今帰仁村の古宇利島から名護市・恩納村を通って読谷村の座喜味城にドライブ。
駐車場に隣接していたユンタンザミュージアムは定休日でした。残念。
名将護佐丸が築城した城でとの事です。そんなに城の規模は大きくないですが、城壁や城門の石積みがすごく精巧な感じでした。
城壁のカーブが本土の城と違いゆるやかですごく美しい感じでした。城壁の上からは周囲の街並みを見ることができました。
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2025/04/29 14:03
2025/02/24 13:04
多くの曲線石垣をもつ城 (2025/01/01 訪問)
2025年の初攻城。ユンタンザミュージアムは年末年始閉館中だが駐車場への駐車可能。続日本100名城スタンプもミュージアム入口の外側に設置されていてスタンプポン。
松林の中を緩やかに登る道の先に二の郭の石造アーチ門。アーチ門の天井中央にはくさび石が見られる。二の郭は石垣にぐるりと囲われていて、左手には狭い袋地になっている。正面の先にある石造アーチ門を入ると一の郭。
一の郭の内部には建物の礎石が見られるが、礎石には今日傷つけたと見られる落書きを目にして嫌な気持ちになる。
石垣上部には部分的に登れることができて、見下ろすと石垣の曲線の美しさを実感できる。
二の郭から石垣の外へ出て、城の北側まで石垣外面を見ながら歩く。70分の攻城。
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2025/02/18 08:34
⑥【護佐丸と沖縄6城】(3)座喜味城(2/2) (2025/02/04 訪問)
3城目、座喜味城の続き(2/2)です。築城名人と呼ばれた理由を続けます。
【理由4】
次は防御です。敵は正面(写真①②)から攻めて来たとします。そして二の郭の正面を突破すると、このアーチ門が立ちはだかります(写真③)。ここでふと左を見ると道があり(写真④)、敵はこの道にうまく誘き寄せられるでしょう。しかしその先は行き止まり!(写真⑤)。しまったと気づいた時にはもう遅く、石垣の上から矢を射掛けられ背後から囲まれて、敵は万事休すです。
【理由5】
護佐丸は今帰仁城で大曲の城壁技術を学びます。そして座喜味ではさらに進化し、曲線をもっと大きくくねらせました(写真⑥⑦)。これなら敵をどの角度からも攻める事ができますね。
いやすごいです! 護佐丸という人物は、めちゃくちゃ頭のいい人物だと思いました。
護佐丸はここから、自分の叔母の子を国王に嫁がせ縁戚関係を結び、権勢を振るうようになります。またこの読谷の海から貿易を積極的に行い巨額の富を得て、この座喜味城で国王に次ぐ琉球王国No.2の地位に伸し上がり全盛期を迎えました。
しかしその8年後の1430年またも状況が一変します。琉球統一後も最後まで国王に従おうとしない勝連按司「茂知附」(もちづき)が、東から国王を脅かすようになったのです。国王尚巴志はまたも護佐丸に、勝連城を監視できる中城(なかぐすく)の地に、巨大な城を築き牽制せよと命じます。そして10年後、その勝連の地から護佐丸にとって、人生最大のライバルが現れる事になるのです。
私は高台の一の郭から読谷の町と海を眺めてみました(写真⑨)。全盛期をここで過ごし栄華を極めていた護佐丸は、予期せぬライバルの出現に、どんな複雑な思いを抱いていたのでしょうか?
次は、そのライバルの居城「勝連城」を訪れます。
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2025/02/17 08:37
⑤【護佐丸と沖縄6城】(3)座喜味城(1/2) (2025/02/05 訪問)
3城目は、護佐丸が築城した「座喜味城」です。山田城から転戦しました。
名護行の山田のバス停(前々々回の写真⑩)から50m先を左折した小学校の前にもう一つ山田のバス停があり、そこに停まる[48]読谷行のバスに乗り15分読谷BTで下車、その先のバスがすぐに無くタクシーの電話番号が書いてあったので、タクシーを呼び座喜味城まで行きました(10分900円)。帰りは徒歩10分の「上地」のバス停(写真⑩)から、1日3本しかない[29]那覇BT行のバスの時間にうまく合わせて帰りました。
まず座喜味城の入口には「ユンタンザミュージアム」があります。続100名城スタンプは外に置いてありました(写真①)。1階のトイレまでは無料で使えますが、展示室へ入るのは有料です。私はせっかくなので見学し、城の模型(写真②)や歴史、また護佐丸に関する説明や、太平洋戦争で住民が戦火にあった読谷村の記録(写真③④)などの説明を見てから入りました。
座喜味城は二郭しかないコンパクトな城ですが、にもかかわらずここを築城した護佐丸が、なぜ築城名人と呼ばれるようになったのか? その理由が訪れてみてよく解りました。では私が学んだその5つの理由を御紹介します。
【理由1】
ここは地盤が軟弱な場所でした。従来の四角い門では崩れやすいため、護佐丸は沖縄で初めてアーチ門という技術を採用します(写真⑤)。それだけではありません。さらにそのアーチ門の中央にはくさびを入れる事でさらに強度を増したようです(写真⑥)。
【理由2】
同じく地盤が軟弱な場所に立てたため、石垣は崩れやすかったようです。そこで護佐丸は最も崩れやすい所には、新たに5~6角形の石で組む相方積み(亀甲積み)とい技法を採用します(写真⑦)。それ以外の部分には、布積みでかつ交互に石を重ね合わせようにし(写真⑧)、外郭の一部は野面積みで、短期間でかつ強固な石垣を築こうとしたようです。
【理由3】
石不足や人手不足を補うため、奄美より大量の人手を雇い、自分の山田城の石を人手でここまで運ばせる事で、短期間で築城を成し遂げたようです。外郭に野面積みの石垣があったので、それが山田城から運ばれた石かもしれませんね(写真⑨)。
残りの理由は(2/2)に続きます。
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城地種類 | 山城 |
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築城年代 | 15世紀前期 |
築城者 | 護佐丸 |
主要城主 | 護佐丸 |
文化財史跡区分 | 世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国史跡(座喜味城跡) |
天守の現況・形態 | なし |
主な関連施設 | 石碑 |
主な遺構 | 曲輪、石垣 |
住所 | 沖縄県中頭郡読谷村 |
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問い合わせ先 | 世界遺産座喜味城址跡ユンタンザミュージアム |
問い合わせ先電話番号 | 098‐958‐3141 |