役行者によって開かれたと伝わる古刹で山岳寺院です。最盛期には寺領7000石、僧兵も数千人いたとされています。それほど険しい山でもなく、自分としては山岳寺院の雰囲気はあまり感じられませんでした。
紅葉の季節で数人の方が散策してみえました。
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2023/12/03 04:18
2021/11/30 08:41
古刹と裏山 (2021/11/19 訪問)
飛鳥期に役行者が開いた松尾寺が南北朝期に城郭化したもので、最盛期には寺領7千石、僧兵数千人を擁したとされますが、織田信長の高野山攻めの際に焼き討ちを受けて全山焼亡。その後、松尾寺は豊臣秀頼により再建されて現在に至ります。
松尾寺は紅葉の名所でもあり、近くに来たついでに紅葉狩りがてら登城しました。松尾寺の駐車場に車を駐めて石段を上って行くと、左手に源義経が一ノ谷の戦いの死者の菩提を弔ったと伝わる首堂があります。首堂の少し上には江戸中期築の立派な山門があり、楼上に文殊菩薩、門の左右に増長天と持国天が配されています。見ごろの紅葉を眺めながら境内を進むと、豊臣秀頼の寄進により四天王寺から移築された金堂が建っています。金堂の近く、鐘楼の脇には長諭和尚の碑があり、信長の焼き討ちの際に本尊や寺宝を護って難を逃れた功績が顕彰されていました。
松尾寺の裏山、児童遊園と春日神社の奥には松尾寺の僧坊であり松尾寺城の曲輪と思われる削平地が多く連なり、堀切状の地形も見られました。また、金堂の裏手には新池と呼ばれる溜池があり、仮に往時からのものとすると水の手兼水堀的な位置付けかなぁ、などと妄想しながらの探索でした。
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2021/06/11 20:02
松尾寺城 (2021/05/29 訪問)
【松尾寺城】
<駐車場他>松尾寺第3駐車場無料
<交通手段>バイク
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第3弾6城目。松尾寺は天台宗の山岳寺院で南北朝時代から室町時代が最盛期、言い伝えでは寺坊300余僧兵数千人いたそうです。1581年信長の高野山攻めの際に焼き払われたそうです。1602年豊臣秀頼によって金堂が四天王寺より移築寄進されました。
松尾寺の東側~南にかけての山側(山といっても丘陵程度)松尾寺公園一帯がかつての寺坊や塔頭があったかもしれない。西国三十三カ所の石仏がある山側に堀切を発見した。よく散策すれば色々発見できるかもしれない。
<満足度>◆◇◇
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2019/07/17 19:25
山岳寺院を利用してます (2019/07/08 訪問)
松尾寺の最盛期は南北朝時代から室町時代であり、寺領7千石、寺坊300余名、僧兵は数千人を数えたらしく、山岳寺院を利用したのが松尾寺城であったらしい。織田信長は天正9年(1581)紀州高野山攻めの際に松尾寺も攻撃、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ったが、豊臣秀頼によって再興されている。
松尾寺駐車場(2ヶ所:30台)を利用、麓から石段を途中まで上がると、左側の削平地は首堂(こうべどう)、案内板曰く「源義経が源平一の谷合戦で戦死した将士の首舟一槽を当寺へ送り、この地に葬り亡魂の菩提をねんごろに弔いました」と、将士の首舟一槽を想像してしまい、少しコワイ。さらに石段を上がると立派な山門と金堂、改変されているので遺構は良く分からないが、一番奥の春日神社裏に山城らしい地形が見られます。
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分類・構造 | 山城 |
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築城主 | 松尾寺門徒 |
築城年 | 南北朝時代 |
主な城主 | 松尾寺門徒 |
遺構 | 曲輪、石垣 |
住所 | 大阪府和泉市松尾寺町 |