3城目、座喜味城の続き(2/2)です。築城名人と呼ばれた理由を続けます。
【理由4】
次は防御です。敵は正面(写真①②)から攻めて来たとします。そして二の郭の正面を突破すると、このアーチ門が立ちはだかります(写真③)。ここでふと左を見ると道があり(写真④)、敵はこの道にうまく誘き寄せられるでしょう。しかしその先は行き止まり!(写真⑤)。しまったと気づいた時にはもう遅く、石垣の上から矢を射掛けられ背後から囲まれて、敵は万事休すです。
【理由5】
護佐丸は今帰仁城で大曲の城壁技術を学びます。そして座喜味ではさらに進化し、曲線をもっと大きくくねらせました(写真⑥⑦)。これなら敵をどの角度からも攻める事ができますね。
いやすごいです! 護佐丸という人物は、めちゃくちゃ頭のいい人物だと思いました。
護佐丸はここから、自分の叔母の子を国王に嫁がせ縁戚関係を結び、権勢を振るうようになります。またこの読谷の海から貿易を積極的に行い巨額の富を得て、この座喜味城で国王に次ぐ琉球王国No.2の地位に伸し上がり全盛期を迎えました。
しかしその8年後の1430年またも状況が一変します。琉球統一後も最後まで国王に従おうとしない勝連按司「茂知附」(もちづき)が、東から国王を脅かすようになったのです。国王尚巴志はまたも護佐丸に、勝連城を監視できる中城(なかぐすく)の地に、巨大な城を築き牽制せよと命じます。そして10年後、その勝連の地から護佐丸にとって、人生最大のライバルが現れる事になるのです。
私は高台の一の郭から読谷の町と海を眺めてみました(写真⑨)。全盛期をここで過ごし栄華を極めていた護佐丸は、予期せぬライバルの出現に、どんな複雑な思いを抱いていたのでしょうか?
次は、そのライバルの居城「勝連城」を訪れます。
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