せんごくぼりじょう

千石堀城

大阪府貝塚市

別名 : 今城
旧国名 : 和泉

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①登城口にある案内図
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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:千石堀城 (2025/05/27 訪問)

和泉橋本駅から徒歩20分くらいで、せんごくの社里山駐車場(34.418059、135.370135)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、根来衆によって築かれたと云われています。
「石山合戦」で石山本願寺と織田信長が戦った際、根来寺の支城として和泉国に5か所もしくは7か所の城を築いたといわれており、そのうちのひとつのようです。
1585年(天正13年)の羽柴秀吉による「紀州征伐」では最初の攻撃目標となり、大谷左大仁を大将として千数百人が籠城しましたが、筒井順慶・堀秀政・大谷吉継らに攻められ落城したようです。

案内標識とテープに従って進めば辿り着きます。
現在城址に遺構はありませんが、案内板が設置されています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=雨山城を目指す為、和泉橋本駅から、電車➡バスを乗り継いで、浪商学園前バス停に向かいました。

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dougen

2019.11.14登城 (2019/11/14 訪問)

水間鉄道名越駅から近木川に架かる千石橋を渡ったところにある小山が千石掘城址となります。
案内板は少ないものの整備されており、散策は問題なくできます。
遺構としては、郭跡や土塁、空堀などが確認できます。

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しんちゃん

豊臣秀吉の紀州攻めの激戦地 (2024/02/24 訪問)

千石堀城は石山合戦の際に、石山本願寺に味方した根来衆の城で、和泉国に築かれた根来寺の支城の一つとされています。天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めの際には弓の名手大谷左大仁法印が城主として千数百名の兵で籠り、大軍相手に善戦しますが、筒井定次隊が放った火矢の起こした炎が火薬箱に引火して爆発し、それに乗じた豊臣秀次隊が乗り込んで来て落城したそうです。
千石堀城は主郭を中心に周囲に堀を巡らし、東側は二重の堀切になっています。掘の間は腰郭のようになっていますが、このあたりが二の丸になるのでしょうか? 入り口は東側に付いているようで、土塁などはみあたりません。
千数百人が籠るにしては少し手狭に感じますが、二の丸だけで300人が討死し、本丸にいた残兵もことごとく討ち果たされたとのこと。積善寺城・沢城はさらに規模の大きい城だったようで、落城せずに和睦に応じ開場したようです。

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せんごくの杜 (2023/07/06 訪問)

 水間鉄道名越駅より徒歩にて約10分でせんごくの杜の駐車場に行くことができます。
そこから登城しましたが、歩いて行くと「千石堀城跡」の朽ちかけている木の標識がありました。こちらではないのでは?と思いましたが入って行くと展望台の標識があり登って行くと薄くなって読むのに難渋する説明板がありました。さらに進んでいくと空堀と思われる地形があります。戻って北側の山へ入って行くと所々縄張り図が木に取り付けてありありがたかったです。根来八幡宮の跡らしき場所を見つけると位置関係もより把握できて散策できました。空堀跡等残っていますが、夏季で草が多く倒木もあり難渋しました。さらに昨日降った雨の影響で足元が悪く、暑さに加え藪蚊の攻撃にあい早々に撤退しました。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 根来衆
築城年 安土桃山時代
主な城主 大谷左大仁(根来衆)
廃城年 天正13年(1585)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 大阪府貝塚市橋本
問い合わせ先 貝塚市教育部社会教育課
問い合わせ先電話番号 072-433-7125