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シャンシャン

集え!岡山城 (2024/10/12 訪問)

岡山城のイベントで訪問。
武将隊の演出などもあり人出も多くて大盛況。
イベントメイン会場の本丸本段南東の高石垣は見事!
地中に埋まった部分も含めると15m以上あり、関ケ原以前の築かれた石垣としては屈指の高さとのこと。

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天守無しがアツい

名古屋城の御城印帳を買う (2024/11/02 訪問)

過去に名古屋城を訪れた際は…日本100名城スタンプというものを知らず…御城印がまだ無かった頃でした。その補完という意味合いが強い今回の訪問🏯

耐震性度が弱い…という理由で天守閣が閉鎖されてました。まずは入場門入ってすぐの場所にある100名城スタンプを(スタンプ帳に)捺印

それからお土産店に行き…小倉トースト風フィナンシェと一緒に、御城印(1枚目)と御城印帳(2枚目)を購入

御城印は(1枚目の)右側が御城印帳を買うとおまけで付いてくる特別版…左側が通常版(日付入り) 最初店員に尋ねた時は「御城印帳に御城印は付かない」と言われたから通常版のを一緒に買おうとしたのですが、特別版のも付けているのが目に入ったので、どういうわけか尋ねたら「御城印帳に日付入りの御城印は付かないという意味…(だったかな?とにかくよく分かんない説明)」と言われ…一瞬どうしようか迷いましたが…出た結論は「全部買っちゃえ😂」

両方の御城印を購入後、店内の隅っこで早速(記念撮影するために)2枚を印帳の中に入れました…柔らかい和紙で出来た御城印…性質的に抵抗力が乏しいため、ページと表面ビニールの間をなかなか通っていかない…だから両方とも苦戦しました

通常版の台紙として後ろに付いていた紙は少し硬めだったので…両方ともそれと一緒に差し入れて…奥まで達したら(御城印が表面ビニールにすっぽり入った(1枚目の)状態で)後ろの紙だけを引き抜く

そうやって何とか…両方とも(1枚目の姿に)収めました…ただ…特別版が収納されたページの右上がちょっと剥がれちゃいました😅 でもこの印帳は名古屋城の…なので先頭にここの御城印を持ってきたかったのです…だから…「このくらいは気にしない」

二の丸に(3枚目の)史跡がありました。説明書を読んでみると…かつてこの辺りには名古屋城の前身である那古野城があり、今川氏親によって大永年間(1521-28)に築かれて今川家を城主としていたが、織田信秀(信長の親父)がそれを奪い、別の城に鞍替えすると息子信長に…信長も清洲城に引越してからは別の織田一族に引き継がれ…やがて廃城となったらしい

(3枚目の)案内板の後ろにある岩は…当時の名残りなのでしょうか?🪨

この城に着いた頃…実は100名城スタンプと御城印、御城印帳を入手したら次の目的地に行く予定でした。けれど…たとえそれでより多くの城を巡ることができても…そんなゆとりの無い「はい次はい次」をしていては…旅のクオリティが下がる⤵️

「そんなタイトなスケジュールは一旦破棄!まずはメシ食おう🍝」と考えた私は…金鯱横丁店のアンカケタロウという店で、(名古屋名物)あんかけスパゲティのスペシャル(4枚目)をいただき、無料Wi-Fiで歩数計アプリのゲージ消費もして、しばらく身体を休めたのでした😊

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しんちゃん

サンド~バッグに~ ♪ (2024/09/15 訪問)

国神城は矢吹町の国神に築かれていました。‥どうせなら矢吹城がよかった。
「立て!立つんだジョ~!」とか「燃え尽きたぜ‥ 真っ白にな‥」とか、やりたかったのに。
それは置いといて、興国年間(1340~1345)石川九郎光幹が国神城に入り「中畠氏」を称したとの伝えがありますが定かではないようです。防御面において不安があったと見られ、やがて中畠氏は観音山館(現中畑根宿)に拠点を移したとされています。
現在は畑地の中に小さな丘陵がぽつんと残されています。かつての櫓台のようで、残されている遺構はこれだけのようです。角度を変えてみると何かの耳に見えませんか? またトトロつながりだったりして。

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HKISD

障子ヶ岳城散策 (2024/11/09 訪問)

味見公園駐車場迄めちゃくちゃ狭く大変でしたが
登山道から山頂迄整備されており登りやすかったです。
本丸では360°見渡せる風景に感動しました。
とても良かったです。

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キンヤ

黒田時代の石垣がよく残る水城 (2024/10/12 訪問)

1588年(天正16)、豊臣秀吉から豊前六郡18万石の所領を与えられた黒田官兵衛(孝高)が築城しました。
1600年(慶長8)、黒田官兵衛・長政は関ヶ原の戦いの功で筑前福岡52万石へ国替えとなり、その後は細川氏、小笠原氏、奥平氏が代々居城としました。

大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されていた2014年に行きましたが、続100名城に選定され再訪しました。

河口付近に築かれ、堀には河口の水が引きこまれた水城で、日本三大水城にも数えられます。
西側に中津川が流れ、対岸から見ると水城らしい眺望です。

本丸の石垣がよく残っていて、1番の見所と思います。
北側では黒田時代から細川時代への石垣の変貌を見ることができ、西側の川沿いの石垣も黒田時代で黒田氏が持ち込んだ古代山城の神籠石の転用が見られます。
南側の石垣は、発掘調査により黒田時代の石垣は今よりも低く幅は狭いもので、細川時代に高く幅広く造り替えられたことが分かったそうで、綺麗に修復・整備されています。

模擬天守は1964年(昭和39)に萩城天守の古写真をもとに建てられたものですが、黒の下見板張がカッコよく立派で、個人的に好きな模擬天守です。

前回は巡っていなかった城下を囲む総構えの「おかこい山」と呼ばれる土塁にも行きました。
中堀沿い1ヶ所、外堀沿い2ヶ所を巡りましたが、南西の外堀内側の自性寺に土塁がよく残されており、高く長大で見応えがありました。

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しんちゃん

柳生定食(日)柳生陣屋 (2024/11/02 訪問)

柳生陣屋は今川を挟んで旧柳生城の対岸(西側)の小高い丘の上に築かれていて、無人駐車場(300円)からすぐの階段から登ることが出来ます。柳生新陰流の創始者・柳生宗厳の子・宗矩が父の菩提を弔うため柳生城の跡地に芳徳寺を建て、引き続き3年の歳月をかけ寛永19年に、この地に陣屋を築いたとされています。
柳生一刀石の投稿で、宗厳と天狗の対決がありましたが、近くの神社には鬼の角のようにも見える岩がありました。剣豪の故郷である柳生の里には、そのような神秘的な存在がいても不思議ではないのかもしれません。‥と思ったら陣屋の背後にある小山の上の木が、まるで鬼の角のようにそびえたっています。やはり、柳生の里には鬼がいるのか? というか、これトトロに似てないか?

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しんちゃん

陶器左衛門尉の居城 (2019/06/16 訪問)

今日はちょっと古い写真を載せさせていただきたいと思います。実は現在、奈良・大阪へ遠征中なのですが陶器城は遺構の部分に入れない状況が変わっていないので再訪先から外しています。いずれまた新しい写真を撮ったら掲載させていただくかもしれません。

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mae

南側段郭石積 (2024/11/10 訪問)

南側の段郭先端の西側、東側には石積が残ります。

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T-Shionoya

僅かな遺構が息を潜める長島城 (2024/06/08 訪問)

前回投稿した桑名城とセットで訪れた三重県桑名市の長島城。

伊勢と尾張の正に国境。木曽三川下流域の輪中堤に囲まれた中州の1つ長島。
その中央部に、輪中内を流れる川を堀として利用し築かれた城。

鎌倉期の館を1482年に土豪の伊藤重晴が城塞化したことが始まりとされるが、1570年には長島一向一揆の拠点に。
信長の一揆鎮圧後は滝川一益や織田信雄など、江戸期は菅沼氏、久松松平氏、増山氏が城主となりました。

現在は小学校と中学校になっており、両校の校庭が二ノ丸、1段高い校舎などの立つ部分が本丸でしょうか。
また絵図から中学校の正門付近が本丸水之手門と推測されます。

訪問時、まずは大手橋で一部が江戸期からの遺構という石垣をチェック。
続いて両校の周囲を回り、最後に大手門が移築された蓮生寺へ。

城の姿形はほぼ失われているものの、僅かな遺構がひっそりと息を潜めていた、私の城郭巡りの185城目でした。

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じゅんじん

路地に石碑 (2024/10/18 訪問)

昔は土塁があったそうです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:塚口城 (2024/10/04 訪問)

塚口駅(阪急線)から徒歩5分弱で、正玄寺門前(34.754434、135.418223)に着き、その後、東町門跡の祠&東町門跡の祠(34.754061、135.420902)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、阪急塚口駅の北東側一体で正玄寺を中心に築かれていたようです。
1587年(天正6年)有岡城主荒木村重が織田信長に反して籠城します。当初塚口城は有岡城の出城でしたが、織田軍がこれを攻め落とし、有岡城攻めの付城の一つとして丹羽長秀、蜂屋頼隆、蒲生氏郷、高山右近、神戸信孝などが布陣しました。

正玄寺に着いた時、すっかり暗くなり門も閉まっていた為、中には入れません。(境内に塚口御坊の案内板が設置されているようですが諦めました)
正玄寺の門の写真を撮りましたが、暗くてピンボケ状態で投稿できません。
東町門脇にある説明板の写真を投稿します。東町門脇の社が祀られている高台は土塁の名残だそうです。社の写真を撮りましたが、暗くてピンボケ状態で投稿できません。
移動時間を含めて、攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、塚口駅(阪急線)から阪急電車で十三駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=39335歩、攻城距離=27.53Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:富松城 (2024/10/04 訪問)

武庫之莊駅から徒歩15分弱で、説明板前(34.757113、135.398855)に着き、その後、土塁(34.757070、135.399049)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1487年(長享元年)の『如意庵領年貢算用状』に富松城の名が記されているのが史料上の初見とされるようです。
1530年(享禄3年)には細川晴元方の薬師寺国盛が富松城にたて籠もっていたが、細川高国方の攻撃を受けて落城、高国は富松城に陣を移して晴元方の勢力を一掃したそうです。
1550年(天文19年)には伊丹城を攻めるため三好長慶が富松城に入っています。

現在残る遺構は曲輪の北西隅部分で土塁と堀があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=塚口城を目指す為、武庫之莊駅から電車で塚口駅(阪急線)に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:瓦林城 (2024/10/04 訪問)

西宮北口駅から徒歩15分くらいで、日野神社鳥居前(34.748122、135.370431)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1336年(延元元年・建武3年)赤松氏の部将貴志義氏が瓦林城を守っていたようです。
瓦林城の場所は定かではないようで、日野神社の辺りという説や極楽寺の辺りという説もあるようです。

明確な遺構はありませんが、日野神社の参道に瓦林城の石碑が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=富松城を目指す為、西宮北口駅から電車で武庫之莊駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:越水城 (2024/10/04 訪問)

夙川駅(しゅくがわ)から徒歩15分くらいで、西宮市立大社小学校説明板前(34.745604、135.336864)に着きました。

越水城は6度にわたる「越水城の戦い」の舞台となった城です。もともとは瓦林城主・瓦林正頼が新たな居城として築いた城でしたが、三好氏に奪われると、阿波と畿内とを結ぶ重要な拠点であったことから三好長慶の居城となります。
長慶が芥川山城に居城を移すと、松永久秀が城主となりました。長慶の死後に三好長逸らいわゆる「三好三人衆」と松永久秀が対立すると、三好氏の重臣である篠原長房の攻撃を受け落城し、長房の居城となりました。
その後、織田信長が摂津へ進攻すると長房は城を放棄して撤退し、間もなく廃城になったようです。

西宮市立大社小学校の角地に城趾碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=瓦林城を目指す為、夙川駅から電車で西宮北口駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:平野城 (2024/10/04 訪問)

阪急御影駅北口出てすぐ前に石碑があります。

赤松氏の家臣であった平野忠勝によって1346年(正平年間)に建てられました。
足利尊氏とその弟との争いで起きた観応の戦乱(1351年)に巻き込まれて敗れた後、郡家村(御影町郡家)に退いて農業に従事したそうです。
推定地は現在の阪急御影駅から神戸市立御影北小学校付近一帯のようです。

遺構はないようで、石碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=越水城を目指す為、阪急御影駅から電車で夙川駅(しゅくがわ)に向かいました。

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正中の変 (2024/11/10 訪問)

 多治見国長は、美濃守護土岐頼貞の一族で、多治見郷に在住したことにより多治見氏と称しました。正中元年後醍醐天皇の密旨を奉じて、鎌倉幕府討伐を計画しますが、この密事が密告により露見し国長の宿所京都錦小路高倉の邸が六波羅探題の将小串三郎左右衛門尉範行に襲撃され国長は36歳で非業な最期を遂げました。鎌倉時代末期の地味な武将ですが、多治見まつりでは「多治見国長公を中心とした美濃ゆかりの武将と華やかな奥方による武者行列」(多治見市HPより)が行われる有名な武将です。
 遺構がなく石碑だけの城址などは2度行くことはほとんどないのですが、近くを通ったので寄ってきました。JR多治見駅から徒歩約15分多治見銀座商店街に石碑と説明板があります。

余談
 多治見市の名物は鰻だそうです。市内には鰻屋が多く20軒以上の店があります。老舗の多くは土岐川の近くにありますが、かつて川をいけす代わりに使っていた名残ということです。昔から窯業が盛んで陶工たちが体力回復のためよく食べられていました。また内陸なので新鮮な海の魚は食べられません。陶器商人の商談成立などの祝い事で寿司の代わりに鰻が食べられるようになったという説もあります。自分は多治見国長館石碑から徒歩5分くらいの場所にあるその名も「うなぎや」さんという店でうな丼をいただきました。

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赤い城

甲山寺の背後 (2024/11/03 訪問)

四国74番札所の甲山寺背後の小高い山が城跡です。
甲山寺駐車場を利用、200円です。
納経所の箱に駐車料を入れ、本堂にお参りした後大師堂の先から登っていきました。

表参道と裏参道の分岐を表参道方面に進んで行くと遊具のある曲輪に着きます。
さらに進んでいくと主郭を取り巻く二郭に、ここを登ると主郭に到着します。
主郭には土壇があり、石碑が立っています。
この時季でも下草で覆われていました。

主郭の先、北側には裏参道がついています。
また、南西側には曲輪が段になって連なるようですが竹藪となっていて進むのは断念しました。

天霧城の出城で勇猛果敢な武将と言われる朝比奈弥太郎の居城とされています。
麓の甲山寺はうさぎ寺とよばれ、境内には2羽の親子うさぎの石像が。
撫で仏として親しまれています。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:摩耶山城 (2024/10/04 訪問)

虹の駅(ケーブル)からロープウェイ駅左手の登山道を進みました。

1333年(元弘3年・正慶2年)赤松円心によって築かれたと云われています。 赤松円心が摩耶山に城を構えて六波羅勢と戦った(太平記にある「摩耶合戦」)そうです。
その後の摩耶山城の歴史は定かではないようですが、戦国時代に城郭として機能していたと考えられています。

摩耶山城が摩耶山にあると勘違いし、虹の駅(ケーブル)から1700mくらい歩くのは時間的に無理だと判断しました。
予定ケーブル出発時間までに行ける所までと割り切って登り始め、宝篋印塔付近まで行って引き返しました。
自宅に戻り、写真を整理する為、いろいろ調べていたら、虹の駅(ケーブル)付近から宝篋印塔付近までが城域だとわかりました。
知らず知らず攻城していたとは。。。城域だと思っていなかったので付近を詳しく見ることなく下山したのを悔やみました。
石垣見たかったなあ。。。悔しい
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=越水城を目指す為、虹の駅(ケーブル)から摩耶ケーブル➡みなと観光バス➡阪急電車を利用して阪急御影駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:滝山城 (2024/10/04 訪問)

新神戸駅から徒歩5分くらいで、登り口付近(34.707138、135.195960)に着きました。ここから1.2Kmの遊歩道を歩きます。

築城年代は定かではないようですが、1333年(正慶2年)赤松円心が布引の城に籠もったことが『正慶乱離志』に記されており、滝山城の初見とされ、南北朝時代には摩耶山城などとともに争われたそうです。
1381年(永徳元年)に赤松光範が死去すると、文明年間には赤松氏の家臣であった井上成陰が城主になっていたようですが、詳細は不明で、一旦廃城になっていた可能性もあるそうです。
戦国時代には三好長慶の家臣松永久秀が滝山城主となっており、このときに現在の状態に改修されたようです。
1564年(永禄7年)長慶が没すると三好三人衆と争うこととなり、久秀が堺で戦っている間に三好方の淡路十人衆らの攻撃によって水ノ手を押さえられ、1566年(永禄9年)に落城しました。
その後は篠原長房の持ち城となっていましたが、織田信長の侵攻により有岡城主の荒木村重の持ち城となりました。
1578年(天正6年)荒木村重が信長に叛くと、信長は有岡城の支城である花隈城攻めの際に滝山城を攻め落とし、花隈城攻めの付城の一つとしたそうです。

最初、道を間違え北野異人館方面に歩きだしてしまいました。10分くらい歩いて間違いに気づき慌てて戻りました。なんでこんなミスをするのか情けない次第です。
遊歩道が整備されていますが、登りは結構きついです。(自分は登り40分、下り30分かかりました)主郭最高所に城址碑が建てられ西側に降ると2重堀切が残っています。
郭最高所に城址碑が建てられ西側に降ると2重堀切(写真を撮りましたがピンボケで投稿できません)が残っています。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=摩耶山城を目指す為、新神戸駅から神戸市営地下鉄で三ノ宮駅に向かい、みなと観光バス➡摩耶ケーブルを利用して虹の駅(ケーブル)に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:湯山館 (2024/10/04 訪問)

有馬温泉駅から徒歩10分くらいで、湯殿館付近(34.7959333、135.2484242)に着きました。

有馬温泉の街にある念仏寺や薬師堂の敷地が館跡と云われています。
念仏寺は「太閤秀吉・北政所館跡(太閤小城跡)」とあり、秀吉の正室、北の政所・ねねの別邸跡だったようです。

日本有数の温泉なので、入って行きたいですが、強雨&時間もないので諦めました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=滝山城を目指す為、有馬温泉駅から電車で新神戸駅に向かいました。

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