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しんちゃん

伊東館跡 伊東祐親の像と墓所 (2024/07/15 訪問)

伊東祐親の居館は伊東市大原2丁目の伊東市役所のある丘地に築かれていました。遺構らしきものは残っていませんが、周囲を見渡しやすい位置にあり、伊東祐親の騎馬像と物見塚公園の石碑が建っています。平氏から源頼朝の監視を任され、北条時政は娘婿にあたります。
娘の八重姫と頼朝の間に千鶴丸が生まれ、平氏との軋轢を怖れ我が孫を殺害するという苦渋の決断を下した人物でありますが、地元では英雄として扱われていることが解ります。そこから南に300mほどの街中にひっそりと祐親公の墓所が佇んでおり、さらに西に150mほどいった東林寺に長男・河津三郎祐泰の墓と「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我祐成と曾我時致の供養塔(首塚と記載あり)が並んで建っています。大河ドラマ「鎌倉殿と十三人」では源頼朝のみならず、主人公・義時や時政とも縁の深い人物のゆかりの地でもありますので、近くまで来たら寄って行かれると良いと思います。

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とばつびしゃもん

星形稜堡の城 (2024/05/04 訪問)

であいの館の道をはさんで向かいにある駐車スペースに車を駐車し登城開始。開館直後のであいの館で資料を見学し、入口に設置された続日本100名城スタンプポン。
星形稜堡内にある遺構のお台所は10時開場のため、それまで堀沿いに星型の外側歩道を歩く。石積の高さは意外に低い。
大手門跡から稜堡内に入りお台所内部を見学後、稜堡から歩いて数分のところにある大手跡を見学し、五稜郭展望台へ向う。展望台への山道は対向困難と聞いていたので、車で行くか迷っていたところ、であいの館のスタッフの方から「展望台へ向かう車、今日は少ないよ」との助言を受け車でトライ。
林道から山道に入るところで対向車に出会うも2キロ先の駐車スペースまでは対向なしで到着。かなりの悪路で擦ったりして車を傷め、モヤモヤ感が残る。展望台からはきれいな星型が確認できました。

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しんちゃん

見どころは東西の二重の堀切。 (2024/07/16 訪問)

伊豆周遊のついでに葛山城にも行ってきました。リピートになりますが、富士山に登った時の写真と一緒にデータが消滅してしまったので、もう一回リトライです。去年から城びとに参加していますが875城「いった」状態で参戦しています。
自分の矜持として「いった」を押した以上「必ず」投稿はしたいので200~300はリピートで回っています。けっこう大変なんですわ。
葛山城ですが今川氏国人衆の葛山氏の城とされています。南東に300mほど行ったところに居館跡があり、居館跡にも土塁が残っています。葛山氏がいつごろから今川氏の被官になったのかは不明ですが、伊勢新九郎が堀越御所を急襲し足利茶々丸を討った際には今川から葛山氏が援軍に使わされていて、伊勢新九郎の次男氏時を養子にしていることから今川の被官の中でも独自な存在であったようです。

葛山城はコンパクトながら良く遺構を残す城です。今は登城道が整備中なので東の大手からの登城になります。中央の最高所が本丸で北側に土塁が残っています。西の二の丸と帯曲輪はつながっていて、北側を除く本丸の周囲を囲っています。この帯曲輪はニの丸の延長か事実上の三の丸に相当すると思います。東と西に二重の堀切を残しており、この城の見どころになっています。
‥‥先ほどの浜松餃子の話ですが、私は好きですよ(汗)。キャベツがいっぱい入っているし、ダウンタウンの浜ちゃんもおいしいって言ってたし‥。

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カズサン

チョイ寄り長比城登城口 (2024/06/24 訪問)

 米原市柏原御茶屋御殿の探訪を終えて、長比城の登城口が柏原宿の東側旧中山道沿いに、グーグルマップ記載されて居ましたので浜松への帰路序でにチョイ寄り。

 駐車場:無し、登城口に一時路駐
 参考資料:グーグルマップに依る

 柏原宿観光駐車場から東に約1.3km程の旧中山道沿い山手側に「長比城跡登り口」の石碑があります。長比城跡登り口道標の解説が掲示板に張ってあります。少し東に、「歴史街道 中山道 ←柏原宿 長久寺→」が刻まれた立派な道標があります。
 登り口の西側には神明神社の鳥居。
 長比城跡の駐車場は登り口より北約150mと案内板有り。
 また登り口の左右の溝は分水嶺に成っており、左は大阪湾へ、右は伊勢湾へとの案内板が有りました。

 掲示されてる解説を読むと。
 織田信長は、浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月19日、浅井朝倉勢が守るこの城と苅安城を攻めた。
 木下藤吉郎・竹中半兵衛の働きで浅井方の鎌刃城堀氏が寝返ったため、長比・苅安の城兵は敗走し、信長は長比に無血入城、一両日滞在した。
 この長比攻めは、姉川の戦いの前哨戦で、本戦である姉川の戦いは、9日あとの28日に始まった。
 と記載有り。

 この後は国道21号線経由し、関ヶ原ICより名神・東名・新東名で浜松へ。
 今回の滋賀県近江未踏の城探訪1泊2日は終了、17城と番外安土城の18ヶ所でした。
 

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零汰

大分に行く

ユーロもコパも無事に終わりスペインとアルゼンチンが各々の大会で順当に優勝。漸く仮眠だけで乗り越える不健康な生活から抜け出せました。ユーロもコパの様に延長戦は無しにして即PKではだめでしょうか?延長PKが終わるのが朝7時前でそれから仮眠はキツイものがあります。決勝を待ったかのように梅雨が明けた様子、堪らず不健康を引きずりながら18~20日の3日間で大分県を中心に城訪問に車で出掛けました。

3日間で登録城は14か所、その他の山城6か所、唐原山城に向かう最中に宇佐・中津市の平野に点在する無名な城跡20か所程度訪問してきました。驚く事に平野部の無名な城跡は石碑・表示のみの城跡は少なく、6割程度の城跡で何かしら遺構を見る事が出来ました。空堀アリ、水堀アリ、状態の良い曲輪や陣屋門などとしっかり楽しむ事が出来ました。皆様のお住まいの地域でも埋もれた無名な城跡廻りをしてみたら違った楽しみを味わえるのでは無いでしょうか。

大分県の登録城未訪問3か所
・山野城・・・・1時間半~2時間ほど掛かりそうなので今回無名な城跡廻りに時間が掛かり過ぎて断念
・水賀城・・・・半時計周りで廻っていましたが途中でスルーしてました。国東半島に入った頃に気が付いて引き返したく無く断念
・鳥岳城・・・・途中まで訪問(写真1~5)滑る登山道から登りましたが伐採により登山道が破壊された上に立入禁止。前情報よりこちらはハードな訪問だとの事、その上直登も加わる事を考えてしまって挫けました。

他にも1か所挫けた城跡もありましたが全体的に良いシリースでした。写真6~10は登録城のダイジェストです。北海道関連の後に個別投稿する予定です。

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しんちゃん

大瀬崎の鈴木繁伴館跡  (2024/07/14 訪問)

鈴木館は駿河湾に突き出た沼津市の大瀬崎先端の神池の周辺に築かれていました。館の遺構は残っていないようですが、駿河湾に面し周囲360度を警戒することが出来、南に大瀬神社が建てられています。
館の主・鈴木繁伴は鎌倉時代後期から南北朝の時代の武将です。人気漫画「逃げ上手の若君」の時代の人ですね。ちょうど今、深夜帯でアニメがやっています。キャラはかわいいけど内容は子供向けじゃないですね。元々少年ジャンプは青年向きの内容も含んでいるので不思議ではないですが(北斗の拳とか)。
鈴木繁伴は北条方として熊野で護良親王と戦いましたが幕府滅亡後、建武3年(1336)伊豆国江梨村に潜伏します。観応2年(1351)薩埵峠の戦いでは足利直義に味方し、またも敗れたので江梨村に逃れて定着したようです。鈴木館は繁伴の初期の居館とされ、ここで大瀬神社の祭祀にいそしんだとのこと。この周辺は家族連れのダイバーが大勢来ています。比較的内湾なのでダイビングに向いているのでしょうか。

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しんちゃん

了仙寺 MoBS黒船ミュージアム (2024/07/17 訪問)

了仙寺は下田市七軒町にある日蓮宗の寺院で、下田条約締結の地として国の史跡に指定されています。下田条約は嘉永7年(1854)3月に結ばれた日米和親条約の補修を目的とし、内容は9条に及び、下田港・函館港への米人の駐留の許可、日米双方の犯罪人の裁きの方針、長崎港の追加開港などが記されています。Wikiには日米追加条約として記載があり下田協定や下田協約とも呼ばれているようです。
境内はこじんまりとしていていますが、広さは幕末のころから変わっていないようです。絵画等では比較的広めに描かれていますが、あれは米兵をいっぱい描きたかったからだそうです。他にも境内には下田奉行の墓所や横穴遺跡があり、黒船ミュージアムが隣接しており、開港や異文化交流に関する展示が充実しています。

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you

原田しろあと館スタッフの皆様 ありがとうございました (2024/07/20 訪問)

城跡と旧羽室家住宅(原田しろあと館)を訪問しました。

【原田城跡】
天正6年(1578)、謀反を起こし伊丹城(有岡城)に移った家臣の荒木村重を討つために、織田信長が改修した付城。
原田城は北城と南城から構成されており、天文16年(1547)の内紛で北城が落城して以降は南城が原田氏の拠点とされていたそうです。
南城は開拓が進んでおり遺構は消滅していますが、有岡城の戦いの際に利用された土塁は北城(館内)に現存しています。
当時この土塁からは西方面に有岡城を望むことができたそうです。また、信長軍が付城として利用した池田城、刀根山城などがこの原田城とともに有岡城の東側を囲っています。

荒木村重はこの戦乱で家族を捨てて尼崎城→毛利方へ移り、のちの本能寺の変によって信長の手を搔い潜ったという話をしろあと館のスタッフからお聞きしました。なかなかしぶといですね、、、


【旧羽室家住宅】
時間があったので、ついでですが国登録有形文化財に指定されている旧羽室家住宅の見学も行ってきました。
見学の際は館内の方が丁寧に説明してくださいました。
2階は立入禁止になっていましたが、1階は当時の家主さんの趣味・嗜好がほぼそのままの状態で残っており、和洋折衷の古式ゆかしい雰囲気がなんとも魅力的でした。
ついでのつもりで来たはずでしたが、見学後は応接室でスタッフの方々とお城トーク等で盛り上がりました。
長々と付き合っていただき本当にありがとうございました。
この投稿が届いていることを願うばかりです。


原田しろあと館は土日のみ開館しており、月によって色々なイベントが催されています。
また、季節の移り変わりを感じられる花が植えられおり、館内を四季が彩ります。
時間ができれば秋頃もう一度お伺いして、紅葉を観に行きたいと思っています。

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しんちゃん

白銀の遠州灘 そして浜松道中 (2024/06/01 訪問)

リハビリがてら遠州の山城を攻めてきた帰り道、浜名バイパス(無料)を通っていたら遠州灘がやたらキレイに見えるじゃないですか。夕方7時近くなのに海がめっちゃ明るい。光の塩梅もあるのかもしれないが、海ってこんなに白く光るんだな。
浜名バイパス(国道1号)が2車線から1車線に変化するあたりに幾つか休憩所があり、遠州灘を眺望することが出来ます。こういうサービスは評価できますね。できれば国1は最初から全部片側2車線で作って欲しかったですな!
こうして見ると遠州灘も捨てたもんじゃない。世界は海でつながっているんだよな~。いいことも悪いことも「山ほど」あるけど。
このちょっと前には有玉神社で参拝して来ました。例のキンタマ落としの谷の投稿以来、金運が下がってきているんですわ。停止違反でポリコウに捕まるわ、家の屋根は壊れてくるわで出費が重みます。落としたツキ(玉)を拾いに来たんですね。
そのあとは石松で浜松餃子定食、餃子は肉餃子です。ぐるっと回したやつの写真が欲しかったけど、一人じゃ食べきれないんですね。ここではなんといっても餃子が主役!浜松は餃子の街です。個人的には宇都宮のほうが旨いと思うけど(ボカッ)。
‥‥一言多いしんちゃんでした。

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零汰

オチリシチャシ・ルイオピラチャシ (2024/05/09 訪問)

シベチャリ川流域チャシの残り3か所のうちの2か所です

オチリチャシ(写真1.2)
共同墓地内にあるようですが入口には開閉式のフェンスがあり小心者の私は中に入る事をためらってしまいました。(写真2はフェンスの穴からなるべく奥を撮りました)

ルイオピランチャシ(写真3.4)
牧草地の先の柵向こうの林の中にあるようです。右側林の中を迂回して行く方法もありましたが小心者の私は熊が怖くてためらってしまいました。こちらは内陸にある上に周囲に人の気配がない場所です。
道路にゲートがあります。ナビで裏側から辿り着いたのですが出られなくなって来た道路を引き返しました。何の為のゲートか不思議です。

2か所見れなかったので、残り1か所は挫けて行かず仕舞でした。

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モト

コンパクトですが城の縄張りが把握しやすく見学しやすいと思います。 (2024/06/26 訪問)

隆守院の横に登城口がありました。
登城口を登ってすぐ城跡の碑がありました。
登城道より本丸の切岸を確認しながら山頂に登ります。
本丸跡があり、そこから降ると順に二の丸、三の丸を見る事ができました。
それぞれ二の丸からの本丸、三の丸からの二の丸を見た切岸のある段々が城跡の雰囲気を強く感じる事ができました。

築城は文明年間(1469年〜1487年)と言われているそうで、
麻生遠江守家延(家信とも)によって築かれたと云われる。 花尾城合戦で大内氏と和睦した家延が岡ノ荘二十八ヶ村が与えられ、岡城を築いたといいます。
城郭放浪記より参照

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赤い城

南海の名城 (2024/07/06 訪問)

今回初登城、ようやく訪れることができました。
駐車場に車を置き、まずは内堀沿いを1周します。
追手門を見ながら南側へ、高知県庁が建つところは下屋敷跡です。
西側へ回り、桜山を経て搦手門、ここからも登城できますがさらに回りを進みました。
この日は梅雨というのに暑くてすでに汗だくです。

追手門より登城、板垣退助の像を見下ろしながら杉ノ段へ、まずは三ノ丸から天守を見上げ休憩。
水分補給はmustです。
人の写らないタイミングを待ちながら写真を撮っていたので結構な休息になりました。

さらに二ノ丸を経て詰門を通り本丸です。
天守だけでなく御殿などの建物も現存、素晴らしいです。
スタンプは天守内の券売所横においてあります。

天守から降り、搦手方面に向かいました。
馬場跡は梅林に、その下には御台所屋敷跡があります。
八幡宮跡から二ノ丸の石垣を見上げながら進み、今度は一段降りて三ノ丸の石垣を見上げ杉ノ段に戻ってきました。

暑さもありヘトヘト、これでも見切れていないところもあるのでまた来ます。
周辺グルメもリサーチしておかないと。



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todo94

立花道雪 (2024/07/13 訪問)

鷹尾城攻城時に降り始めた雨は、通り雨だったようで、生津城に着いたときはすっかりあがっていました。生津城は西牟田家周(いえちか)による築城で、耳川合戦敗退の大友氏から龍造寺氏に寝返って西牟田城から生津城に移ったとのことですが、立花道雪により攻め落とされています。八幡宮の城内大神宮の祠は生津城より遷座されたとのことです。

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しんちゃん

なんだかんだで山城跡 (2024/07/13 訪問)

久能山城の投稿。今回は最新のものを載せさせていただきます。階段を下から登って一の門に到着。天候に恵まれれば、さらに良い眺望を得られるのですが、今回は曇天のため今一つです。古い縄張りでは上に向かって幾段にも曲輪が連なっているのですが、現状は東照宮として改変が成されているので雰囲気を味わうのみになります。本殿のあたりが本丸と見られ、御廟所の東上にみられる扁平地が愛宕社の曲輪のようですが、柵があり進めません。そもそも不敬であるし、行けたとしてもいろいろと面倒です。
下から眺めるのみとなりますが、御廟所の周囲には山城の曲輪としての雰囲気がまだ残っているようです。東照宮の始祖の宮として改変が成されていますが、山頂のあたりにはまだネイティブな遺構が残っている気がします。

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ぴーかる

大留城 (2024/05/25 訪問)

【大留城】
<駐車場他>駐車場はなし。子安神明社(城跡)前に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾6城目。大留城は1546年に村瀬作左衛門というものが築城しました。小牧長久手の戦いでは池田恒興が三河中入り作戦で大留城で軍議を開き村瀬作左衛門も従軍したが翌日徳川家康軍に敗れ討死し城もその後廃城となったようです。
 現地城跡は庄内川に面した平城で現在は子安神明社という神社になっています。中央に土塁跡のような土盛があり城跡碑があります。本殿の裏側に堀跡があるようでしたがコンクリ壁の裏側だったようで気づきませんでした。城跡の説明板はありません。

<満足度>◆◇◇

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トク

110【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(3/3)-和睦の使者) (2023/12/08 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑫です。
北条氏の居城小田原城を訪れてきました。日曜だったこともあり、人が多かったです(写真①②)。訪れたのは秋の終わりで、紅葉がきれいでした(写真③:暑い日が続いていますので、この写真で少しでも涼しい気分になって頂ければ幸いです)。また天守からは、ちょうど石垣山に沈む夕日もきれいに見えました(写真⑧⑨)。私も使者になったつもりになって登城してみました。すると、馬出門や銅門などには北条の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」の旗がたくさんなびいていて、まさに敵地の中を歩いている感じがして、何かとても緊張してしまいました(写真④⑤⑥)。直政も同じ事を感じたのでしょうか?

現在の小田原城は、家康の側近であった「大久保忠世」が築き始めた石垣に、家光の側近で春日局の子と孫である「稲葉正勝・正則」の時代に築かれた天守に基づいて再建されたものではないかと思います(写真⑦)。北条時代は天守や石垣もなく土造りの城だったようです。秀吉から攻められる直前には、全長9kmの見事な総構えで囲まれていて、その中には10万の人々が暮らし、当時としては日本最大規模の城郭だったとか。私も“しんちゃん“さんと同じく、北条時代のそんな城郭を見て見たい気持ちになりました。

1582年、天正壬午の乱は黒駒の戦いの後、織田信雄の仲介でいったん両者は撤退し、改めて和睦のため直政は北条氏とのその和睦の使者という大役に抜擢されます。そして直政は、甲斐信濃は徳川、西上野は北条(両者切り取り次第干渉せず)、また家康の次女「督姫」を北条氏直に嫁がせるという条件で、見事に和睦を成立させました。

私は小田原城を眺めながら考えてみました。なぜ家康は交渉役に、ベテランの酒井忠次や石川数正ではなく、また中堅の本多忠勝や榊原康正でもなく、家臣団で最も最年少でまだこの時22才の井伊直政を大抜擢したのでしょうか? またそれに見事に応えた直政もすごいと思います。なぜ彼にはこれほどの交渉力があったのでしょうか? 家康はそこまで見抜いていたのでしょうか? 見た目は美男子でかつ小柄(推定165cm)であったらしい直政が、あの強者の武田の旧臣たちをも取り込み、北条氏をも屈服させたこの交渉力は相当なものだと思います。彼の交渉力は、この後の関ケ原でも発揮されます。彼が今の時代に生きていて外務大臣になっていたら、日本はどうなっていただろうか?🤔 なんてまたふとまたありえない事まで想像してしまいました(笑)。

最後に、小田原といえばかまぼこだと思い、駅で(少し贅沢な)おつまみかまぼこを買って新幹線の中で食べました。これはいける! なかなかの美味でした(写真⑩)。

北条と和睦した後は、秀吉との決戦(小牧・長久手の戦い)です。
次は、「井伊の赤備え」デビューの舞台(小牧山城)を訪れます。
 

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渡辺崋山 (2024/07/20 訪問)

 田原城周辺の街を散策していると藩校跡の石碑や渡辺崋山に関連した史跡などがありました。自分としても田原藩というと城主であった戸田氏や三宅氏よりも渡辺崋山を思い浮かべます。城内にあった田原市博物館でも渡辺崋山の展示は多かったと思います。

 この日は暑かったのでゆっくり散策というわけにはいかず早々に退散しました。

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戸田宗光 (2024/07/20 訪問)

 久しぶりの登城です。明治時代の廃城後に多くは取り壊されましたが、曲輪、石垣、堀などが一部ですが残っています。再建された桜門や二の丸櫓がいい雰囲気を醸し出しています。城址から南へ行くと惣門跡や大手通りなどがありました。

 豊橋鉄道渥美線三河田原駅から徒歩約15分で城址にある田原市博物館まで行くことができます。

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しんちゃん

ロープウェーで天空から登城 (2013/09/01 訪問)

先日、伊豆半島をめぐる前に久能山に行ってきました。4回ぐらい来てますかね、ここも。二回は日本平からロープウェーで渡って、二回は下から登ってます。どちらも風情が会って良いですよ。下から登ると少ししんどいですが攻め手の気分になれるし、石段や石垣(いずれも後世のもの)を楽しむことが出来ます。すこし調子が戻ってきましたね‥考えてみれば城人を初めてから一年ちょっとで新規とリピートで500~600は回っているので、ちょっと飛ばしすぎたんですよ(アホですか)。もともと山城をいくつか登ってヒーヒー言ってる「しんちゃん」ではないです。
ロープウェーで日本平から東照宮に渡ると、ちょっとした神様気分に浸れます(?)。気分は徳川家康公ですかね。東照大権現おな~り~ってか。
写真は最初に訪問した時のものなので、いささか古いです。でも階段登城からは味わえない景色なので先に掲載させていただきます。

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しんちゃん

熱海の城跡といえばココ (2024/07/16 訪問)

熱海と言えば熱海城という怪しい「お城」が有名ですが、城びとの城では網代城になります。教安寺に城址碑があり、そこからの眺めもなかなかですが、より高所に江戸時代の石丁場があるので寄って来ました。伊豆半島も僻地の割には見所が多く、もっとゆっくりしたかったのですが、時間の制限もあり全部は見切れていません。でも、なんとか伊豆の城びとの城は回ることが出来ました。
「古城盛衰記」さんによると網代中学校跡の北側に入り口があり、山頂の朝日山公園に曲輪があるとのことですが、認識不足で至っていません。すぐ近くまで寄っていたものの、いささか惜しいことをしたと思います。
「城郭放浪記」さんにも記載があるので参考にするべきでした。
網代城は南北朝の時代に聞間氏によって築かれたのが発端とされ、戦国時代には北条氏家臣とおぼしき岡本善左衛門尉が城主を務めたとされますが、諸説あるようです。岡本善左衛門尉に関しては北条氏規の朱印状に名前が出ており、伊豆多賀郷の代官・百姓に貸し付けた兵糧が返済されずトラブルになっていたようです。「早く取り立てろ」と催促されていたようで、氏規さんもけっこうイライラ来てたのが伝わってきます。

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