普通に紹介される石段と石垣だけが遺構だと信じて行ったら水堀はあるしでっかい土塁もあるし、しっかりした遺構を残す巨大なお城だった。江戸時代のはじめに廃城となっていたとは思えない。機会あればぜひご一見あれ。
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2024/12/10 22:20
とんでもなくでっかいお城だった (2024/03/03 訪問)
普通に紹介される石段と石垣だけが遺構だと信じて行ったら水堀はあるしでっかい土塁もあるし、しっかりした遺構を残す巨大なお城だった。江戸時代のはじめに廃城となっていたとは思えない。機会あればぜひご一見あれ。
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2024/12/10 21:51
歴史文化施設・あまわりパーク (2024/11/24 訪問)
■はじめに
こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
山梨県甲府市で躑躅ヶ崎館跡こと史跡・武田氏館跡でボランティアガイドを行っていて、ふだんは躑躅ヶ崎館に関する情報を投稿しています。
今回は番外編として、Eがただいま在住している沖縄のグスク、勝連グスクに関する情報として、グスクに隣接するおすすめの歴史文化施設、「あまわりパーク」を紹介します。
※おことわり
この投稿は2024年11月時点の状況に基づき執筆しています。
また、文中の記述はEこと上田絵馬之助個人の見解であり、躑躅ヶ崎歴史案内隊の見解ではありません。
あと、長いです。
まとまった時間のある時に、腰を据えて読んでください。
■「あまわり」って何だ?
そもそも「あまわり」とは何でしょうか。
平仮名ではあまわり、あまおへと称されることもあり、漢字では「阿麻和利」と書かれるこの名は、天から降りてきた者《天降り(あまおり)》が転じたと言われます。
そして、この名で呼ばれた人物こそ、勝連グスクの10代目にして最後の主、「護佐丸・阿麻和利の乱」当事者として古琉球史屈指の知名度の反逆者、あるいは英雄と評される、勝連按司(あじ・地方豪族)阿麻和利です。
生年は不詳です。
没年の1458年は室町時代、足利義政の治世に当たります。
応仁の乱が勃発する1467年の少し前です。
琉球では北山・中山・南山に分かれて争った三国時代とも言える《三山時代》が、1429年に中山の尚巴志(しょうはし)によって統一され、首里城を王府とする第一尚氏王朝が誕生してから30年ほど過ぎて、巴志の五男・泰久(たいきゅう)が第6代琉球国王として支配を強化していた頃で、一方では、後に尚円王として第二尚氏王朝を打ち立てる金丸(かなまる)が王府に仕えて頭角を現していた頃です。
阿麻和利の前半生については、伝承によってさまざまな姿が伝えられています。
幼名は「加那(かなー)」。農民の生まれとも、他所の按司の子とも言われます。
北谷間切(ちゃたんまぎり・現在の北谷町・嘉手納町)の出身と言われますが勝連に移り住み、当時の勝連按司・茂知附(もちづき)を追放して、一代で勝連グスクを手中に収めたと言われています。
このあたり、茂知附が悪政をふるう按司だったとも、追放でなく殺害したとも様々に語られますが、これに替わって按司を継いだ阿麻和利は、
土地が狭く耕地に向かなかった勝連で漁業を振興させ、また、海外交易によってその経済を発展に導き、強い勢力を有するようになったと伝えられます。
■護佐丸・阿麻和利の乱~反逆者から英雄へ
勢力を拡大する阿麻和利に、首里王府は尚泰久の娘・百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせ姻戚関係を結ぶ一方で、勝連への抑えとして、かつて三山統一に活躍した名将・護佐丸(ごさまる・娘は尚泰久の妃で百度踏揚の祖父)に中城グスクを守らせます。
勝連と中城の地は中城湾をはさんで互いに目にできる位置にあり、祖父と孫婿にあたる二人が対峙する形となります。
王府が編纂した琉球の歴史書「中山世鑑」などによると、やがて阿麻和利は王に替わる野心を抱き、1458年、中城グスクの護佐丸に謀反の濡れ衣を着せ、自ら軍を率いてこれを滅ぼします。
その後いよいよ首里へ攻め入ろうとしていたところ、妻・百度踏揚が勝連グスクを脱出して彼の野望を王府に知らせたことによりその討伐を受け、護佐丸と同じ1458年のうちに、大城賢雄(うふぐしくけんゆう・後に百度踏揚の夫)に討たれたとされています。
阿麻和利は王府によって反逆者と記録され、後年18世紀に生まれた琉球芸能「組踊」の演目「二童敵討」で、護佐丸の遺児に討たれる按司・あまおへ役として描かれたことも相まって、「護佐丸・阿麻和利の乱」で反逆を企て、無実の護佐丸を死に追いやったヒールとして定着し、現代まで長く伝えられてきました。
ところが一方で、16世紀から17世紀にかけて王府が官民の詩歌を収集・編纂した沖縄版万葉集とでもいうべき「おもろさうし(そうし)」には、当時の勝連の繁栄ぶりを伝えた歌や、阿麻和利を「肝高(きむたか・志高い。勝連の美称でもある)の」と称し、勝連に富をもたらした英雄として讃えた歌が収録されています。
また、近代の琉球史研究において、「中山世鑑」などの歴史書を王府に都合よく書かれたものとして、王府が琉球支配を確立するため、有力按司だった護佐丸と阿麻和利を処断し、反乱として記録したのでは?と、おもろさうしの精査とともに阿麻和利を再評価し、反逆者の汚名を払拭する動きもみられます。
果たして阿麻和利は反逆者だったのか、英雄だったのか。
いずれにしても、古琉球史において阿麻和利の名は、尚氏王朝が琉球支配を確立した時代を彩った存在として、今日まで伝えられています。
■あまわりパーク①~勝連と阿麻和利を知る
「あまわりパーク」は勝連グスクと県道を隔てた反対側に位置する歴史文化施設です。
様々な展示によって、勝連グスクそして阿麻和利を知ることができます。
常設展示室に入ると、順路の廊下に勝連の繁栄と阿麻和利を讃える「おもろさうし」の収録歌がプロジェクターで映写されてます。
廊下を抜けると、広い展示室にパネルやグスクのジオラマ、展示台が並んでいます。
パネル展示では阿麻和利という人物を解説し、あるいはグスクの時代から現代までの勝連を紹介するほか、グスクを再現した巨大ジオラマや当時の交易船の模型が飾られ、展示台のケースの中にはグスクの出土品が数多く陳列され、阿麻和利とその時代を中心に勝連グスクの姿を伝えてくれます。
展示される出土品は実物が並び、陶磁器、武具のほか、古代ローマ・アラビアのコインが目をひきます。
当時の琉球は日本、朝鮮、中国、東南アジアと交流があり、これらは交易によって海外から勝連にもたらされ、
勝連の繁栄の裏付けと考えることができます。
また、甲冑ガイドとして特筆したい武具については、刀や矢の部品のほか、ブロック状に固まった胴鎧の一部と思われる破片が展示されています。
現在沖縄には完全体で残る甲冑は一領もありませんが、発掘調査で断片的に出土するのは、すべて日本式の鎧兜の部品である小札(こざね)、八双(はっそう)金物、立物(たてもの)などであり、王家の宝刀として現代まで伝わる千代金丸(那覇市歴史博物館所蔵)などの日本刀とあわせて、阿麻和利や護佐丸たち古琉球の武将は、日本式の甲冑に身を固めて戦っていた可能性が高いと考えられています。
なお、展示パネルでは、阿麻和利は陣羽織に前立のついた頭巾姿で描かれていますが、
これは組踊の舞台衣装であり、歌舞伎の石川五右衛門のように戯画化された格好であることを補足します。
■あまわりパーク②~アニメとパフォーマンスを見る
あまわりパークの見どころは資料展示ばかりでありません。
展示室中央には大型スクリーンとステージ、客席で構成されるライブシアターがあり、勝連グスクと阿麻和利を紹介する様々な作品が上映、上演されます。
大型ビジョンに上映される映像作品には阿麻和利や勝連グスクを解説した映像のほか、うるま市が制作したアニメーション「勝連おもろそうし」が公開されています。
「阿麻和利編」「百度踏揚編」の2作品がありますが、阿麻和利を演じるのは星飛雄馬やアムロ・レイを演じたレジェンド声優、古谷徹さん。
そして、沖縄県出身の声優でアニメ作品で活躍する下地紫野さん、「機動警察パトレイバー」などのベテラン声優・池水通洋さんほかが出演されてます。
この作品はうるま市のYouTubeで公開されているので、あまわりパークを訪れる前や訪れた後にも楽しむことができます。
そして、あまわりパークの目玉と言っても過言ではないのが、ライブパフォーマンス。
地元うるま市の中高生が20年以上も代々演じている、琉球版ミュージカルともいうべき現代版組踊「肝高の阿麻和利」。
そのスピンアウト作品が、土日祝の休日に上演されています。
沖縄の古典芸能"組踊"にエイサーやダンスなどを取り入れた「現代版組踊」。
「肝高の阿麻和利」本編にも出演する演者さんたちが、ダイナミックな演舞と映像・照明の視覚効果を取り混ぜてのパフォーマンスで、阿麻和利の半生をめぐる時間の旅にいざない、阿麻和利やその時代をより身近に感じることができ、そして、それを創っている地域の人たちの熱さを知ることができます。
■むすびに
最後にむすびとしてひとつ。
勝連グスクを訪ねる際には、まずあまわりパークの展示によって、阿麻和利の生涯を知ってからグスクへ行くことをおすすめします。
小高い丘にそびえ立つ、グスクの曲輪の高みに登って、
勝連半島から沖縄本島、そして東海岸の海を見渡したとき、
阿麻和利が見た風景としてこれらを見ることができるからです。
護佐丸の居城・中城とにらみあい、
遥かな首里王府に思いを馳せ、
中城湾からはアジアそして世界へ続く
海の道を望むことができて、
阿麻和利は、果たして反逆者なのか、英雄なのか……
自分なりの答えを探す楽しさを体験することができます。
以上、あまわりパーク、そして阿麻和利を紹介しました。
長文におつきあいいただきありがとうございました。
□あまわりパーク要目
(2024年11月現在・公式サイトから)
正式名称 あまわりパーク歴史文化施設
開館時間 午前9時~午後6時
※入館は閉館30分前
休 館 日 年中無休
※点検等による臨時休館あり
料 金 大人(高校生以上)
個人600円 団体480円
小人(中学生以下)
個人400円 団体320円
※団体は20人以上
※勝連城跡・常設展含む
※6歳未満無料
※うるま市内の小中学生全額免除
公式サイト https://www.katsuren-jo.jp/
※勝連城跡公式サイト内に掲載
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2024/12/10 21:46
沼津御用邸 静岡県沼津市下香貫島郷 (2022/01/09 訪問)
沼津御用邸は大正天皇が皇太子の時代、明治26年(1893)7月に静岡県の駿東郡楊原村(現・沼津市)の島郷御料林内に建造されました。駿河湾に面し、千本松原の近くにあり富士山も望める風光明媚な土地で、周辺には大山巌や西郷従道などの別荘もあったようです。
昭和天皇も生後70日から幼少期までここで育ち、いろいろと思い入れもあったようです。昭和20年7月の沼津大空襲で本邸を焼失し、昭和45年に沼津御用邸記念公園として一般に公開されました。
現在は東附属邸と西附属邸・馬舎などが残され、西附属邸・馬舎は訪問が可能です。かつて本邸が有った場所には沼津市歴史民俗資料館が建っていますが、かつての本邸はその10倍の規模があったとされます。
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2024/12/10 21:43
歴史案内活動のご案内【12月14日(土)10:00~12:00】 (2024/12/14 訪問)
こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
2024年ももう12月。
躑躅ヶ崎館跡にみそなわす武田神社は年末年始に慌ただしさを日々増していきます。
そんな今年のしめくくりとして、武田神社にて当隊による歴史案内活動を行います。
日時:12月14日(土)10:00頃~12:00頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門
❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。
今回のガイドは局長・大塚與左衛門が行います。
皆さんのご来訪も楽しみにしています。
(E)
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2024/12/10 21:11
2024/12/10 19:38
清和源氏の祖・六孫王経基 (2024/05/05 訪問)
源経基館は台地上の西斜面に築かれています。経基は六孫王経基の名で知られ、清和天皇の皇子・貞純親王の子で源性を賜り清和源氏の祖となった人物です。詳細は省きますが、興世王や平将門とも因縁が有ったようです、時代ですな・・。
案内板のあるあたりに標識があり、それに従って林の中に入って行くとすぐに館跡に至ります。西を除く三方に土塁が残り、北側の中央あたりの土壇に「六孫王経基城址」の石碑があります。北東と南東の隅部も櫓台のような土壇の高まりが有り、堀跡も残っています。
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2024/12/10 19:18
日野宿本陣 土 方歳三ゆかり (2024/05/04 訪問)
東京都日野市日野本町にある日野宿本陣は江戸時代に大名などの身分の高い人たちが利用した宿場です。日野宿の本陣の責任者は名主で、土 方歳三の義理の兄にあたる佐藤彦五郎で、日野宿本陣は彦五郎の屋敷でもありました。土 方歳三は日野宿で育てられ、本陣に建てられた天然理心流の道場で剣術を学んだそうです。
本陣には歳三が昼寝をしたと伝わる場所があり、ちょうど偉い人が出入るする所の部屋になります。たしかに日当たりは良さそうですが、良い度胸をしてますね。さすがは土 方歳三さんですわ。
歳三さんが寝っ転がった床をしげしげ見て、歳三さんが寝ながら見上げた天井をしげしげ見ます。時代を越えてこの建物が残ってくれていることに、感謝します。
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2024/12/10 18:39
新城七名城デジタルスタンプラリーに参加しました ①古宮城 (2024/12/07 訪問)
2024年11月から2025年1月まで愛知県新城市で実施の『新城七名城デジタルスタンプラリー』に参加してきました。最初は古宮城。
以前一度訪れた事はありましたが、ちゃちゃっと見てすぐ引き揚げてしまったため、再度の訪問です。以前は無かった立札による案内があり、分かりやすくなっていました。時間をかけて見てみると、大堀切によって東西に分かれた大きなお城である事が分かりました。
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2024/12/10 18:11
2024/12/10 12:54
12月14日(土)開催!駿府城跡天守台発掘調査現場 現場見学会
野外展示の整備工事にあたり、令和7年度9月末に発掘調査現場の公開が終了するため、令和4年度以降の調査報告を交えた現場説明会を実施します。
通常は公開されていないエリアを特別公開し、発掘調査員が詳しく解説します。
新たに発見された「清水御門(しみずごもん)の仕切石垣(城内を区切るために設けさせた石垣)」や「本丸北面石垣」も必見です!
申込不要・入場無料ですので、ぜひ駿府城跡天守台発掘現場へお越しください!
◆開催日時:令和6年12月14日(土)9時~15時30分
◆場所:駿府城公園(静岡市葵区駿府城公園1-1)
◆発掘調査員による解説(全4回、各回30分程度)
①9:30~②10:30~③13:30~④14:30~
◆対象:どなたでも(現場は石等が多く足場が悪いため、歩きやすい靴でお越しください。)
詳細はこちらをご覧ください。(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s013147.html)
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2024/12/10 09:46
三瀬城・温泉・ざる豆腐 (2024/12/07 訪問)
ここは福岡県と佐賀県の県境の山の中、三瀬峠の有料トンネルを通らずに旧道から林道に曲がると(写真①)三瀬城の駐車場があり、ここが登城口です。ここから徒歩で777m(写真②)との標識が🤔? 何かわざとらしい数字のような気もしますが、まあラッキー気分で登城開始します。徒歩30分とも書いていたので楽勝でしょうか? と思いきや・・・
斜面は結構な傾斜があり、また落葉が積もって踏ん張りがきかず滑るので、短いですが意外と応えました。しかし、途中の沢や堀底のような道は歩いていて結構楽しかったです。そして二の郭虎口に着くと、いきなり石積で固めた土塁が!(写真③④⑤)。その左の急斜面は竪堀のようです。これはすごい!
細長い二の郭を過ぎるとまたもや虎口が! この虎口の先が主郭のようです。主郭はぐるりと半径20mくらいの円形で、その回りを囲むように高さ3mの石積と土塁で固められていました。土塁の外側は傾斜も急なので、さらに竪堀で囲んでいたのではないかと推測されます。極めて強固な防御空間だったようです。中央には祀祠もありました(写真⑥⑦⑧)。コンパクトですが、すばらしい山城だと思いました。
三瀬氏より譲られた神代勝利が、龍造寺氏からの脅威に対抗するため、このような山城にしたようですが、詳しくは先人の方々が解説されていますのでそちらを御覧下さい。
下山してから車で5分程のところに「三瀬温泉やまびこの湯」(入浴料600円:写真⑨)があり、帰りに寄りました。山歩きの後の温泉はやはり最高ですね! そして途中の「野菜直売所マッちゃん」でお土産に、名物ざる豆腐(写真⑩)とみつせ鶏と新鮮野菜を買って、今夜は家で「博多水炊き」です。いい癒しの1日になりました😊。
モトさんがここを訪れた夏よりも、この辺りの山城は今の時期がベストなようです。1月に入ると意外とここは雪がよく降ります(チェーン要)。木立で眺望が無かったのがちょっと残念ですが、近くに温泉があったので私はよしとしました。
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2024/12/10 07:21
2024/12/10 07:04
遺構は残らず (2024/11/23 訪問)
津田八幡神社の背後の山上が城跡です。
神社裏手、津田寺の駐車場を利用しました。
駐車場から登城路がありますがちょっとわかりにくい。
少し登ると削平地がありますが曲輪跡の名残なのかは不明です。
さらに登ると山頂部へ、何も刻まれていない石碑がポツンと立っていました。
採石により主郭部もほとんど消滅し、北側は断崖となっています。
主郭からは眺望も良く、登った甲斐はあったかな。
登るのはちょっとだけど。
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2024/12/09 22:05
花崎城山公園 (2024/05/05 訪問)
花崎城は鷺宮粟原城の出城とされています。上杉謙信の小田原攻めの後の永禄4年(1561)8月、木戸宮内少輔は千余人で北条方の粟原城を攻め落とし、花崎城にも攻撃を掛けました。栗原城主の細萱民部少輔光仲が小田原城に詰めていたため、花崎城には11歳の光仲の長子・半左衛門泰秀がいましたが落城したとのことです。
城址は中央を東武鉄道の伊勢崎線が通っていて、南側が花崎城山公園になっています。記憶では公園の中に遺構(?)が残っており、南に空堀がかかっていて、東と北は水堀になっていたと思います。公園として整備されていますが城址としての雰囲気を感じさせてもらえるのは有難いです。
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2024/12/09 21:27
赤埴上城の周辺 奈良県宇陀市 (2024/11/09 訪問)
赤埴上城の周辺の写真です。北の郭は南に虎口が付いていて南と東に土塁が残っています。北の郭の北側の切岸には謎の石列が有ります。
虎口を抜け南に進むと、ここにも謎の石列があります。登城道から登って、最初に目にするやつです。
城址は丘陵の上側ということになっていますが、麓の扁平地も気になります。丘陵の上は広く、居館等を置くスペースも十分あるので、麓の扁平地は城址とは関係がないのかも知れませんが、杉の植林のために扁平されたのか、城址を利用しているのか、境界がはっきりしないのも事実ではないでしょうか。こういうの見ているとモヤモヤしてきます。
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2024/12/09 20:43
山城に行こう!2024 ぎふオシロフェス (2024/12/07 訪問)
「山城に行こう!2024 ぎふオシロフェス」に行ってきました。城びとでも既に何人か投稿されているようです。初日はタイヤをスノータイヤに履き替えていたので岐阜県に着いた時には午後になっていました。
多治見でタイルマンを拝んだ後、今城と久々利城に行って通行証をゲット。久々利城訪問は時間の都合で後日に回して、通行証2枚を持って会場へ。
通行証2枚持参で、特典の「縄張りキャップ」と交換できますが、色が2種類あって悩む。本当は両方欲しいけどベージュを選択し、初日はこれで終了。道の駅「可児ッテ」で一晩過ごします。
翌日は朝一で久々利城を訪問して会場にいくと、すでにかなりの行列が出来ています。世の中にこれだけ山城好きがいるとは・・普段、山であまり人に会わないので正直意外でした。まあ、山城にもよるのですが。
午前10時半より学芸員と例の御三方によるシロトークを拝聴し、午後14時からは御三方と香川元太郎氏による「城好きおやじ三人組と香川元太郎が描く”城”の歩き方」を拝聴しました。
御三方とは、落語家の春風亭昇太師匠と、日本城郭教会学術委員会副委員長の加藤理文氏、滋賀県立大学名誉教授の中井均氏です。
昇太師匠は東海大学に復学されていて、いま4年生で、学割が効くらしいです。教室に昇太師匠がいるってなんか楽しそうです。講演の内容もなかなか楽しめました。
ひとしきりプログラムが終了した後は、余った時間で金山城に行って、二日間の予定は終了です。
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2024/12/09 19:17
家城城 (2024/11/23 訪問)
【家城城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.622273, 136.323069>から道なりに東へ100m程行くと1台だけ停めれる待避所があるのでそこに停めました。そのまま東に進むと<34.624277, 136.327135>の地点くらいに空き地へ降りる分岐がありますが、チェーンがかかっていたり(11/16に行ったら雨だったので下見に来たときは)登城日の11/23にはチェーンは外されていました。
<交通手段>車
<見所>堀切
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅2城目。家城城の築城は正中年間(1324~1326年)に家城氏によって築城されました。家城氏は北畠氏の古くからの家臣で、戦国時代には家城之清という大河内城の戦いで奮戦した槍の名手がいます。
城跡へは上記の南側の山林道から行くとショベルカーが置いてある空き地がありますのでそこから北側にすぐ3重堀切があります。城跡は主郭を中心に南側に3重堀切、北側に2重堀切があり、東西に帯曲輪が縦断しています。主郭は小さな削平地で中心の西端に櫓台の土壇が僅かに残されていて礫石も僅かに散らばっています。
城跡の南の上方向に南家城城というのがあるようなので、山全体が城塞化していたと思われます。駐車ポイントから城跡までの間に扇状の削平地と石垣があり、砂防の石垣とも居館跡とも判別不能な古い石垣が残されていました。
<満足度>◆◆◇
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2024/12/09 18:24
2024/12/09 15:13
搦手 (2024/11/17 訪問)
ガイダンス施設は11月上旬までで冬季閉鎖中…
何事も先達のあらまほしきこと
搦手からの日本海が哀愁をさそう…
気を取り直して、道の駅でてっくい丼と花沢温泉で源泉かけ流し。
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2024/12/09 15:09
もみじまつり前日-5/8 大戸櫓台と粟積櫓台編 (2024/11/15 訪問)
もみじまつり前日-4/8 天守台編の続きです。
大戸櫓台と粟積櫓台は本丸の北側東よりの突出た先端に在り、粟積櫓は小天守とも云われて城下北側より見上げ聳える櫓でした、大戸櫓は粟積櫓の西に隣接し北の守りの要です。立体模型で確認すると両櫓とも2階建てでL字型、粟積櫓と本丸東石垣塁北端の月見櫓とは18番門を挟んで接しています。
紅葉は粟積櫓台前の銀杏が黄色く色付き、裏中門辺りの楓の林上部は赤く色づき天守台、天守曲輪方向はもみじの見頃でした、ただ曇りに小雨まじりでしたので絶景とは言えないが晴れて居れば大絶景でしょう。
もみじまつり前日-6/8 石垣長塁と諸門の1/2編に続く。
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