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ぴーかる

浪岡城 (2025/04/27 訪問)

【続百名城78城目】
<駐車場他>浪岡城跡案内所が近い。中世の館に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>2重堀・曲輪
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅2日目2城目。中世の館が開館時間前だったので、浪岡神社⇒城跡の西側入り口から南側の河川敷から城跡切岸を眺め⇒案内所⇒東館⇒北館⇒西館⇒内館を巡りました。各曲輪はそれぞれに堀が設けられていて堀の間に武者走りのような細い中土塁というのが走らせてあります。曲輪から見ると2重堀となって見応えがあります。畠山氏の後裔の築城とあって、埼玉県の畠山館跡と非常によく似た縄張りや、防御遺構が共通するようにも感じました。ソメイヨシノが植えられている各々あり、特に検校館という西端の曲輪にはコブシと桜が満開で綺麗でした。城跡見学後に中世の館にてスタンプ押印、御城印購入、館覧しました。

<満足度>★★☆

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しんちゃん

四郎さん紀行 (2023/01/03 訪問)

四郎さんといっても、某編集部では無いです。天草のほうですよ。
本渡城の投稿をしたので、天草四郎関連の投稿もしたいと思います。以前にもやったかな? 天草四郎は本名・益田時貞とされ小西行長の旧臣の子供いう説がありますが、詳細は不明です。
寛永14年(1637)に勃発した「島原の乱」では一揆軍の総大将に掲げられ、本渡城の戦いでは富岡城城代・三宅藤兵衛を討取るなど快進撃を続けますが、富岡城を陥落させることが出来ず、船で原城へ逃れ三ヶ月に及ぶ籠城の末 幕府の大軍により一揆軍は全滅し、四郎は細川家の兵・陣佐左衛門に討たれ「天草の乱」は集結しました。
一揆を主導していたのは豊臣方の遺臣達(浪人)や庄屋たちと見られ、結局「島原の乱」というのはキリシタンを扇動しキリスト教宗主国の力を借りた「幕府転覆計画」だったのか、純粋に虐げらられているキリシタン達を助けるための戦いだったのか評価は分かれる所だと思います。
ドライな考え方ですが、宗教勢力や貴族・武士などの支配階級が農民や平民の為に純粋に「行動」を起こすことは稀だと思います。
「君たちのためだよ」とキレイごと言われて、その気になってついてくと利用されて、あとでえらい目に合うような気がしますね。

森宗意軒神社・上天草市大矢野町・・一揆軍の参謀で医学者でもあった森宗意軒を祀っています。由井正雪に妖術と軍略を授けたという伝説もあるそうな。

天草四郎ミュージアム・上天草市大矢野町・・ここに行けば天草四郎のことが、だいたいわかります。

三宅藤兵衛の墓・天草市本渡町・・富岡城の城代で明智光秀の孫と言う説もあるそうな。

天草四郎乗船之地・天草郡苓北町・・ここから西北西1.5kmの所に「おっぱい岩」がありますので、ぜひ訪問して下され。西へ直線5kmの所には「富岡城」があります。

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しんちゃん

千人塚 (2023/01/03 訪問)

本渡城は戦国時代の有力国人「天草五人衆」の中でも最も有力な天草氏の拠点でした。天正18年(1590)天草種元(ドン・アンドレア)と小西行長・加藤清正の間で戦いが起こり、城内には付近のキリシタンや宣教師も立て籠もったそうです。同じキリシタンと言うことも有り、小西はこの戦いには消極的でしたが加藤清正の攻撃は容赦なく、本渡城は落城し種元は切腹、籠城側は1300人の犠牲を出したそうです。また籠城側の抵抗も激しく、攻め手の加藤側も2000近い兵士が命を落としたとルイス・フロイスの「日本史」に記録されています。
現在は「切支丹殉教公園」となり、「天草キリシタン館」は二の丸跡になるようです。
殉教千人塚は後に起こった天草四郎軍と三宅藤兵衛率いる唐津軍の戦いの犠牲者を合祀したものとされています。城域は思ったより広そうで、今度訪問した際には山の上の出丸なども訪れてみたいと思います。

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しんちゃん

千人殺し (2025/05/05 訪問)

延岡城は県(延岡)藩主高橋元種によって慶長6~8年(1601~3)にかけて築かれました。本丸の西に二の丸、北に三の丸を配し、周囲に内堀を配してありました。北の五ヶ瀬川と南の大瀬川を天然の外堀とし、防御も抜かりないです。また藩主の館跡とされる西の丸は、現在は内藤記念博物館と亀井神社になっています。
二の丸に沿って続く道を登って行くと折れ曲がりが有り、その先に二階門跡、その先の折れ曲がりの先に本丸があります。二の丸に沿って続く70mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、隅の石を取ると石垣が崩れ千人の敵兵を殺すと伝わります。さすがにそれくらいじゃ崩れんだろとは思いますが、写真を見ると二の丸に面した石垣の一部が膨らんできているようにも見えます。万一崩れた際に、元通り修復するために万全の対応をお願いします(各責任者さん)。

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小城小次郎

どうにも陰湿な歴史が付きまとう (2024/11/02 訪問)

山頂部分は立入禁止で山麓の居館部分が公園化されている。この城に籠った小岩嶽図書と500の兵は6倍の兵力を擁する武田信玄によって殲滅された。その後に入った古厩氏も小笠原氏に粛清され、どうにも陰湿な歴史が付きまとう。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:敏満寺城 (2025/05/18 訪問)

多賀大社前駅から徒歩15分弱で、ぷらざ多賀の湖公園入口(35.218730、136.282704)に着きました。

詳細不明のようですが、かつてこの辺りには敏満寺という天台宗の大寺院があり、室町時代には佐々木六角氏や京極氏などと対立するようになり、その要塞として敏満寺城が築かれたと考えられているようです。
1562年(永禄5年)には浅井長政の攻撃を受けた久徳氏に味方したことから、40余りあったといわれる坊舎のほとんどが焼き払われたそうです。
さらに、1571年(元亀2年)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎も焼かれ寺領も取り上げられてしまいました。
江戸時代には彦根城築城のために城址に残った礎石も運び去られたため、遺構はほとんどありません。

全国的にも珍しい高速道路のサービスエリア内にあります。
名神高速道路上り線=敏満寺SAにあるドッグランとなっている辺りで土塁や櫓台が確認できます。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、多賀大社前駅から電車で米原駅へ向かいました。
歩行歩数=33367歩、歩行距離=23.4Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:木ノ本駅周辺と彦根駅周辺 (2025/05/18 訪問)

木ノ本駅から多賀大社駅に向かう電車及びバスの待ち時間に、木ノ本駅と彦根駅で撮った写真を投稿します。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:黒田城(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

菖蒲谷砦(城びと未登録 岐阜県長浜市)の駐輪場所(35.550410、136.205539)から自転車で20分ちょっと走って、黒田集会所入口(35.510647、136.215854)に着きました。

近江源氏佐々木氏流京極氏の京極宗満(宗清)が近江国伊香郡黒田村に土着して黒田氏を称しました。
後に京極氏の有力氏族として活動するだけでなく室町幕府奉公衆(将軍の直参)として時に宗家と肩を並べるほどの勢いがありました。
しかし、黒田高政の時に将軍・足利義植の怒りを買って所領を失い、備前国邑久郡福岡に移住した後に播磨守護・赤松氏の弱体化に乗じて播磨に土着しました。
この黒田高政より3代後が官兵衛孝高です。

館跡にある集会所を改築したときに「源宗清」と刻まれた御影石が発掘されたそうです。
館跡は現在は公民館になっており、石碑や看板が整備されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=敏満寺城へ行く前に木ノ本駅の観光案内所で自転車の返却し、その後、木ノ本駅から多賀大社駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:菖蒲谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

溝谷砦(城びと未登録 岐阜県長浜市)から駐輪場所(35.550410、136.205539)まで戻り、「ぴーかるさん」の投稿に従い崖を直登しようとしましたが、直登できそうな場所がみつかりませんでした。

1583年(天正11年)の賎ケ岳の戦いの際の東野山砦の出城と推測されています。
攻城時間は10分(直登できそうな場所を捜した時間です)くらいでした。次の攻城先=黒田城(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:溝谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

東野山城から駐輪場所(35.550410、136.205539)まで戻り、「ぴーかるさん」の投稿に従い360度カーブの曲がった東側の切岸をよじ登ぼって辿り着きました。

1583年(天正11年)の賎ケ岳の戦いの際の東野山砦の出城と推測されています。

尾根を遮断する堀切があります。尾根先端側に頂部の小曲輪があります。
その下にわりと広い曲輪、さらにその下に段曲輪があるという小さな砦でした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=菖蒲谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:東野山砦 (2025/05/18 訪問)

秀吉軍土塁跡(城びと未登録 滋賀県余呉町)から自転車で10分くらい走って、分岐点(35.548497、136.204381)に着き、ちょっと先のこの場所(35.550410、136.205539)に駐輪しました。

築城年代は定かではないようですが、東野氏によって築かれたと云われています。
現在の遺構は、1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれたもので、堀久太郎秀政が布陣しました。

駐輪場所から林道を誤り、真っ直ぐ山方向に10分登った所で道がなくなりました。駐輪場所まで戻り攻城を諦めました。
自転車を返却する際、木ノ本駅観光案内所の人に聞くと溝谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市)方面に向かう林道を進めばよかったようでした。
残念ですがリベンジの機会があれば再度チャレンジしますので、とりあえず仮攻城とします。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=溝谷砦(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:秀吉軍土塁跡(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

東野館(城びと未登録 岐阜県長浜市)から自転車で5分くらい走って、土塁跡周辺(35.550878、136.202677)に着きました。

賤ヶ岳の合戦で秀吉軍が築いた土塁です。
石碑も説明板もなく、土の盛り上がりもありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=東野山城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:東野館(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

大岩山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)から自転車で10分ちょっと走って、東野山城登山道案内付近(35.555282、136.201900)に着きました。

京極氏の属した東野氏の居館で、史料には東野左馬之介行成などの名が残るそうです。

東野館は東野山城の西麓、法照寺・八幡神社の南西側付近にあったと云われ、 東野山砦の標識もあります。
法照寺には東野豊前守の墓が残されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=秀吉軍土塁跡(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:大岩山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町) (2025/05/18 訪問)

山崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)から遊歩道を20分くらい歩いて行くと着きます。

1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれ、城将は摂津国茨木城主中川清秀でした。
羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走りました。
これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲しました。
このとき盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、中川清秀は四時間程防戦したが討死し中川軍は全滅したそうです。

砦跡は大岩山にあり、2郭、少し高くなって主郭と地続きにあり、主郭に中川清秀公の墓があります。
2郭の左右と墓の周りに、土塁が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=東野館(城びと未登録 滋賀県長浜市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:岩崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町) (2025/05/18 訪問)

賤ヶ岳砦から自転車で25分くらい走って、この場所(35.532916、136.201917)に自転車をおいて、登城口(35.532758、136.202858)に向かいました。

1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれ、 城将は摂津国高槻城主の高山右近でした。
羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走りました。
これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲しました。
このとき盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、大岩山砦の中川清秀は討死、高山右近は砦を脱して逃げ延びたそうです。

登城口より賤ヶ岳に向かう遊歩道をしばらく歩くと、縄張り図の掲示された入口があり、左に登って行きます。
間もなく岩崎山に主郭がありますが、明確な遺構はあまり見られません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大岩山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:賤ヶ岳砦 (2025/05/18 訪問)

木ノ本駅の観光案内所で電動自転車を借り、15分くらい走って、賤ヶ岳リフト駐車場(35.502248、136.197647)に向かい、山麓から賤ヶ岳リフトを使い登城しました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(天正元年)に浅井・朝倉軍が賎ヶ岳に布陣していた記録が残されているそうです。
1583年(天正11年)賤ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として利用され、 城将は但馬国竹田城主桑山重晴、羽田長門守、浅野弥兵衛であったそうです。

賤ヶ岳砦は賎ヶ岳山頂に築かれており、 現在は展望公園として整備され、リフトもあって観光スポットになっています。

現在城址は展望公園として整備されており、山頂からは余呉湖と琵琶湖、また小谷山や虎御前山を一望できる絶景ポイントとなっています。
リフト往復チケット(900円)を買いました(降りる時に回収された為、残ってません)。時間と体力のことを考えるとリフト使用は安いかも。
山頂部は観光化され明確な遺構らしきものはないような?。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=岩崎山砦(城びと未登録 滋賀県長浜市余呉町)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:田上山城 (2025/05/18 訪問)

木ノ本バスターミナルから徒歩10分くらいで、意富布良神社(おほふら)鳥居前(35.507227、136.226697)に着き、意富布良神社の境内奥の碑「田上山登り口」から登りました。
下城は林道をそのまま下り、小溜池方面に出ました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(元亀4年)浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱で、朝倉氏の軍勢が田上山に布陣したそうです。
1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として秀吉の弟羽柴秀長が布陣し、秀吉方の本陣的な役目を果たしましたが、合戦の勝利にともない利用されなくなりました。

意富布良神社境内横から登城すると、すぐに林道と合流し、林道終点から整備された登山道です。
城址は予想以上に規模が大きく、遺構は土塁や空堀のほか、虎口と竪堀など技巧的な土の城が楽しめます。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=賤ヶ岳砦へ行く為、木ノ本駅の観光案内所へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:塩津城 (2025/05/18 訪問)

応昌寺城(城びと未登録 滋賀県長浜市)から徒歩15分くらいで、道路西側登り口(35.523790、136.166083)に着きました。

築城者ははっきりしないようですが、地頭としてこの地に入った熊谷兵庫直高の居城と云われています。

道路西側登り口のフェンス越え場所を捜しました。前日の雨で滑る状態で、丘陵は注意しながら上り下りしました。
上りきると堀切、空堀、土塁が見えてきます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=田上山城に向かう為、塩津北口バス停からバスで木ノ本バスターミナルに向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征4日目:応昌寺城(城びと未登録 滋賀県長浜市) (2025/05/18 訪問)

米原駅から近江塩津駅に向かい、そこから徒歩15分弱で、散策道入口付近(35.530354、136.156995)に着きました。
塩津小学校の校門を入った右手に公園へ通じる散策道があり、それを登ると城跡に着きます。

山の西麓の”応昌寺”には「元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。
即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があるが、このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構が有ったのでは。
また、応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に祀られているそうです。

城跡は塩津小学校の南に面した小山で、頂部一面公園施設になっています。
堀切状の深い窪地と低土塁を確認しましたが、ある程度進むと金網が邪魔をして、それ以上は進めませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=塩津城へ徒歩で向かいました。

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todo94

万博翌日の攻城④【城びと未登録・難波宮】(大阪市中央区) (2025/05/11 訪問)

宇利和利城からの転戦です。大阪メトロ谷町線を出戸駅から谷町4丁目駅まで利用してのアプローチです。難波宮は大阪城の南に隣接していて城びとの登録物件にはなっていませんが、古代三大政庁の平城宮、太宰府、多賀城はすべて城びと登録物件になっているので、都であった時代がある難波宮も城の範疇に入るかと考え投稿させていただきました。読了したばかりの阿部龍太郎の「平城京」にも登場していてちょっと思い入れが生じていたのです。阪神高速の南側に位置する大極殿跡は訪れたことがあります。阪神高速の北側の内裏北側が「なノにわ」としてきれいな公園、商業施設として整備されていてびっくりしました。内裏正殿の基壇が復元されていてちょっとした展望スポットになっています。

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