みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):蛭ヶ小島(城びと未登録 静岡県伊豆の国市) (2025/06/08 訪問)

韮山城から徒歩10分ちょっとで、石碑前(35.051921、138.951981)に着きました。

平治の乱で源頼朝の父・義朝が知多半島で暗殺され、頼朝本人の死罪も確実視されていました。
こうした世情の中、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより、頼朝は奇跡的に助命されたものの、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されることなります。
1160年(永暦元年)2月に14歳で配流となり、34歳で旗揚げするまでの20年間をここで過ごしていました。
頼朝の配流された蛭ヶ小島とされる地は、現在、蛭ヶ島公園となっています。

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=戸倉城へ行く為、韮山駅から電車➡バスの乗り継ぎ、八幡神社前バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):韮山城 (2025/06/08 訪問)

江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)から徒歩5分ちょっとで、登城口付近(35.05484、138.95709)に着きました。

1491年(延徳3年)小田原北条氏の祖、伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれました。
駿河国興国寺城主伊勢宗瑞は、堀越御所の内乱に付け込み堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると韮山城を築いて居城を移しました。
1495年(明応4年)宗瑞は相模国小田原城を奪い、北条氏の居城が小田原城に移ったのちも韮山城は伊豆支配の拠点として重要視されました。1519年(永正16年)北条早雲は韮山で没しました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」では激しい攻防戦の舞台となりました。
山中城をはじめ、関東の諸城が攻略されるなか韮山城は落城せず、朝比奈泰勝を使者として開城を促し、氏規は開城し退去しました。 この氏規の家系が江戸時代に河内国狭山に大名として続きました。
その後は、関東に入った徳川家康の家臣、内藤信成の居城となりましたが、1601年(慶長6年)に駿府に転封となったため廃城となりました。

城址には現在も曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されていますす。
南北に細長い丘陵は北から南に三の丸、権現曲輪、二の丸、本丸と続いています。
三の丸は、現在テニスコートになっています。
権現曲輪には神社が祀られ、南に土塁と堀切があります。そこからさらに高く成った所に二の丸があります。
二の丸は低い土塁が巡り、南の本丸との間に堀切があります。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=蛭ヶ小島(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)へ徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

モーモーモー (2025/01/04 訪問)

案内板によりますと、この城は安倍貞任の築城で、牛三頭を生き埋めにして鎮護したと伝わります・・って本当か?
鎌倉時代には、この地方の国主葛西氏七党の一人・江刺氏の一族である口内氏が居住していたが、天正18年 葛西氏が滅亡したため当地を去って行きました。その後は伊達藩の要害の一つとなっています。
元禄8年(1695)伊達家一門格の中島利成が2,524石で入ってからは明治まで定着しています。口内川の左岸の丘陵の上に築かれており、頂部に本丸があり、腰曲輪も備わっています。東南側の二の丸外側には水堀がめぐらしてあったとされ、北東側の丘陵続きは空堀で区切ってあったようです。大橋跡にかかる橋を渡って城址に向かい、詰御門跡・曲輪・本丸門跡を通って本丸に至りました。

🐮🐮🐮

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

北側に二重の堀と土塁が残っている。 (2025/01/04 訪問)

寺林城は弘安2年(1279)河野道俊の次男・通重が城主であったとされています。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により浅野六兵衛の陣屋となりました。
光林寺一帯が城址とされ、西側に二重の堀と土塁が残り形状を良く残しています。土塁は三重になっているのかな? 案内板がルンビニー学園側の道路沿いに設置してあるようですが確認はしていません。光林寺を駐車場から眺めると、確かに城郭の風格がありますわ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

土塁の内側に堀を設置した谷戸城 (2025/04/19 訪問)

土塁の内側に堀を設置した珍しい城があると知り訪れた山梨県北杜市の谷戸城。

八ヶ岳南麓の茶臼山とも呼ばれる比高約30mの小山に築かれた城。
八ヶ岳の湧水が流れるエリアで、東衣川と西衣川が天然の堀となり、北は信濃の佐久、西は諏訪へと通じる地。

甲斐武田氏の祖である逸見清光が平安末期に築城したとも伝わり、その後の確かな記録はないようだが、武田滅亡後の天正壬午の乱では小田原北条氏が改修したとのこと。

現在は土塁と堀が整備され、考古資料館が隣接する、公園化された土の城跡。

訪問時は北側に堀が残る大手から入城し、四の郭に入ると緩やかな斜面を這うように伸びる低土塁が1つ目の特徴。
二の郭・三の郭へ折坂虎口を上がると、2つ目の特徴である土塁内側の堀が予想より大きくビックリ。
一の郭の土塁も東側は高く、土塁が低い西側は喰違虎口を採用。

滞在時間は2時間弱。
始めて目にする土塁と堀に不思議な感覚に陥った、私の城郭巡りの205城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

江戸城番外「寄り道編」 (2025/05/17 訪問)

【寄り道編】
1日目の外濠見附跡巡りのついでに巡りました。

①東京駅:♪東京は~雨降り~
②増上寺:去年品川台場に行った時、時間が無くて行きそびれていたので今回は宝物展示室と徳川将軍家墓所も行けました。
③国会議事堂前:むか~し前通った。
④彦根藩井伊家上屋敷跡:北側半分が工事立入り禁止になっていました。ブラタモリで放送していた日本水準原点は見れました。
⑤東大赤門:加賀藩上屋敷の御住居表御門。閉まってる、くぐれない。
⑥黒門:鳥取藩池田屋敷表門。東京国立博物館にもいつか行きたい。夜7時着ライトアップされていてよかった。
⑦東京スカイツリー:ビューポイントを5ヶ所程調べていましたが、浅草エキミセ屋上テラスと浅草文化観光センター8Fにて撮影。
⑧浅草寺:三社祭りやってました。外国人すごい多い!上記浅草文化観光センター8Fは浅草寺の参道全体とスカイツリーの両方が無料で見れて良いスポット。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

ありがとうございます🐤

にのまるさん、しんちゃんさん、祝辞ありがとうございます。
 江戸城攻略の初日は自宅出発、5時過ぎ頃は雨は全然降っていなくて(大概西日本から崩れていくものですが)これなら大丈夫かな?と思いきや、到着から大雨で、ちょっと雨男ぎみの私の影響で、にのまるさんの白河旅行にも影響を与えてしまったようです(ペコリ)。
 城びと未登録や百名城でスタンプ押印していない城を合わせると約1030城程ありました。自分の中ではプロ野球でいうところの1000本安打くらいかなあと感じております。にのまるさんのおっしゃる通り、まだまだ通過点、健康に留意して楽しみたいと思っております。昨年までは夏場はちょこ城巡りをしていましたが、近隣県の城びと登録のちょこ城もほぼ攻略して、最近は遠方に残った百・続百名城攻略に向けて旅行資金を貯めています。

 話は変わりますが、万博はまだ行っていないですが、イベントで昨日と本日ブルーインパルスが大阪上空を飛びました。自宅から見える位置を飛行するので待ち構えて撮りましたが、予想外に遠くで飛行して小さかった・・・。

+ 続きを読む

小城小次郎

この前衛芸術的な石垣を何と表現すればよいのか (2024/11/30 訪問)

江戸時代は亘理氏(涌谷伊達氏)の要害であり、太鼓堂を櫓と呼べれば宮城県内唯一の現存櫓。特記すべきはそこの石垣で、前衛芸術のような重力無視の意味不明な曲線を描くこの石垣をこれ以上どのように表現すればよいのだろうか。

+ 続きを読む

しんちゃん

ノブシコブシ (2025/01/02 訪問)

御殿館は諏訪神社の背後にある御殿山の山頂一帯に築かれていて、主郭と見られる西郭には水分神社が祀られています。国分氏の支配していた場所に築かれているため国分氏に関わる城と考えられていますが「安永風土記」には野武士の立籠った処と記されているようです。
山賊のアジトみたいなイメージなんだろうか? 
野武士と言っても実際には武装した農民も多くいたらしく落武者狩りなどもしていたらしい。ここで山賊焼きを食べたらおいしそうだ(熊が出ますぞ!)。そういえば入口に熊の被害が相次いでいるので注意されたしと注意書きがあった。
そのせいか、西の堀切まで行かずに主郭まで行って帰ってきている。我ながらけっこうヌルい城攻めをしている。今だったら、迷わず堀切まで行っていると思うが、この時は次の平賀館を優先していたようだ。ちょっと行きがけの駄賃みたいな感じになってしまった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

会津藩校 日新館・白虎隊の学び舎 🏫 (2024/09/17 訪問)

会津においては寛文4年(1664)に庶民のための学問所「稽古堂(けいこどう)」が創設され、初代藩主保科正之により奨励を受けています。5代藩主・松平容頌の時代に家老・ 田中玄宰の進言により「教育の振興」が進言され、長い歳月を経てから5年の歳月をかけて享和3年(1803)に「日新館」が完成しました。
全国でも有数の立派な藩校で、1000~1300人の生徒が学び会津藩を支えました。残念ながら戊辰戦争で焼失してしまいましたが、昭和50年に再建され公開がされています。
幼少の生徒が入学する前に「什の掟」を教わり、低学年のころには日新館の心得をしっかり学んでいたようです。読んでみたけど、道の端を歩けとか、親と同じ畳にあがるなとかけっこうしんどい・・自由にやらせて~な(ならぬ!)。
南門・戟門とくぐると正面に大成殿があり東西に東塾・西塾が控えています。内部では白虎隊の少年たちの学習風景が再現されています。立たされている子もいますね・・他にも掃除風景や腕相撲をしたりして、くつろいでいる姿も生き生きと再現されています。
井深茂太郎少年(16歳)は文武に優れており一族にSONYの井深大氏や明治学院の井深梶之助氏がいるそうです。
それぞれの隊士の人形に解りやすく解説が付いています。これは白虎隊ファンならずともマストで訪問すべしですな。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

七日町通り ぶらタモ~リ🕶️ (2024/09/17 訪問)

会津若松城の御三階(櫓)を見に行きながら七日町通りをブラタモリして来ました。毎月七の付く日に市が立ったことから名づけられた町で、江戸時代には会津五街道のうち、下野「日光)、越後、米沢の三つの街道が通る重要な場所でした。
城下町の西の玄関口にあたるため会津の繁華街でもありました。御三階の向いの店では新選組グッズやかき氷などを売っています。まだ暑い時期だったのでかき氷は最高にウマ~でした。
ヒジカタ歳三はイチゴ味・・・血の色にしか見えん。沖田総司は抹茶、斎藤一はブルーハワイ。う~ん todo平助(メロン味)にしよう。
ちなみに、これを食べると呪いでカメラを一眼レフにしたくなる・・ということはなかったので、ご安心下さい。
個人的には永倉新八や井上源三郎も欲しいけど、売れ行きはちょっと心配だ。現役の七日町駅には駅カフェが付いていてオシャーな感じです。地名は「なのか」ですが駅名は「なぬか」と読みますぞ。
しばらく歩いていくと会津新選組記念館がありました。自販機や青いポストがいい感じです。
ちなみにヒジカタをド・カタと勘違いするこのおバカAI そろそろどうにかしてください。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

石ノ森萬画館 🛸 (2025/01/03 訪問)

石ノ森萬画館は宮城県石巻市中瀬にある石ノ森章太郎氏の先品をメインに扱ったミュージアムです。石ノ森氏は1998年に60歳の若さで亡くなってしまいましたが、生前から構想されていたマンガランドの遺志を引き継ぎ、2001年7月にオープンしました。
石ノ森氏が生前、漫画を萬画と表現していたことから「石ノ森萬画館」と名が付いています。
2011年の震災で大きな被害を受けましたが、街の復興と共に営業を再開しました。石巻城のすぐ近くになるので、是非立ち寄って欲しいです。仮面ライダーシリーズがあるのも先生のおかげなんですね。
・・あっ 忍者が何か覗いてる。🥷

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

日帰り静岡ドライブ 駿府城の城カードゲット編 (2025/07/12 訪問)

駿府城は2023年のファンタジー大河の年に、大河ドラマ館目当てで訪れています。今回のお目当ては、静岡市歴史博物館の企画展示「十返舎一九と蔦屋重三郎」。そちらに向かう前に、駿府城に入城します。前回スルーした東御門の中の撮影スポットには、竈門炭治郎が立っていました。映画公開が目前に迫っていますからね。その近くには、臨済寺にある年に2回しか公開されない竹千代手習の間が再現されていました。臨済寺の公開でいただいた今川家の赤鳥紋のマグカップは現在でも愛用しています。辰巳櫓の出口近くの売店で無事、城カードを購入。ついでに絵葉書も買ってしまいました。辰巳櫓を出ると目の前には本丸堀。ここから、本丸の発掘現場へと向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市) (2025/06/08 訪問)

韮山駅から徒歩20分くらいで、江川邸入口(35.054808、138.959903)に着きました。

「江川邸」は国指定史跡「韮山役所跡」の中にあり、国指定重要文化財です。
韮山県(伊豆全体、八王子・大宮周辺)を統制していた、江川家の武家屋敷です。
主屋は、1600年頃建てられ、単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっているそうです。

36代江川太郎左衛門英龍(坦庵)は名代官として知られ、海防の必要性から沿岸測量、韮山反射炉やお台場の建設、わが国最初の洋式帆船建造や種痘の実施、パン製造など多大な業績を残しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=韮山城へ徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):狩野城 (2025/06/08 訪問)

柿木橋バス停から徒歩10分弱で、狩野城跡駐車場付近(34.9393057、138.9260677)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に狩野氏によって築かれたと云われています。
狩野氏は藤原南家工藤氏の一族で伊豆国狩野荘発祥。狩野維景が土着して狩野氏を称した事に始まるそうです。
約300年にわたって、狩野氏はこの城を本拠に中伊豆地方に勢力を誇りました。絵師として有名な狩野派の先祖でもあります。
1493年(明応2年)北条早雲が伊豆へ侵攻すると開城して降伏しました。
その後、一族は小田原に移って北条氏の家臣団の中枢で活躍したそうです。

駐車場(農村公園と表示されている)に登城口があり、「武将『狩野一族」と絵師『狩野派』のふるさと」というパンフと攻城者用の杖が置いてありました。
登城口から本郭まで、緩かな登りの左回り(20分)と少し急な右周り(15分位)がありますが、自分は右周りを選択。西郭、二重橋、本郭とコンパクトに連なっています。
登城路はよく整備されており縄張り等もよくわかりました。また、駐車場にトイレがありました。
突然の大雨(天気予報では曇だったのに)に早めに攻城を切り上げ、屋根がついた柿木橋バス停に退避しました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)に向かう為、柿木橋バス停からバス➡電車を乗り継いで、韮山駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):修善寺観光 (2025/06/08 訪問)

狩野城へ行くバス時間(修善寺駅➡柿木橋バス停)が30分以上あった為、修善寺観光をしました。

徒歩30分以内で帰ってこれる場所として以下を巡りました。
 ①湯川橋(34.979368、138.946211)と②湯川橋説明板(34.979835、138.946268)
  湯川橋は踊り子との出会いを『伊豆の踊子』の元になった有名な橋です。
  川端康成は彼女たちと天城トンネルまでの間で二度会っており、最初に出会ったのが修善寺近くの湯川橋になり、川端康成の人生を大きくかえた出会いでした。
  湯川橋は狩野川に流れる桂川に架かる橋で修善寺橋近くにあります。もうすこし綺麗な橋かと思っていたのですが、ひょっとしたら大正7年から替わっていないのかもしれません。
  橋のたもとには、「伊豆の踊子」についての紹介看板が立っていて、小さいながら駐車場もありました。

 ③愛童将軍地蔵前(34.979907、138.947778)
  修禅寺に幽閉されていた鎌倉二代将軍・源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々によって建てられた笠冠地蔵です。
  元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の西北のたもとに移されました。
  幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘にのぼって月を眺めてその憂さを晴らし、また里の子どもを集め共に遊びながら、鎌倉に残したわが息子・一幡に思いを馳せていたといいます。
  23歳の若さで無残に暗殺されたことを知った里の人たちはとても悲しみ、浄財を集めて月見ヶ丘に地蔵を建立しました。
  源頼家は、里の子ども達を大変かわいがった将軍であったので『愛童将軍地蔵』と呼ばれています。(伊豆市観光情報サイトより)
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=狩野城に向かう為、修善寺駅からバスで柿木橋バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):長浜城 (2025/06/08 訪問)

ホテルから沼津駅に向かい、沼津駅のコインロッカーに荷物を預けた後、沼津駅からバスで長浜城跡バス停に向かいました。
長浜城入口(35.017568、138.888007)は長浜城跡バス停のすぐ側です。
本来は中継ポンプ場側の登り口から登城するのが一般的なのかもしれませんが、沼津駅からバスできた為、長浜城跡バス停側から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、長浜城は室町時代から北条氏に仕えていた大川氏の居城で、北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るために築かれました。
1579年(天正7年)北条氏はこの長浜城を普請して駿河湾の水軍の拠点とし、武田氏に備えて北条水軍の事実上の統括者である梶原景宗が長浜城に派遣されました。
その翌年には「駿河湾海戦」と呼ばれる、武田氏と北条氏双方の水軍による大規模な海戦も起こっています。
1589年(天正17年)頃には大川兵庫が城番となっていましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏は水軍を下田城や小田原城に集めたため、長浜城の機能は低下していたようです。

現在は国の史跡に指定され、一部の建物などが建てられ史跡公園として整備されています。
山頂の主郭から東へ三段の曲輪、北の岬先端に向かって三段の腰曲輪がある。主郭部などには掘立柱建物跡があった。
主郭と二郭は復元された櫓の階段を上って、一階と二階で出入りするようになっていて面白い。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=狩野城へ行く為、伊豆三津シーパラダイスバス停からバス➡電車➡バスを乗り継ぎ、柿木橋バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):沼津城 (2025/06/08 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、沼津城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分弱で、三枚橋城石垣(35.097165、138.858296)に着き、
その後、中央公園(35.098758、138.859617)➡城岡神社前(35.100483、138.859490)の順番で巡りました。

築城年代は諸説あり定かではないようです。 1579年(天正7年)武田勝頼が城を修築して小田原北条氏に備え、香坂昌信を城主としたが、この頃は三枚橋城と呼ばれていたようです。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると徳川家康は松平康親を派遣して守備させました。
江戸時代になると大久保忠佐が上総国茂原から20,000石で三枚橋城に入封した。
しかし、1613年(慶長18年)忠佐が嗣子なく没して大久保家は断絶となり、三枚橋城は廃城となりました。
その後は、天領となっていましたが、1777年(安永6年)水野忠友が三河国大浜13,000石に7,000石を加増され、三枚橋城跡に沼津城を築き、沼津水野藩(50,000)の城下町として栄えました。
水野氏は以後八代続き明治に至り、1868年(明治元年)徳川家達が駿河国に入国すると、上総国菊間に転封となりました。

公園南側裏手の通りには川郭の石碑、案内板があります。
大手町の中央公園内に案内板と石碑があります。
中央公園を北側に一本向こう側に行くと沼津城の守護神を奉る城岡神社があり、御由緒に沼津城の記載があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=長浜城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

シャトレーゼ 🍰 (2025/01/04 訪問)

ぴーかるさん1000城達成おめでとうございます。(のっかり) あと2000城ですぞ(オーエス)。
でも実際は1100以上行ってたりして・・私はとりあえず「行った」城は行ったをつけちゃうけど、写真が古かったり消えちゃったりしてる場合はリピートで回ってます。実は500城以上リピートで回っているんですよ。
盛岡城もリピートです。いつ来ても見事な石垣です。だれですか? イチゴの無いショートケーキとか言った人は?(自分やん)
盛岡藩南部氏の居城で、桜山神社から登って行き、二の丸から渡雲橋を渡って、本丸に渡ります。この時は渡雲橋は工事中で渡れませんでしたが、雪景色の盛岡城を楽しむことが出来ました。
確か移築門は前回訪問した時に見に行ったと思うけど写真が残っているだろうか? また徳清倉庫には二の丸にあった勘定奉行所が移築されているようですよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

清水門復元プロジェクト (2025/05/17 訪問)

ぴーかるさん、城びと登録城1,000城到達おめでとうございます🎉
“千里の道も一歩から”
城びと風に言うと
“千城の道も一城から”
もちろんゴールではなく通過点だと思いますのでますますお元気でぶっ飛ばしてください!

5月17日。
ぴーかるさんが大雨の中東京駅に降り立たれたのとほぼ同時刻に、私は東京駅を出発し東北新幹線で新白河に向かいました。
白河駅に着いて観光案内所と道場門跡に寄り、開店と同時に入店した「鈴木食堂」さんでごまラーメンをいただいた頃には雨も小降りに。

会津門から入城し最初に歴史館へ行きました。何度行っても新たな学びと楽しさのある、小峰城訪問時には欠かせない施設です。
続いて「どっちが先でも……」な50円引き券を手に二の丸茶屋でとうふソフトクリームをいただきました。

お腹が満たされたところで城内見学に繰り出します。

この日いちばん見たかったのは復元工事が始まった清水門です。何もないところからお城の構築物が出来上がっていく過程を見られるなんて!と、とても楽しみでした。
本丸方面への見学用昇降階段が設置されていたのでそこから上がります。
今だけ設置のこの階段、普段は見上げるしかない石垣が目と鼻の先で、触ることだってできる!と、感動そして大興奮してしまいました。
そして抜け出たところはまさかの帯曲輪門。楽しすぎでした。

ここから右に行くか左に行くか悩みますが、やはり清水門を上から見てみたいので右へ。

お一っ、見える!!

既存の石垣の上に四角い積み石。ここに土塀建てる?小さいのは裏込め石……ではないかな?コンクリ礎石?柱が建つの?
と、築造工程などまるでわからないので見たまま思ったままですが、三重櫓、前御門に続いての復元が楽しみでなりません。

2年前に小峰城一石城主プロジェクトへの寄付で城主証をいただきました。今回は「瓦記名参加者募集」のチラシがあったので帰宅後、早速申し込みました。
3500円の寄付で記名用のシールが送られてくるのでそこに名前やメッセージを書いて返送。清水門の瓦に貼っていただいた写真を送っていただけるというプロジェクトです。
お城の復元に些少ながらも関わることができ、また自身の思い出にもなるすてきな企画に参加できてよかったです。

御三階櫓内を見学し、帯曲輪へまわります。
東日本大震災からの復旧を遂げた本丸石垣。多くの方々の多方面からの尽力の賜物であることを忘れないでいたいと思いました。

阿武隈川を眺めたら、最近のお気に入りの通称“蛇尾の石垣”へ。
初めて見たときの感動は少しも薄れないまま。今回はさらに見やすくなっていて、石垣鑑賞ウォーキングを存分に楽しみました。

太鼓櫓を見てから最後に戊辰薩藩戦死者のお墓に行きました。前回ピクミンに教えてもらいながら階段の上まで上がらなかったことを後悔していたのでお参りできてよかったです。

やっぱり小峰城大好きだ!ということを再確認した一日でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ90