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姫街道

一向一揆勢を想う (2024/01/07 訪問)

遺構は長良川に水没しており、移設した現在地を訪れた。長島一向一揆殉教之石碑が本堂正面にあり、お寺の造りも雰囲気がある。

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しんしんちゃん

東京スカイツリー (2019/01/02 訪問)

東京スカイツリーは東京都墨田区押上に築かれていて周辺のあらゆる場所からその秀麗な姿を見ることが出来ます。高さは634mでタワーとしては世界三位を誇ります。現在では展望回廊+展望デッキまでのチケットが2700円(前売り券)で当日券だと400円ほど割増になりそうです。そんなにお安くも無いのですが大東京を一望できるこの景観は絶景といって良いと思います。営業時間10:00~21:00(最終入場20:00)なので夜景を楽しむこともできます。夕方訪れて夕景と夜景を楽しむのもアリではないでしょうか。

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赤い城

いとしの堀底道 (2024/01/02 訪問)

願成寺の背後の山が城趾。
googleMapに駐車場が表示されていますがここまで行くのは軽自動車でも勇気がいります(個人の感想です)。
県道12号線の広くなったところに車を停めて徒歩で登城しました。
舗装路ですが落ち葉で覆われ、やっぱり車で来なくて正解、と言い聞かせながら歩きました。
しばらく登ると登城口の表示があり、ここから山道ヘ。
まだ先は長いです。
途中、動線でもあるような竪堀や尾根を進んでいきます。
少し開けたところからさらに案内板があり登ります。
少し行くと竪堀発見、城域に入ります。
竪堀が落ちるその上には物見櫓と説明板があります。
ここからさらに進んでみると堀切、登った甲斐があリました!
結構良好な堀切です。
この上が主郭ですがまずは西側に回ります。
切岸には石積、投石用の石も転がっています。
切岸を直登して主郭ヘ。
主郭から北に進んでみると堀切が3条、曲輪の展開も。
登った苦労を顧みてテンションあがりました。
主郭の東側には堀底道、折れもあり感動。
久しぶりに堀底道に出会うことができました!
今年はいい年になりそう?かな。
南北朝時代の城のようですが詳細は不明。
阿波の千早城ともいわれています。
行きにくい場所にありますがおすすめの城です。

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姫街道

巨大な水堀に囲まれていた城 (2024/01/07 訪問)

遺構は無く学校になっている。学校内に樹齢300年の松が残るだけと言う。ただ、周囲を巡る水路が堀跡を想わせてくれる。案内看板と現地を照らし合わせて考えると、ここも凄い縄張りで、周囲をこんな大きな堀が巡る縄張りが打たれた城があったのか?と驚く。

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しんしんちゃん

異なる形状の土塁を備えていたようだ (2019/05/01 訪問)

鳥取藩は幕末の動乱期、文久2年(1862)に海防の為の台場の築造を開始し、翌年には11の台場に大砲の配備を完了しました。浦富台場は家老・鵜殿長道の担当で4門の大砲を備えていたようです。現在は土塁が残っており案内板の絵図と記述によると西側400mの地にも台場が存在して現存台場は二門の大砲を打ち出すために屏風折れのような突き出た形状をしていますが、西側の台場は枡形形状をしており鵜殿氏が建設に当たっていろいろと試行錯誤をしていたことがうかがえる(ような)気がします。

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姫街道

海道の名城 (2024/01/07 訪問)

水堀が曲輪間に珍しいくらい巡っており、「現代においては、堤防が無ければ水没してるかも!?」と思うくらい海抜の低さ感じられる。遺構は辰己櫓跡の土塁が多少残るくらいか…。ただ、公園化してくれてあるだけでも本当に有難い!!
また、城の北側に「七里の渡し跡」が整備されている。現在の東海道はカラー舗装されており、城巡り➕東海道宿場街巡りが楽しめる。

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しんしんちゃん

天女伝説が残る羽衣石山 (2019/04/03 訪問)

羽衣石城は羽衣石山の頂部に築かれていて山頂西側の高所が主郭で模擬天守が建てられています。模擬天守の中に入ることはできませんが東に一段下がって郭があり展望台が設置されていました。駐車場から登城道に沿って登って来る途中に「お茶の水の井戸」や天女伝説にちなんだ「天女のあしあと」などの遺構があり、ごつい岩肌がむき出しになっている箇所がいくつも見受けられました。
貞治5年(1366)南条伯耆守貞宗がこの山に城を築き、大永4年(1524)八代豊後守宗勝の代に出雲の尼子経久に城を追われました。天文9年(1540)尼子誠久が毛利元就追討のために安芸国に攻め入った隙を突き、城を追われた諸将らと共に川口城を落とし尾高城・八橋城を攻めますが尼子国久・誠久父子が羽衣石城に取って返し、両軍は橋津川を挟んで激しく戦いました。南条方は橋から落ち多くの将兵が水死しましたが水練の達者な貞勝は命からがら助かったそうです。
その後尼子氏は毛利氏に滅ぼされてしまったので宗勝は旧城を回復できたそうです。めでたしめでたし‥なんでしょうか。

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チェブ

赤い鳥居を探す。 (2023/12/06 訪問)

写真①と②が「高津戸城」の入城口です。
「高津戸城」の本丸跡でもある要害神社に通じる鳥居です。
「高津戸城」の三の丸が展望台駐車場のようで、帰って来てから知りました。ここから鳥居が見えます。
この展望台駐車場を、なかなか見つけられず写真①②以外は、『ここか!』と思ったら違っていた場所です。
「高津戸城」がある高津戸渓谷は風光明媚で、赤い鳥居や赤い橋があり、大きな駐車場も何ヵ所かありました。
水曜日の夕方ですが、大きな駐車場には何台かの車が止まってました。

日も暮れて来たので退陣しました。
紅葉が綺麗で、鳥居や橋の朱が一層 艶やかに見えた「高津戸城」攻めでした。
*「高津戸城」、暗くなりかけていたので、わーっと鳥居から駆け上がり写真を写して一目散に降りて来ました。
、、、写真、写していなかったようです。

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駿府城

測量作業を紹介します!

現在、発掘調査現場では、2023年10月より始まった駿府城跡清水御門北側地点の発掘調査現場の測量を行っています。人力や重機での掘削作業は終わり、出土品や遺構等を整理し始めています。

発掘調査は単に掘り出すだけでは終わりではありません。掘り出された遺構や遺物を実測図や写真で記録し、出土した物の種類や時代、それから得られる情報などを詳細に記録する必要があります。
今回はその記録作業の一環として、発掘された遺構を測量している様子をお伝えします。

まず、石垣の測量に取り掛かる前に、石垣の上に生えている草木や付着している汚れなどを綺麗に取り除きます。これは測量の正確さのために重要な作業です。

そして次に光波距離計を使用して、遺構の形状や大きさ、深さなどを記録しています。
 
このような記録作業を通じて、より詳細な情報を得ることができ、駿府城跡の歴史や構造についての理解を深めることができます。

こちらの発掘情報館きゃっしる【別館】(http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/)では作業の進捗状況や最新情報などもお知らせしていますので、ぜひご覧ください♪

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イオ

2024年城初め (2024/01/08 訪問)

2024年は犬山城で城初めです。正直、被災された方々を思うとのんきに城めぐりすることへのためらいもありましたが、今できること(さしあたりは義援金)をしつつ、生活再建に向けて動き出す段階では仕事柄できることがあるはずだから、と自分の中で折り合いをつけて行ってきました。

犬山城は室町中期に織田広近が築いた砦を前身とし、戦国中期に織田信康が改修して居城としました。信康の子・信清が織田信長に敗れると信長配下の城となり、本能寺の変の後は尾張国を領した織田信雄の家臣・中川定成が入りましたが、小牧長久手の戦いでは池田恒興の急襲を受けて落城。徳川家康の籠る小牧山城に対する羽柴方の橋頭保となっています。その後、信雄に返還されるも信雄が改易されると豊臣方の城となり、関ケ原の戦いの後は徳川方の城として小笠原吉次が、次いで尾張藩附家老となった平岩親吉が入り、そして同じく附家老の成瀬正成が城主となって、成瀬氏のもとで明治を迎えました。明治に天守を除く建物は破却や移築されましたが、濃尾地震からの修復を条件に天守は成瀬氏に譲渡され、以降、個人所有の国宝として成瀬氏により100年以上にわたって管理されてきました。現在は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有に移されています。

5年ぶり2度目の登城ですが、前回は木曽川越しの犬山城を見ていなかったので、まずは犬山橋から。前夜は雪だったようですが今朝は晴れ渡っており、前回は2日前の大雨で木曽川は濁っていましたが今回は穏やかに澄み切っています。そんな青空のもと澄み切った木曽川越しに望む犬山城は……素晴らしい!! 川面には天守が映り、背景には冠雪した伊木山城。このためだけにでも来た甲斐がありました。

犬山橋からニッポン城めぐりのイベントスポットをチェックしながら本丸へ。前回はまだあまり意識が向いていませんでしたが、樅之丸前の空堀や黒門跡の礎石、樅之丸や杉之丸の石垣を眺めつつ、門松の置かれた櫓門をくぐると、眼前に国宝指定の現存天守が聳えていました。小ぶりながら唐破風や入母屋破風を設け花頭窓を配した端整な天守で、付櫓や石落としで防備も固められています。天守に入城すると、1階は上段の間に付櫓と石落としの間、2階は武具の間、3階は東西に入母屋破風の間、南北に唐破風の間があり、4階の高欄の間の外周をめぐる廻縁は、この日は雪が残っていて西辺には入れませんでしたが、南辺からは小牧山城を望み、北辺からは眼下に木曽川、遠景に冠雪した山並みが見渡せ、さすがの絶景でした。

天守を出て、土産物を買い、管理事務所で厳選24城のスタンプを押すと、城下町めぐりに向かいます(続く)。
 

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todo94

笠間市歴史民俗資料館はスルー (2023/12/09 訪問)

わずかに残された土塁の上に末広稲荷神社がまつられています。隣には旧陣屋コミュニティセンターが建っています。次に予定している城がかなり手ごわそうなので笠間市歴史民俗資料館はスルーさせてもらいました。少し離れたところにある移築表門のチェックにも失敗してしまったので再訪を固く誓いました。

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小城小次郎

草ぼうぼうと鉄階段が残念無念 (2023/04/22 訪問)

前田利家の越中攻略拠点として築かれ、利家の弟・秀継とその子・利秀とが居住したというその歴史からは颯爽たる織豊系城郭しか浮かばないが草ぼうぼうで鉄階段の遊歩道からはお城の全貌を窺う余地がなさそうなのが残念無念。

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天守無しがアツい

日蓮宗のおじいさんいるかも… (2016/05/12 訪問)

甲府城跡は甲府駅から歩いて1-2分の場所にある、天守閣の無い場所です。

武田氏滅亡後、秀吉によって建設。徳川政権になっても存続し明治期になると多くの部分は取り壊されたそうです。しかしここ何十年かで(天守閣は無いままだけど)門がいくつか復元されました。

私が天守閣跡に入った際、あるジイサンに声をかけられました。その方は大手町でスポーツメーカーの仕事をされていたそうですが、都会の空気に馴染めず甲府に移住したそうです。東京と甲府とでは空気が違うと語っていました。

2027年にリニア開通が予定されていますが、甲府が途中駅の1つになるそうです。新幹線のように海沿いは通らず、山梨・長野を通るルートで名古屋まで走る。

山を掘るためのトンネル工事、自然破壊を好まぬ地元住民の反対もあり、ここまで実現が長引いたと思われます。山梨のリニア試験場はずいぶん前からあったわけですからね…。理論上は可能でも実行に時間を要したみたいな。

そのジイサンは日蓮宗の信者で、紙を渡されました。「これを守れば万事OK」と…。一応もらった私ですが、読んでません。というか、むしろこれが目的だったのかあのジイサンは…(・_・?) ちなみに彼は(このすぐ後)他の客にも声をかけていました。

上記の門も見学。まだ再建されたばかりのようで内装が美しい木造でした。金の鯱がガラスケース内に展示されており、「鯱って名古屋城だけじゃなかったんだな」と思いました。

ここ甲府城は日本にある城の中では比較的新しく造られた城と書いてありました。けれど石垣は緩やかだそうです。かつては城の敷地はもっと広かった。しかし現在は城の中心部のみが「舞鶴城公園」として残っている。

JRの鉄道が敷かれ敷地内は二分され、かつて武家屋敷のあった場所には県庁が建っている。当時より縮小されたからか、この城跡には堀も存在しません。裸の城とも言えるでしょう。

舞鶴城公園の向かい側、線路を挟んだ先にも門があり、そこにも行きました。そこも造りは新しく、しかも展示物があるわけでもなく、ただ門があるだけでした…。

(参考URL)https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html

(追記)訪問日こそ平成二十八年五月十二日ですが、御城印は令和六年一月十四日に甲府市観光センターにて購入。その日は武田神社に時間を割いてしまい甲府城に立ち寄る時間は無く、あくまで以前に訪問した事に対する補完となりました

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赤い城

つい登ってしまった (2024/01/15 訪問)

出張で前泊。
ホテルに着いて松山では有名なラーメン食べてちょっと散歩。
見上げると松山城がライトアップされていました。
明日早起きして登るかな、と思ってたところ知らないうちに足が県庁裏に。
登ってしまいました。
やっぱり素敵な城ですね。
本丸公園は冬季は21時まで開放。
いい腹ごなしになりました。

朝田さん、東京と神奈川コンプリート近いのですね。
遠くから応援してますね。
多摩川南側だとジャイアンツ球場近くの小沢城がおすすめですかね。

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しんしんちゃん

石橋山古戦場 佐奈田霊社 (2018/12/31 訪問)

佐奈田霊社の周辺は治承4年(1180)源頼朝が平氏追討のために挙兵し平家方と戦った石橋山古戦場とされています。頼朝軍300に対し平氏側は大庭景親ら3000であったため衆寡敵せず頼朝軍は劣勢に立たされ、頼朝側の佐奈田(真田)与一義忠は討死し与一の郎党・文三家安も主の後を追うように討死したそうです。与一が討死した場所に与一塚が建てられ、佐奈田霊社には与一が祭神として祀られています。
与一塚から100mほど行ったところに文三を祀る文三堂があります。
建久元年(1190)伊豆山神社に参詣した頼朝は帰途の際、この地を訪れ二人の忠節を偲び涙を流したと伝えられています。

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しんしんちゃん

古くは源頼朝の強敵・大庭景親の居城 (2019/01/01 訪問)

大庭城は石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親の父・大庭景宗によって築かれたとされています。戦国期は小田原北条氏の城とされ戦国期の城にふさわしい改変がなされています。現在は城址公園として整備されていて南に向かって窄まる△形状をしており南の郭が主郭と見られ掘立柱建物の跡が残っています。主郭の北は空堀で区切られ、北に向かって二郭・三郭・四郭と続きます。

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しんしんちゃん

本庄城 (2023/08/14 訪問)

本庄城は徳島県阿南市宮ノ本にある泉八幡宮の境内一帯に築かれていました。本殿が周囲に対して高所にあり、そこが主郭と見られています。主郭から東側になだらかに郭が続いています。神社の南側も城域と見られ周囲に土塁らしきものが見られ、南西側には良く残っているようです。
備中国足守の清原高国が永正3年(1506)に本庄に移り住み本庄城を築いたとされています。石高は100貫でこの地方ではまずまずの領主であったようです。

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トク

大宰府天満宮に梅の花が開花しました (2024/01/15 訪問)

大宰府天満宮に梅の花が開花しました。去年より2週間以上も早いようです。満開までにはまだ少しかかりそうですが、早くも春の訪れを感じました(写真①-⑤)。

今年の九州の冬は比較的暖かくて穏やかな日々が多く、昼にコートを着るような日はほとんど少なかったです。秋から短い冬を飛び越え一気に春が来てしまったような季節の変化に、梅もさぞかしびっくりして咲いたのかもしれません。

しかし一方で、能登地震のニュースなどで、雪の降る中で行方不明者の捜索をされている方々や、避難所で寒さに耐えている方々の映像を見ると、とても申し訳なく思い心が痛みます(すいません)。一日も早く復旧し元の生活に戻られる事を祈ります。

本殿は、現在修復リニューアル工事中で、仮本殿になっています。九州では数少ない平安時代の遺構を残す建築物なので、どのようにリニューアルされるのか楽しみです。

大宰府天満宮には「菅原道真」公が祀られています。道真は学問にとても秀でており知識も豊富で、当時の天皇からの信頼も厚く、京では右大臣にまで登りつめた人物でした。しかし、それをよく思わぬ藤原氏の陰謀であらぬ謀反の疑いをかけられ、大宰府に左遷されその生涯を閉じてしまいます。

同じ平安時代でも、現在の大河ドラマ「光る君へ」の主人公の藤原道長や紫式部より100年前の人物ですが、もし道真がこの二人と同じ時代に生きたなら、どんな事を語り合ったのだろうか? などとありえない事を、この梅の木の下で想像してしまいました(笑)。

帰りにまた、名物「梅ヶ枝餅」買って帰りました(写真⑩)。この味、私はやみつきです😊
 

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天守無しがアツい

3回分の訪問記 (2024/01/14 訪問)

高島城には3回行ったことがあります
まず1回目…小学生の時のことを当時つけていた日記から抜粋して紹介

8/4 今日すわ湖に行きました。白鳥のゆうらんせんにのって3がいに行ってみると山とか、すわ湖の水とか町が見えてきれいだったです(ちょっとゆれてこわい)。

たかしまじょうにも行って当じの刀とか、ふく、ひな人形があって、すごい所だったです

いろいろお店をみて、さいふを買いました。テレホンカードも入るから良かったです。

おばあちゃんが、わさびでそめたさいふほしかったなーと言ってました。ホテルへ帰る時、雨がふったのできのうと同じでした。

(担任のコメント)おばあちゃんもいっしょでよかったね。

続いて2回目…成人後…二十代に行った時のことを紹介

高島城に入場。思ったより小さめの城でした。3F建てで、「あれ、こんなんだったっけ?」と、その記憶違いにギャップを感じました

小田原城や名古屋城には最上階に記念メダルの自販機があり、そこで自分の名前(ローマ字)・日付を刻印できるのですが、ここにはそういうのはなく、諏訪市のジオラマがあるのみでした。とりあえず3階から外を眺めてみました。

1階には土産コーナーがあったのですが、欲しいものは特に無かったので長居はしませんでした。大河ドラマ『風林火山』のポスターが城内にあり、どうやら諏訪もその舞台になったらしいです…(そもそもあの作品は全然見てなかったから、何とも言えませんが)。

城の近くには神社と公園があって、子供がそこで遊んでいました。私は彼らが遊びまわっている傍らで、その辺をウロウロしていました

ちなみにこの城、規模は小さいけどお堀はちゃんとありました。だから橋がかかっており、ちゃんと足元を見ないと落ちるかもしれませんでした…ww

そして3回目…「過去2回城内に入り天守も見学した」「けれどあの時はまだ御城印がリリースされてなくて、未入手のまま…」「もう一度…松本城に行くついでに立ち寄って、御城印を買おう。未回収を回収…補完旅行だ🚈」

(諏訪高島城の案内サイトURL)
https://www.city.suwa.lg.jp/site/enjoy/4446.html

高島城にはこれで3度目の訪問…過去2回は夏でしたが、今回は初の冬見学…外を歩くだけで刺すような寒さが私を襲い、上諏訪駅から城までの歩く途中、湧き出る温水があり、そこで両手を温めたりしました。逆に言えばそれが必要になるくらいに寒い…🥶

高島城…正式名称は諏訪高島城かな…。入口に着くと天守が私をお出迎え🏯(画像1枚目) そして堀の水は何と…氷が張ってました🧊 見た感じ薄い氷なので橋の上から飛び降りると割れて、タイタニックの冷たい海水並みの水の中に真っ逆さま…でしょうね😱

橋を渡り城門をくぐり入城。階段を上って天守に入りました。チケット購入と同時に御城印も購入。1,2回目の訪問の際はまだ平成…おそらく御城印がリリースされてなかった…ので今回は「行きこそしたけど(御城印における)未回収エリアの補完」という意味合いが強めでもありました

ここの御城印を御城印帳に収めて撮影(2枚目右側が高島城、左側は松本城の石川家ver) 高島城という文字の後ろに天守が浮かぶイカしたデザインだと、こうして改めて見ると思いますね😄 

ちなみにこの諏訪という場所…「逃げ上手の…」における重要な場所で、鎌倉幕府滅亡後に幕府の生き残りとなった北条時行を諏訪頼重が匿い育てた場所がこの地

作品内では、鎌倉の新鮮な鯛を時行に食べさせたいという仲間の想いにより、当時ならではの行動がとられます…輸送トラックも無い時代…鎌倉の海で鯛を釣り🎣 それを馬に乗りながら(馬の背で)捌いて内臓を抜き、諏訪まで届ける…調理した鯛を頬に手を置いて、美味しそうに頬張る時行…が描かれてました

荷台が冷凍庫となってるトラックなら(国内なら)どこでも運べるのでしょうが、馬しかない当時は鎌倉→諏訪が魚の鮮度を保つギリギリのラインだったとも作者解説にありました🐟🐴

ここの天守は三層…2階は撮影禁止で、そこではそれに従い見物のみをしました。松本城と違い、ここの天守は(明治維新の際に)一度解体されて石垣だけとなってます。地元住民の反対はあったそうですが押し切られてしまった…「大隈重信の一声により解体を免れた彦根城」のように政府の大物クラスの意見が無ければ無視されちゃう…のかな?😅

3階には某小学校の卒業制作(高島城とその周辺のジオラマ)と天守模型、由布姫(ゆうひめ→信玄の側室にして勝頼の母、大河ドラマ「風林火山」における悲劇のヒロイン)人形…どちらを写そうか迷いましたが、ジオラマはプラスチックの柵が邪魔になりちょっと写りが悪い…建物の出来は頑張って作っているものの、やはりどこか小学生レベル…天守模型のほうが出来よく、姫人形も可愛いのでこっちにしました

天守3階から諏訪湖を含めた景色を撮影(4枚目)。部屋内に飾られていた写真を見ると、昭和30年頃は湖の周りは田んぼだらけで建物は殆どなかったそうです。きっと当時はもっとはっきりと湖が見えたのでしょう

でも今も(建物にやや邪魔されるけど)湖面は見えるっちゃ見える…御神渡り(湖が凍って隆起する現象)はしてないようでした。温暖化の影響か…城の堀は凍っても湖までは凍らない

高島城の3階から城内を見渡すと、池を含めた庭園のような場所(画像5枚目)が見えます。この辺りはかつて本丸御殿が築かれていた場所🏠

天守の近くにその見取り図が案内板として展示されてました。その敷地はかなりのもので数多くの部屋を擁した屋敷だったと思われます。でも…(やや温暖化した)今でさえここの冬は寒い…それが江戸時代あたりだったら…もうちょっと寒いでしょうね。

近くの諏訪湖が御神渡りした時の絵が天守内に展示されており、当時は人どころか馬が氷の上を歩いても平気だったそうです…🐴 今では多分考えられないでしょう…それくらい寒い中を過ごす…当時の暖房器具は火鉢に囲炉裏…電化製品ゼロの世界、専ら火に頼るしか身体を温める方法がない

部屋の数が多かったけど、その分暖房器具はあったのかな?大きい部屋だと囲炉裏は設置されたかもだけど、全ての部屋にというのはちょっと考えづらい…設計の手間およびコスト面で…小さい部屋…使用人の部屋は火鉢なのかな?

現代でさえ老人の孤独死…寒い日に身体がやられて多臓器不全などで逝ってしまうケースがあるそう↓
https://www.domocica.com/column/details_9691.html

当時の住宅環境は少なくとも現在よりレベルが落ちることは確かだと思うので、凍死で亡くなる方…今より多かったんじゃないかという様子が目に浮かびます

城内には神社もあり、その名は諏訪護国神社⛩️ 前回の訪問で神社らしき施設を見た記憶こそあったものの、当時は御朱印を集める習慣無かったため、大して気にも止めずに終わってました

今回はまず本殿で参拝…お賽銭用に10円玉をたくさん用意していたのですが、「さすがに10円だけというのは…😅」と思えたので100円玉も付けて110円を賽銭箱に投入。二礼二拍手一礼をここでもおこないました

そして社務所の呼び出しベルを鳴らし、職員を呼ぼうとします…🔔 念のため2回…ボタンを押しました🔘 しかし誰も出ません…ドアの磨りガラスから中に草履のような履物が見え、「御朱印一枚五百円」の貼り紙も入口の近くにあったのですが、担当者が出なければどうしようもない…ということで、ここでの授与は諦めることにしました😔

(諏訪護国神社の御朱印 参考URL)
https://omairi.club/spots/84953/goshuin

ここで授与できるか否かはガチの運ゲー😅

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ぴーかる

熊川城 (2023/12/02 訪問)

【熊川城】
<駐車場他>熊川陣屋跡駐車場無料数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>連段郭・堀切・櫓台・武者走り
<感想>熊川城の築城年代は定かではありませんが、足利幕府の家臣沼田氏によって築城されたとされます。沼田氏は上野国の沼田の出でこの地に入部して室町時代にこの地を賜り足利幕府の奉公衆となったようです。細川藤孝の正妻である沼田麝香は熊川城主沼田光兼の娘だそうです。熊川城は丹羽長秀が若狭国を治めていた時に廃城となったようで、熊川の地は豊臣秀吉の時代に宿場町として整備されます。江戸時代に小浜藩主京極高次が陣屋を設置します。現在も鯖街道の宿場町が残る伝建地区に指定されています。

 駐車場となっている陣屋跡は現在砂利敷の広い空き地みたいになっており遺構は残っていないようです。背後に熊川城があり戦国時代もそこに麓居館、城が詰め城だったであろうことがよく分かります。登城道は非常に良く整備されて簡単に登れます。陣屋跡奥にある獣よけの扉を開けて入ります。少し登って展望台となっている出曲輪、白石神社本殿の裏側にブラタモリで放送していた、ずれた断層が見られる水路があり見ました。白石神社上部に五条の畝状竪堀がありますがかなり薄くなっており表面観察では3条程しか分かりません。そこから連段郭が始まります。上部に行くほど曲輪が大きくなっていき見応えあります。主要部の東側下段から武者走りがあり主郭南東側尾根曲輪に繋がっています。主郭南東側と西側尾根は2重堀切で仕切っています。主郭虎口付近には石が多くあるので石積みだったかもしれません。主郭西側奥に小さな土盛りの櫓台があります。登城道は整備されていますが、主郭南東尾根2重堀切や主郭櫓台奥の搦手を攻めるのにはストックがあったほうがよいでしょう。小さい城跡ながらまあまあ楽しめました。

<満足度>◆◆◇

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