますが、その後の1027年藤原道長はついにその生涯を閉じてしまいます(享年61)。
次は、紫式部が晩年を過ごした雲林院とその墓を訪れます。
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