おおたじょう

太田城

和歌山県和歌山市


旧国名 : 紀伊

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ぴーかる

太田城 (2024/09/28 訪問)

【太田城】
<駐車場他>来迎寺駐車場は未確認。
<交通手段>JR和歌山駅から徒歩

<感想>電車で和歌山ちょこ城巡り、写真消えた旅2城目。秀吉が紀州攻めの際に水攻めにした城です。来迎寺にまず行って、山門前に太田城の説明板があります。中の母屋か本堂前に大きな城跡碑があります。来迎寺の東隣に小山塚(水攻めの石碑)があり、⇒太田城毘沙門天(太田城から持ち出されて難を逃れここに祀った)⇒きのくに信用金庫出水支店の東隣にある水攻めの土塁、ここは南側の畑に行けば土塁の全景が撮れます。⇒Googleマップにある「紀州太田城水攻めの堤防」は<34.234722,135.200402>から遠目で見えます。太田小学校内部の北側、雨水ポンプ場の東横に柵越しに土塁が見えますのでこれもそうかと思います。
 そのまま一旦、秋月城まで歩いて訪城し、和歌山駅に戻り昼食(下記グルメ)⇒西方にある大立寺山門(伝・太田城の移築大門)を撮影し(消えましたけど…)終了しました。所々に遺構が少し残っていて歩いて巡りそこそこ楽しめました。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>近鉄百貨店和歌山店B1にある「ラーメン清乃」で昼食をとりました。和歌山ラーメンの有名店は井手商店(私は行ったことある。いつも行列、裏に駐車場あります)です。

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しんちゃん

日本三大水攻め 太田左近宗正と雑賀孫市 (2024/02/25 訪問)

太田城は「日本三大水攻め」の一つとして有名な城です。天正5年に織田信長が紀州に大軍を送った際には、当時雑賀党と対立していた太田衆は織田軍の先導を務めました。そのことで両者の間にしこりが生まれ、翌年 雑賀党は太田城を攻めますが、根来衆の援軍を受けた太田城はなかなか落ちず、雑賀孫市は太田左近宗正に和睦を申し入れたそうです。
これらの一連の出来事で、対立関係もあったこの地域の三つの勢力が結びついたようです。後に豊臣秀吉が寺領72万石、3万の僧兵を所有する根来寺に対し、寺領を納めよと要求したことに三党は反発し、天正13年(1585)の紀州攻めが始まります。根来寺が焼き払われた後も太田左近は5千の兵と共に強く抵抗したため、秀吉軍は総延長5~6kmにも及ぶ堤を築いて水攻めを行ったとされています。
太田城の兵は攻め手の船の底に穴を開けるなど、勇敢に戦いましたが、水攻めが始まって1か月後、太田左近ら首謀者50余人の首を差し出すことを条件に他の者は助命され、城は開城したとのことです。

来迎寺が本丸の中心だとされています。境内には大きな石碑が建ち、近くには自刃した武将たちの首を葬ったとされる小山塚が有ります。周囲は宅地化が進んでいるので三大水攻めとされる城の中では最も雰囲気から遠いですが、「紀伊名所図会」の「太田城水攻め図」には忍城などにも負けない立派な太田城が描かれています。
ちなみに堤跡には情報不足で行ってません。

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日本三大水攻め (2024/06/13 訪問)

 羽柴秀吉に水攻めにされたことで有名な城址です。来迎寺付近が本丸であったと伝わっています。石碑と説明板がありました。来迎寺の北東にある小山塚は戦死した籠城衆の首を埋めた塚のひとつで、土地区画整理により前にあった場所から移されたものです。今回は移築門や水攻め堤には行っていません。

 JR和歌山駅から徒歩10分くらいで行くことができます。

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水攻め堤説明板周り (2023/03/12 訪問)

にのまるさんが水攻め堤に行った21年1月には、説明板の周りはいわゆる文化住宅がありましたが、本日訪れると、住宅は取り壊し作業中でした。遠慮なく、説明板及び堤を見に行くことができます。でも撤去後に何か建ちそうな感じも。イオさん、にのまるさんのお陰で、堤趾に行け、感謝、です。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 紀俊連
築城年 延徳年間(1489〜1492)
主な改修者 太田左近
主な城主 紀氏、太田氏
廃城年 天正13年(1585)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、移築門
指定文化財 市文化財(大門)
再建造物 石碑、説明板
住所 和歌山県和歌山市太田