放生津城は放生津城小学校が本丸と見られ、北側に土塁のようなものがありますが、遺構との関連は不明です。
案内板によると「太平記」には元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護の名越時有が一族と共に放生津の城で最期を遂げたと記載があるようです。室町時代には越中守護畠山氏の重臣で、射水郡・婦負郡の守護代である神保氏の居城となりました。
明応2年(1493)十代将軍・足利義材(義尹・義稙)が越中に逃れてきたときに、義材は神保長誠に支えられ、放生津に幕府政権を樹立し、京都の細川政元とや維持したそうです。
神保氏はやがて長尾氏に追われ、拠点を富山城に移し、後に放生津城には加賀前田氏の家臣が入り、江戸時代の初めまでに廃城になりました。
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