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カズサン

南美濃未踏の城探訪6/7 津屋城 (2024/10/14 訪問)

 福束城を終えて揖斐川を渡り南西に約7.2km程の津屋城を初登城、津屋城旧城門と伝わる長屋門を初確認。

 駐車場:津屋城跡に建つ本慶寺参道の北側と南側に駐車場有り。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 北側のジャリ駐車場に駐めて、山門である旧津屋城門を側面から眺め、西側の城塁?石垣を眺めて東側参道入り口へ、参道北側に津屋城跡石碑、津屋城跡案内解説板が立っている、ゆっくり読んで確認勉強、解説板の東前に寺院の石碑、「獅子吼山本慶寺、側面に蓮如上人由緒教如法主旧跡之地」と刻まれている。
 移築城門の山門を潜り本堂を参拝し周辺を目視、南から北へ土塁が走る、本堂奥は更に一段上がっている、土塁の南側は竹が茂り鬱蒼としており土塁、空堀を確認する事が出来ない。
 
 案内解説板によると、本堂の奥北西の隅の一画が一の曲輪、それより一段低い平地(本堂)が二の曲輪、南側の内堀の外側に三の曲輪(畑地)が在り大手門が在ったと考察されると記されていた。主郭を囲む内堀と三の曲輪を内側にした外堀の二重堀であった、北、西、南側は空堀、東側は水堀とし津屋川を中心とした池、沼に成っていた。

 山門を出て念のために、南側の土塁、内堀が残って居ると言われる竹藪を孟宗竹、真竹、小竹などいろいろの竹が鬱蒼と茂っており良く確認する事が出来ない、東、南、西は養老鉄道路線側まで行き西側を確認するが良く分からない。

 歴史は案内解説板によると、津屋城は関ケ原戦まで高木八郎左衛門正家が居城していた、関ケ原戦で西軍に従ったために没落廃城と成った。現在は慶長8年(1603年)に当時の領主徳永法印寿昌(高須城主)に許しを得て移された本慶寺と成っている。
 

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城⑤ (2024/10/13 訪問)

塚口城から徒歩にてアプローチしました。10月27日には富松城跡まつりが開催されるようですね。その時にはフェンスの中にも入れるのかな?地域の皆さんに大切にされていることが良くうかがわれます。午後に赴いた尼崎市立歴史博物館にも富松城の写真と説明のパネルが掲示されていました。

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赤い城

感謝とリベンジ (2024/10/13 訪問)

トクさん、助太刀ありがとうございます(感謝)😊
海ではなく湖でしたか。
私のクイズに対する朝田さんの最初の回答が伏線になっていたとは。
参りました。

さて、リベンジの方ですが、昨年スズメバチにやられた乙子城に再訪。
今回はおにやんま君を帽子に付け、藪には入らないと心に決めて登城しました。

石碑から道路を挟んだ空き地に車を停めて登城口に。
スズメバチ注意の看板に感謝しながら登城します。
途中の神社のところに竪堀っぽい地形もありますがどうなんでしょう。
さらに急な階段を登ると程なく主郭、見晴らしも良いです。
下草で埋まっていますが歩ける状態で、主郭に付いている段になった腰曲輪にも降りてみました。
こちらも下草が茂ってやや藪、ん?

一旦主郭に戻り、二郭に向けて降りることにしました。
前回やられた腰曲輪の藪は綺麗になっていて形もよくわかります。
これならスズメバチも大丈夫、これも感謝です。

墓地で隔てられた二郭は乙子神社が鎮座します。
ちょうど地域の皆さんによる清掃が行なわれていました。
お祭りの準備なんでしょうか。

宇喜多氏の始まりの城、この日はこのあと砥石城→新庄山城(未登録)→沼城→岡山城と下剋上の足跡を辿りました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:柏野城 (2024/09/26 訪問)

新堂駅より徒歩20分ちょっとで、標柱前(34.816652、136.191751)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、福島宗雄によって築かれたようです。

単郭の城は北側を除く三方が土塁で囲われています。
西側には空堀があり、北西部に土橋があります。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず甲南駅から津駅に向かい荷物をコインロッカーから取り出した後、三重県の松阪駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=41104歩、攻城距離=28.77Kmでした。
(ただし、甲南駅➡竹中城~新宮支城➡甲南駅の間はレンタサイクルを使用しましたので、攻城徒歩/攻城距離は誤差があります)

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:新宮支城 (2024/09/26 訪問)

新宮城より、自転車ですぐ先の標柱入口(34.917290、136.163290)に着きました。新宮城のすぐ傍にあります。

新宮支城は服部氏によって築かれた城で、「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして国の史跡に指定されています。
谷を挟んで北にある新宮城の支城で、連携して防衛体制を敷いていたと思われています。

主郭部周囲にある高く分厚い土塁は必見です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=柏野城へ行く為、レンタサイクル返却後、電車で甲南駅から新堂駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:新宮城 (2024/09/26 訪問)

服部城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)より自転車で5分弱で、説明板前(34.917677、136.163259)に着きました。

新宮城は、室町時代に服部氏によって築かれました。

曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、堀切が確認できます。土塁は高いです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=新宮支城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:服部城(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/09/26 訪問)

寺前城より自転車で5分弱で、新宮神社東側入口(34.919678、136.159747)に着きました。

服部城は甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家のひとつで、荘内三家に数えられた有力土豪・服部氏の居城として知られています。
伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもあるようです。南東約200mの位置に新宮城と新宮支城があり、連携して防衛を図ったと考えられています。

目印となるものがないので、あっているかどうかわかりませんが、土塁と空堀らしきものはありました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=新宮城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:寺前城 (2024/09/26 訪問)

村雨城より自転車で北側に少し(1分かからない)進んで、寺前城標柱入口(34.915860、136.157499)に着きました。
この場所から山側を見るとなんとか標柱が遠くに見えます。

寺前城の詳細は詳細は不明のようですが、「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして国の史跡に指定されています。

標柱付近で城址への進入口を捜しましたが見つかりません。(「しんちゃん」さんはどこからはいったのかな?)
しかたないので標柱(草に隠れています)の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=服部城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へ自転車で向かいました。

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しんちゃん

かっぱ像 (2024/10/19 訪問)

南北朝の時代には、この地には杉原砦と呼ばれる砦があったとされています。新田義貞による築城という伝承も有るようですが、年代が合わないため確証は無いようです。現在は藤橋城と呼ばれるプラネタリウムを備えた資料館が建ち、道路を隔てて藤橋歴史民俗資料館が併設されています。また武山神社には杉原砦落城時に主君・杉原家盛を逃がすため犠牲になった七人の忠臣達の「七人塚」がありました。
プラネタリウムは3時には終了したようなので、藤橋城や歴史民俗資料館をざっくり見学しています。東にあるどんどん橋には「かっぱ像」がありました。かっぱの由来はなんでしょうか?

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しんちゃん

雨と相性が最悪! 石段危なすぎ (2024/10/19 訪問)

杉原砦(プラネタリウム)から山の中を延々走って神所城にやって来ました。雨がだいぶ強くなって来てます。入口を見つけて登って行くのだけど、石段がものすごく急ですね‥。いまどきこんなのアリか?
急すぎて足のかかりが悪いし、雨ですべるじゃん。雨の日と相性最悪の城だ‥。地元のお年寄りとか来ないのかな?
他に登城ルートがあるのかもしれませんんが、今はこの階段を登るしかない、慎重に全集中で登ります。それにしてもまだ5時になってないのに城の中が暗い‥ 主郭には祠が祭られ、うっすらと土塁が残っているようにも見えます。今回はこれで引き揚げることにしますが、いずれ本巣市の城を攻めに来る際に、もう一度訪れてみたいと思います。
そうそう‥カズサンさんの投稿にあった、泥と枯葉が下りでは良いブレーキになりました。石は滑るんですよ。

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しんちゃん

鹿だ! (2024/09/19 訪問)

揖斐北方城は標高210m、比高130mの山頂に築かれていました。比高だけならまあまああるのですが、主郭下まで車で来ることが出来ます。この日は雨になると予報で出ていたので、高速を併用して早めに菩提山城を攻めています。
関ヶ原古戦場記念館に着いた時には結構降っていました。この日は悪天候下で5つ「城攻め」を行いましたが、揖斐北方城は行程が楽で助かりました。この程度の城なら傘をさしながらでも十分です。城址は公園となっており、山頂部の主郭の周りを帯郭が回っている以外、特に特徴はありません。遺構らしきものは見当たらないですね。
山頂近くに鹿がいました。車の中からの撮影ですが、ナイスカメラ目線です! あまり鹿は好きではないのですが、こうしてみると案外かわいいかもしれません。でも野生のオスの尖った角は好きになれませんね。

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じゅんじん

朝の部 (2024/04/14 訪問)

桜とのコラボきれいでした!

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じゅんじん

夜の部 (2024/04/13 訪問)

駅前で吞んだ後行ったら真っ暗でした!

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じゅんじん

夕方の部 (2024/04/13 訪問)

お祭りでにぎわってました。桜も満開です。

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じゅんじん

石垣love (2024/04/13 訪問)

小高い山上に近世の石垣がめぐっています。

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じゅんじん

用宗港でランチ (2024/04/11 訪問)

おいしかった。
お城から新幹線と富士山が見えます。

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chiroru

ここも久しぶりの登城 (2024/10/21 訪問)

以前登城した時は、浜松駅から徒歩でだいぶあるいた記憶がありました。

今回は近隣の寺社での御朱印旅含み、遠州バスを上手に利用してみました。

「新たに発見された石垣」は以前の登城では形もなく、前よりももっとお城に興味を持っての今回の登城で石垣見て

わくわくしてる自分が楽しい。

カメラにおさめる物や角度も違うし、楽しいことが増えて嬉しいです。

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しんちゃん

比定地ふたつ (2024/10/13 訪問)

帰雲城は寛正の初めころ(1460頃)内島上野介為氏によって築かれたと現地の石碑には記載があります。天正13年(1585)四代・氏理のころ旧11月29日、東海・北陸・近畿に及ぶ巨大地震で帰雲山の大崩壊によって城と城下の集落が一瞬にして埋没したと伝えられています。
国道156号沿いの埋没の推測地には石碑が建てられています。
せっかくはるばる来たので(すっごいはずれの場所)テレビでやってた丘の上の比定地も訪問していきます。工事現場らしき場所のちかくから道が伸びているので、怪しそうな場所を見に行きます。石積みはいっぱいあるけど、いつの時代のものやらさっぱりです。

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ぴーかる

安濃城 (2024/09/23 訪問)

【安濃城】
<駐車場他>軽自動車(小型車くらいまでならいける)は阿由多神社境内まで行ける。
<交通手段>車

<見所>横堀
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅ラスト7城目。現地説明板によると安濃城は国人領主の長野一族である細野藤光が弘治年間(1555~1558年)に築城し、その息子の藤敦が城を拡張したといわれています。1568年織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益に攻められますが落城せず、1580年に織田信包軍の2度目の侵攻により落城しました。
 現在は阿由多神社の場所が主郭跡で北西辺に高土塁が残っています。南西隅に高い櫓台が残っていますが頂部は現在は給水栓?のような設備がありました。高土塁の西側に空堀が走り下段に竹林となっている曲輪が見えたので降りてみました。主郭跡の周辺はちょっと藪化が進んでいて、とにかく今の時期は蜘蛛の巣が酷くてほとんど散策できませんでした。下山して体中に蜘蛛巣やら捕獲した虫やらが付いていてエライ事になっていました。まだ時期が早かった。夕刻になってしまい、三重のちょこ城2つを残し終了した。走行距離509㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

主郭背後の大堀切は必見。 (2024/10/13 訪問)

傘松城と土城以外の「江馬氏城館跡」の城館は以前に訪問しています。新しい写真を求めてやって来たんですね。
この二週間で岐阜の城を「鬼攻め」で30城攻略しましたが、13城はリピートです。たったの30城?‥と思われるかもしれませんが山城ばっかりの内容で30城ハシゴはけっこうハードなんですよ。なんとか登れる間は、山城は主郭を含めひとしきり見ておきたいですね。
まあ戸吹城のようなとんでもない城は論外ですが‥。あと土城も無理して主郭までいかなくていいと思います。削られてるし、私も本当に「危険」と判断した所には行きません。
洞城は標高こそ高くありませんが石神城と連携して烽火台の役目を持っていたようです(江馬氏下館のガイドさん談)。街道上に江馬氏下館、高原諏訪城、洞城、石神城と並んで、街道上の敵を監視し本城である諏訪城に危険を知らせる役目を負っていたようです。
構造はシンプルで尾根上に浅い堀切→二郭→堀切→主郭→背後の大堀切と続きます。一つ一つがしっかり残っており、特に主郭背後の大堀切は必見でしょう。また主郭南側には腰郭が付いているようです。小ぶりなんですが、けっこう「城」しているんですよ。

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