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しんちゃん

城び斗の拳 (2024/02/23 訪問)

※ 今回の投稿は少々御見苦しい箇所が御座います。あらかじめご了承お願いします ❀❀❀

十市城は水田の中の約70m四方の微高地の畑地が中心とされ、外郭を含めた大きさは約430m×550mとされています。大和四家・十市氏によって築かれたとされ、居館が拡充して平城になったと想定されています。同じ大和四家で比較すると箸尾氏(箸尾城)とほぼ同じ規模で筒井氏(筒井城)より、やや大きかたったと想定されています。
今は城址碑しか残っておらず、往時の姿は想像に任せるしかありません。ちょこ城ですね。
私は「ちょこ城」の中でも城址碑や石碑しかない城を「あたた系」と呼んだりもします。何でって‥お墓みたいだから。
お前はすでに死んでいるってね(不謹慎!)‥‥おや?
十市城「あたたたた!」
しんしんちゃん「なにっ!?」
十市城「奥義 死んだふり狸拳!」
しんしんちゃん「ひっ ひでぶっ!」 どかーん

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大変です! しんしんちゃんが十市城に倒されてしまいました。  マジっすか?

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ぴーかる

西尾城 (2024/05/11 訪問)

【西尾城】
<駐車場他>西尾市歴史公園駐車場30台分程あり。
<交通手段>車

<見所>屏風折れ土塀・復元天守台・復元建造物・水堀
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅12城目。現地で貰えるリーフレットによると西尾城は承久の乱の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏(吉良氏)が築城した西条城が始まりと伝えられます。戦国時代末には酒井正親・重忠、田中吉政と城主が代わり、関ヶ原の戦いの後には本多康俊が2万石の西尾藩主として入ります。1638年に太田資宗が総構えの体制を企画し、井伊直之が工事を継いで完成します。1764年より大給松平氏が6万石で入城し明治まで存続します。
 現地は本丸跡と二の丸跡の一部が残されており二の丸跡に復元建造・構造物の鍮石門・丑寅櫓・屏風折れ土塀・天守台があり、移築した旧近衛邸があります。どれも見応えがあり、下見板張りがいい感じです。本丸⇔二の丸の間の水堀は遺構が良く残されています。復元の本丸丑寅櫓は16:30を過ぎていたため入城出来なく残念でした。無料資料館の展示物も充実していて、もっと時間を取ればよかったと後悔しました。

<満足度>◆◆◇

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零汰

桜丘チャシ (2024/05/09 訪問)

先日投稿した桂ヶ岡チャシと同じく砦用チャシです。
写真や説明版の配置図を見て頂くと分かると思いますが、チャシでありながら砦に特化した場合は普段目にしている周辺の城郭と同じです。風土や文化・歴史の違いはあれ守りに入る際の人間の思考は似通っているんですね。

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しんちゃん

桂浜ぜよ (2013/11/14 訪問)

高知県高知市浦戸の桂浜は高知県を代表する観光名所で坂本龍馬の像が有ることで有名です。海がキレイなんですね。
坂本龍馬好きなら一度は訪れたい場所で、近くには長宗我部元親が築いた浦戸城跡があり坂本龍馬記念館が建っています。時代によって評価が上がったり下がったりする人で、武田信玄と並んで歴史の教科書から消えそうになったりしてますが、龍馬がいなかったらどんな日本になっていたでしょうかね。

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しんちゃん

神島 三島由紀夫ゆかりの地 (2022/10/30 訪問)

三島由紀夫氏が神島へ訪れた1953年、当時の漁協の組合長だった寺田宗一さんが宿を提供したそうです。寺田さん夫婦は新婚一か月だったそうですが、そこへ三島氏がおしかけ一緒に食事を取るなどして、すっかり打ち解けたようです。運よく管理人の方がいらっしゃれば寺田家の中を案内していただくことが可能です。私は島をひとしきり回ってきてもう一度、訪れてみたらタイミング良く中を見学することが出来ました。5枚目の写真の手前の部屋に宿泊していたようで、左の窓から神島の海や街並みを眺めていたに違いないと思います。

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小城小次郎

高山右近の治績が残る「奇跡」 (2024/01/13 訪問)

高山右近が城下町もろとも整備したと言われ明石城の前身的存在。寛永年間に焼失した明石城の「初代」巽櫓には船上城天守の遺材が用いられたとも。本丸の痕跡が残るのは奇跡と思うが近寄り難いので隣の公園から垣間見ることに。

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チェブ

またの名を「岩沼要害」。 (2024/05/05 訪問)

「鵜ヶ崎城」は平安時代中期、歌人の源 重之さんが築城したのが始まりのようです。
戦国の世になると、伊達家 家臣の泉田 重光さんの居城になります。
江戸時代、一国一城令で21の要害の1つ「岩沼要害」として活躍しました。

「鵜ヶ崎城」は児童公園でした。車を公園入口近くに路駐しました。
住宅街の高台にある「鵜ヶ崎城」はグリーンのフェンスに囲まれた公園。小さい子が遊ぶのに安全です。
公園が郭になるのか、もう1段高い所があるようです。
親子連れで遊んでいて、1人ヅカヅカ入ってしまったら不審がられると思い退陣しました。

歌人の方が暮らした この場所で、どんな歌が歌われたのでしょう。
親子連れの笑い声で、戦よりも日常の生活を想像してしまう「鵜ヶ崎城」攻めでした。

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AJ

お兄ちゃんの悲哀 (2024/07/06 訪問)

歴史好きには真田推しが多い。小勢力でありながら、戦国の世を大胆に突き進んだ印象が強いからでしょうか。それにしても、あれだけ徳川と事を構えておきながら後世に家名をつなげたのはなぜか。それは偏にこの男の忍耐のおかげかもしれません。

真田信之ーー。絶大な人気を誇る真田信繁(幸村)の兄で、父は戦国一喰えない男との呼び声が高い昌幸。関ヶ原前夜、家名を残すために信之だけが東軍の徳川に臣従したエピソードはこの親子を語る上で外せませんね。

そんな信之が約9万石で松城(後の松代城。長野市)に入るのは1622年。父祖の地である上田(長野県上田市)から引き剥がされた格好でしょうか。というのも上田は真田家発祥の地であると同時に、徳川にとっては思い出したくもない惨敗の地。それが原因で関ヶ原に遅参したと言われる2代・秀忠の意図が透けて見えるような気もします。

それはともかく、松代は名城。本丸はかつて武田信玄が北信濃攻略の拠点とした海津城の主郭をほぼ踏襲して築かれたと推定されます。城の北側を流れる千曲川を自然の要害とした梯郭式の平城で、武田流築城術の特徴である丸馬出とその外側の三日月堀が近世以降も取り込まれています。信玄と上杉謙信の宿命の地・川中島からも程近く、両者にとって最大の激戦となった「八幡原の戦い」(1561)は、海津城の存在が発端だったといいます。

たしかに北の要害に違いありませんが、真田が治めた頃の松代はすでに安定期の城。少なくとも遺構からはそういった印象を受けます。現存する石垣の中で最も高く、最も古い様相(16世紀末。算木積未発達)なのが戌亥隅櫓台。天守台相当の規模ですが、天守はなかったと推定されます。

その後、廃藩まで約250年間、真田氏10代が松代藩主を務めます。信之は子孫安泰のための礎を見事に築きますが、一方で華々しく散った弟の陰に隠れることが少なくありません。すでに高齢となったお兄ちゃんが上田からの移封を内心どう捉え、そして耐えたのか。2つの城を歩き比べながら思いを馳せるのも一興かもしれません。

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カズサン

【近江 伊庭御殿】滋賀県東近江市 徳川将軍家御茶屋御殿 (2024/06/24 訪問)

 滋賀県に4つ在る徳川将軍家御茶屋御殿の一つ、彦根城と永原御殿の中間地に成ります、今回の近江未踏の城廻り入れて登城しました。

 住所:滋賀県東近江市能登川町、グーグルマップの公園マーク「御殿地広場」に当たります。
 駐車場:特に無し、御殿地広場の入口に路駐(35°10'22"N 136°09'33"E h=100m)、1、2台可能。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 御殿地広場は通りの東側に有り、南側入り口に鎖チェーンが張って有り立入禁止、その脇に浅い石垣が残っており案内板が立っている、更に北側東脇に残存石垣がクランクに北方向西面は樹木で囲まれてる。
 南に御茶之水址として井戸が残って居る。

 案内板によると。
 江戸期の初め徳川家康、秀忠、家光らが将軍宣下や大坂夏、冬の陣、寛永3年の後水尾天皇二条城行幸に際して、通行した際の食事や休息に利用。

 広場には入れず、周辺の石垣と案内板、御茶之水址の井戸の確認位でした。
   

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トク

天守近くの斜面で土砂崩落(2024.07.12)

今朝4時半すぎに、伊予松山城の北東側の斜面が幅50m高さ100mにわたり崩落したようです。緊急車両が通る道路の斜面を補強する工事中だった所に、大雨が降り崩落したとの事です。これにより松山城は当面営業停止で全面通行止、ロープウェイやリフトもしばらく運休になるとニュースで流れていました。いつまでかなどの詳しい事はわかりませんので、近々登城を予定されている方は問い合わせをされるなどして確認されて下さい。

今の所天守には影響ないようですが、梅雨も末期でまだまだ雨も降り続くでしょうし、これから台風シーズンにも入るので、ちょっと心配です。この先、現存天守に影響が出ない事を祈りたいものです。また、土砂の下の住民の方3名と連絡がとれず捜索が続いているとの事です。

写真はニュース映像からの抜粋です。
 

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もうもう

雨の瓜連城址 (2024/07/12 訪問)

浄土宗の常福寺の建つあたりが本丸だそうで本堂裏には見事な土塁がのこっています。カーナビではそのあたり「城址公園」と出ていましたがそれらしき看板などは有りません。ですが草なども刈られておりきれいに整備されています。
山門くぐって右側には空堀が有りそこには看板が立っていました。
城の説明書きは、山門隣に寺の説明とともに解説板が立っています。
駐車場は、お寺の駐車場を使わせてもらえます。

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カズサン

方形城館西側に石垣虎口 (2024/06/24 訪問)

 よく投稿を拝見しており訪ねたい城に入れていましたが、今回の近江未踏の城廻りに入れて初登城しました。

 駐車場:特に無し、北東角に御旅所石碑の有る小公園西側通路、公園内に少し幅寄せして路駐(35°05'14"N 136°08'53"E h=110m)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 西側に写真で良く観ていた石垣虎口あり、フェンスで囲まれて守られています、フェンスが無い写真を撮りたかった。
 この館は、佐々木六角氏家臣、家老職でもあった後藤氏の平地居館跡、東西幅東辺100m、西辺120mの変形四辺形、周囲に土塁基底幅約11m高さ約3m、外側に堀を廻らし西辺中央部に正門が在る。(案内板による)
 石垣虎口、南西角、北西角の土塁断面、北辺、解説板辺り、北東角、南東角と廻り観察撮影、内部は畑に成っているよう、草が茂り良く分からなかったが大豆が植わってようにも見えた。
 周りは水田で此処がよく残ったものだっと感心した、案内板には昭和58、59年所有者の後藤氏はじめ関係者の協力で保存が実現した。と有りました所有者の後藤氏は六角氏家老後藤氏の末裔の方なのでしょうか?
 

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カズサン

麓は源義経元服の地 (2024/06/24 訪問)

 昨日は梅雨の雨降りで登城路も雨の影響も有り比高100m程ですが頂部主郭まで登る気力もなく、登城口を見て終了するがやけに源義経の幟旗、ここは中山道源義経元服の地とか、道の駅竜王かがみの里には義経元服の地に当たる遺跡が案内板で示されている。

 駐車場:道の駅 竜王かがみの里駐車場、
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 星ヶ埼城登城口は道の駅駐車場の南山手に案内指示板、害獣除けフェンス扉を開閉して登る、又少し登ると又害獣除けフェンス扉を開閉して登るようです。道の駅麓より星ヶ埼城頂部を見上げる。
 
 道の駅竜王かがみの里のドーム内に「源義経元服の図」絵画が掲げられている、また義経ゆかりの道の駅として周辺の古寺遺跡案内も掲載さてて、義経ムードを醸しさせる、外に出ても周辺の案内MAPに同じく義経ゆかりの遺跡、寺院の紹介、星ヶ埼城もハイキングコースの一つとしてルートが紹介されている。 道の駅を月曜日に訪ねましたので、トイレ、駐車場以外はお休みで観光案内所パンフレット、食べ物などは入手できませんでした。
 
 近くに義経元服の池、烏帽子掛け松、義経宿泊の館(白木屋跡)などが紹介されていましたが現地には行かずにMap、解説を眺めて終わりました。
 星ヶ埼城は中山道を守る要だったのですね!
  

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ぎりょう

付 田口城 (2024/06/29 訪問)

龍岡五稜郭をひと廻りし、ほど近い「五稜郭であいの館」を観覧後、同行した家内に五稜郭の全景を観たいので展望台に登ってくる旨を伝えて一人展望台に向いました。城館に全く興味の無い家内ですが、最近は高齢の夫を心配してか、県外遠征には同行してくれます。「往復一時間かな」と言い残して出発しました。
展望台から五稜郭を望み、写真撮影を終えて周囲を見渡すと、後方には曲輪跡が。ここは中世に田口氏・依田氏が拠った山城跡で、最高所の主曲輪から西と北の尾根伝いに多数の曲輪が連なっています。切岸のところどころには石積が残り、堀切も。遺構の残りの良さに感激し、主曲輪を中心に確認したため予定時間を30分オーバー。五稜郭展望台を目指すことにより、期せずしてこの日二城目となる田口城を目にすることができました。

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朝田 辰兵衛

下関でくじらも見に行きました🐋 (2024/06/21 訪問)

櫛崎城から見えるくじらは「くじら館」で,現在は閉鎖中。モニュメントとして活用されているとのこと。櫛崎城の眺望に,いいアクセントとなっています。
天守台のある公園の北側には,石垣遺構が遺っており,碑とパネルが設置されています。ただし,撮影時は注意です。石垣の上に民家が建っていますので…。

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トク

博多祇園山笠2024(追い山) (2024/07/11 訪問)

いよいよ追い山が動き始め、またじっとしていられず見に行ってしまいました。

この日は「流れ舁」と言って、各山が自分の町内を走って練習する日です。ちょうど博多駅前で東流に遭遇したので、思わず写真を構えましたが、大勢の人人人でさらに雨・・・押されてうまく撮れませんでした(写真②③:すいません)。気を取り直し今度は出発点の櫛田神社に行くと、運よく西流に遭遇しました(写真①)。これらの山は重さが約1トンもあるそうです。それを担いで5kmの距離をわずか30分という猛スピードで走るので、よく走れるものだと思います。その男たちの気合いと熱気がものすごく伝わってきました!

最後にコース途中にある「承天寺」にも行ってきました(写真④)。鎌倉時代にここの和尚「聖一国師」が、当時流行した疫病を、輿に乗り水をまきながら退散祈願をしたのが始まりとされています。その後の太閤秀吉が町割りを定め、その中の7つの町(=流れ)の博多商人が、京都祇園に習って華やかな飾り山で練り歩き、櫛田神社に奉納したそうです。そして江戸時代に入り、練り歩く途中でささいな町どうしのけんかがあり、どちらの町が強いのか担いで競い勝負した姿に皆が熱中して盛り上がり、そして最終的にタイムで順位を競う、現在のような追い山に変わったそうです。

12日の夕方には本番コースでの最終練習「追い山ならし」、13日昼には「集団山見せ」のパレードがあり、15日早朝が本番「追い山」です。博多の街は今1年で最も熱気にあふれ、雨にも負けず、お祭りムードはもう最高潮に達しています!(でも私は明日から仕事で見られず😩残念!)。
 
 

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しんちゃん

芦裏観音寺館 国の史跡 (2024/02/11 訪問)

滋賀県草津市にある芦裏観音寺は聖徳太子開基、秦河勝創建の歴史を持つ古刹で戦国時代に城館に発展したと見られ、石垣や堀が残っています。拝観は予約が必要なようで、門前までの訪問で済ませていますが、雰囲気を味わうことは出来ました。
八世~十世までの住職が三英傑の時代に天下統一事業に積極的に関与されたとされ、九世詮舜は豊臣秀吉から琵琶湖湖上交通の管理・監督を行う船奉行に任命され、以降貞亨2年(1685)に代官職を罷免されるまで船奉行として活躍したとのことです。

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ぴーかる

大浜陣屋 (2024/05/11 訪問)

【羽城】
<駐車場他>駐車場はなし。ドミー大浜店で買い物し駐車しました。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅11城目。羽城の築城は1576年に舟手・海路を守る砦として徳川家康が築城し家臣の長田重元に守らせます。次男の直勝が継いで永井氏を名乗ります。永井直勝は小牧長久手の戦いで功を挙げすぐ北側にある東端城に移ります。家康が関東移封になり永井直勝もこれに従ったために城は一旦廃城となります。水野忠友は都合1万3千石の大名となり1768年、羽城跡に大浜陣屋を築きます。その後水野忠友は将軍の側用人となり駿河沼津2万石となり転封し大浜藩は廃藩となります。
 現地の大浜陣屋跡は模擬門と模擬塀で囲まれた公園になっています。塀に説明板があります。

<満足度>◆◇◇

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キンヤ

三の丸 御園門跡の刻印・篠島の矢穴石、二の丸 大手二之門北側の刻印 (2024/06/30 訪問)

愛知県南知多町の篠島で名古屋城築城の石丁場巡りをして矢穴石に興味を持ち、今回は名古屋城能楽堂前にある篠島の矢穴石をお目当てで行き、行きに利用した地下鉄 丸の内駅と帰りの名古屋城駅の間にある名古屋城の三の丸・二の丸にも立ち寄りました。

【三の丸 御園門跡の石垣】
2012年に行った時は、そんなに刻印があった覚えはありませんが、愛知県図書館前の御園門跡で特に東側の石垣に多くの刻印が見られました。

【三の丸 南西側・西側の土塁】
名古屋城の中でも高い土塁だと思われ、南西隅の土塁・切岸が高く圧巻です。
今回は初めて西側を見ましたが、こちらも土塁・切岸が高いです。熱田台地の崖を利用しているため高さがあると思います。

【三の丸 名古屋城能楽堂前 加藤清正像・篠島の矢穴石】
篠島の地元の方の話によると、名古屋の河村市長が篠島に来られた際、清正が名古屋城築城のため石垣の石を篠島で採石し船で運んだことを知り、海岸の矢穴石を見られ、名古屋城にぜひ置きたいと言われたそうです。
篠島の小山べた辺りに残る矢穴石が2012年に運び出され、今は清正像の前で展示されています。
篠島で見た矢穴石も見事でしたが、能楽堂前に展示されている矢穴石も見事で大きいです。
清正像もカッコよかったです。

【二の丸 大手二之門北側の石垣】
城巡りを初めた2008年以来、久しぶりに重要文化財の二の丸 大手二之門を見ようと行きましたが、その北側の忠霊碑横の石垣に刻印が多く見られ驚きました。
名古屋城の石垣は西国の20大名によって築かれましたが、大名の分担が書かれた丁場割図によると、この辺りは山内忠義(松平土佐守)が担当だったように書かれています。確かに土佐山内家の家紋「丸に三つ柏」が多いです。
時間都合で途中で切上げましたが、この辺りにはまだ刻印があるかもしれません。
また、ここから大手馬出跡を南側からレアなアングルで見ることができました。

何度も行っている名古屋城ですが、隈なく見れば、また新たな発見がありそうです。

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零汰

(2024/05/12 訪問)

明らかに砦と分かるチャシ跡です。昨日、一昨日に投稿したモリシヤチャシやオタフンベチャシの造りをミニサイズした感じです。先の2か所を上から見なかったですが、おおよそこちらをスケールアップした感じではなかったかと。それにしても主郭を廻る濠が狭いように思えるのは私だけかもしれません。

当初は砦の名前がついていたのでチャシの認識はありませんでした。チャシと知らなければ普通に見かける城郭とそんなに変わりません。アイヌといえども人間が考える事、砦や防御となると似かよった構造になるんだなと妙に納得しました。

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