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零汰

ホイナシリチャシ (2024/05/09 訪問)

シベチャリ川流域チャシの中で一番南に位置するチャシです。
シベチャリチャシから体感1km程南の灯台脇から下って入って行きます。
そこには若い雑草がすくすく育っていました。
入る道に濠が1本、派生尾根にもう1本の濠が入っています。
肉眼では確認出来ました。
写真は分かりにくいですが想像力を駆使してご覧ください。

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ぴーかる

九之坪城 (2024/05/25 訪問)

【九之坪城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑の奥の健康ドーム駐車場前に少し停車し撮影しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾2城目。現地説明板によると斯波氏の家臣であった梁田政綱は主家衰退後に織田信長に仕え戦功によりこの地を与えられました。九之坪城は当時「此壺城」といい当時の地侍の館であったのを改築したものと伝えられています。廃城の時期や経緯については明らかになっていません。
 現地は現在シルバーセンターになっていて遺構は残っていません。センター前に城跡碑があるので撮影しました。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

彦根八景荒神山城 (2024/06/24 訪問)

 荒神山神社が荒神山城に当たるとの事、車で頂上まで行けると分かり、荒神山神社参拝し初登城。

 駐車場:荒神山神社参道前駐車場(35°13'59"N 136°11'50"E )10台は可能、50m車道を登り展望所に駐車も可能。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 山崎山城から西と近く、一の鳥居を潜って約3km程の狭いが舗装された道を登る、要所要所で軽くクラクションを鳴らして安全確認注意喚起。
 参道前駐車場に駐めて、緩やかな登り道を展望台へ、琵琶湖が見えて絶景です、そこは「彦根八景 うみ風渡る荒神山」として平成7年5月1日制定されています。
 荒神山神社に展望台側から入り参拝、拝殿、社殿、社務所と立派な造り、皆さんがよく投稿されてる参道石段と両脇の石垣を降りながら確認、東山麓から続く石畳参道はだいぶん苔むしています、駐車場への参道石段を下りて終了。
 城郭に関する案内解説板など無く、どこまでが城跡の遺構なのかは良く分かりません、荒神山神社由緒記は有り神社、奥山寺の歴史が記されて居り、城に関しては関ケ原後井伊直政が彦根に配されたとき、「荒神山に築城の計画があったという」の文が城に関する事のみ。

 荒神山神社の起源は今から2300年前、奥山寺は天平2年行基菩薩の創建、織田氏の時代には比叡山の焼き討ちと同じく奥山寺も焼き討ちにあっています。江戸期以降井伊家の崇敬を受ける。明治に成っれ神仏分離により奥山寺を廃し、新しく社殿を造営し荒神山神社と称す。(荒神山神社由緒記抜粋)
 

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AJ

2人の距離 (2017/07/04 訪問)

「老中の城」佐倉城(千葉県佐倉市)。代々9人もの老中が配置された特別な城ですが、幕府の要職ともなると、それぞれ一筋縄では行かない問題も抱えていたようで。

江戸を守る東の要。一方、西国から江戸が攻撃された際には将軍家が退避する地と定められていたといいます。三重の天守をはじめ、櫓や本丸御殿、8基もの大規模な櫓門が備わった重要拠点でしたが、残念ながら現在、建造物はほとんど残っていません。それでも、結構なサイズの城址をつぶさに歩き回ることで、この城がもつ意味合いが見えてきます。

前身は中世城郭。徳川家康の関東入国後、徐々に改修し完成は1617年ごろ。石垣を用いない土造りで、空堀は結構な深さ。北には印旛沼があり、湿地帯に掘られた水堀が本丸周辺を巡っています。ちなみに100名城スタンプは、復元された角馬出の空堀。渋い。

「出世城」というよりは、むしろすでに幕府の重鎮になった人物がその都度配されたという印象でしょうか。城内(二の丸入り口付近)にはそんな中のひとり、佐倉藩5代藩主・堀田正睦(1810-64)の銅像。藩内の蘭学を盛んにし、幕末期の老中首座として「開国に尽力」(佐倉市)した御仁。加えて、その近くにはアメリカ初代駐日総領事であるタウンゼント・ハリスの立ち姿、、。んー、どこか微妙な並び。

定説では不平等条約とされる日米修好通商条約。交渉で米側から圧をかけられまくった窓口が堀田一派だったはず。事実、調印後、最後まで朝廷の賛同を得られなかった失策により老中を罷免されます(*結果的に無勅許で踏み切ったのは大老・井伊直弼)。

もちろん、ハリスの存在が「開明派」の堀田を外交の舞台に引き上げたという点で2人の関係性は特別なのかもしれませんが、もし仮に今、堀田自身がこの距離での並びを見せられたら何と言ったか。興味は尽きないのであります。

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todo94

献血後の攻城 (2024/07/13 訪問)

予定通り、献血プラザ佐賀での成分献血を終え、ローソンにて軽い昼食を調達した後に赴きました。民家の前に立派な城址碑が建っていますが、樹木の葉の陰になっていました。夏場ということで平地の城をチョイスしたのですが、城址碑も冬枯れの季節の方が良いみたいですね。近くの崇久寺には蒲池氏墓碑がありました。城址碑の説明板は「崇久寺」なのですが、寺の説明板の字は「祟」になっていました。いくら何でも寺名に「たたり」という字を使ったりはしないと思いますが、いかがでしょう。

この後は、柳川の松濤園や柳川城を狙っていたのですが、再訪の地はパスして、初攻城の城へと急ぎます。

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天守無しがアツい

八王子城 心霊スポット (2024/06/29 訪問)

(参考URL)https://youtu.be/ewqbeIGDGFo?si=b7c1nffc8QTBcl9G
https://youtu.be/WyP61-3hQwQ?si=qz01HIRwx1NZKjmQ
https://youtu.be/tDEIZTpsbwA?si=YihxDL4VifYjuBLW
https://youtu.be/cleWwWerKe0?si=BzHOMnWmAXA92i6w

八王子城御主殿から続く階段を降りると川のある場所に出ます。そこの水は滝のように激しく流れており、そこの片隅に(八王子城の戦いにて)亡くなった人々を弔う場所(1枚目)があります🪦

天正18年(1590年)天下統一最後の戦…前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの部隊15000が八王子城に侵攻。対して北条側は領民を含めて3000…大軍相手に城の各防御機能を生かして善戦。豊臣側に大きな損害を出させるも、別動隊による奇襲により北条側は総崩れ…

城は半日で陥落し、氏照正室はじめ城内の婦女子は自刃もしくは御主殿の滝に身を投げた🏳️💀 北条側の武将や婦女子が滝の上流で自刃し次々と身を投げて、滝は三日三晩赤く染まったという言い伝え

1枚目にここで亡くなった方々の供養塔、ならびに御主殿の滝の説明書が見えると思います。この左手に滝…というか流れの激しい川があります。「敵の手にかかるくらいなら…」「敵の慰み物になってまで生き長らえたくない」という考えのもと…ここに飛び込んだ

八王子城自体が実は心霊スポットとして有名と言えばそうなのですが、その中でもヤバいのがここ…御主殿の滝および本丸だそうです

滝では北条側の人々が次々と飛び込んで自害…本丸ではおそらく北条の僅かな守備隊と豊臣側の大軍が交戦し修羅場と化したのでしょう💀 その関係で…出るそうです…霊が👻

城の入口を入って通路を進み、途中に(2枚目の)橋がかかってます🌉 これは北条氏統治時のものではなく、近年になって造られた(もしくは復元した)ものだそうです。そしてこの下あたりに御主殿の滝および供養等がある

私がここを訪れたのは16時頃…少々暑く、滝の近くでは観察用具を置きながらバードウォッチングをしてるオジサンもいるくらい…のんびりしてました。ここが心霊スポットなんて微塵も感じさせないくらい…あの時代に自刃して果てた人々は数百年後がこんな光景になっているなんて思いもしなかったでしょうね😅

私は霊感が無いようで、(時間的に本丸まで行くのが無理で手短に見学できる御主殿跡を選んだわけですが)御主殿を歩いた限りは霊の気配および寒気は全く感じませんでした。帰りのバスが18時までしかないので、その一本前の17時に乗って帰路に着いたわけですが…もし夜もここにいたら…また異なる姿がそこに現れていた…のだろうか👻😅

あと参考URLでこの城の心霊スポットとしての一面を紹介した動画を幾つかあげさせてもらってますが、私は霊夢と魔理沙の動画好きなため、それが多めになってるのは否めません…

霊夢と魔理沙のでは、「その昔、豊臣秀吉の大軍によりこの城が攻め落とされ多くの人間が死んで霊となり、彼らの啜り泣く声が聞こえてくる…ヤバいヤバい」と概要的にヤバいとだけしか紹介してない…のに対し、一番最後の動画では実際に夜に現地を訪れた若者が、何かいるという気配…雰囲気の重さ…微かな女の声…を感じて多かれ少なかれ恐怖する…リアリティが感じられます(でも私から見ると過剰演出して盛ってる部分あるような気もしますけど😅)

蛇足ですが…供養塔から川底までは3-4mはありそうでしたが、緩やかな土手となっており、川底も浅いと言えばそんな感じでした…なので…「滝に飛び込んで自害」という言い伝えを聞いて…

「ここに飛び込んで…そのまますぐに死ねたのかな?」と正直思ってしまいました…喉を掻っ切ったりして瀕死の状態で飛び込むならまだしも…ただ飛び込んですぐにあの世行き…には見えなかったから。それとも…当時はもっと川の水量が多かった?🏞️

余談ですが…少し前にダークギャザリングという深夜アニメが放送されており、その中にもここがH城という名前で登場してます。興味のある方はU-NEXTやDMM TVなどの有料動画サイトで探してみましょう

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トク

109【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(2/3)-平塩寺) (2024/03/18 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑪です。
「天正壬午の乱」の時、直政が滞在していたのでは?とされている「平塩寺」を訪れてきました。JR身延線「市川本町駅」から徒歩5分の所です(写真⑨⑩)。

当時廃寺だった平塩寺は、後の江戸時代に天台宗に改宗され「宝寿院」として再建され、現在もその姿は残っていました(写真①②)。街道沿いに江戸期には陣屋もあり門前町として栄えていたようです(写真⑧)。宝寿院の中には、愚痴を聞いてくれる「供智(愚痴)聞き地蔵」なるものがありました。私も日頃から溜めこんでいたものを、長々と聞いてもらいました。おかげですっきりしました!(笑)。さあ日頃から悩みや不満を溜め込んでいる・・・そこのあなた!→→→(😲ドキ!)。 愚痴を聞いてもらいに、ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか? すっきりしますよ~!(笑笑)(写真③④)。

さらに歩いて10分程坂を登った所には甲斐源氏の祖碑がありました。甲斐源氏の祖と言われる源義清公の館がここにあったようです。その場所は現在は「熊野神社」になっていました(写真⑤⑥)。そう考えると、ここは陣を敷くには最適な場所のようですね。

家康と直政は、当時このあたり一帯を支配していた「大鳥居氏」の仲介により、武田の旧臣たちを集め、味方に引き入れる事ができたのではないかと言われています。1582年3月の武田攻めの時にも家康と直政はここを訪れて、この平塩寺を本陣としています。その時に武田から離反した大鳥居氏と親しくなり、その後も直政と大鳥居氏との間には、何度か手紙のやりとりがあり関係が続いていたようです。そして武田が滅亡し、主君を失った彼らは本領を安堵してくれる新たな主君を探していました。

まず直政の家臣達が手分けして旧臣たちと対面し、家康様に従うとの起請文を書かせます。約800の兵が集まったようです。そしてこの地を知り尽くしたその旧臣たち800が、各地でゲリラ戦を展開、北条軍をかく乱します。背後から突然襲ったり補給路を断つなどしたため、北条軍は(武田の亡霊が出た😱~)と大混乱! 黒駒の戦いなどで劣勢だった徳川軍の勝利に大いに貢献しました。

そしてこの旧臣たちを、最後に取りまとめたのが直政です。1582年10月に活躍した旧臣たち一人一人を家康に対面させるという儀式を行い、家康は彼らを家臣とし本領を安堵するという朱印状を発行します。

では直政は、ここでどうやって彼らから信頼されるようになったのでしょうか?(🤔?)

直政はその朱印状に、「井伊兵部少輔直政がこれを受け承る」と添え書きをします。つまり(家康様とあなた方の仲介役を今後はこの直政が責任を持って行います)と付け足す事で、彼らの不安を払拭し、彼らの心をつかんでいったようです。後にこれらの兵が直政に与えられ、直政は侍大将となり、武田の赤備えを引き継いだ「井伊の赤備え」隊がここに誕生します。

私は、熊野神社の高台(写真⑦)から新府城の方向に向かってここに立ち、目の前にこの武田の赤備えの旧臣たちが控えている姿を想像し、直政になったつもりでこう叫びました。

「この井伊兵部少輔直政が、これを受け承ったー!」

でも兵部少輔なんていう肩書、よく思いつきましたよね。それとも平安時代からの由緒ある井伊家に伝わる元々の官位だったのでしょうか? しかし彼らの心をつかむには、十分な一言だったようです。

次は、北条との和睦交渉(小田原城)に続きます。
 

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小城小次郎

いつまでもこの姿が守られてほしい (2024/01/13 訪問)

市街地の中に奇跡的に土塁を残すこのお城の西側を南北に貫く市道「道意線」は富松城の土塁を基準線にしているのではなかろうか。道路拡幅と地主さんの心変わりがない限りこの土塁はいつまでも守られるだろう。守られてほしい。

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零汰

シベチャリチャシ (2024/05/09 訪問)

シベチャリ川流域チャシの中のひとつです。
その中でも一番状態の良いチャシではないでしょうか。
南には展望台、北にはアイヌのおじさんの像が建っています。
博物館みたいな建物がありましたが休館中でした。

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ぴーかる

岩倉城 (2024/05/25 訪問)

【岩倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡休憩所の裏手に停車しマッハで撮影しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅(2022年からの続き)、第3弾1城目。現地説明板によると岩倉城の築城は1479年頃に織田伊勢守系の織田敏広が築城しました。織田敏広は尾張守護代で上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、応仁の乱で東軍についた下四郡(愛知・知多・海東・海西)を支配する織田敏定と対立します。1557年に城主の織田信安は末森城主の織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたため、信長に攻められ1559年に落城します。
 城跡碑を撮影し、大手虎口跡へ走って行きましたが特に何も無かった。城跡休憩所に公衆トイレあります。

<満足度>◆◇◇

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あみりん

龍岡城へ朝から汗だく‼️ (2024/07/15 訪問)

佐久平に宿泊して小海線に乗車して龍岡城まで。
Google地図を見ながら迷いながら到着しました。
五稜郭であいの館のおばちゃまがとても親切で、麦茶を2杯ご馳走になりました。写真もたくさん撮りました。
スーツケースを転がしながら駅から往復したので汗だくになりました。佐久平に荷物を預け忘れて無人駅で、ロッカーが無い事に現地で気がつきました…。

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浅野館 大富館 (2024/07/15 訪問)

 高山城はもともとは浅野館、大富館の詰城ともいわれます。高山城を下りて散策してきました。

浅野館
 土岐氏の館跡で現在、多度神社となっている付近が跡地です。遺構はありません。
鎌倉初期、土岐光衡は、瑞浪の一日市場館を拠点とし「土岐氏」を称します。その子光行、光時兄弟は、承久の変の後浅野館に移りました。光行の子孫からは明智氏、多治見氏、小里氏、肥田氏が生まれています。

大富館
 公園となっています。遺構はありません。
源頼光の一族がこの地に住んで土岐氏の拠点となったとされています。「美濃国土岐源氏発祥の地」の石碑が立っています。

 ちなみにこのあたりは江戸時代は下街道高山宿という宿場町でした。下街道は中山道と名古屋を結ぶ街道で、中山道の大井宿と大湫宿の間にある槙ヶ根追分から、名古屋城下の伝馬町札の辻まで行くことができました。ただ街道として整備される前から道はあったらしく「日本武尊が東征の帰りにこの道を通った」と言う伝説があります。交通の要衝であったと思われます。

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高山伊賀守秀頼 (2024/07/15 訪問)

 久しぶりの土岐市の高山城です。承久の乱の頃に土岐氏の一族である高山伊賀守秀頼が築城したとされています。戦国時代には単独で城の機能を果たしていますが、最初の頃は土岐氏の居館であった浅野館や大富館の詰城ではなかったかと思っています。主な場所は公園として整備されています。山の上の城址まで車で行くことができ以前に登城したときは車で山の上まで行ったのですが、今回はJR土岐市駅から徒歩にて登城しました。駅から20分くらいで行くことができます。一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪と石柱がありましたが、二の曲輪の石柱は草に隠れていました。堀切の石柱はありましたが、堀切は埋まってしまっています。縄張り図に描かれてはいませんが、帯曲輪のような削平地が所々ありました。当時のものか否かわかりません。
 出丸方面から武士の小道を下って御屋敷跡へ行こうしましたが、途中に鹿の排泄物に加えて猪の排泄物が二カ所にあり新しいそうであったことでびびってしまい、また藪になっている所もあり途中で引き返しました。
 前回の登城時に公園となっているという印象しかなかったので気軽に来ましたが、思ったより楽しく散策できました。

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AJ

五・七・五の宇宙 (2021/07/08 訪問)

江戸城おまけ。時間のある方はぶらぶらどうぞ。


かつてツイートは140字。一方、それより遥かに少ない17字に宇宙を読み込めると言われたら?それはもう怪しい勧誘にしか聞こえません(笑)

古池や蛙飛びこむ水のおと--。

みちのくに旅立つ3年前の1686年、松尾芭蕉がそのスタイルを確立したとされる一句。諸説ありますが、芭蕉は実際にカエルが古池に飛びこむのを見たわけではないのだとか(長谷川櫂「古池に蛙は飛びこんだか」)。

音を聞いてそう判断し、後段部分を先に詠む。じゃあ古池はというと、何らかの考えがあったにせよ、そこは想像の産物。堅苦しい言い方をすると、心の世界を展開した、ということになるようで。

とはいえ、大変なのは“信徒“のみなさん。あの芭蕉先生が言うんだから、きっとどこかに「古池」はあるはず。みんなで探そう!となります。キリスト教の聖杯、トロイの遺跡、邪馬台国探しに匹敵するかもしれない池探しは300年以上経った今も続いているとかいないとか。

というわけで、ここ東京は深川・芭蕉庵跡。隅田川に合流する小名木川の河口にかかる橋の近く。かつて江戸の東半分が水上都市だったと今なお実感できる格別の場所。

芭蕉はこの庵で古池の句を詠みました。そして、どうやらこの場所を提供したパトロン(日本橋の魚問屋)が敷地内に有していた生簀の跡こそがあの「古池」だったに違いないという推論が一人歩きし、「聖地」が誕生しています。分かりやすいことに、跡地には神社。さらに、近くの記念館では池に飛び込むカエルがプリントされたTシャツも売られています。

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カズサン

石垣造りの城郭だった様です (2024/06/24 訪問)

 滋賀県近江の未踏の城廻りで山崎山城を初登城しました。県道2号線宇曽川を西に渡り切った土手道を北進約250mを山裾に入り約100m超で山崎山城北麓専用駐車場へ到着。

 駐車場:北麓の専用駐車場(35°13'33"N 136°12'18"E h=110m)12~14台可能、トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 駐車場は角パイプフェンスで囲まれ、登城口に山崎城跡案内解説板設置、登城口よりコンクリ丸太階段が九十九折で比高50mまで続いておりゆっくり登り約7分、頂上部は木々が空けて開放感があります、東虎口は石垣の残存が有り、案内板によると総石垣の造りだったのでしょうが、破城の影響で根石の2、3段が残ってる状態、頂上主郭部が北西に伸びて段付き郭の頂部に櫓台がある、虎口から堀切に落ち込んでいる。
 見晴らしは良く、遠く伊吹山を望めます。
 案内板によると、平成4年からの発掘調査で石垣造りの城と判明、平成10年より公園整備されて今日まで保存整備が行く届いています。
 駐車場から出るときは右側からの進入車に注意が必要です、右手が分かりにくく、出車時右手進入車にヒヤッとしました。

 歴史は案内板によると。
 山崎山城は、戦国時代には地元の領主の山崎氏の居城であり、天正10年4月対武田戦凱旋の帰り山崎に「御茶屋」を設けて山崎源太左衛門が信長を接待したと記録が残って居ます。
 この城は安土城と佐和山城の中間点で、しかも信長が整備した下街道(後の朝鮮通信使街道)を遮断する位置にあります。信長の近江支配の支城として石垣造りの城へと大改修され、信長と命運を共にしたと考えられます。とありました。
 

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todo94

ミラーレス一眼レフのデビューの地 (2024/07/13 訪問)

献血プラザ佐賀に献血の予定を入れてあったため、九州行きを取りやめることはしませんでしたが、この海の日の3連休の天気は雨予報でした。連休初日だけはなんとか天気が持ちそうだったので、予定を変更して城めぐりに勤しむことにしました。連休二日目の最後に行く予定だった赤司城を献血前に攻めてみました。赤司八幡宮の説明板はすぐに見つかりますが、城址碑は見つけるのが難しい場所でした。トクさんの投稿を拝見していなかったらスルーしていたと思います。貴重な情報、ありがとうございました。この城が新たに購入したミラーレス一眼レフのデビューの地となりました。

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T-Shionoya

小さくても立派な丸根城 (2024/03/09 訪問)

豊田市民文化会館で行われた千田先生の講演の後に立ち寄った愛知県豊田市の丸根城。

矢作川が川幅を狭める"鵜の首"東岸の比高15m程度の台地先端部に築かれた城。
主郭と北曲輪で構成され、更に館跡と推測される主郭北東部は土塁に囲まれていたとのこと。

築城時期や城主は不確かながら、松平氏一族の城と考えられている模様。
矢作川の水運を監視していたのかもしれません。

現在は桜などが植えられ、北曲輪に東屋が建つ小さな公園として整備された城跡。

訪問時はまず北曲輪周辺を、続いて主郭一帯をゆっくり散策。
特に北曲輪周囲は遺構の状態が良く、空堀や切岸の斜面は急峻。
その北曲輪は変形型の馬出のようで、主郭と北曲輪の間の堀は虎口から東への抜け道でしょうか。
また主郭の南西面は両隅が張り出しており、横矢が掛かる形状。

講演内容には登場しませんでしたが、小さくても立派な遺構を保つ、私の城郭巡りの178城目でした。

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朝田 辰兵衛

下関編 最終回~御裳川から門司城へ~ (2024/06/20 訪問)

下関でおぼえた地域情報が2つ。「サンデン交通」と「御裳川(みもすそがわ)」です。下関で走っているバスは「サンデン交通」。壇ノ浦古戦場や関門トンネル(人道)入口の最寄りバス停が「御裳川(みもすそがわ)」です。ここはしっかりチェックです。
関門トンネル(人道)の全長は780mしかありません。もっと長いのかと思っていました。ここをトレーニングがてら,走っておられる方もいました。欲を言えば,ファンが回っていないので空気が滞留して,モワーッとしていたことが気になりました…。
そもそも,御裳川からは近距離ということで,肉眼で門司城を見通すことができます。門司城にはドコモの中継所と送電鉄塔が建設されているので,それが目印になります。

にのまるさんへ。
まだまだ下関PRはほんのさわり程度だと思います。
新潟市をPRしていただいた御礼で,つむぎ出したというのが実情です…<苦笑>。
只見線ついでに新潟市へ来たのかな…と思っていたら,SLばんえつ物語への中継地点だったのですネ!
なかなか有意義な「鉄たび」だと思いますョ。

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零汰

しかりとした濠 (2024/05/15 訪問)

こちらのチャシは三方が谷に面していて、主張の強いしかりとした濠が残っており雑草も見当たらない見易い場所です。
難をいえばここに辿り着くのに砂利道で大変な事でしょうか。

PS:Ninjaさん。赤い鉄馬は城に良く映えますね。これからも投稿楽しみにしています。

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赤い城

駅近物件へ久しぶりの登城 (2024/06/29 訪問)

所用のため鴻巣へ、城へ行かないのもどうかと思い駅近物件へ久しぶりに行ってみることにしました。
鴻巣駅から徒歩で15分くらい、鴻巣高校のグラウンドに面しています。
まずは関東では普通の堀底道を歩きました。
懐かしい!

この時期なので下草も元気ですが怯まず進みます。
鴻巣高校側から郭内へ、櫓台の上に石碑が立ちます。
郭内は杉林で下草もなく快適、と思いきややっぱり蜘蛛の巣、これも仕方なし。

皆さんのレポート通り「伝」ではありますが源さんの館。
駅近なのに遺構がちゃんと残っています。
もはや誰が住んでいたかはどうでも良いか、とも思ってしまいました。

この後髪に蜘蛛の巣を貼り付けてることに気づかず都心を闊歩していたことは言うまでもありません。

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