南北朝期に北朝方の日根野氏が築いたとされ、後に橋本正高らに奪われて南朝方の城となるなど、南北朝攻防の舞台となりました。戦国期には根来衆の拠点となり、その後、一国一城令により廃城となったと考えられます。
粉河街道を見下ろす城ノ山の頂部に曲輪群を配した山城で、東尾根の先の雨山城との間にも城郭遺構が見られることから、一城別郭の城として雨山城と一体的に機能したと考えられ、土丸・雨山城跡として国史跡に指定されています。
雨山城から尾根道を西に進むと、日根荘大木の農村景観を見渡せるあたり(案内板あり)から土丸城を遠望できます。山頂手前の鞍部から登城路をそれて北東の谷部に下りて行くと、階段状に削平地が設けられていますが、これは山麓の土丸集落の住民が戦火や領主の支配を逃れるため「山入り」「山あがり」した際の避難場所とも考えられるようです。
谷部から登城路に戻って急な坂道を登ると主郭東下の曲輪に着きます。曲輪の奥、主郭東辺切岸の下には武者隠しとされる土塁があるにはあるものの、倒木が覆いかぶさっていてほとんど見えません。主郭北辺切岸を眺めながら北の曲輪を経て主郭へ。雨山城と同じく山頂の主郭には龍王社が鎮座し、錆びついた説明板がありました。主郭から西に続く尾根は灌木が密集していて進入路は見当たりませんが、灌木をかき分けて突入し岩盤の斜面の下に曲輪と堀切を発見。枝で目を衝きそうになったり帽子を取られたりしつつも突入した甲斐が(それなりには)ありました。主郭に戻って今度は北西尾根へ。北の曲輪から下って行くと堀切があり、その先にはいくつかの曲輪が連なっています。曲輪のひとつは展望所になっていて180度超の視界が開け、泉南はもとより摂津、淡路までが一望の下です! 南北朝期以降の諸勢力が土丸城(と雨山城)を確保したいと考えた理由(の一端)を実感できました。
土丸城だけでなく、この日訪れた雨山城でも根福寺城でも倒木を多く見掛けましたが、おそらく平成30年9月の台風21号(強風で流されたタンカーが関西空港連絡橋に衝突したあの台風です)によるものと思われます。遮るもののない眺望が土丸城の見どころですが、それだけに台風の風をまともに受けてしまうんでしょうね。ただ、他には眺望と堀切くらいしか見どころのない城なので、せめて武者隠しの倒木だけでも何とかならないものでしょうか…。
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