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しんちゃん

黒木城 イヤなポックリ伝説 (2025/01/01 訪問)

福島県相馬市黒木の黒木城の投稿です。これも「城びと」の城ではありませんぞ。
黒木城は建武年間に黒木大膳亮正光によって築かれ、南朝方として北畠顕家に従い、霊山城が落城した後も南朝方の拠点として機能したようです。戦国時代に伊達氏の内紛である「天文の乱」で伊達晴宗に与したため、伊達稙宗に与する相馬顕胤に攻められ黒木氏は滅びました。城址西手に案内板があり、黒木城の解説と合わせて、近くにあるポックリ地蔵のことも書かれています。
相馬氏に攻められ、黒木城が落城する際に搦め手である西の門で、婦女子を含め城内から逃亡してくる者が、悉く首を落とされたそうです。後にそれを憐れんだ付近の者たちが地蔵を建立し、首を落とされポックリ逝ったことから「ポックリ地蔵」と呼ばれるようになったそうな。なんか、ポックリの使い方違う、そんなポックリはいやじゃのう・・。
西側は外郭とされ、周囲を堀で囲まれ、季節によってはぬかるんでいたりします。外郭は藪化が進んでいますが、西側に土塁が残っていて散策できる箇所もあります。主郭を中心に南側を除く三方を外郭で囲まれています。

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しんちゃん

続・柴小屋館 (2025/01/01 訪問)

宮城県伊具郡丸森町の柴小屋館の続きです。「城びと」の城では無いんだけど、よく整備され遺構も良く残っている「良城」です。
山城だけど、比高も高くなく訪れやすい。「ニッポン城めぐり」は何処まで行っても金メのアプリなので都市部のユーザーを釣るため「ちょこ城」が多いのは仕方ないけど、城びとに無いのはちょっと残念。「玉城」も入ってないしね。

登城道を程なく行くと、すぐに本丸にたどり着きます。本丸と二の丸の間には堀切があり、陸橋(土橋のことか?)がかけられ、いつでも外せるようになっていたとのこと。土橋と土橋の間を木橋で結んでいたのかな?
二の丸の裏手の空堀に説明版が有って、天正4年(1579)伊達晴宗・輝宗父子が矢ノ目に本陣を敷き、小斎城(柴小屋城)攻略にかかった際に、同年7月17日・相馬城主相馬盛胤が命じて堀切普請を行ったと書いてある。遺構の履歴が日付で解るなど目からウロコですわ。
その西側の遺構も面白くて、枡形の様な土塁を備えた曲輪があって、その先に周囲に土塁を備えた曲輪がある。曲輪の間も喰違い虎口のようになっていて、枡形の雰囲気がある。余湖さんの縄張図を参考にすると、先の土塁が高土塁になっていて、曲輪の間にはまった敵を攻撃するのに都合が良い。敵はそのまま押されて、竪堀や谷底にまっさかさま・・うん、想像すると楽しい。
人が、人を殺すのを想像するのがそんなに楽しいかと聞かれると・・正直言って「すっごく楽しい」
人を殺すことでは無く、城址がその遺構の威力を存分に発揮することを想像するのが「至上」の楽しみです。サンショは小粒でピリリと辛い・・そんな感じの仕掛けですわ。その先の「もくろ道」は昔は朱雀口と呼ばれ、殿様が通る道と呼ばれたそうです。また、練兵場や的場に行く道とも言われたそうな。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:新宮周防守屋敷(城びと未登録 和歌山県新宮市) (2025/06/02 訪問)

熊野速玉大社から徒歩15分ちょっとで、本広寺山門前(33.727920、135.985750)に着きました。
到着まで時間がかかったのは、途中、鈴焼き&どら焼を購入する為、香梅堂に寄ったせいです。

築城年代は定かではないようですが、1571年(元亀2年)頃に新宮周防守行栄によって築かれたと云われています。
新宮行栄は源頼朝の叔母に当たる丹鶴姫の弟・新宮十郎行家の子孫といわれれ、熊野七上綱(七人衆)の一人として、7人の合議制によって熊野地域を統治していました。
ちなみに熊野七上綱(しちじょうこう)とは、宮崎・蓑島・矢倉(鵜殿)・滝本・中曽(中脇)・芝・楠(新宮または新)の7家で構成されます。
新宮行栄は、1591年(天正19年)堀内氏善によって討たれたと云われています。

山門脇に案内板と石碑があります。
鈴焼とどら焼(香梅堂)と「もうで餅(速玉大社にある珍重庵の販売所)」を購入。ちなみに「もうで餅」は香梅堂と同じ道路沿い(国道42号線)の珍重庵のお店でも購入できます。
ちなみに、我が家のペット(モルモット)用に速玉大社でペット健康守を購入しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=堀内新宮城に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:熊野速玉大社(和歌山県新宮市) (2025/06/02 訪問)

速玉大社前バス停から徒歩2~3分くらいで、熊野速玉大社大鳥居(33.731444、135.984596)に着きました。

熊野速玉大社は城跡ではありませんが、2020年3月7日に新宮に来た際、時間がなく訪問できませんでした。
その為、熊野に来たら世界遺産である熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を訪問しようと思っていました。
参拝すると厳かな雰囲気にはなります。
①入口鳥居 ②手力男神社(写真撮り忘れました) ③八咫烏神社 ④神宝館(観光客がたくさん写っているので投稿不可) ⑤新宮神社 ⑥梛(なぎ)の御神木(樹齢千年)などを見学しました。
観光時間は30分くらいでした。次の攻城先=新宮周防守屋敷(城びと未登録 和歌山県新宮市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:平尾井薬師堂(三重県紀宝町) (2025/06/02 訪問)

京城から徒歩35分ちょっとで、駐車場(33.796807、135.992566)に着きました。

平尾井薬師堂は11世紀に白河法皇が建立しました。

駐車場所から、苔むした階段を登ります。お堂に岩がのしかかっている
参道には樹齢百年の大木が並んでおり、お堂に岩がのしかかっています
本尊の薬師如来像は首から上の病にご利益があるそうです
観光時間は15分くらいでした。次の観光先=熊野速玉大社を目指す為、薬師バス停から町民バスで速玉大社前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:京城 (2025/06/02 訪問)

倉本橋バス停から徒歩2~3分で、大里城東泉寺跡手前(33.782233、135.988316)に着きました。

1588年(天正16年)新宮城主・堀内安房守氏善によって築かれたと考えられています。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で西軍に属して改易となった堀内氏善は、堀内新宮城より一時この京城へ移り、その後に肥後国へ移ったそうです。

東泉寺跡から攻城しました。
枡形虎口から西曲輪群へは急斜面(切岸)のロープ道ですが、見上げれば石積みが見えます。
西曲輪群西側の堀切2状は圧巻でした。
攻城時間は60分くらいでした。次の観光先=平尾井薬師堂に徒歩でに向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:阿須賀神社(和歌山県新宮市) (2025/06/02 訪問)

新宮城から徒歩10分ちょっとで、阿須賀神社前(33.728394、135.997325)に着きました。

歴史は古く、社伝によれば紀元前423年の孝昭天皇の代に創建されたそうです。
秦の始皇帝の命を受け渡来した徐福にもゆかりが深く、徐福一行が上陸したのが阿須賀神社の建立地と伝えられています。
悠久の歴史を折り続けるように、境内から弥生時代の竪穴式住居が出土しています。
2016年(平成28年)に追加登録された新たな世界遺産です。

①阿須賀神社 ②徐福の宮 を見学しました。蓬莱山は時間の都合で登ってません。
阿須賀神社横の歴史民俗資料館はコロナ過の前回(2020年3月7日)も来ましたが、その時は閉まっていた気がします。今回も朝早い為、閉まってます。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=京城を目指す為、新宮駅前バス停から町民バスで倉本橋バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:新宮城 (2025/06/02 訪問)

矢倉城(城びと未登録 和歌山県新宮市)から徒歩5分くらいで、公園入口1(33.729453、135.990941)(佐藤春夫、成育の家跡説明板付近)から攻城しました。
新宮城は今回2回目の攻城です。1回目は2020年3月7日にレンタカーで来ました。

いたる所で見られる石積み技法のオンパレード素晴らしいです。
前回、確認出来なかった二の丸(現正明保育園)北側にある算木積み&亀甲積みの高石垣(大手門側)や本丸の高石垣、いや感動です。
天守台付近からの眺望も素晴らしいですが、自分は出丸から見る熊野川の眺望が好きです。
攻城時間は40分くらいでした。次の観光先=阿須賀神社に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:矢倉城(城びと未登録 和歌山県新宮市) (2025/06/02 訪問)

宿泊先のホテルから徒歩15分くらいで、矢倉城東側付近(33.727520、135.989164)に着きました。

鎌倉時代(1185~1333)に明神山に矢倉氏が築いたとされます。
矢倉氏は、1340年(延元5年/暦応3年)より熊野別当に代わって熊野三山と熊野一帯を支配した熊野七上綱(七人衆)の一人です。
1400年(応永7年)には上洛して宮中より位階を与えられ、1458年(長禄2年)京都、鎌倉にも上がっているそうです。

現在、城跡は私有地で立入禁止となっている為、遠方より写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=新宮城に徒歩で向かいました。

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天守無しがアツい

年末訪問 (2024/12/29 訪問)

(参考サイト)https://kojodan.jp/castle/1071/

JR赤羽駅から歩く事数分…🚶‍♂️ そこに太田道灌に関する史跡があります。その名は稲付城跡…奥に静勝寺という寺が建っている、その手前に階段があり、その右に稲付城跡の石碑が来る人を迎える

階段の途中に小さな社(鳥居も賽銭箱も無い)があり、上りきると城跡の説明板と寺の掲示板があります。「努力する人は希望を語り 怠ける人は不満を語る」という貼紙があり、「不満が頭に浮かびそれを口にしがちな自分は怠けてる人間ということか😅」と耳が痛くなりました

「言葉自体は素晴らしいけど、人生そうは行かないことだってあるのよ🤪」ととりあえずの自己弁護。ちなみにこの寺…毎月26日に太田道灌の木造が一般公開されてるそうで、その日に参拝した方が好ましかったかもしれませんが、26日が平日の場合は無理だし、何よりここは年末年始関係なく一年中開放されてる場所

年末年始休暇は(夏休みなどの長期休暇を持たない)社会人にとって唯一の…1週間程度連続で休める休暇🎌 けれど年末年始は休業…という施設は結構存在するので、この期間に行ける場所はどうしても限られてしまいます😓

なので「それならいつでも行ける場所を年末年始用に取っておこう。その1つが稲付城跡だ」と考えてこの日(12/29)に訪問したわけです

本堂にたどり着き…中央にある穴を覗くとその下に賽銭箱が…なので100円玉をそこに入れてお参りしました。「(埼京線の10分遅延こそあったけれど)致命的なトラブルも無くここまで無事に来れて参拝できたこと…また1つ城巡りを達成できた事」への感謝をこめて…ですね🙏

その側にはお堂があり、そこにも穴の奥に賽銭箱が用意されていたので、10円玉を投入。同じように祈りました。境内の主要な場所はほぼ見学し終えましたが、これでハイ終わりはあっけなく思えたので、奥に行くと墓地があったので少し巡りました🪦

グルグル回ると…墓地は周りを民家に囲まれており、しかもすぐ側がベランダだったり、窓が開けっぱなしのアパート…とプライバシーの薄さ?というか開放感みたいなものを感じました

少し離れた場所に目をやると…そこにはイトーヨーカドーだったりマンションが🏢 その手前に民家が墓地と寺を囲むようにあり、中にはツタが壁に生え放題で中に人が住んでいるのかさえ怪しい家…昭和感あふれるボロい家もあるわけです。そう遠くないうちに…再開発で取り壊されるのかもしれませんね🏠

墓地の各墓石に目を配ると…中には戒名が「童女」「嬰子」という具合に「ああ…乳幼児のうちに逝ってしまわれたのね👼」と分かってしまう表記がありました。しかもそう遠い時代ではなく…昭和にです

年齢の書かれてない者もおり、「こういう場合は生まれて間もなく病没…0歳なため年齢カウントが無いんだろうな🚼」…戦前(昭和20年より前)における享年一歳に「この頃までは数え年がメインだったから…この子も実際は0歳没…だよね」「昔は乳幼児の死亡率が高かったため平均寿命が低かった…とよく聞くけど、この墓地からもそのシビアな世界が伺えるわ😢」と思えてしまった

中には墓石に書かれてる6人中3人が10代もしくは20代でお亡くなり…というケースもあり、しかも彼らは終戦後に亡くなってる…空襲や戦場で亡くなったわけではないようなので…何か闇を感じちゃいました。というか30代までに亡くなられてる方がそこそこいたけど…彼らの中にほぼ確実にいたんじゃないかな?結核で命を落とした方…昭和20-30年までは不治の病だし

階段を登った先にある門とは別の場所にも門があり、その側にも説明板があります。それによると…稲付城を築城した人物は…明確な事は分かってないそう。しかし寺伝には太田道灌が築城とあり、道灌は(当時この辺りを支配していた)扇谷上杉氏の家宰を務めていたことから、やはり彼による築城の可能性があるそうです

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天守無しがアツい

北条氏政・氏照の墓 (2025/06/29 訪問)

小田原駅…新幹線口とは反対方向の出口から歩いて数分の場所…小田原城よりも早く着ける

豊臣秀吉の小田原平定の際…四代目当主氏政とその弟…八王子城の城主を務めていた氏照は切腹させられ…その遺骸はこの地に埋められ整備された

墓の前には…2人がこの上にて腹を切ったと伝わる石がある🪦🪦🪨

幸せの鈴…それを買って願い事が叶ったら…墓の前にある結び場所に結ぶよう案内板にあった…

SHOW&TELL(服屋)にてそれを購入。「おいくらですか?」と店員に尋ねたら「皆様だいたい100円入れていきます」と返答されたので自分もそれに倣う

願い事が叶ったと思えたら…再びこの地に戻って…この鈴を結ぼう🛎️

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朝田 辰兵衛

勝山城散策3/3(主郭部) (2025/06/27 訪問)

見どころは主郭南側斜面の石垣ですが,ふるさと展望台からの眺望も絶景です。
しかし,下山時に注意が必要です。自分はどこからどこまでどのようにロープを伝ってきたのか,記憶を取り戻してください。間違っても,ショートカットを試みないでください。簡単にルートから外れてしまう可能性があると感じましたので。日ごろから山城攻城経験者の方には,なんとなくこのニュアンスが伝わるものと期待します。

これで,無事ににのまるさんへの予告をクリアでき,安堵しました…<笑>。

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朝田 辰兵衛

勝山城散策2/3(登城ルート案内) (2025/06/27 訪問)

さすがに猛暑の中を登城する人間は私だけでした…。私の熊スズに反応したウグイスが,鳴き声を変えて山中に知らせたため,他の動物も警戒して現れませんでした。山の中は麓より涼しかったですが,「天狗の岩屋」から先はロープを伝っての登城となります。高所恐怖症の方にはおすすめしません。

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しんちゃん

高尾城 尼子十旗 (2025/06/29 訪問)

主郭(仮)の北東の尾根をしばらく進んで、なんか違うなと気が付いて、来た道を引き返した。気づくの遅すぎだと思うけど、30度超えるとホントに頭が回らない。途中、郭についている土塁を切り欠いて虎口(門)を設けてある箇所が有った。郭の中を通って主郭に向かう構造なのか。南尾根に向かって進んでいくと、足元に「南郭群」と書かれた標識が落ちていて、実際に複数の郭があった。そこから、麓に向かって進んで行くと、西側に土塁を備えた郭が有った。南にある複数の郭も、それぞれそれなりの広さを持っている。
散策が不十分だったけど、城址の西側も興味がある。主郭とされる最高所の郭が狭い分、どこに主要部が置かれているか興味がある。

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朝田 辰兵衛

勝山城散策1/3(勝山御殿) (2025/06/27 訪問)

東横イン下関海峡ゆめタワー前に宿泊していたことにより,豊前田バス停から[11A]系統のバスで,御殿町バス停下車。徒歩約15分で勝山御殿に到着しました。すでに異常な暑さでしたので,サクッと終了。
パネルを見ると,本丸の上段と下段を仕切る石垣は「水堀跡」なんだという説明がありました。へぇ~。

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しんちゃん

最高所から三方に伸びる尾根。 (2025/06/29 訪問)

改めて見直してみると、最高所の郭を中心に、西・南・北東の三方に土橋(スロープ)が伸びていて、その先に堀切や郭などの遺構を備えています。
城址全体の規模はそれなりに大きいのですが、その割には最高所の郭が狭い、主郭ではないのかもしれないが、重要な中継地であることは間違いないのではないか。
城址の各所に様々な堀切を用いており、南側から最高所(仮に主郭として)に向かう途中に、中に畝を備えた堀があったと思う。整備があまりされていないため、藪化が進み判別しにくいが、そのように見えた。是非、自分で見て判断して欲しいです。
西側に降りていく途中、堀切が急だったため滑り降りたのだが、ストックが真ん中の弱い部分で折れてしまった。そのため、この日はストック一本で乗り切ったのだが、砂礫を含んでいて滑りやすい城が幾つか有ったので結構難儀した。やはり、予備が一本必要だ。
ストックが折れたので、そろそろ引き揚げようと思い、北→東→南と迂回して、南の登城口に戻ろうと思ったのだが、そもまま北東の尾根の遺稿に入りこんでしまった。そりゃそうだわな、と思うのだが暑さであまり頭が働いていなかったようだ。
北東の尾根の北側を削って郭を設けて有り、尾根はそのまま土橋と土塁を兼ねたスロープとなって先に続いている。なかなか面白い遺構が見れたので、これも怪我の功名というやつだ。
まだ写真が残っているので、この続きは無印(フリー)で投稿させていただきます。高尾城で検索をかけると、出城の投稿も出てくるので、併せて訪問してもらえると、ありがた山ですわ。

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しんちゃん

尼子十旗の一つで、三刀屋氏の本城。 (2025/06/28 訪問)

三刀屋城は尼子十旗の一つで、三刀屋氏(もしくは祖である諏訪部扶長)によって築かれたとされています。三刀屋城を本拠として移る前には「じゃ山」の城を本拠としていたとされています。
城址は公園となっていて山頂の本丸まで車道が続いていますが、途中に幾つか駐車可能な場所があるので、適当な所から歩いて登りました。まあ、わざわざ本丸まで車で乗りつけなくても良かろうと思ったので。山頂に本丸があり東側に天守台か櫓台のような高まりがあります。草が生い茂っているが、石が積まれているようだ。
天守台を南側から迂回して東を目指すが先は閉ざされている。若い竹を食い散らしたような痕跡がある。近くに果実をつけた木も有る。イノシシかクマの仕業だろうが、フンなどの痕跡は無かった。
本丸の西側が二の丸で、解りやすく土塁で仕切ってある。土塁を確認できるのはここだけだった。車で走りながらでは良く解らなかったが、余湖さんの縄張り図を見ると、山全体に郭を設けてあるようだ。

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雲海松江城 (2025/06/28 訪問)

国宝10周年記念で様々な催しが行われている松江城。せっかくの機会を逃すわけには!と夜の雲海松江城に行き、感動して帰ってまいりました。

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イオ

散策範囲は限定的 (2025/03/23 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に興福寺一乗院衆徒の片岡国春が馬見丘陵の北端に築いた城で、戦国期には筒井氏に攻め落とされて筒井氏に従い、後には松永久秀に攻め落とされて松永方の城となり、信貴山城の戦いに先立っては明智光秀・筒井順慶らに攻められて激戦の末に落城。そのまま廃城となったようです。

片岡城は城山と呼ばれる丘陵頂部の主郭部と、東、南、北にのびる尾根上に設けられた出曲輪群からなり、片岡期には主郭部のみだったのが、松永期に周辺の尾根にまで拡張されたものと考えられるようです。拡張された出曲輪群を含めればなかなかの広さがありますが、先達方の投稿にあるように、私有地のため整備された登城道と主郭以外は散策できません。もっとも、出曲輪群は藪化していて、そうでなくても散策は困難でしょうけど…。

駐車場は無く、周辺に路駐できそうな場所も見付けられなかったので、ドラッグストアに駐めさせてもらって(買い物もして)登城開始。東側から随所にある案内表示に従って進むと、道脇に片岡城跡の説明板(CG再現スポットも)と上牧町埋蔵文化財之図が立てられています。この説明板あたりから北東に東尾根の出曲輪が展開しているようです。説明板の少し手前(東側)にある祠の背後に見えるのが東出曲輪南端の土塁でしょうか。説明板の脇から北側を見ると、主郭部の東側が一段低くなっているのは松永期に改修された大堀切の跡なんだとか。現況は畑になっているため、言われてみれば…くらいの印象ですが、登城道をはさんで南側に続いている竪堀は明瞭に遺っていました。

説明板から主郭部へ。登城道の分岐から丘陵に向かうと、南に突き出た曲輪の麓を通る間ずっと横矢にさらされていることを感じます。主郭西下の曲輪からは葛下川側の眺望が開けているようですが、登城道を外れたことになるのか判断がつかず諦めました。主郭への階段を上るとよく整備された大きな曲輪が広がっています。片岡城CG再現スポットも設定されていました。主郭の北部は笹藪に覆われていますが、道のように笹藪を刈りこんだ箇所があり、この先に東出曲輪との間の堀切や北尾根の出曲輪群があるはず…と思うと誘惑に駆られましたが、認められた範囲を超過するのは間違いなさそうなので自重しました…。

分岐まで戻って、登城道から南尾根の出曲輪群を見ても藪に沈んでしまっているようです。登城道を外れずに見ることができるのはこれくらいなので、馬出跡ともいわれる教円寺に寄り道しつつ来た道を引き返しました。散策範囲は限定的で消化不良気味ではありますが、主郭だけでも散策できることに感謝すべきなんでしょうね。
 

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赤い城

笠松山城 愛媛県今治市 (2025/06/22 訪問)

世田山城から北に尾根を進みます。
途中左手に石段があり、これを下ります。
再度上り坂を登ると細い尾根道に。
広さはあるものの両サイドは崖、足がすくむような場所もありました。
世田山から20分程度で観音堂がある笠松山城址に着きました。

天気良く眺望もよかったですが明確な遺構を見つけることができませんでした。
ちなみに途中の分岐を降りずまっすぐ進むと「ガメラ岩」と呼ばれる光明岩があります。
確かに遠くから見るとガメラ?

お昼はこの辺りのソウルフード、せんざんきを頂きました。
まぁ、唐揚げなんですが骨付きのぶつ切りでボリューミー。
ビール無しで食べるのは残酷なお昼でした。

【見どころ】
 ・細い尾根道
 ・眺望

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