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しんちゃん

箱根関所・資料館 (2024/05/03 訪問)

箱根関所の続きです。裏の丘の上には遠見番所があって芦ノ湖や関所が良く見えます。天気の良い日は富士山が見えるのですが、雲がかかってます。まあ日本一標高が高いですからね。運が良ければ見えるはずです。
関所から少し歩いて行ったところに箱根関所資料館があります。東海道から中山道を一部経過して像を江戸から京都に運んだ時の資料が有ります。奉公先から戻ろうとして関所破りを行い処刑された、おたまさんのパネルも有ります。江戸でも数えで15歳以下は死刑になることはないので、今の高校生ぐらいの年代だと思います。江戸時代の平和が長かったとはいえ、規律優先でまだ人命はそれほど尊重されていなかったのだなと感じます。

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赤い城

ゴルフの帰り道 (2024/10/26 訪問)

この日のゴルフ、結果に打ちひしがれた帰りに立ち寄りました。
傷を癒すには城成分の補給が必要ですね。

県道23号線(詫間琴平線)に案内板があり、それに沿って進みます。
果樹園脇に案内板があり、駐車できるスペースがあるのでここに駐車。
恐らく昌官忠さんと同じ場所かと思います。

途中案内板がいくつか設置されているのでそれに沿って進めば迷うこともありません。
10分くらい歩くと説明板が立っていてその先が城跡です。

まずは左手へ、外郭の間の堀切を見学。
久しぶりに見る堀切です。
引き返し主郭方面に進みます。
馬切と呼ばれる堀切を越え曲輪部分へ。
主郭まで6つの曲輪が並んでいます。
主郭には碑が立っていました。

天霧城主・香川氏に属する近藤出羽守国久の詰の城でしたが長宗我部氏の讃岐侵攻の際に落城、国久も討死してしまいました。
コンパクトではあるものの遺構もよく残る良い城でした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:長尾陣屋 (2024/10/02 訪問)

藤阪駅から徒歩15分ちょっとで、圓通寺移築城門前(34.807334、135.704160)に着きました。➡城門のみ確認に向かいました。

1689年(元禄2年)久貝正方によって築かれました。
久貝氏は久貝正俊が徳川家康に仕えて旗本となり、1619年(元和5年)に大坂東町奉行に任じられ3,000石を領した。
1633年(寛永10年)には2,000石を加増され5,000石の旗本となります。この正俊のとき荒廃していた長尾の地を再開発し、福岡村ついで長尾村となったようです。
長尾陣屋が築かれたのは正俊の孫正方のときで、武蔵国に500石を加増され5,500石の旗本となっています。

長尾陣屋は瑠璃光寺の東側一帯に築かれていたと云われています 。
現在は特に案内もなく、宅地や田畑となっているとのことなので、こちらには行かず、移築現存している長尾陣屋の陣屋門を見に行きました。
陣屋門は津田の円通寺の山門として移築されていてます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=草路城を目指す為、藤阪駅から電車で同志社前駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:交野城 (2024/10/02 訪問)

交野市駅から徒歩10分弱で、私部城址入口(34.790474、135.679753)に着き、その後、私部城址石碑前(34.789500、135.680560)に向かいました。

1352年(文和元年・正平7年)安見形部允清儀によって築かれたと云われています。
安見清儀は南北朝時代に南朝方として戦い討死した安見清賢の子で、楠木正儀が荒坂山で激戦となったさいに、交野郷軍三十九士の一人であったと伝えられています。
その後、安見氏は北朝方となり、河内国守護職畠山氏に従ってその重臣となりました。
戦国時代の安見直政は飯盛山城主となり、後に守護職の畠山高政を追い出して自ら守護代を称して威勢を誇ったそうです。
しかし、高政を支援した三好長慶によって攻められ、高屋城から飯盛山城さらに大和国へと退きました。
1560年(永禄3年)安見直政は三好長慶の河内進出を懸念した畠山高政に呼び戻され、再び交野城主となりますが、これに怒った三好長慶は高政の居城である高屋城を取り囲むと、後詰めした安見直政の軍勢をも敗り、高政と直政は河内から追放されました。
やがて織田信長が河内を治めると河内南半国が畠山昭隆に与えられ、重臣の安見直政は再び交野城主となりますが、安見直政が没すると筒井氏によって攻められ落城、廃城となりました。

交野城は交野市役所の北方、交野郵便局の東側一帯に築かれていたそうです。
土塁、横堀(空堀)は確認できましたが、井戸が何処にあるかわかりませんでした。
道路に面した部分に茂みに隠れるようにして立っているという私部城址碑を捜しましたが、見つけられませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長尾陣屋を目指す為、交野市駅から電車で藤阪駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:岡山城 (2024/10/02 訪問)

忍が丘駅から徒歩5分くらいで、忍陵(しのぶがおか)神社鳥居付近(34.746475、135.642089)に着きました。

詳細は不明のようですが、飯盛山城の出城と云われています。 大坂夏の陣では徳川秀忠の本陣として使用されました。

岡山城は現在忍陵神社の境内となっている丘に築かれていたそうですが、城の遺構らしきものは見あたりません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=交野城を目指す為、忍が丘駅から電車で交野市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:野崎城 (2024/10/02 訪問)

三箇城から徒歩25分くらいで、慈眼寺(野崎観音)山門付近(34.718963、135.644448)に着きました。

野崎城は畠山氏が飯盛城の支城として築いた城、または若江城の支城の説もあります。
河内守護・畠山氏の内訌の際には畠山尚順が城主で、畠山義豊に攻められた記録がありますが、それ以外の詳細は不明のようです。

山麓の慈眼寺(野崎観音)から遊歩道が整備されており、本丸跡に城址碑と案内板が設置されています。
登城道の階段は角度がありますが、途中に展望広場が複数あるため、こまめに休憩しながら攻城できます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=岡山城を目指す為、野崎駅から電車で忍が丘駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:三箇城 (2024/10/02 訪問)

野崎駅から徒歩15分ちょっとで、三箇菅原神社入口付近(34.720747、135.627777)に着きました。

三箇城は飯盛山城の西の守りを固める支城で、三箇伯耆守頼照の居城でした。
頼照はキリスト教の洗礼を受け、サンチョと称したキリシタン武将で、畿内一の規模と伝わる教会が建てられていました。
1565年(永禄8年)には京の政変から逃れて、ビレラやルイス・フロイスが数ケ月滞在したこともあり、フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」で三箇氏は明智光秀に与したため滅亡しました。
その後は白井氏の城となりましたが、1587年(天正15年)の羽柴秀吉による禁教令(バテレン追放令)で教会とともに廃城となりました。
当時は深野池に浮かぶ島に築かれていたようです。

三箇菅原神社の鳥居脇に説明板がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=野崎城へは、ここから徒歩で向かいました。

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しんちゃん

ヤキトリ‥ (2024/11/03 訪問)

う~ん‥予備知識なしで来てしまった。いつもどおり写真を撮っていたら境内撮影禁止の立札が。バードウォッチャー対策ということですかね。「城びと」で写真がないとどうしようも無い‥境内の鳥は元気にさえずっているけど、こっちは完全に「ヤキトリ」ですわ。

そうそう‥電気柵用のテスター買いました。地元にないので通販で‥。「テスター兄弟」そろい踏みです。
とはいえ、私も地元以外では、そんなに気張りません。遠征だとビミョ~の手を抜くこともあります。やっぱり時間と体力の問題もあるんですね。昌官忠さん、凄いですね。公共交通機関であんなに回れるんですね。
なんにせよ、持ってると安心というだけで、よっぽど使うことはないですよ。ちょっとユルいかんじに戻ってます。

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しんちゃん

ちゃんと帰って来るまでが「城攻め」 (2024/10/13 訪問)

もう一回だけ土城の投稿をさせてください。もういいじゃんと思われるでしょうが、この城は帰るときが一番重要なのです。
戻ってくるまでが「城攻め」ってやつです。草木が生い茂って見通しが悪いけど、尾根は案外細いです。行き先を間違えると、ズリ落ちる可能性が高いので、来た道を用心深く引き返して行きます。良く見ると先人の残したカラーテープが残っているので見当がつくと思います。南の主郭は削られてコンクリが吹き付けてあるので、正直見に行くほどのものではないと思います。ほどほどで良いのではないでしょうか。
雨の日のあとなど足元が滑りやすい時は無理して訪問しない方が良いと思います。

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しんちゃん

源義経ゆかり 白旗神社・首洗いの井戸 (2024/05/03 訪問)

白旗神社‥神奈川県藤沢市藤沢2-4-7
首洗いの井戸・首塚‥藤沢市藤沢2丁目1-10
いずれも源義経公ゆかりです。文治5年(1189)奥州平泉の高館で自害した義経の首は奥州路を経て、腰越の浦の首実検の後に捨てられたが、潮の流れに逆流し白旗神社の近くに流れ着き、里人により洗い清められて葬られたと白旗神社の鎮霊碑の案内板に記載があります。
境内には義経公と弁慶公の銅像があり、これだけでも見に来る価値はあると思います。ちょうど藤沢御殿の近くなのでついでに寄られてはいかがでしょうか?
近くには義経公の首を洗ったとされる井戸と首塚があります。

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しんちゃん

箱根の関所 三度目の正直! (2024/05/03 訪問)

箱根の関所は以前、二回通過しましたが営業時間外だったので見学は出来ませんでした。冬季は閉館が早くて入門は四時までです。
三度目の正直で、時間を合わせて見学することが出来ました。
足軽番所の裏の丘が展望台になっていて、芦ノ湖と富士山を眺望することが出来ます。いよっ!絶景かな!?富士山が雲に隠れてます。
とはいえ絶景に違いは無い。お勧めはやっぱり晴れの日です。

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ぴーかる

糸井陣屋 (2024/10/12 訪問)

【糸井陣屋】
<駐車場他>朝来市和田山郷土資料館前駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>陣屋門・石垣
<感想>日帰り丹波の黒枝豆購入と城攻めの旅3城目。糸井陣屋は1668年に京極高直の3男京極高門が父の遺領を受け2000石で分地し陣屋を構えたことに始まります。明治以降は小学校になり、現在は歴史民族資料館になっています。
 歴史民族資料館は予約制で見学できます。私も来館時間が読めなかったので予約来館せずに周辺散策のみにしました。表門、石垣が残っています。石垣は民家と接近しているので少し見ずらいです。

<満足度>◆◆◇

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イオ

展望コース(角楼~南門) (2024/09/15 訪問)

飛鳥期に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が、大陸からの侵攻に備えて鬼城山の頂部に築いた古代山城(神籠石式山城)とされますが、史書に記載はなく詳細は不明です。

山頂部まで車道が続いていますが、急坂で道幅が狭い上に行き交う車は結構多く、何度かの対向を経てようやく駐車場(無料)に到着。さすがに100名城・日本遺産・自然公園の三連休中日となると、訪れる人も普段行っている山城などとは段違いでした。鬼城山ビジターセンターで予備知識と100名城スタンプと散策マップ(200円)を仕入れて、登城開始。

まず展望デッキに立ち寄って西門~角楼を遠望。写真でよく見かける定番のアングルですね。そして復元された角楼へ。城壁から長方形にせり出した防衛拠点と考えられますが、建物があったかどうかは不明のようです。角楼から西門に向かって進み、門をくぐって外側に出ると、眼前に見事な眺望が開けています。発掘調査に基づき復元された西門は直下から見上げるとなかなかの迫力で、古代山城に詳しくない身には、こうして復元してもらえるとイメージする基礎にできるのでありがたいことです。西門東側の城壁の内側と外側には石畳のような敷石が見られますが、雨水から城壁を保護するためのものと考えられるようです。西門の両側には版築土塁と高石垣による高さのある城壁が続き、東側石垣の下部には第0水門が設けられています。

西門から展望コース(外側)を進むと、その名のとおり眼下には絶景が広がり、ところどころに神籠石状列石や石垣が見られます。谷部の城壁には水門が築かれ、第0水門と第1水門は石垣下部から自然排水させ、第2水門から第5水門は石垣上部に設けた通水口から排水する造りになっています。コース上の高石垣は展望台のようになっていますが、柵などは設けられていないので高石垣の際まで行って下を覗き込むと…足がすくむほどの高さです。こんなの絶対に登れねぇ…。高石垣からもう少し行くと南門に至ります(続く)。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城④ (2024/10/20 訪問)

羽前観音寺城からの転戦です。朝田辰兵衛さんの投稿を参考に、ピンクリボンを辿ってピークに達したつもりでいました。しかし、帰ってきてから続東北の名城を歩く南東北編の朝日山城の縄張図を確認してみると、私がたどり着いた場所は、朝田さんの云う南側の物見的な曲輪であったことは明白です。連郭式の西側や空堀、東側の枡形虎口などは全くのノーチェックです。八幡宮地域も城郭の一部のようですので攻城したことにさせていただきますが、これはリベンジをいつか果たさねばならないでしょう。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:榎並城 (2024/10/02 訪問)

JR野江駅から徒歩5分くらいで、榎並城跡石碑前(34.708836、135.539345)に着き、その後、野江水神社鳥居前(34.708456、135.539138)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 古くは1369年(応安2年)北朝方に降った楠木正儀が天王寺から榎並へ退いて陣を布いた記録があるようです。
榎並城の記録が現れるのは天文年間(1532年〜1555年)で、三好政長・政勝父子の居城でした。
1548年(天文17年)三好長慶と細川晴元が対立すると、三好政長・政勝は細川晴元方として長慶と対峙しました。
このとき政勝が籠もる榎並城が三好長慶に包囲されると、政長は江口城に入ってこれを支援しようとしましたが、長慶に攻め込まれて政長は討死、父の敗死を聞いた政勝は榎並城を棄てて瓦林城へ逃れました。
榎並城は現在の榎並小学校から野江水神社一帯に築かれていたと云われています。
野江水神社は1533年(天文2年)に三好政長が榎並城を築いた際に水害を被った為、榎並城の一角に社を建てて祀ったのが始まりと伝えられています。

また榎並小学校の校門脇に「榎並猿楽発祥の地、榎並城跡伝承地」の石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三箇城を目指す為、JR野江駅から電車で野崎駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:葱生城(なぎ) (2024/10/02 訪問)

毛馬城から徒歩20分くらいで、常宣寺山門前(34.728847、135.535511)に着きました。

1568年(永禄11)石山本願寺11代顕如の時、織田信長が足利義昭を奉じ入京すると、信長と本願寺との対立は深まり、1570年(元亀1)信長からの石山退去要求を拒否した顕如は全国の門徒衆に檄を飛ばし、10年に及ぶ石山合戦が始まります。
一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返しましたが、1576年(天正4)信長の本願寺包囲攻撃をもって一挙に激化します。
信長が大坂周囲の要衝10箇所に付城を構えたのに対し、顕如は高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼岸・勝曼・木津・難波等、51箇所に出城を構え、守将を置きました。
この51箇所の一つが葱生城といわれています。また平安時代以降、榎並庄を形成していた村の一つで石山合戦の際、この榎並庄の稲田を刈り、軍糧として本願寺に献じたそうです。

常宣寺に、葱生城説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=榎並城を目指す為、城北公園通駅から電車でJR野江駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:毛馬城 (2024/10/02 訪問)

毛馬橋バス停から徒歩10分くらいで、善福寺山門前(34.723823、135.521642)に着きました。

1570年(元亀元年)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、一進一退を繰り返しました。
織田信長は石山本願寺の周辺10箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51箇所にも及ぶ出城を構えました。
毛馬城は、この石山方の出城のひとつですが、正確にはいつ頃、誰によって築城され、守将として誰がいたのかなどは一切不明のようです。
 
善福寺付近を散策しましたが、城跡を示すものは何もありません。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=葱生城(なぎ)へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:新庄城 (2024/10/02 訪問)

下新庄駅から徒歩5分くらいで、明教寺入口(34.747719、135.522827)に着きました。

天正年間(1573~92)に荒木村重に仕え、後に織田信長に仕えた中川清秀が築城したとされ、「新庄」の名前は「新城」が転じたものだそうです。

石碑は「明教寺」とあり、新庄城のものではありません。
朝早く、入口も閉まっており、何もないので山門を撮って退散しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=毛馬城を目指す為、東淀川郵便局前バス停から大阪シティバスを乗り継ぎ、毛馬橋バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:柴島城 (2024/10/02 訪問)

今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
宿泊先の動物園前駅から柴島城駅に着きました。そこから、徒歩5分弱で、石碑前(34.729438、135.513904)に着きました。

柴島城は十河一存によって築かれた城です。
1549年(天文18年)に起きた「江口の戦い(江口合戦)」では三好政長方の細川晴賢が城主でしたが、三好長慶によって攻められ落城しました。
その後の詳細は不明ですが、1615年(慶長20年)に起きた「大坂夏の陣」では稲葉紀通がここを拠点に戦っています。
紀通は1616年(元和2年)に中島藩を立藩し、この城を居城としましたが、1624年(寛永元年)に丹波福知山へ移封になると廃城になったようです。

現在城址に遺構はなく、住宅地の一角に城址碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=新庄城を目指す為、柴島駅から電車で下新庄駅に向かいました。

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しんちゃん

大猷院 栃木県日光市 (2019/11/02 訪問)

大猷院(だいゆういん)は日光山輪王寺にある徳川家三代将軍家光の霊廟です。私の主観になりますが、日光の寺社全体が山城のように展開していて、大猷院はその中でも詰めの城のような位置に有るように見えます。まるで東照宮や輪王寺に守られているようにも見えます。
たださすがに家光公の墓所である宝塔より、家康公の墓所である奥宮の方が高所にありますね。けっこう本堂から登った記憶があります。
江戸期260年の平和と言っても、家光公の治世の頃はけっこう荒れてて、「島原の乱」が勃発したりしています。
また「武断政治」と呼ばれる強硬な政策を取ったり、実弟の忠長を改易を申し付けた後に切腹に追い込んでいます。祖父の家康公以外でこれだけ多くの血を流した将軍はいないのではないでしょうか。
なんとなく江戸の増上寺などに墓所を設けなかったのも実弟を死に追いやった負い目もあるのでしょうか? 家光公は尊敬する祖父や神仏に守られて孤独や不安から解放されたかったのかもしれません。

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