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イオ

散策範囲は限定的 (2025/03/23 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に興福寺一乗院衆徒の片岡国春が馬見丘陵の北端に築いた城で、戦国期には筒井氏に攻め落とされて筒井氏に従い、後には松永久秀に攻め落とされて松永方の城となり、信貴山城の戦いに先立っては明智光秀・筒井順慶らに攻められて激戦の末に落城。そのまま廃城となったようです。

片岡城は城山と呼ばれる丘陵頂部の主郭部と、東、南、北にのびる尾根上に設けられた出曲輪群からなり、片岡期には主郭部のみだったのが、松永期に周辺の尾根にまで拡張されたものと考えられるようです。拡張された出曲輪群を含めればなかなかの広さがありますが、先達方の投稿にあるように、私有地のため整備された登城道と主郭以外は散策できません。もっとも、出曲輪群は藪化していて、そうでなくても散策は困難でしょうけど…。

駐車場は無く、周辺に路駐できそうな場所も見付けられなかったので、ドラッグストアに駐めさせてもらって(買い物もして)登城開始。東側から随所にある案内表示に従って進むと、道脇に片岡城跡の説明板(CG再現スポットも)と上牧町埋蔵文化財之図が立てられています。この説明板あたりから北東に東尾根の出曲輪が展開しているようです。説明板の少し手前(東側)にある祠の背後に見えるのが東出曲輪南端の土塁でしょうか。説明板の脇から北側を見ると、主郭部の東側が一段低くなっているのは松永期に改修された大堀切の跡なんだとか。現況は畑になっているため、言われてみれば…くらいの印象ですが、登城道をはさんで南側に続いている竪堀は明瞭に遺っていました。

説明板から主郭部へ。登城道の分岐から丘陵に向かうと、南に突き出た曲輪の麓を通る間ずっと横矢にさらされていることを感じます。主郭西下の曲輪からは葛下川側の眺望が開けているようですが、登城道を外れたことになるのか判断がつかず諦めました。主郭への階段を上るとよく整備された大きな曲輪が広がっています。片岡城CG再現スポットも設定されていました。主郭の北部は笹藪に覆われていますが、道のように笹藪を刈りこんだ箇所があり、この先に東出曲輪との間の堀切や北尾根の出曲輪群があるはず…と思うと誘惑に駆られましたが、認められた範囲を超過するのは間違いなさそうなので自重しました…。

分岐まで戻って、登城道から南尾根の出曲輪群を見ても藪に沈んでしまっているようです。登城道を外れずに見ることができるのはこれくらいなので、馬出跡ともいわれる教円寺に寄り道しつつ来た道を引き返しました。散策範囲は限定的で消化不良気味ではありますが、主郭だけでも散策できることに感謝すべきなんでしょうね。
 

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赤い城

笠松山城 愛媛県今治市 (2025/06/22 訪問)

世田山城から北に尾根を進みます。
途中左手に石段があり、これを下ります。
再度上り坂を登ると細い尾根道に。
広さはあるものの両サイドは崖、足がすくむような場所もありました。
世田山から20分程度で観音堂がある笠松山城址に着きました。

天気良く眺望もよかったですが明確な遺構を見つけることができませんでした。
ちなみに途中の分岐を降りずまっすぐ進むと「ガメラ岩」と呼ばれる光明岩があります。
確かに遠くから見るとガメラ?

お昼はこの辺りのソウルフード、せんざんきを頂きました。
まぁ、唐揚げなんですが骨付きのぶつ切りでボリューミー。
ビール無しで食べるのは残酷なお昼でした。

【見どころ】
 ・細い尾根道
 ・眺望

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:長島城 (2025/06/01 訪問)

紀伊長島駅から徒歩20分くらいで、長楽寺入口(34.200545、136.334872)に着きました。山門の脇に長島城跡説明板がありました。
長島城攻城後、樹齢1000年のクスノキを見る為、長島神社入口(34.199525、136.332022)に向かいました。

1384年(至徳元年・元中元年)北畠顕能・顕泰によって築かれたと云われています。
赤羽谷に隠れ住んでいた鎌倉北条氏の遺臣奥村進之丞らが近隣を荒していたので、北畠氏が長島城を築城し、家臣加藤甚左衛門を城主として派遣したそうです。
1395年(応永2年)奥村氏は尾鷲・長島にむかって挙兵したので、加藤甚左衛門は尾鷲でこれを迎え撃ったが内通者がいて敗れ、甚左衛門は自刃して果てました。
1575年(天正3年)織田信雄に仕えていた加藤甚五郎が城主となって長島城に戻りました。
翌1576年(天正4年)北紀伊に及んでいた新宮の堀内氏善の勢力を駆逐しようと、信雄は加藤甚五郎・奥村氏に命じ、一時は三木城を攻め落としたが奥村氏が堀内氏に寝返った為に敗れ甚五郎は長島城に戻りました。
奥村氏は長島城の風上より火を放ちそれが城に及んで甚五郎は城腰山麓で自刃し落城しました。

いくつかある登城口の内、自分は長楽寺から途上しました。凋落寺から主郭まで20分ちょっとかかりました。
主郭には説明板と城址碑があり、西側の一段高いところに携帯の通信施設などがあります。
主郭北から西へ連続する竪堀、西の尾根を断ち切る堀切などが確認できます。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、紀伊田辺駅から電車で新宮駅に向かいました。
歩行歩数=35062歩、歩行距離=24.5Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:後山城 (2025/06/01 訪問)

相賀駅から徒歩25分くらいで、長泉寺と集会所の間の道(34.100455、136.225612)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、13〜14世紀頃に新宮荘園の荘司である木本盛房が居として築いたと云われています。
盛房が木元に移ったあとは廃城となり、その跡地に三浦の豊浦左衛門が屋敷を構えたと云われています。現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っています。とのこと。

小山浦集会所の横から登城します。登城口の集会所側に案内板があるのでお見逃しなく(だいぶ傷んでます)
現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っていますが、水門を見つけるのに苦労しました。

電車の時間があったので、長泉寺のナギ(34.100581、136.225366)を見学しました。
境内の説明板によれば、地上1. 2mでの幹周/3. 03m、樹高/15m。
本堂前の境内のど真ん中にナギの木があります。

ナギはイヌマキと同じマキ科の常緑針葉樹。日本一のナギは、同じ紀伊半島にある熊野速玉大社のナギの木で樹齢850年以上とか。
ナギは雌雄異株ですが、このナギは雌株です。ナギは「凪ぎ」(なぎ)に通じることから航海安全を祈願して植栽されました。
また葉は葉脈が平行に走っているために、横方向に引っ張っても切れにくく、このことから夫婦の縁が切れにくいように、昔の人は鏡の裏や裁縫箱に入れてお守りとしたそうです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=長島城へ向かう為、大泊駅から電車で紀伊長島駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:熊野古道松本峠 (2025/06/01 訪問)

鬼ヶ城から大泊駅に向かうのを、熊野古道松本峠経由で向かいました。

石畳の登城路下りは結構、腰にきました。
鬼ヶ城➡松本峠➡熊野古道登口(大泊側)まで、だいたい35分くらいかかりました。
次の攻城先=後山城へ向かう為、大泊駅から電車で相賀駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:鬼ヶ城 (2025/06/01 訪問)

世界遺産(鬼ヶ城)から徒歩5分くらいで、鬼の見晴らし台への登り口(33.893160、136.114986)に着きました。

鬼ヶ城は有馬和泉守忠親が隠居城として築いた城のようです。
1558年(永禄元年)に有馬氏が堀内氏に滅ぼされると、堀内氏は豊臣秀吉に仕え「関ケ原の戦い」までこの地を治めました。
熊野水軍を率いた堀内氏善は領地を没収されると、加藤清正に仕えて熊本に移りました。

駐車場脇に登城口があり、ハイキングコースが整備されています。頂上まで行くのに休みなしで20分くらい、かなりへこたれます。
鬼の見晴台といわれる展望台からは、熊野灘が一望できますが、思ったより木に邪魔されてる感じです。
遺構として、石垣と堀切を確認しました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=後山城へ目指す為、大泊駅➡相賀駅に向かうのですが、折角なので熊野古道の松本峠経由で大泊駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:世界遺産(鬼ヶ城) (2025/06/01 訪問)

木本要害山城(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩30分くらいで、世界遺産鬼ヶ城入口(33.890502、136.116464)に着きました。
当初の予定は先に鬼ヶ城を攻城し、その後に世界遺産(鬼ヶ城)を見学する予定でしたが、グーグルマップのナビは歩行者通行禁止のトンネル経由を示しました。
このトンネルとは別に歩行者専用の遊歩道トンネルが西側にあるようですが、時間もかかる為、先に世界遺産(鬼ヶ城)を見学することにしました。
ということで、世界遺産(鬼ヶ城)の西側出口から鬼ヶ城周回線歩道を鬼ヶ城センターに向けて歩くことにしました。
結果的にこれが大正解で、鬼ヶ城周回線歩道は片道40分もかかりました。往復80分かかることになるので大幅な時間ロスになるところでした。
時間的に余裕ができたので、鬼ヶ城から熊野古道の松本峠に行くことができました。

とにかく景色が良いです。侵食された岩が素敵でした。
写真をたくさん撮りましたが、限定10枚で投稿します。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=鬼ヶ城に徒歩で向かいました。

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しんちゃん

石垣が残っている (2025/06/28 訪問)

八橋城はJR山陰線によって南北に分断された丘陵上に築かれています。行松氏によって築かれ、大永4年(1524)尼子経久によって攻略され、城番として吉田左京亮が置かれました。その尼子氏も毛利氏によって滅ぼされ、毛利氏は杉原盛重を置き守らせました。
元和3年(1617)池田光政が鳥取藩主になった後、一国一城令で廃城になりました。寛永9年(1632)池田光仲が伯耆に入ると、津田氏が八橋を領し、陣屋を置いて明治まで治めました。
大手は東に付いていたとされ、東の郭が二の丸、西の郭が本丸の跡とされ、周囲を堀が囲んでいたようです。二の丸の西側と、本丸の北側一帯の随所に石垣を確認しました。二の丸には土塁も残っていました。本丸北側斜面に張られたロープを伝って下に降りると、北側の石垣を良く確認できますが、北側の工場の敷地に出てきてしまいました。

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しんちゃん

特別版 お城EXPO in 松江 (2025/06/28 訪問)

お城EXPO in 松江に行ってきました。オカンの体調もだいぶ良くなってきていたので、行けるんじゃないかと・・出がけに恨み言を言われたが、来てしまった。許せ・・俺にはやらねばならぬことがある(姫ガチャ)。うん、解ってる、サイテーだわ。
でも合戦に二連敗しているので、来ないという選択肢は無かったのだ(本当に?)。
夜通し走って来たので、ちょっとしんどい。久しぶりのEXPOを楽しもうと思うが、少しマンネリ感がある。限定武将ガチャの初日は予想通り「淀殿」でした。ちょっとケバくないか? この淀殿は。
会場をうろついていると「今度赤色立体地図かるたを作ることになりました~」と言っている人がいる。「かるた」ってどこかで聞いた話だな、と思って話を聞いてみるのだが、正直痛い人達だと思ってしまった。やはり、城に関わる人間はどこか「壊れて」いるのだろうか?
えもいわれぬ思いを抱きながらも忍者コーナーで遊んでいたりした。「忍び足体験」の余興は見事クリア! 「天下不審」の城びとをなめちゃいけないぜ。最近アプリの中で「某所」に良く忍び込んでいるので、こういうのはお手の物だ(ニンニン)。
さっきのコーナーに戻ってくると「城びと」と書いてある。「城びと」ブースだったのか、ここは・・。
改めて、赤色立体かるたも悪くないんじゃないかと思うことにした。泥船もバーナーで炙ればレンガの舟になるじゃないか! とりあえず二つ以上買うことにしますか。加藤先生にそっくりな人がいるな~と思っていたら本人だった。この企画に協力いただいているとのことだ。ありがた山
個人的には赤色立体地図もいいけど、城好きや関係者はどんどん山城に行くべきだと思っている。テクノロジーはあくまで、業者の功績だと思うので。微細な遺構は実際に見てみないと解らないし、研究者が山城に撃退されているという話を現地で良く聞く。

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しんちゃん

白鹿城の戦い (2025/06/28 訪問)

荒隈城は宍道湖の北東の丘陵に築かれていました。尼子十旗の一つ白鹿城を攻略するために毛利元就によって築城され、白鹿城の落城後も重要な拠点として機能しています。
現在、主郭は太陽光発電所となっていて、立ち入ることは出来ません。天倫寺の周辺に城址の雰囲気が残り、墓所からは宍道湖を良く見ることができます。裏山を少し覗いてみると、大きな堀切の様な物がありますが、遺構かどうかは不明。グーグルマップで改めてみると、墓所がソーラーの近くまで寄っているようです。そこまではいけたのだろうか?

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ぴーかる

鳥羽山城 (2025/05/04 訪問)

【鳥羽山城】
<駐車場他>鳥羽山公園駐車場数十台分あり。
<交通手段>二俣城に駐車し徒歩

<見所>主郭虎口跡・主郭を取り巻く石垣・石段
<感想>日帰り今シーズン山城ラスト旅2城目。第41・42回日本100名城、続日本100名城に負けない名城で特集された鳥羽山城に行ってきました。二俣城を先に行き、両城は一城別郭ともいわれているので、その繋がりを確認するため二俣城の南端から徒歩で行きましたが、城の間は現代の河川敷の土塁となっていました。城跡は山の中腹まで道路が通っていて、城跡の山頂公園にいたる遊歩道は数カ所ありますが、道路脇から石垣が残された曲輪の遺構があちこちに見られます。城郭の構造は山頂の主郭を広く削平して山の形状に沿って放射状に帯曲輪や広い腰曲輪を設けています。広い主郭内部は見応えがあり、周囲は石垣で取り巻いています。主郭内部には石垣の虎口跡・推定の庭園跡・石組暗渠の遺構が残されています。石垣は角のある石と丸い天竜川の河原石の2種類を使用しています。丸石は石垣の間詰めにも利用されていて、主郭を取り巻く石垣は長く遺構が残され見応えがありました。特集記事で後世に改変された部分も多いとあったので、見定めて散策すると良いかもしれません。

<満足度>◆◆◆

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朝田 辰兵衛

✈で福岡空港に飛び,北Qバックの途中下車で…🚉 (2025/06/26 訪問)

雨男が晴天に恵まれると「猛暑」になるというジンクスは健在でした。結果して,訪問地がその日の全国最高気温を記録するという…。しっかり暑さ対策をし,「雨よりいいじゃネエか」と自分自身に言い聞かせました。
今回,岡山から高速バスがうまいこと取れれば松江に行けるかな…と期待していましたが,無理でした…<泣>。そもそも,岡山を宿泊地にしなかったのが敗因だったと思います。
EXPOで新しい展開があったようで,遠征中に驚いていました。

昨年は北Qバックの途中下車で「若松城」。今年は「黒崎城」をチョイス。ちょろちょろとトクさんの庭をかすめております。
おおっ,勝尾城のヤギ,まだ元気でしたか!
レポートありがとうございますm(__)m

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「特別版 お城EXPO in 松江 2025」 (2025/06/28 訪問)

6月28日(土)、29日(日)の「特別版 お城EXPO in 松江 2025」は、おかげさまで盛況のうちに終えることができました。
ご来場くださった皆さま、誠にありがとうございました。
少しですが、会場内の様子をご紹介いたします。

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大井城 鷹撃谷城 大井宿(岐阜県恵那市) (2025/07/03 訪問)

 中山道69次のうち、江戸から数えて46番目の宿場町である大井宿(岐阜県恵那市)。その地に大井城はありました。城びとには未登録の城址です。大井宿本陣近くの恵那市立大井小学校が跡地です。遺構はなく校内にはかってこの地に城があったことが書かれている説明板があるようですが、校内に入る勇気はありません。内城稲荷神社の説明板にこの地に豪族の居館か砦があったとの記載がありました。土岐持益は美濃大井の地に原秀行を送り、大井地域の守備を命じ大井城を築き、名を大井遠江守秀行と改めたと伝わりますが、確証はないようです。戦国時代にはこの地を治めた岩村遠山氏の遠山十八支城のひとつとなっています。
大井城址とされる小学校の北、中央線を越えたところに鷹撃谷(たかちがや)城址(城びとには未登録)があります。空堀が一部残っています。ネットで見るとこちらに大井城の標柱が立っているとの情報がありましたが、見当たりません。雑草が多く隠れてしまっているのでしょうか。もしくは城郭放浪記さんのHPにても見当たらないと記載されていたので、撤去されたのでしょうか。

 大井宿は美濃17宿の中で最も繁栄した宿場町で、全国でも「9番目に賑わった」という記録が残っています。敵の侵入を防ぐ「桝形」が6か所も残る特徴的な構造は、中山道の宿場町の中でも大井宿だけと伝わります。大井宿本陣の北側にあったとされる長屋門が残っていますが、岩村城の門が廃城の際に移築されたという説もあるようです。他にも見どころがあり、コンパクトですがそれなりに楽しめました。

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にのまる

浦添ようどれ (2025/04/23 訪問)

座喜味城からバス2本を乗り継ぎ浦添城へ。
はじめに浦添グスク・ようどれ館で映像や資料を見て学習しました。

発掘された14世紀頃の瓦などの他に、日本軍の陣地として使われた戦時中の銃剣や焼け焦げた食糧なども展示されていました。
昭和初期、沖縄戦で壊滅した当時、そして平成の発掘から復元までと順を追って写真を見ていると、多くの試練や困難の先に現在があることを改めて強く感じました。
実物大で再現された西室内部は厳かな雰囲気を纏っており、体感できたことに感謝でした。

外に出て、ようどれに向かいます。
こちらにも写真と解説があり、辿ってきた歴史を現地で見ながら想像できてよかったです。
それにしても大きい。そして美しいです。
固い石を積み上げて表現される強さとしなやかさ。石積みの無限の可能性のようなものを感じました。

続いてグスクへ向かいます。
朝から降り続く雨はやみそうにありませんが、このしっとり感もなかなかいいものです。浦添城は沖縄戦後の採石によりほとんど城壁が残っていないそうですが、僅かに残る城壁や敷石を探しながら、また御嶽や沖縄戦の遺構なども見ながら歩きました。

そしてせっかくここまで来たのだからとワカリジーまで行きました。ワカリジーは為朝岩とも(後世になってから)呼ばれているそうで、為朝伝説にまた出会えたなぁとしみじみ思いました。

ここからの下りが若干不安でしたが壕跡など見ながら下りきるとモノレールの浦添前田駅前で、タイムマシーンで現代に戻ってきたような感覚でした。

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トク

【筑紫広門】(1)勝尾城(1/3:葛籠城) (2025/05/15 訪問)

今回は、戦国時代に筑紫平野一円を治めた武将「筑紫広門」という人物の、関ケ原までの波乱の人生を、6回シリーズで追って行きたいと思います。またよろしくお願いします。

JR鳥栖駅から1番のバスに乗り、東橋(あずまばし)で下車しました。東橋バス停にはパンフレットと地図がご自由にどうぞと置いてあったので、これは大変助かりました(写真③)。さあここから広門の居城「勝尾城」を目指します。

橋を渡り、ここからの川沿いが城下町で、だんだんと細くなり谷に入って行きます。まるで一乗谷のような感じです。この川沿い(四阿屋)に商人町があり、その先(城戸から先)は家臣が住む武家屋敷だったようです。

歩き始めて5分、四阿屋神社の河川敷公園にきれいな公衆トイレがありました。筑紫氏館にも小さなトイレはありましたが汚かったので、特に女性の方はここを利用されて行かれた方がいいと思います(写真⑨⑩)。ここには広い駐車場もありました。

四阿屋からふと左を見ると「葛籠城」がありました。勝尾城の出城のようです。登城口まで行きましたが、予想外に規模も大きく、土塁や空堀などの遺構もありそうです。葛籠城の前に立つと城山(勝尾城)が見えてきました(写真①)。ここから麓の筑紫氏館を通り、あの山頂の勝尾城までを目指します(標高498m、比高約350m)。だんだんと気合が入ってきました😠。しかし、あまり寄り道をすると時間も体力もなくなってくるので、葛籠城はあきらめ先へ進もうと思います(写真④⑤)。

さらに10分程歩くと城戸がありました。筑紫氏と島津氏との戦いでは、このあたりで最大の激戦があったようです。広門の子である「筑紫春門」(一説には弟とも)が奮戦し、最後は一騎打ちで勝負を決しようではないかと島津軍を挑発します。これに応じたのは、「川上左京亮(忠堅)」という男です。彼は何と😯・・・沖田畷の戦いであの龍造寺隆信を討ち取った男だとされています! しかし両者は相討ちとなり共倒れとなったようです。春門が槍を刺したと言われる岩や二人の供養塔がありました(写真⑥⑦)。

城戸を抜けると、辰兵衛さんのお友達に出会いました(写真⑧)。元気そうでしたよ!(笑)。そして東橋から歩く事30分、筑紫氏館(筑紫神社)に到着です。ここにも駐車場はありますが、四阿屋から先は道がとても狭いので車の方は注意されて下さい。

次は、筑紫氏館(筑紫神社)へ続きます。
 

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イオ

城以外に見どころ多し (2025/03/23 訪問)

南北朝期に楠木正成が楠木七城のひとつとして築いたとも、畠山氏が高屋城の支城として築いたとも云われますが、詳細は不明です。河内・大和国境に位置するだけに、戦国期にも赤沢朝経が入城したり、木沢長政により改修されたり、松永久秀が本陣としたりと活用されたようです。

二上山万葉の森駐車場から登城開始。多くの人で賑わうハイキングコースを登ること約25分で雌岳に到達。雌岳の山頂からは360度の眺望が広がり、日時計が設置されるなど広場として整備されていて明瞭な城郭遺構は見られませんが、東裾に数段の腰曲輪らしき削平地がありました。

雌岳から馬の背と呼ばれる鞍部まで下りて、10分ほど登ると雄岳山頂部の本丸に至ります。本丸は東西に細長く、東側に葛木二上神社が鎮座しています。本丸東下の二の丸には宮内庁が管理する大津皇子の墓所がありますが、柵で囲まれ立入禁止です。二の丸から北東にのびる尾根沿いには五段の小曲輪群が連なっていました。二の丸の南下には三段の帯曲輪が東西に広がり、帯曲輪の裾には石垣も見られました。本丸と二の丸の北下にも帯曲輪が設けられています。本丸から北西にのびる尾根沿いにも六段の曲輪群が展開していて、本丸西端の尾根の付け根には堀切と土塁が遺っています。北西尾根の曲輪群は藪化しているところが多いですが、突端の曲輪は休憩所・展望所として整備されていて、大阪方向の眺望が開けていました。

比高400m超を登っても見られる城郭遺構は数えるほどながら、登城道はよく整備されている上に、道中に石窟寺院があったり高松塚古墳をはじめ多くの古墳に用いられた石切場があったり、眺望も素晴らしく、城以外の見どころも多くあって、これはこれで退屈することなく登城できました。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:木本要害山城(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)

獅子巌展望台(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩15分くらいで、津波避難路入口(34.8899814、136.1018843)に着きました。
そこから、民家の間の細い路地を行き石段を登ると途中に社があり、左に登ると城跡に着きます。

史実は不明のようです。

中央に大岩に階段を付けた社跡があり、西に櫓台状の高まりがありました。
東に一段下がって石垣のある郭があり、東端から鬼ヶ城方面を望むことができます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=世界遺産(鬼ヶ城)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:花の窟神社&獅子巌展望台 (2025/06/01 訪問)

口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分くらいで、花の窟神社に着き、その後、獅子巌展望台(33.883893、136.097758)に向かいました。

1935年(昭和10年)に、近くの「鬼ヶ城」が国の天然記念物に指定されました。
その後、1958年(昭和33年)6月、「鬼ケ城」に、獅子巌が追加されました。
それで登録名称は「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」(くまののおにがじょう つけたり ししいわ)となり、名勝が追加指定されています。
さらに、2004年(平成16年)7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成している熊野参詣道「伊勢路」の一部として「熊野の鬼ヶ城附獅子巖」が、世界遺産となりました。

獅子の頭に似た形をした岩で、太平洋に向かって咆哮しています。
観光時間は15分くらいでした。次の攻城先=木本要害山城(城びと未登録 三重県熊野市)に徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:口有馬城(城びと未登録 三重県熊野市) (2025/06/01 訪問)

有馬本城(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩10分ちょっとで、海岸寺の裏に残る土塁(33.879444、136.089484)に着きました。
その後、天理教入口付近(33.878446、136.088553)に向かいました。

1599年(慶長4年)堀内安房守氏善によって築城がはじめられましたが、翌1600年(慶長5年)関ヶ原合戦によって完成を見ることはなく、氏善は西軍に属して改易となりました。

口有馬城は海岸寺付近にあったそうです。
辺りは宅地化していて明確な遺構は残ってなく、当時の遺構といわれる土塁と石垣?が海岸寺に残っていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の観光先=花の窟神社&獅子巌展望台に徒歩で向かいました。

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