まつおでらじょう

松尾寺城

大阪府和泉市


旧国名 : 和泉

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①堀切かな
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昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:松尾寺城 (2025/05/27 訪問)

和泉青葉台バス停から徒歩15分くらいで、松尾寺第3駐車場(34.434057、135.463830)に着きました。

松尾寺城は現在の松尾寺を中心とした山岳寺院を利用した城であったそうです。
松尾寺は672年(天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まり、その後、泰澄が中興し、熊野、吉野、白山の権現を勧進したそうです。
1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたそうです。
南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされます。
織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束します。
しかし、4年後の1581年(天正9年)紀州高野山攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまいました。
その後、1602年(慶長7年)豊臣秀頼による金堂の寄進などにより再興が行われました。

堀切、竪堀を確認しましが、石垣は見ていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=稲葉城に徒歩で向かいました。

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しんちゃん

マツオ・デラックス (2024/11/03 訪問)

松尾寺城は山岳寺院を利用した城であったそうですが、それほど険しい感じはしません。北側の社の背後の土盛りは雰囲気がありますが、遺構かどうかは不明です。天正9年(1581)織田信長に攻められ壊滅的な打撃を被りますが、後に豊臣秀頼によって再建されたそうです。
山門に向かって石段を登っていくと左手に首堂があります。源義経が一ノ谷の合戦で討ち取った首を首舟に乗せ松尾寺に送り、それをねんごろに弔ったとのことです。

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山岳寺院 (2023/12/02 訪問)

 役行者によって開かれたと伝わる古刹で山岳寺院です。最盛期には寺領7000石、僧兵も数千人いたとされています。それほど険しい山でもなく、自分としては山岳寺院の雰囲気はあまり感じられませんでした。
 紅葉の季節で数人の方が散策してみえました。

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イオ

古刹と裏山 (2021/11/19 訪問)

飛鳥期に役行者が開いた松尾寺が南北朝期に城郭化したもので、最盛期には寺領7千石、僧兵数千人を擁したとされますが、織田信長の高野山攻めの際に焼き討ちを受けて全山焼亡。その後、松尾寺は豊臣秀頼により再建されて現在に至ります。

松尾寺は紅葉の名所でもあり、近くに来たついでに紅葉狩りがてら登城しました。松尾寺の駐車場に車を駐めて石段を上って行くと、左手に源義経が一ノ谷の戦いの死者の菩提を弔ったと伝わる首堂があります。首堂の少し上には江戸中期築の立派な山門があり、楼上に文殊菩薩、門の左右に増長天と持国天が配されています。見ごろの紅葉を眺めながら境内を進むと、豊臣秀頼の寄進により四天王寺から移築された金堂が建っています。金堂の近く、鐘楼の脇には長諭和尚の碑があり、信長の焼き討ちの際に本尊や寺宝を護って難を逃れた功績が顕彰されていました。

松尾寺の裏山、児童遊園と春日神社の奥には松尾寺の僧坊であり松尾寺城の曲輪と思われる削平地が多く連なり、堀切状の地形も見られました。また、金堂の裏手には新池と呼ばれる溜池があり、仮に往時からのものとすると水の手兼水堀的な位置付けかなぁ、などと妄想しながらの探索でした。
 

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 松尾寺門徒
築城年 南北朝時代
主な城主 松尾寺門徒
遺構 曲輪、石垣
住所 大阪府和泉市松尾寺町