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零汰

チャシって言われないと分からない (2024/05/10 訪問)

こちらのチャシに行き着く前後の風景は写真の様な風景が続いていました。枯れた熊笹の景色が崖から突き出たり小山の様になったり竪堀みたいにと。ここが目当てのチャシって分かっていないと普通に通り過ぎる事もありそうです。そんな数々のそれっぽい場所の中にも実は無名のチャシが一つ二つあったんじゃ無いかと今は思っています。

登っていないので確認していませんが中腹に濠があるそうです。気になった2条の堀切のように見える跡は遺構ではないようです。単に通路でしょうか?2条じゃなくても良いような気がします。私は満足したので謎は謎のままで終わります。行かれる方は中腹の濠と2条の堀切みたいな通路を歩かれてみてください。多分年中熊笹だらけだと思いますが・・・。

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しんちゃん

昨日のジョー(不完全燃焼) (2024/02/11 訪問)

青地城は志津小学校や小槻神社のあたりが城址とされています。城址北側の神明宮から志津小学校、小槻神社と訪問し、神社背後の丘陵も散策させていただきました。小槻神社の北側が堀跡と見られますが、城址碑を確認していないので、遺構をいくつか見落としているみたいですね。こんなときは‥てへぺろってやつです。できるだけレビューは見ておいた方がよいですね。

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ぴーかる

富貴城 (2024/05/11 訪問)

【富貴城】
<駐車場他>白山社前に駐車できます。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅10城目。現地説明板によると富貴城は室町時代後期に岩田氏が築いた。戦国時代に入って戸田法雲が城主となり館を城北の光明寺付近に建てたので大高城とも呼ばれます。
 白山神社が主郭のようで、周囲より少し高くなっています。西隣のお寺さんと墓地が2郭のようで北側に対してはより高くなっています。背後の竹林に土塁・堀が残ります。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

水堀、石垣、土塁が残って居ます (2024/06/23 訪問)

 滋賀県未踏の城廻りで野洲市の桜生城を初登城。

 駐車場:日吉神社参集所横の駐車エリア(35°04'16"N 136°02'28"E h=120m)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 日吉神社に参拝し、南は城郭エリアですが私有地で末裔の方の住居、水堀が虎口玄関左右に有り、護岸は石垣で守られている、北西側に折れの有る高土塁が虎口まで伸び、虎口から南に石垣・水堀、その南側に底部が石垣の土塁、腰巻石垣なのだが?曲輪が草に覆われてある。 
 野洲市歴史民俗博物館側居りひって来ましたので、角に銅鐸出土跡の碑が有り解説板と共に撮影、日本最大の銅鐸(134.7cm)が発掘されたそうです。
 雨小振りの中コンパクトカメラで撮影、雨、曇りで薄暗くなり本日の探訪は終了、宿泊先の八日市へ移動。
   

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カズサン

衣川台団地北の小公園に石碑・案内板 (2024/06/23 訪問)

 滋賀県未踏の城廻り琵琶湖の西岸は衣川城のみ、依って早めに西岸を攻めて後の東側の廻りをスムーズにと琵琶湖大橋を渡って衣川城を初登城。

 駐車場:無しトイレ無。一時小公前に路駐。対向車が来ましたので即退散。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 衣川城跡小公園前に路駐は大変気が引けましたが、さっさと石碑、案内板(文字が経年劣化で良く観えない)、公園周りを撮って対向車が来ましたので撤退。
 琵琶湖西岸で天神川の南丘陵中腹に位置する城郭、見通しは良かったのでしょう。

 トイレが有りませんでしたので、琵琶湖大橋西の付根「道の駅・琵琶湖大橋米プラザ」でトイレ休憩。
 

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イオ

楽々園御書院特別公開 (2024/06/29 訪問)

(続き)

この日は佐和口多聞櫓だけでなく、楽々園御書院も特別公開されていました。楽々園自体は無料で公開されていますが、外から御書院を眺めることはできても内部に入ることはできなかったので、この機会に内部を見学させてもらいました。

靴を脱いで上がったところが玄関で、玄関右手の供侍には地震の間の構造模型が展示されています。玄関左手の内玄関、繋ぎ之間を経て御入側と呼ばれる縁側を進むと、御次之間の奥に御小座敷、上之御間の奥に一段高い御上段が配されています。隠居所(または下屋敷)だけに派手さはないものの、御上段などは落ち着いた格式が感じられる造りでした。御書院の奥の地震の間は非公開ですが、御書院内からは地震の間や庭園をいつもと少し違う角度で眺めることができました。また、御入側には御書院に関する説明パネルが展示されています。

楽々園に続いては玄宮園を散策。定番の天守を仰ぎ、北端の二重櫓跡にも行ってみました。何度も訪れていてもまだ見たことがないところはあるもので、いつか玄宮園をとことんめぐってみたいものです。

さて、2つの特別公開でこの日の目的の大半は果たしましたが、せっかく彦根城に来ているんですから、改めて城内(と城下)を散策してみるとしましょう(続く)。
 

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カズサン

住吉神社周囲に土塁が残って居る (2024/06/23 訪問)

 梅雨の時期、降ったり止んだりの天候でしたが、叔父の1周忌法要の後、滋賀県も未踏の城が沢山残ってる!と1泊2日で廻りました。

 駐車場:無し。住吉神社鳥居前の道を褶曲し南東約200mで東芝テクノネット(株)滋賀サービスステーション西前に幅広の路側帯が有り路駐。(35°02'55"N 136°00'05"E 100m)
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 路駐した処から戻って住吉神社鳥居より入り参拝。城跡に神社が鎮座しており、神社東側と県道11号線の間にも土塁が残って居る、神社北側の裏手にも土塁が残って居る、見学は東側、西側から北側へ、東の県道11号線側よりも眺める。
 周辺は住宅街が迫って居りますが神社境内と言うことでここまでよく残ったのでしょう、樹木で鬱蒼としております、やっと訪ねる事が出来ました。
 

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赤い城

この日は外周のみ (2027/06/23 訪問)

垂水城登城で丸亀まで来たので丸亀城へ。
資料館横の無料駐車場に車を置き、いつものように崩れた石垣の石が置いてあるグラウンド方面に。
積み直しはこの夏から始まるそうで完成は4年後くらいになるとのこと。
積み上がって行く姿を見守りたいと思います。
石垣復旧PR館を見学して搦手門から南へ。
外堀公園に向かいました。

外堀の一部で土塁が残り、公園として散歩コースになっています。
再び内堀沿いに戻り外周を歩きました。
東側から大手門のある北側へ、こちらはいつもの景色ですね。

西側の郵便局横に水路跡があると聞いていたのでこちらにも足を伸ばしました。
この日は外周のみで本丸までは行ってませんが良い運動にはなりました。

そういえば7月から延寿閣別館での城泊が始まっていますが泊まった方、いるのかな?

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todo94

再訪 (2024/06/22 訪問)

三宝寺まで足を伸ばしたので、カメラを壊してしまったあとではありますが、石神井城には立ち寄っていくこととしました。2008年以来、16年ぶりの再訪です。16年前は主郭部に入ることができ、美しい土塁や空堀を間近で楽しむことができたのですが、現在はフェンス越しに眺めるしかありません。この後、予定していた攻城はすべてとりやめ、西武池袋線で池袋にアクセスし、ワンディコンタクトを購入しました。さほど、老眼が進行している訳ではありませんが、コンタクトを入れた時に文庫本が読みにくく感じていたので、今回は遠近両用にしてみました。

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朝田 辰兵衛

にのまるさん,新潟市のPRありがとうございました🌟 (2024/06/21 訪問)

新潟城のレポートは,各個人のグルメや周辺観光を織り交ぜながらデザインされるだろうなぁ…と思っていました。しかし,良く走って行きましたネ!

東横インは私も結構利用します。ハレの日や特別な日の前日はリッチモンドホテル。沖縄はダイワロイネットホテル。ま,立地条件で他のホテルも試してます。諫早,函館,木古内,根室,玖珠,宇和島など…。東横インですが,周囲に食事をすることができない「新八代駅前」は,無料でカレーライスの夕食サービスがあります。他にもあるかもしれません。
下関でも,東横イン下関海峡ゆめタワー前を利用しました。朝食で印象的だったのが太麺の焼きそばでした。ピリ辛でお腹にズッシリきておいしかったです。

カレーライスで思い出しましたが,ちょっと前に書店で「しあわせの黄色いカレー」を特集した書籍がありました。全国の黄色いカレーを食べ歩いている方がいろんなお店を紹介していました。ラストに紹介されていたのが,新潟のバスセンターカレーでした。恐れ多くも「しあわせの黄色いカレーの聖地」との評価が…。正直,驚きました。バスセンターで列をつくっているのは,ほとんど新潟市外の方ですョ。
バスセンターには,壽屋(ことぶきや)という🍙屋さんがあります。以前は古町にあったのですが,バスセンターに入ってきて繁盛しております。私はここの🍙がスキです。
新潟駅の工事が進むと,東横インと反対側のエリアに高速バスターミナルを建設する計画がありますが,具体案は示されておりません。県内・県外合わせるとかなりの本数があるため,名古屋みたいな感じになるのかな…と想像しています。
すると,バスセンターはどうなる…?

長くなりましたが,お返しに下関のPRを少し…。念願の唐戸市場で「からと屋」に入り,ミニ海鮮丼とふぐの天ぷらを食しました。1年前に下関駅ナカで食べたものとは,格の違いを感じました…<笑>。

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ryu

猛暑の中津城 (2024/07/06 訪問)

JR鈍行列車を使って中津城探訪

駅前の観光協会で貸自転車(300円/4h)を借りて中津城へ

駐車場にチャリを停めて、猛暑の中、歩いて本丸の外周の石垣を見てまわる。
模擬天守内を見たあと、中津市歴史博物館を見学、チャリで大手門跡の石垣、金谷口のおかこい山を見て、チキンハウス中津本店でからあげ定食(上)950円を食べる。砂ずりの唐揚げが美味。

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小城小次郎

復元石垣を今から心配しても仕方がないが (2023/01/13 訪問)

石垣が出たとのニュースはかなり以前だったが漸く見に行けた現場は巨大なイオンモールに占有されていた。入口二ヶ所に石垣が復元されているがイオンモールを建て替える際に壊されやしないかと今からはらはらしている。

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しんちゃん

本丸周辺の曲輪・西の曲輪  北条氏直について (2024/01/28 訪問)

もーしわけないけど、八王子城の投稿、まだ終わっていません。これだけのボリュームのある城郭だと、なかなか一回の枠では収まりきらないんですわ。ゆるしてニャ。
八王子城の何が凄いって、中世から近世にいたる城郭の構造の変化を感じ取れる稀有な城だと思うんですね。本丸周辺には小宮曲輪、八王子神社のある曲輪、松木曲輪があり、この辺りは道が通じているので訪問には苦労しないと思います。作業道と標柱の立っている細い道があって、ここから詰の城に行けるのかなと思ったら本丸の西の曲輪に付きました。うん、道理で道が良くないと思った。ほとんど獣道みたいだったし。でも西の曲輪は見れたぞ! 分岐まで戻って詰の城を目指します。

八王子城の合戦の際には、本来の城主北条氏照は小田原城に参じており城代の横地監物吉信ら3000人(非戦闘員含む)が籠って戦ったとされています。豊臣方の攻撃は深夜より始まり、一日中に落城し、城内は凄惨な有様だったようです。
北条氏政・氏照の兄弟も北条氏の降伏と共に切腹を申し付けられますが、結果として五代目当主・北条氏直と小田原城兵の命は救われたと言えます。氏直は徳川家康の娘婿であったため家康からの助命嘆願もあったとされます。しかし、秀吉が小田原と会津の間の街道を整備し、家康を関東に移封すると状況は異なってきます。関東に強い影響力を持つ北条氏当主である氏直は家康にとって徐々に危険な存在になって来たと思うのです。
天正19年(1591)1月から氏直は家康に依頼するなどして赦免活動を開始し、8月には河内と関東に1万石の領地を得て、豊臣家臣の大名として復活をします。これが良くなかったのだと思います。家康からすれば氏直が秀吉に懐柔されて国人一揆を起こすことを警戒していたであろうし、秀吉の命で東北諸将が一致して関東を攻めることも恐れていたと思います。
氏直は大名に復帰して三月とたたずに死んでしまいます。死因は当時流行していた疱瘡(天然痘)とされますが、氏直は自らの立位置をよく理解しないまま家康に赦免の協力を依頼したことで自らの寿命を縮めてしまった可能性があると思うのです。
天然痘は感染力が強く、患者より薄着等に天然痘ウイルスを移し取ることで容易に罹患させることが可能です。氏直の最期は家康と秀吉という二つの巨魁の間で翻弄された結果のように思えるのです。奥方の督姫が下手人とは思いたくはありませんが、督姫(良正院)本人も慶長20年(1615)2月4日 家康と会うために滞在していた二条城で疱瘡にかかり死去したとのことです。督姫の息子の忠継も同年2月23日に岡山城で疱瘡で死去したとされているので、疱瘡に因果の有る系譜なのかもしれません。

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零汰

中にも入れるそうです (2024/05/10 訪問)

帰宅してから愕然としたチャシです。
こちらは山型のチャシで大きな濠が入っているそうです。南側からはフェンスで囲まれておりてっきり入れない場所だと思い込んでいました。ですが先輩方の投稿にはしっかりと濠が映っていて見上げる姿とは全く別のチャシの様にも思えます。調べないで訪問する際のデメリットですが知っていたら北側から見る事も出来たので残念です。行かれる際は最低でも北側の高台から見る事をお勧めします。

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ぴーかる

大野城 (2024/05/11 訪問)

【大野城】
<駐車場他>城山公園駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>土塁・曲輪・模擬天守
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅9城目。大野城は南北朝時代に一色範光が築城したと思われます。一色氏は応仁の乱の後に次第に勢力を失い尾張守護の土岐氏に城を奪われます。家臣の佐治氏が入城し4代続きます。佐治一成(一説にはお江の夫、のち離縁)は小牧長久手の戦いの後に退城し廃城となったようです。
 北の駐車場からは曲輪が連段にあり、途中に櫓台のような方形の削平地も見られます。主郭の南側に空堀が見られます。主郭は狭く模擬天守、模擬天守の向かい側に櫓台跡があり佐治神社が祀られています。模擬天守内部に資料が展示されています。模擬天守からの眺望は良く、織田長益の関連は分からないが大草城が目鼻先の距離に見えます。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

見えないバリアー (2024/02/11 訪問)

現地の案内板によりますと、山田城は鎌倉時代から室町時代にかけて、この地を支配した山田氏が住んだ城館とされています。山田氏は志那・矢橋(いずれも草津市)とともに当時の良港であった山田港を押さえるために、ここに城を築いたとされています。
かつては円形の郭に二条の堀を巡らせてあったとされ、武道館の内部にその範囲を明示してあるとのことです。でも武道館の中は小学生くらいの子供がいっぱいいたので中には入りませんでした。

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イオ

佐和口多聞櫓特別公開 (2024/06/29 訪問)

佐和口多聞櫓(国重文)と楽々園御書院の特別公開に行ってきました。姫路城・西小天守といい大坂城・乾櫓といい、特別公開という言葉に弱い私です(笑) 佐和口多聞櫓の特別公開は、耐震工事で天守内部の公開が停止されることに伴うもののため追加料金は無く、入口で当日の入城券を提示すれば内部を見学することができます。

中堀越しに佐和口多聞櫓を眺めつつ、佐和口の桝形を抜けて馬屋裏手の入口へ。安全性のためでしょうか、入口前には仮設階段が設けられています。多聞櫓内に入ると、佐和口桝形や中堀に面する土壁が二重壁になっているのが目を引きます。天秤櫓や西の丸三重櫓も大堀切側が二重壁になっているように、やはり佐和口多聞櫓も重要な防御拠点なんですね。二重壁の側には△と□の鉄砲狭間が交互に配されていて、佐和口桝形に十字砲火を浴びせる造りになっていることがよくわかります。佐和口門は礎石が遺るのみですが、ここに二重二階の櫓門が立ち塞がっていたかと思うと、とても突破できそうにありません。

内面は柱を見せる真壁造りとなっていますが、天秤櫓や西の丸三重櫓と異なり貫(水平材)は塗り込められていて、そのため内壁が波打って見えるのが特徴的でした。また、西側の防火間仕切は壁土を塗り直したばかりなのか、白さが際立っています。そして防火間仕切の奥の部屋の扉の向こうは西接する二重櫓…のはずですが、特別公開はここまで。二重櫓に入れなかったのは残念でしたが、佐和口の堅固な備えを体感できたこと、様々な内壁を見られたことなど、2~3月の特別公開時に来られなかった分、今度こそはと勇んでやって来た甲斐がありました。

次は、楽々園御書院の特別公開に向かいます(続く)。
 

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赤い城

垂水城 香川県丸亀市 (2024/06/23 訪問)

城びと未登録、古城山浄楽寺が城趾です。
周囲は住宅地と農耕地で駐車場はありません。
境内の北西部に土塁が一部残っています。
お寺の前の道路はややカーブしていて堀跡かと思います。
室町時代に豪族の藤田大隈守が築城した平城とのこと。

また余呉さんの余呉図コレクションによるとここから少し北東に歩いたところに垂水館参考地があるとのこと。
行ってみました。
農耕地になっていて遺構は無さそうですが南側の道路がややクランクしていてそれっぽい感じを見ることはできました。

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todo94

カメラの落下破損 (2024/06/22 訪問)

早稲田高等学院が愛宕山砦の比定地とのことで当然中には入れません。石神井川沿いからグーグルマップの太田道灌愛宕陣比定地のポイント辺りを撮影してみました。その後、シェルさんのお薦めに従って三宝寺に向かう前に一眼レフカメラを落っことしてしまいました。御成門や勝海舟邸の屋敷門であった長屋門の写真を撮ろうとして撮影不可能であることを知り愕然としてしまいました。Nikonはもうミラーレスに移行してしまっているのでかなりのショックです。三宝寺関係の写真は、スマホのカメラで撮影したものです。

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天守無しがアツい

八王子城 御主殿跡 (2024/06/29 訪問)

八王子城にはいつか行こう…と前々から考えてはいたのですが、「山城なので天守までの道のりが険しい…と以前ネットで調べたら出てきた。とある経験者のコメントによると…鳥取城と同じくらい😨⛰️」「つまり登るのめっちゃ疲れて汗かく」という事前情報が、何となくここを後回しにさせてたかもしれません

この日(6/29)は最初は他の場所に行く予定でした…ところが「滝山城と八王子城の御城印はセットで御城印帳にしまいたい。(滝山城は1ヶ月前に訪問&御城印ゲットしており)八王子城のためのページを滝山城の隣に空けているが、いつまでも空白のまま…だと何かスッキリしないのでそろそろ達成したい」という考えが抑えきれなくなります😅

八王子城の地図をネットで見てみたところ…その規模は広く…大きく分けて3つありました。1つ目は本丸、2つ目は御主殿跡、3つ目は北条一族の墓所および菩提寺

一回でほぼ全部周れた滝山城と違い、ここは一度で全部巡るのはちょっと無理…なくらい、城の規模がデカい事に気づきました。「朝から晩までかければ一回で終わらせられるのかもだけど、こんな壮大な城を一回で終わらせるのも惜しい」「こうなればここは周回前提…という事で…今回の訪問ではまず、ガイダンス施設とその付近の史跡…つまり御主殿跡の見学に専念しよう」という事にしてみました

JR高尾駅からバスで八王子城跡下車(平日はもっと手前の霊園前までなので土日限定とはいえここまで運行してくれるのはありがたい)🚌

バス停のすぐそばにガイダンス施設がありました。そこに入ると日本100名城スタンプに(もちろん真っ先にスタンプ帳に押印)、八王子城の城主だった北条氏照の紹介…城のジオラマを通じての各施設の紹介がありました

1枚目は滝山城と八王子城の無色ジオラマ。前者が平坦な地形を利用した造りなのに対して、後者は険しい山そのものを利用した、まさに天然の要塞⛰️ 秀吉の脅威に備えて城主氏照は滝山城→八王子城に本拠地を移動するわけですが、この対比ジオラマからもそのわけ…というか本気というか、「敵が大軍でもその侵攻を防ぎ我が領地を守り通す」心が伺えますね

この城から発掘された品々を紹介する展示はいくつもありましたが、実物を置いてるのはガイダンス施設だけ(他は写真のみ)。なのでそれを2枚目にすることに

焼けて炭化したおにぎり🍙…火縄銃の弾丸🔫…土玉(忍者道具のまきびしの一種らしい)…が写ってると思います。(写ってる範囲の外側には)中国製の陶磁器やベネチアングラス(の破片)がありました

当時そういう海外からの輸入物を持てるのは大名もしくは寺の坊さん…つまり身分が高くて金持ちに限られたそうです。そして大名でも弱小勢力…経済力の乏しい者は買えなかったのではないでしょうか?

「どうする家康」にて金平糖一袋で城がいくつも建つ…それだけ輸入品が超高価と伺えるシーンがあるのですが、それならばベネチアングラスも同様でしょう🥂 城主北条氏照がどういうルートでそれを入手したかは謎に包まれてるそうですが、伊達に秀吉の天下統一に最後まで抗った存在ではない…それだけの国力があった事がここからも伺えるのではないでしょうか?

ガイダンス施設を出てしばらく歩くと城跡の模型があり、さらに歩くと喫茶店や自販機にトイレがありました。そこをさらに奥に進むと歩道があり、大きな橋があってそこを渡ると石垣がありました(3枚目)

何とこの石垣…築城当時のものがそのまま残ってる珍しい存在だという事が紹介文に書かれており「という事は他の城の石垣はほとんど後世の復元ということ?とにかくそんなに稀有な存在なら撮影しないわけにはいかない」と思ったので撮影

砂岩を利用して一つ一つ丁寧に積み重ね、隙間には小石を敷き詰める…石垣の裏側にはたくさんの砕いた石を入れている…全体として強固な石垣としている…と紹介文にあり。それだけ手のこもった造り方をしたからこそ、数百年経った今にまで残ったのでしょう🪨🪨

両側に石垣のある道を進み門を潜ると御主殿に到着。かつてここには広い屋敷と池が備わっていたそうです。建物は2つあり、宴会をおこなうための屋敷は(4枚目のとおり)床のみ復元されてました

それにより建物の見取り図が分かる…◯畳の部屋がいくつあったのかが分かる…というわけで、柱の跡しか残ってない屋敷跡よりも視覚による理解がしやすいかな🏠

秀吉軍の脅威に対して防衛を固め、城内で軍事訓練をおこなう一方で、この場所にて宴会をおこない、お偉いさん(氏照やその側近、大将クラスの者)はベネチアングラスに酒を注いで「敵が何万で攻め寄せようとも、この城は絶対に落ちぬ。太閤(秀吉)の天下取りなぞ夢のまた夢よ…フハハハ😆🤣🥂🍶」と談笑し、息抜きをしながら優雅なひと時を過ごしていた

そんな当時の姿を脳内再生してみました

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