慶長年間以降に,伊達家家臣・山岸定康が居住し,その後、伊達家重臣・茂庭綱元の屋敷と館跡です。伊達政宗が死去すると綱元は現在の栗駒町に移り,この屋敷には政宗の長女・五郎八(いろは)姫が移り住みました。以降,西館は五郎八姫の仮御殿として,別荘的な性格を持っていたようです。土塁、池跡、井戸跡などが残っています。
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2025/05/25 10:39
2025/05/25 10:26
野武士の城 (2025/05/22 訪問)
野武士が立て籠もった山城とされています。またこの地域は国分氏の支配地域で関連する城館ともいわれています。諏訪神社の後方丘陵が城址で、神社より登城路が整備されていました。神社の鳥居近くに説明板があります。縄張りがわかりにくいのですが、空堀、土塁などの遺構が観られます。
登城路を進んで行くと左手に曲がった所に曲輪と思われる平坦な地形があり、その後左手下に空堀がありました。東側に登って行くと段々となっている曲輪があり、ここにも説明板が設置されています。さらに進んで行くと湧き水池への道があり、先には水分神社があります。ここまでは道も整備され草もなく歩きやすいのですが、その先は藪に近い状態でした。ただその先の曲輪には土塁、空堀、虎口などがあり見どころだと思います。この日は雨が降っていて、この自分が見どころと思っている場所に来ると雨の勢いが強くなり難渋しました。下りてくると雨が止むという自分にとっては時々あるパターンです。
刑部さんが登城されたときは侵入禁止となっていたようなので、神社まで行って引き返すことも覚悟していましたが、通行規制は解除されていました。ただ入口に「熊出没・被害について、周辺地域にて相次いで報告されております その為、入山にはくれぐれもご注意ください また、山中での事故等の一切の責任は当神社では負いかねます」の注意書きがありました。近くに御殿館跡へ(約10分)→御殿山へ(約15分)と書かれた標識があり、急いで行って来ました。この日は先にも書いたように雨が降っていて傘を差しながらの登城となり、ブレている写真が何枚かありました。
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2025/05/25 05:33
ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑤ (2025/05/03 訪問)
あまり触れられていないコンデジにもないデジタル一眼の利点を紹介しておきますね。それはレスポンスの速さです。兎に角、電源を入れて立ち上げてからシャッターを切るまで本当に短時間で済みますし、シャッターを切った瞬間の写真をきっちり撮影することもできます。この快適さはちょっと手放す気にはなれません。あとバッテリーの持ちが良いという利点もあります。1週間くらいの旅だったらバッテリー交換や充電の必要はまずありませんから。(それでも替えのバッテリーは用意しています。破損したカメラのものを有効活用しています。)そもそも、カメラはレンズの大きさ(F値)にもこだわっていますしね。
さて、ゴールデンウイーク後半の城攻めです。日吉津のイオンモールにて昼食をとり、鳥取県内では5回目となる献血を無事終えた後に攻城しました。この城、どうも私有地のようで登城路を少し進むとチェーンが張られていて城内に立ち入ることはできませんでした。城に関する表示は何もないし、魅力的な遺構があるようにも思えませんでしたので、早々に次の城へと向かいます。
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2025/05/25 01:03
城域南部の整備がされると、面白い城になりそう。 (2025/05/06 訪問)
宮崎城は図師六郎入道慈円が南朝方に応じて挙兵した際に築かれたとされています。北朝方の土持氏に攻められ落城した後は、土持氏の城となり、文安4年(1446)に伊東祐堯が攻略して以降は、伊東48城の一つとして家臣の落合彦左衛門が置かれました。島津氏に追われ、伊東氏が豊後に逃げてからは島津氏の持城となっています。
この地域では外せない城だと思い、朝から攻略をしていますが、朝方からの雨で限定的な攻略に留まっています。満願寺口から攻略し、分岐を北に回って、目曳城と周辺を散策します。その後分岐に戻って、本丸から彦衛門城(百貫城?)を散策して引きあげました。
本丸と彦衛門城の周辺には堀が残っています。城域もなかなか広く、この周辺では名の通った山城ですが、整備の手は行き届いておらず、案内の標柱なども見当たりませんでした。もっと登城道や藪刈などの整備がされれば、面白い城になるとは思うのですが、いささか残念ではあります。
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2025/05/25 00:04
赤木城 (2025/03/29 訪問)
登城道から登っていくと、東郭Ⅰ・東郭Ⅱに挟まれた場所に行きあたります。そこから城内に侵入する必要がありますが、ここで両郭から攻撃を受けるので、通り抜けるのは至難の業です。その先も東郭Ⅰの攻撃を受けながら虎口を通って主郭を目指しますが、この虎口も幾重にも折れ曲がりが続いていて容易に先に進ませてくれません。コンパクトな城址の内に巧妙な防御の仕掛けを施しているあたり、後に築城名人として第一に名前の出てくる藤堂高虎公の城として相応しい城だと思います。
高虎公初期の城とはいえ、石垣も見事で西郭の周辺もしっかり造られています。東西の両郭に挟まれた南郭周辺は平時の生活の場として使われていたようです。周辺を押える城として、主郭からは赤木・長尾・平谷といった集落を眺望することが出来ます。
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2025/05/24 22:03
台城 (2025/03/22 訪問)
【台城】
<駐車場他>現地が墓地になっているので墓地駐車場に駐車できます。
<交通手段>車
<感想>2泊3日西九州旅3日目6城目。菊池市の公式サイトによると台城は菊池十八外城(菊池郡の本城である菊池城を守る十八の城)の1つで、城主は一族の交代制であったようです。大きな舞台になったのは1375年の水島の戦いで、13歳の菊池賀々丸(のちの武朝)が九州探題の今川了俊の進行を食い止めます。1379年の板井原の戦いで今川軍は亀尾城を拠点にして台城は落城します。
城跡碑のある場所は台地の端にあり、幹線道路から車1台が通れる狭い農道を行って着きます。現地は墓地になっていて土塁か堡塁かよく分からない盛土の上に城跡碑があります。台地上は広大な畑になっていました。
<満足度>◆◇◇
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2025/05/24 21:48
徳川大坂城の刻印 (2025/05/05 訪問)
二の丸 南仕切門の北側、隠し曲輪、刻印石広場の刻印を投稿させて頂きます。
元和・寛永年間(1620年~1629年)、徳川幕府が西国の大名(64家とも)を動員して、豊臣大坂城の上に徳川大坂城の再築工事が行われました。
工事を分担する丁場割が行われ、参加を命ぜられた各大名は石垣の石材に家紋や文様を刻み、その刻印の数は5〜6万個にのぼるそうです。
二の丸 南仕切門の北側の残石には、大名は分かりませんが、見事な「桐紋」「左◯き十七」の刻印が見られました。
本丸西側下の隠し曲輪の石垣では刻印が沢山あり間近で見られました。
「丸に出十字(くつわ紋)」と「丸にニ八」が多く、「丸に出十字」は伊予大洲藩 加藤泰興、「丸に二八」が丹波園部藩 小出吉親の刻印とされます。
左右で「丸に出十字」と「丸にニ八」に分かれる境があり、ここからは俺たちが持って来て積んだと担当範囲を主張し合ってるのかと妄想しました。
美濃高須藩 徳永昌重の刻印とされる「地紙」も見付けることができました。
徳永昌重は、お酒が好きで大坂城石垣の工事を遅延し責任を取らされ、領地を没収されたとされます。
山里丸の刻印石広場には刻印がある残石が沢山集められていて、石置場・出土した地域・大坂城内など7つのゾーンに分けて展示されてました。
観光客が残石に座っていたり、子供が遊んでいて、刻印は28個(恐らく3割位)しか確認できませんでしたが、最近刻印好きになった私にとってはパラダイスでした。
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2025/05/24 21:40
ゲッゲッ ゲゲゲのゲ~(それは妖怪) (2025/05/06 訪問)
ヒロケンさんの投稿を見ると、ここはちょっとした心霊スポットのようです。それで、人気(ひとけ)が無かったのね(笑)。
おかげでのんびり城跡を散策できました。幽霊さんありがとう(ありがとうじゃないって)。
私はZONEに入ってくると、なんとなく「城の声」が聞こえるような気がしますが、霊感は無いらしく、おばけに会ったことはありません。妖怪とかいたら会ってみたいけどな~。
山城を攻めている時は、イノシシを追っ払って城攻めを続けているし、鹿児島の道の駅では普通車のエリアに入り込んできたトラックをドヤして追っ払ったりしてるし、こんなオイラじゃ幽霊さんも寄ってこないかな・・ちょっと心がヤサグれていますね。まあ、旅の間だけですよ、普段はそんなに気が立ってないです。
紫波洲崎城は日向灘に面した丘陵の鼻に築かれています。日向灘を一望できる立地にあり、周辺の海(港)を治めた城とされ、伊東48城の一つとされています。主要部まで舗装された道が続いていますが道幅は狭く、軽自動車でもすれ違う巾は有りません。一台で有れば普通車でも十分通れるので、様子を見て一気に上まで上がります。おばけのお陰で人がいないのが幸いしましたね。
パゴダのある場所が主郭と見られ、北東まで郭が伸びています。展望台が立っていて、そこからの眺望は良好です。パゴダの北側にも郭があり、展望台がありますが、道はうっそうとしています。できれば夕方の雰囲気たっぷりの時間帯に訪問してほしいです。
ひゅ~どろどろ・・
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2025/05/24 20:35
本丸周辺は激ヤブ 駐車場からの桜島が見事 (2025/05/08 訪問)
「二刀流です」・・って既に参加済みの状態ですが。私はコンデジ派は「隠れ二刀流」と見ています。デジカメのメモリーがいっぱいになった時や、バッテリーがヤバいとき、救世主は・・そうスマホのカメラでしょう。
私のデジカメ、ルミックスはコンデジとはいえ性能はなかなか良かったのですが、雨の日に動きが悪くなるので、今は一線を退いています。「グーグルピクセル9」は「IP68」の防塵・防水性能を持っているので、30分間タバコペールに落としても理論上、動作するはずです。おそらくカメラ性能も3万円台のカメラだとグーピクのカメラと性能上の差はそれほど無いのではないでしょうか。進化を続けるスマホにデジカメがどのように対抗していくのか興味はあります。
廻城の投稿です。駐車場まで普通車で行くことが出来ます。駐車場は広くアスファルトでならしてあります。この城の「売り」の一つが、この「駐車場」でしょう。桜島が良く見えます。
少し青みがかっていますが、前回訪問した際は曇りで見えなかったので、これは嬉しい。
駐車場から先に進むといきなり土塁が待ち構えています。地形図を見ると駐車場は昔、池だったようで、それを埋めて駐車場にしているようです。元池に遺構が隣接しており、三重の堀切を持つ土塁となっており、土塁の上も小さな郭のようになっています。また三重の堀切の先の土塁は西に郭が付いています。本丸には尾根の北側から踏み代の様な細い道が付いていますが、この道の下が崖になっています。尾根の北側は湊川にそって急斜面が続いているのですが、地形図を見ると60mくらい高低差がある。気を付けて進んでいくと、行きついた先が激ヤブになっていました。
既にここにも「激ヤブラー」の痕跡が! ここであまり時間と体力をロスしたくなかったので、戻ることにしました。後で他の人の投稿を見るとtodo94さんがここを抜けて本丸にたどり着いているようです。宝篋印塔のある場所が本丸になるのだろうか? 城郭放浪記さんの記事だと、ここを迂回して南側から回り込んでいるようです。できれば、藪を刈ってくれて、道をもう少し解りやすくしてくれるとありがたいのだけど。冬場に来ることがあったら、もう一回トライしてみますかね。
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2025/05/24 19:11
2025/05/24 17:03
豊臣石垣館 (2025/05/05 訪問)
豊臣秀吉が築いた大坂城は慶長20年(1615)に大坂夏の陣で落城後、元和・寛永年間(1620~1629)に徳川幕府が豊臣大坂城を盛り土で埋めてしまい、その上に徳川大坂城が再築されました。
昭和59年(1984)の発掘調査で発見された石垣は、豊臣大坂城 本丸の「詰ノ丸」の石垣であることが分かり、今年4月1日にオープンした豊臣石垣館で見学できるようになりました。
地下1階に降りると、見事な石垣を目の前にして感動的でした。地中に埋まっていた貴重な豊臣期の石垣は、今見られる徳川期の打込接・切込接とは違う荒々しい野面積で、歴史ロマンを感じました。
解説パネルや解説映像で、大坂夏の陣で焼かれた時に熱で剥離や赤く変色した戦火の痕跡、石垣角部の豊臣期の原初的な算木積、古墳の石棺の未完品や古代寺院の礎石の転用石などが分かりました。
地上1階に上がると、石垣を見下せ、盛り土で埋められた高さが分かり、裏込め石、五輪塔・石塔も見ることができました。
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2025/05/24 16:59
叶堂城は豊臣水軍拠点 (2025/05/15 訪問)
現在感応寺に叶堂城の残存石垣石材を一部使用して穴太積みで感応寺観音堂、鐘堂が城郭石垣風に築造されています、城郭放浪記さん城びと皆さんの投稿により是非訪ねたいと思っておりましたが、今回の鳴門大塚国際美術館鑑賞見学旅で家内と訪ねる事が出来ました。
駐車場:感応寺境内を利用し参拝。
参考資料:城郭放浪記さん城びと投稿の皆さんグーグルマップに依る。
感応寺さんと石垣上に在る観音堂に登り参拝し観察見学、北東部、東正面を境内より見学撮影、南西部に廻って南面、西面に遺構の残存石材が復元で活用されているとの情報で見学確認、するも良くは判らない、石垣を穴太積みで築造したとの石碑が在り確認、同じく松帆山感應寺由緒石碑を確認。
感応寺から西に約200m程の三原川・大日川北岸にグーグルマップ史跡マーク「叶堂城跡」が在り、歩いて尋ねる、「史跡叶堂城跡」の石碑と「叶堂城跡の由来」石盤碑が在ります。
読むと、城域は南北約150m、東西約200m、高さ10m、基底約2200㎡の地山、南西部に穴太積の石垣が約40mに渡り築造されてた、とあります。
この地に在った感応寺は叶堂城築城時に北の松原中に移転し、関ケ原、大坂の陣後廃城になった叶堂城跡地に願い出て元の地に戻った様です、昭和59年の河川改修で叶堂城跡は消滅、感応寺は現在の場所に遺構石材を使い石垣復元して移った。との事です。
歴史的には、この近くの志知城が文禄4年(1595年)城主の加藤嘉明が伊予松前に転封と成った後は豊臣直轄領となり、代官石川紀伊守が派遣され慶長5年(1600年)までに志知城は廃城と成り、新たに叶堂城が築かれた。叶堂城は河口港に近く志知城より水軍の基地、拠点には利便性が有ったと思われます。
石川紀伊守は関ケ原では西軍に与し敗れ、関ケ原、大坂の陣を経て淡路は阿波徳島藩主蜂須賀家の所領となり、叶堂城は廃城に至る。
この後志知城へ向かいます。
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2025/05/24 16:52
遅れましたが、カメラ派です
カメラ派です。なるべく軽いコンパクトデジタルカメラを昔から使っています。
1)画質はある程度よければよいと思っていること
2)複雑な操作はしたくない(できない)こと
3)軽量であること
4) 山城では斜面で撮ることもあり片手にトレッキングポールを持っていることが多く片手で容易に操作できること
5)今まで使って慣れていること
などが主な理由ですが、あまり深く考えたことはありません。カメラもお店の方に勧められたものを購入しました。
カメラ、スマホに詳しいわけでもなく、こだわりがあるわけでもなく城の写真は気軽に欲望のままにバチバチ撮れればいいかなと思っています。カメラとスマホは両方持っていた方が、片方が故障したときの保険になります。
数年前にミラーレス一眼レフのカメラも購入しましたが、コンデジに比べると重いので城巡りにはほとんど持っていきません。
イオさんが投稿されているようにコンデジ市場は衰退し絶滅危惧種ですが、自分は今後もコンデジ派の予定です。
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2025/05/24 16:45
カメラ派です (2025/05/24 訪問)
すみません💦
自分もイオさんのカメラ派?スマホ派に参加させて下さい💦(いつも投稿のタイミングがズレてしまいすみません)
あれっ! スマホ派の方が多いようでビックリしました。お城に行くと大抵の方は、カメラで撮影されている方を多く見かけます。城びとの方々もてっきりそうかと勝手に思っていました。
自分はカメラ派?です。って言ってもカメラとスマホの両方を使い分けています。カメラが9割でスマホが1割ってところです。スマホは、動画をとる際に使用し、画像はカメラを使用しています。画像だけだと迫力に欠けるというか、大きな城とかに行くと動画で残したいって感じる場面が多々あります。ですが動画撮影を乱用していると充電が持ちません😢
カメラもCASIOのコンデジ・FUJIFILMのデジカメ・OLYMPUSの一眼と3台持っていますが、もっぱら使用しているのは、CASIOのコンデジです。もう古くなって何度か修理に出し、前回修理に出した時に「次回来られることがあれば、もう部品が無いかもしれません」と余命宣告されてしまいました。永年使用しているカメラなので大事にしてやりたいと思っています。
他のカメラは、お城を撮影している方を見ると格好の良いカメラを使用し、羨ましく購入してしまいましたが、やっぱりコンデジに戻ってしまいます。
因みに、カメラを落とした事は一度もありませんが、ウエストバック(小さいやつ)で持ち運んでいる為、山城で足を滑らせた際、転んでカメラのフレームが割れた事がありました。
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2025/05/24 11:29
スマホ派です。
遅ればせながらイオさんアンケートに参加します。
フィルムカメラ時代から写真を撮るのは好きで、ガラケーからスマホにシフトしてからもデジカメ(直近ではPowerShot SXシリーズ)を持ち続けていました。
デジイチ(Canon EOS Kiss)を清水買いしてからは、きれいな写真が簡単に撮れるのがおもしろくて城びとにもよく投稿していたのですが……、
重い!!!!
本体だけでもかさばるのにバッテリー(予備も)に充電器にとなると、電車派にはかなりの負担で、次第に手に取らなくなってしまいました。
そしてコロナ。
気づけば2年近く放置。今後もおそらく使わないだろうと思い、善は急げと新宿ヨドバシカメラへ💨 売ってしまいました\( ˆoˆ )/
そしてその足で地階の石井スポーツへ行き、山城めぐり用にトレッキングシューズを購入したのでした。(デジイチ売却代金とシューズ購入代金がほぼ同額でした。)
コンデジも次第に使わなくなり、今ではiPhone1台(+モバイルバッテリー)で出かけています。カメラ機能に拘りはなく、カメラにお任せの備忘録的な記録しかしていませんが、先日、Androidのお高いスマホを持っている人に見せてもらったところ、同じ場所で撮った写真の出来の違いに愕然。次の買い替えの時にはカメラ機能にも拘った方がいいのかなぁと心が揺れています。
また、先月高温多湿な地域に出かけた時に写真を撮りまくっていたらスマホが悲鳴をあげておかしくなってしまって(バッテリーの減りが異常に早い・画面が半分黒い・突然電源が切れるなど)、カバーを外して冷ましながら切り抜けるという経験をし、1台のスマホにさまざまな機能を詰め込みすぎるリスクを痛感しました。
とにかく【何もかも】スマホの中なので、もしここで壊れたらと考えるとゾッとしました。
スマホ+カメラの2台持ちをする予定は今のところないので、撮った写真は早めに移し替え、普段はなるべく負荷がかからないようにして、リスクの分散も考えようと思います。
それにしてもみなさん!!
よくカメラを落としますね
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
(私もやったことがあります。
そんなときは、カメラが身代わりになってくれたと思うことにしています^ ^)
イオさん!
「るの門なう!」覚えてくださっていたのですねー(^^)
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2025/05/24 11:16
【ヤヴラ~天国】山頂部に広い郭が有る がんばってトライしてみる? (2025/05/08 訪問)
郡山城は古くは郡山氏によって築かれ、南北朝時代には北朝方の郡山頼平が籠り、南朝方の伊集院忠国に攻められ落城したとのこと。江戸時代には南麓に麓が置かれ今は集落になっています。幕末か明治初期にも使用されたという記憶が有るのですが、調べても出てこない・・思い違いであったか?
この城は「藪LOVE怪人ヤブラー」によって、すでに激ヤブにされています。麓が南にあるので、当然山に入る場所があるのですが、入口から既に激ヤブの状態で、倒竹・倒木・竹藪・笹薮なんでもござれの状態。直登状態でこれが延々続くわけで、正直ふざけんなよ~と思いましたね。未踏の城でなければ帰っていたのではなかろうか・・。荷物を水など最小限にして、すり抜けたり・くぐったり・跨いだり・踏みつぶしたりして進んでいきます。その姿ははたから見ると、まさにアクロバティック・サルイノシシです。誰もいなくて良かった。・・・これもChatGPTで合成されてしまうんだろうか? 「しんちゃん」怪人では無いですよ。「変態」に近づいてはいるけど、まだギリ人間の範疇です。
登りやすい所から攻めていくのがセオリーなので南麓から谷筋に沿って進んでいくと、複数の郭が壇上に並んでいます。主郭は標高185m地点の山頂部で、北西にも郭があり周辺に広い城域を持っています。主郭下にも郭が有り、山全体が城郭として構築されているようにも見えますね。山頂部も竹林や森林がありますが、麓に比べると比較的歩きやすかったです。
ChatGPT・・恐るべし。戦闘員のおねーさんといい、妙に完成度が高くデザインのセンスも有るのが(妙センスではあるが)小憎い。
世の「絵師」さんも負けずに頑張ってほしいです。AIの進歩は驚異的ですが、人の手で書いた作品は「唯一無二」であると思うので。
「藪LOVE怪人ヤブラー」の分身体は我々城びとで「城びと編隊シュツジンジャー」を結成して戦うしかありませんな。だれもやりたがらない?・・じゃあ順番こで。怪人ヤブラーの本体は「イオ」さんだとすると倒すわけにもいかないし。
「べらぼう」関連でそのうちニッポン城めぐり廻国異能の者で「平賀源内」が出るかもしれませんね。
源内先生、イオさんを再改造して元に戻してください。
源内「よっしゃ、まかしとき~」ギュイ~ン・・「戻せなくなっちゃった~」
戻せなくなったじゃね~! 江戸時代のローテクじゃだめだ・・。
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2025/05/24 09:54
【春の長崎天草を巡る㉑:最終回】五島→博多フェリー (2025/04/06 訪問)
最後に福江港から博多港までフェリー(太古)を利用して帰りました、その様子です。
福江港10:10発→博多港17:50着、7時間40分の船旅です。運賃は4,930円(安い!)。船内は結構広くきれいで、2等室も1/3が女性専用エリアのせいか、1人旅か帰省のような女性客も意外と多かったです。船内に売店はなく出航10分前に乗船なので、直前に福江港内の売店で弁当・パン・ビール😊を購入し乗船しました(写真①②③)。船内での貸毛布は100円でコインロッカーを開けると中にあるという方式でした。
出港して3時間後、五島氏の前身、宇久氏の宇久島に寄港します(写真④)。日曜だったせいか釣り帰りのおじさんたちが結構乗ってきて、男性エリアは意外と混雑となりました。
4時間後に平戸島が見えてきました。赤い平戸大橋の右が平戸城です(写真⑤)。つい10日前にあの橋を渡り登城したばかりなので不思議な気分です。
5時間後には肥前名護屋城が見えました(写真⑥)。半島の先がよく私がキャンプをする波戸岬です。多くの武将たちがあそこから船に乗り、この景色を見ながら日本に別れを告げたのでしょうね。
6時間後に唐津城が見えました(写真⑦)。ここで偶然に、つい2週間前に乗った対馬行のフェリーとすれ違いました(写真⑧)。
17:50博多港(ベイサイドプレイス博多埠頭)に到着です。対馬行と同じ場所に着岸します。最後にこの港内にある「博多豊一」でお寿司を食べて帰りました。好きな寿司を好きなだけ選んで皿にのせて清算するバイキング方式で、この鮮度と大きさで一貫たったの120円です! 安くてとても美味しいのでオススメです(写真⑨)。カウンター席があるので一人でも入りやすく、持ち帰りもできます。
【春の長崎天草を巡る】旅はこれで終了です。全21回読んでいただき、大変ありがとうございました😊
(イオさんへ)スマホも最新で高価な機種は、5~7倍のいい光学ズームが内蔵されているようです。要はお金を出して一眼レフと同じ価格くらいの高いスマホを買えば、今ではズームでも結構いい写真が撮れそうです。今回の船の上から5~7倍のデジタルズームで撮った写真④⑤⑥⑦を見ると、手ぶれ補正しても御覧のようにやっぱりぼやけてしまうのが、ちょっとショックでした。私は格安スマホなので、思い切ってこの際買い替えるべきか・・・🤔? でも落としたりした時の事などを考えると、今はまだその勇気がなく、今回外付けレンズがあるといういい情報をもらったので、安そうで合いそうな物があれば、逆に私は検討してみようかな? 効果のほどは・・・?(笑)。
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2025/05/24 08:37
続・カメラ派? スマホ派?
スマホ自体は使い始めてずいぶんと経ちますが、これまでと違った使い方(写真撮影)をするとなると、考えないといけないこともいろいろと出てきますね。ズーム問題は外付けのレンズで対応できるようですが…いちいち持ち歩いて着脱するのは面倒そうだしなぁ。
> あ さん
スマホのカメラ性能の向上に伴って写真のサイズも大きくなっている、ということですね。普段は撮った写真をカメラからパソコンに移した上で、ファイルサイズを落として投稿しているところ、スマホで撮るんなら現地から写真付きで投稿できるやん、と思っていたんですが(るの門なう! とか)、そう単純な話でもないのか…。
> 美夢さん
画質的にスマホで間に合うようになれば、そりゃわざわざデジカメを持ち歩かなくなりますよね。これまでは手帳型スマホケースを使っていましたが、手帳型は熱がこもるとも言われますし、撮影にも用いるようになれば熱対策としてリングも含めて他の手立ても検討しないといけないな、とも。
ところで…(またしても脱線)
> しんちゃんさん
ヤブラヴブブブ(笑い声)、オレさまは藪LOVE怪人ヤブラーだ! 城びと登録城をみんな激ヤブ城にしてやるぜ。覚悟するのだな!!
…というような怪人をChatGPTで画像生成してみました。イオとかいう城好きが戦闘員のおねーさんに拉致されて改造された姿だとも云われています。それにしても「藪LOVE怪人ヤブラー」と入力するだけで、こんなのを生成してくれるんだからやっぱ凄いよなぁ、と。外国のソフトだからか「藪」がそれっぽいけどわけわからん文字になっているのはご愛敬ですが。
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2025/05/24 06:17
ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり④ (2025/05/03 訪問)
法勝寺城からの転戦です。三の丸を占拠していた野球場が撤去されていて整備が進められていました。二の丸の石垣の見栄えが良くなり、山上の天守石垣と一緒に写真に収めるとなかなか新鮮な感動がありました。二の丸にあるテニスコートもそのうちなくなるのでしょうか。三の丸には三の丸番所ができていて、続100名城のスタンプ置き場も、本丸四阿からこちらに移動しています。登り石垣のアピールも少しずつ、増えているように思います。内膳丸、天守台からの眺望と好天の下、米子城を存分に楽しむことができました。今回の目的は、城カード。まちなか観光案内所にて無事、ゲットできました。午前中の攻城は此処迄。13:00に予約を入れておいた献血ルームがある日吉津のイオンモールへと向かいました。
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2025/05/23 22:39
柴小屋館 宮城県伊具郡丸森町 とても訪問しやすい城址 (2025/01/01 訪問)
柴小屋館は柴小屋城とも称され、総称で小斎城と呼ばれる場合もあります。小斎城は柴小屋城、西館城を含めると広大な城域を持ち、標高70m、比高50mの丘陵に東西に広がる山城です。
古くは小斎平太兵衛の居城であったが永禄9年(1566)相馬氏に攻められ、相馬氏の勢力下に置かれました。後にこの地域を巡って相馬氏と伊達氏が争い、天正10年(1582)に伊達氏の所領となり、相馬氏から伊達氏に寝返った佐藤為信が城主となりました。
その後、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になりますが、佐藤氏は引き続き伊達氏に仕え、柴小屋館の南麓に居館を構え、明治まで続いたとのことです。
登城道が整備され、案内も各所に置かれており、とても訪問しやすい山城(平山城)です。その上、遺構も充実しているので山城の初心者でも楽しく散策できます。このような城が各所にたくさん有れば、山城好きの人も増えると思います。
本丸の東に馬屋が置かれ、最高所が本丸で八重垣神社が祭られています。登城道を進んでいけば、すぐに馬屋跡・本丸に行くことが出来ます。本丸内には陸橋跡があり、堀切を挟んで西に二の丸があり、西端に土塁が残っています。その西にも空堀があり、その先に土塁を備えた枡形の様な曲輪が有ります。
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