千石堀城は石山合戦の際に、石山本願寺に味方した根来衆の城で、和泉国に築かれた根来寺の支城の一つとされています。天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めの際には弓の名手大谷左大仁法印が城主として千数百名の兵で籠り、大軍相手に善戦しますが、筒井定次隊が放った火矢の起こした炎が火薬箱に引火して爆発し、それに乗じた豊臣秀次隊が乗り込んで来て落城したそうです。
千石堀城は主郭を中心に周囲に堀を巡らし、東側は二重の堀切になっています。掘の間は腰郭のようになっていますが、このあたりが二の丸になるのでしょうか? 入り口は東側に付いているようで、土塁などはみあたりません。
千数百人が籠るにしては少し手狭に感じますが、二の丸だけで300人が討死し、本丸にいた残兵もことごとく討ち果たされたとのこと。積善寺城・沢城はさらに規模の大きい城だったようで、落城せずに和睦に応じ開場したようです。
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