安養寺城(勝興寺の安養寺御坊跡)を終えて北陸路16番目北東に約28km程の放生津城を初登城しました。
駐車場:特に無し、放生津小学校正門前の空きスペースに路駐(36°46'32"N 137°05'21"E)
参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
登城日は土曜日で小学校は休み、校門は開いていましたのでグランド西側を進み、遺構の有る北側へ北側東西約100mが公園の様に成っていて、城址と刻まれた自然石碑、隣に放生津城跡案内解説板が立っている、土塁よ様な土盛りが北側一帯と少し低い土盛りが東側に在りますが、遺構の土塁ではないようです、案内板によると遺構はグランド土の下に在りと記載されています。
案内解説板によると。
放生津城は越中守護の畠山氏の重臣で守護代神保氏の居城である。明応2年(1493年)室町幕府将軍足利義材(義稙)が京都の政変を避けて越中に逃れた。義材は放生津城主神保長誠に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。
義材のもとへ公家、大名、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。その後の長尾氏上杉氏、織田氏、佐々氏、前田氏との攻防も有りますが豊臣期、江戸期は前田氏の領有となり廃城された。江戸後期には加賀藩の蔵屋敷と成り、現在は放生津小学校が建てられてる。
城域は、本丸と二の丸からなり、本丸は南北約126m、東西81m、二の丸は南北約50m、東西約36mの大きさ。現在遺構は全て地中に埋もれている。発掘調査は昭和63年、平成元年、平成3年に行われている。
土曜日で児童もお休みであまり気にせず探訪が出来ました。
この後は直ぐ近くの放生津台場跡を訪ねます。
+ 続きを読む