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しんちゃん

えもいわれぬ (2025/01/02 訪問)

沖野城は現在住宅地・畑地になっています。城域は東西約400m、南北約300mとされ、住宅の一角に土塁が残っているようです。
戦国時代に伊達政宗に従った粟野大膳の出城とされているようです。16次に渡る調査の結果、方形の堀遺構も発見されているようです。

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しんちゃん

しんちゃんじょう(ポカッ) (2025/01/01 訪問)

新地城・・しんちじょう・・しんちゃんじょうですか!(違う)急にシンパシーが湧いてきましたね♪ 
永禄年間(1558~70)に相馬氏によって築かれたとされ、本丸を中心に東館・北館・西館の曲輪が配されています。東館跡に駐車場があり、南に堀切があり土橋がかかっています。本丸の周辺には土塁が残り、チューリップ園として市民の憩いの場所になっています。
良く見ると、周囲に遺構が残っており、南側には複数の腰曲輪が配されていたようです。
北方の伊達氏に備えていたとされますが、天正17年(1589)5月20日に伊達氏の軍勢に取り囲まれ、伊達氏は一斉に鉄砲を撃ちかけ新地城は陥落してしまいました。その後、相馬氏は新地城を奪還することは出来なかったようです。

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しんちゃん

発掘調査希望。 (2025/05/05 訪問)

尾根上を城山に向かって登って行くと、尾根に沿って堀切が続いています。これらの堀切がこの城の最大の見どころと言って良いと思います。尾根伝いに西の尾根の方向に向かうと、堀らしきものが付いています。今度は逆に東に向かって登って行くと、尾根上に複数の郭があるようです。それほど広くは無いのですが、最高所である標高187mのあたりが主郭では無いでしょうか。
これらの郭には土塁などの遺構は見当たりません。そのかわりに周囲の尾根や堀切がとても険しいため、防御は堅いと思います。東南の細い尾根を進んで行くと出丸のような郭があります。周囲では工事が行われていて、尾根上にはネットが張られています。東側からのルートは不明ですが、やはり連続堀切を堪能できる学校裏からのルートが良いと思います。いずれ山上の城跡も発掘調査などが進んで、全容が明らかになると良いですね。

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雨の羽茂城 (2025/06/16 訪問)

 フェリーで直江津港から小木港に到着。下船してすぐに他の観光客とは進む方向を違えて、羽茂城へ。城びと先人にならって、説明板がある三叉路を目指しました。
 雨の中、傘をさして散策。三叉路脇の北ノ城(郭)の進入口は藪化。東門から散歩道を城内へと進みます。説明板の縄張り図に「竹ヤブ」と書いてあるのは珍しいですが、現場はそのとおりです。雨に濡れてなんともしょうがないです。また、ご子孫の本間家も描かれてます。縄張り図にある庵原家や渡辺家もご子孫でしょうか。
 比高は小さいですが、町や反対側の本間家が急斜面の下に見えます。五社ノ城(本丸)にお社があり、石段がつけられてますが、左側にかつての道らしき坂がありました。竹藪以外にも畑になっている平削地も多くあり、まあまあの規模があります。

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トク

映画「引っ越し大名」の城 (2025/06/26 訪問)

永山城の築城者は「小川光氏」です。父の小川祐忠は、あの関ケ原では西軍に属し、大谷吉継の与力でありながら小早川秀秋の裏切りに呼応して吉継を裏切った男です。父の祐忠は家康から認められず改易隠居となりましたが、子の光氏は許されて豊後日田2万石が与えられ、1601年この地に丸山城の築城を開始します。

その後、光氏に嫡子無く、1616年大坂の陣の戦功で美濃大垣より「石川忠総」が6万石で入り、丸山城を永山城と改名し、現在のような城郭を築き、花月川に橋を架け街道と城下町(豆田町)を整備しました(写真⑦の二本の橋が街道、橋の先が豆田町、手前が陣屋跡)。しかし忠総は1633年に下総佐倉へ移封となります。これより日田は幕府直轄地(天領)となり陣屋と代官が置かれました。

現在の永山城跡は、本丸には伝天守台(写真④⑤)がありますがおそらく天守は建てられず、櫓台跡(写真③)に天守代用の櫓が建っていたものと思われます。二ノ丸には月隈神社があり(写真⑥)、三ノ丸は月隈公園と日田林工高校の敷地になっていました(写真⑧)。大手門跡の前には水堀が残っており、おそらく当時は四方が水堀に囲まれた縄張りであったのではないかと推測されます(写真①②)。

最も有名な城主は、その後1682年に播磨姫路より7万石で日田へ入った「松平直矩」です。しかし直矩は、わずか4年後に、またもや出羽山形へ移封となりました。彼の4年間だけは日田藩として復活しその後また天領に戻ります。

村上→姫路→日田→山形→白河、実はこの松平直矩が、あの映画「引っ越し大名」のモデルとなった殿様です。私も映画を見ましたが、舞台は姫路から日田への場面でした。引っ越し奉行に任ぜられた、主役の「星野源」さんの演技などは、とてもおもしろかったです!(写真⑩)。遠距離の引っ越し費用をどうやって工面するか、また彼は書庫番だったため段取りもよくわからず、禄高が低いため皆をまとめるのにも苦労し、この時に藩の石高が15万石から7万石に半減されるためリストラや倹約も任され、家臣たちからの不満の板挟みになりながらも、何とかこれを成し遂げて行くという物語でした。当時は本当にこんな風に、大名の引っ越しというものは大変だったのでしょうね。
 

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イオ

御土居めぐり(西ノ京~紫野) (2025/03/08 訪問)

御土居は豊臣秀吉が聚楽第の惣構として築いた総延長22.5kmに及ぶ巨大な堀と土塁で、洛中と洛外を区画する役割を果たしました。明治以降、宅地化によりそのほとんどが失われましたが、一部は現存し、うち9か所が国史跡指定を受けています。

6年前に雨のため中断したままになっていましたが、今度こそ御土居を一周(少なくとも国史跡の9か所は全て)めぐるべく、例によって西院駅で阪急レンタサイクルを借りて登城(御土居めぐり)開始。北野を除く西ノ京から紫野までの4か所は前回も訪れていますが、どうせ通り道なので再訪しました。

西ノ京御土居(京都市中京区西ノ京原町・国史跡)
市五郎稲荷神社の奥に土塁が南北に遺っていて、社殿脇から土塁に上ることもできます。鳥居が立ち並ぶ参道あたりが堀跡のようです。

北野中学校御土居(京都市中京区西ノ京中保町)
「御土居の袖」と呼ばれる西側張出部の土塁が北野中学校の敷地内に遺っています。中学校の周囲は目隠しフェンスで囲まれていますが、北辺の目隠しが途切れたあたりから見ることができました。

北野御土居(京都市上京区馬喰町・国史跡)
北野天満宮境内の西辺を流れる天神川(紙屋川)沿いに御土居が良好に遺っています。土塁の上から堀代わりの天神川を見下ろすとかなりの高低差があり、往時の規模を感じることができる…のは良いんですが、御土居があるもみじ苑は紅葉(例年10月下旬~12月上旬)と青もみじ(例年4月中旬~6月下旬)の頃のみの公開です。梅苑の公開時(例年2月上旬~3月下旬)にも土塁の上は歩けますが、川沿いに下りることはできません。また、北野天満宮の北門を出たところには北門前町延命地蔵菩薩と呼ばれる御土居から出土した石仏が祀られています。

平野御土居(京都市北区平野鳥居前町・国史跡)
天神川沿いの住宅地の中に芝が植えられ綺麗に整備された土塁が遺っています。南端部には御土居から出土した石仏が祀られていました。

紫野御土居(京都市北区紫野西土居町・国史跡)
天神川沿いの住宅地の一角に土塁がわずかに遺っています。西土居町という町名にも御土居の名残が見られます。西側を流れる天神川とは結構な高低差があり、自転車を走らせていると自然地形を活かして築かれていることを実感しました。

途中、聚楽第に寄り道しながら紫野御土居までの御土居をめぐり、船岡山城、大徳寺 龍源院に続いては、いよいよ初探訪のエリアに足を踏み入れます(続く)。
 

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todo94

国立東京博物館の特別展参戦前の攻城 (2025/06/08 訪問)

国立東京博物館の特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」をどうしても見たくて、6月7日、14日、15日と所用が入っている中、唯一、自由が利く6月8日にトーハクに行くことにしました。前泊して朝駆けしたのは練馬城址公園。トーハクの開館は9:30なので余裕です。早朝ということでハリポタ城の門扉は閉ざされていました。としまえん思い出コーナーのあるエントランス広場から石神井川に沿って花のふれあいゾーンまで足を伸ばしました。早朝にもかかわらず、ジョギングに勤しむ人をはじめとして多くの人々が城址公園に繰り出していました。グーグルマップの練馬城跡のポイントの近くに建つ「としまえん古城の塔」は城址公園の整備完了時には撤去されてしまうようですので、記念に写真を撮っておきました。ここから上野へは都営大江戸線を利用しました。西新宿五丁目駅で下車して太田南畝の水鉢を拝見。さらに牛込柳町で下車して大河ドラマ「べらぼう」の紀行で紹介された浄栄寺の甘露門も拝んでいきました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀城 (2025/05/28 訪問)

和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩10分弱で、津屋公園入口(34.191331、135.171900)に着きました。
そこから、城跡山公園へ向かいました。

築城年代は定かではないようですが、雑賀孫一(鈴木重秀)の父、鈴木佐大夫重意によって築かれた城のようです。
佐大夫は雑賀党の頭目を務め、本願寺顕如に与して織田信長と石山合戦で戦いました。
その後、1585年(天正13年)に豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻、いわゆる「紀州征伐」で落城しました。
1585年(天正13年)に和歌山城が築城される頃に廃城となったと思われます。

現在城址は「城跡山公園(津屋公園)」として整備されていますが、当時の遺構は残っていません。
丘陵の南端には妙見堂が祀られています。
バスが遅れていた為、一本前のバスに乗れました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=日方城を目指す為、和歌浦バス停からバスで日方バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市) (2025/05/28 訪問)

元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩45分くらい(ちょっと道に迷い時間がかかった)で、和歌浦天満宮駐車場(34.190893、135.164572)に着きました。

901年(延喜元年)御祭神 菅原道真公が大宰府に左遷させられる途中、風波を避けてこの和歌浦の地に立ち寄られました。
その後、橘直幹が康保年中(964年~968年)に和歌浦を訪れ、道真公を追慕し神籬をたてたのが始まりです(関南天満宮伝記より)。
現在の建物は、1604年(慶長9年)に当時の浅野幸長紀州藩主により造営され1606年(慶長11年)に完成しました。
社殿は紀州出身の掘内(へいのうち)吉政・政信親子により作られ、政信はその後、茨城県の鹿島神宮・東照宮の元和造営に関わり1632年(寛永9年)に全国の大工の頂点である、江戸幕府の初代作事方大棟梁に任命されました。

予定時間をオーバしている為、麓から天満宮を見上げて撤退しました。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=雑賀城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市) (2025/05/28 訪問)

雑賀崎台場から徒歩5分くらいで、番所庭園駐車場入口(34.190886、135.140984)に着きました。

紀州藩が沖を通る異国船等を監視するために遠見番所をここに設けたのが始まりで、鷹の巣山に移転したことから「元番所」と呼ばれています。
台場は1854年(嘉永7年)頃に和歌山藩によって築かれ、三浦長門守の持ち場とされました。

現在は番所庭園(ばんどこていえん)として観光スポットの1つとして、そして美しい景勝地として整備、保存されています。
入場料600円でした。
台場跡の様子を確認するのも現地の案内板に絵図が載せてありますので非常にわかりやすいです。
今は台場の雰囲気こそありませんが、西にせり出した地形を活かしたものであったことはよくわかりました。現在でも土塁が確認できる。
北に隣接している雑賀崎台場もよく見えます。
攻城時間は20分くらいでした。次の観光先=和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀崎台場 (2025/05/28 訪問)

雑賀崎遊園バス停から徒歩5分ちょっとで、雑賀崎台場入口(34.191863、135.141969)に着きました。

1853年(嘉永6年)6月のペリー来航は、和歌山藩にも影響を与えていました。
和歌山藩では1854年(安政元年)頃から海防警備のための台場整備計画が始まり、友ヶ島や和歌山の加太から海南一帯に台場を築造する計画がたてられました。
しかし、雑賀崎台場は資料には登場せず、カゴバとして狼煙や番所の印が付けられているにすぎなかったそうです。

岬の先端でやや小高くなったところに土塁と石垣の遺構が残っていました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:弥勒寺山城 (2025/05/28 訪問)

JR和歌山駅バス停からバスで秋葉山バス停に着きました。そこから徒歩5分弱で、秋葉山プール入口付近(34.199323、135.170724)に着きました。
この付近で駐輪した後、階段を登り、徒歩で歴史と風土の丘(34.199243、135.173096)に向かいました。

1577年(天正5年)雑賀孫一によって築かれました。
弥勒寺山城は「雑賀合戦」の舞台となった城で、孫市が織田軍を迎え撃つために山全体を城塞化しましたが、信長は6万の大軍で攻め寄せ、最終的に降伏しました。
その後、1585年(天正13年)には羽柴秀吉による「紀州攻め」がおこなわれましたが、このときの史料には現れないため「雑賀合戦」の時点で廃城となったようです。

現在城址は「秋葉山公園」として整備されています。
明確な遺構や城跡碑はありませんが、秋葉山古戦場跡(雑賀合戦)の説明板などがあります。
山頂の展望台からは和歌山城が見えることを期待するも木が邪魔をして見えませんでした。。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=雑賀崎台場を目指す為、秋葉山バス停からバスで雑賀崎遊園バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和佐山城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
千旦駅から徒歩20分くらいで、高積神社参道入口(34.234126、135.254390)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、延文年間(1356年〜1361年)に紀伊国守護の畠山尾張守義深によって築かれたと云われています。

道を間違え分岐点を反対に曲がってしまい、気が付いたら、神社についていました。後で調べたら、高積神社上ノ宮でした。
方向音痴の自分には登城口からの案内標識がほしいです。
分岐点まで戻り、このまま攻城すると電車の時間に間に合わない為、途中で断念しました。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=弥勒寺山城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べる為、千旦駅から電車で和歌山駅に戻りました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:秋月城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分ちょっと走って、耕月寺入口付近(34.2299032、135.204850)着きました。
その後、秋月城跡付近(34.229896、135.204170)に向かいました。

延徳年間(1489年〜1492年)紀俊連によって築かれたと云われています。
その背景には雑賀党の勢力拡大があり、日前神宮と國懸神宮の社領を守るために土豪の飯垣周防守に守らせたそうです。
秋月城は太田城を居城とする太田党の支城でしたが、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めで落城し、そのまま廃城となりました。

城跡周辺、及び耕月寺周辺を歩きましたが遺構らしきものはありませんでした。
耕月寺は朝早い為、閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=和佐山城を攻城する為、和歌山駅から電車で千旦駅に向かいました。

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天守無しがアツい

福井県立郷土歴史博物館 (2025/06/23 訪問)

福井城の本丸から少し歩いた場所にある博物館
撮影禁止の展示が多かったため…撮影OKの場所のみ撮影&添付

受付で福井城の特別御城印を買う…北庄城・西光寺・福井城すべての御城印を揃えると…(おまけとしてもらえる左下に該当するピースと合わせて)一つの絵となる

館内には古代から現代までの福井県の歴史が紹介されてる
古墳時代の棺…越前(福井県)で戦死した新田義貞…江戸時代あたりの九十九橋…福井城の復元ジオラマ

福井藩が生んだ…若くして花開き散った秀才…橋本左内
明治における福井の偉人
福井空襲(火災から逃れるために避難民は、城の水堀に飛び込んだが、そこは焼夷弾の熱により高温と化しており…多くの人々がそこで亡くなった🔥)
戦後間もなくの福井大地震…天守跡の石垣が崩れて…今でもそれは残ってる

それとは別枠に…北庄城を拠点として越前を治めていた柴田勝家およびその妻お市…関ヶ原の戦い以降に統治者となり、福井城を築いた結城秀康…の紹介コーナーもある

来館したのは18:10あたり…閉館時間ギリギリの18:59まで…眺めるだけ展示を眺めた

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しんちゃん

登城ルートより 険しい堀を越えて山城に向かう (2025/05/05 訪問)

こんなマイナーな城、他に誰も来ないだろうと思っていたら、ニッポン城めぐりの口コミで1件ありました。伊東48城の一つとされ、城主は米良氏とされています。せっかくなので、登城ルートを含めてもう少し詳しく。
城址は坪谷小学校の裏山から取りつくことが出来ます。昌福寺の西の脇道から城址に登りましたが、小学校の中からの方が楽に取りつくことが出来ます。裏山に墓地がある関係からか、休日でも学校の門は解放されていましたが、平日は了承を取る必要があると思います。この解放感は都市部の学校では、少し考えられないですね。
墓地の裏手を登って行くと、小さな城址碑のある広い扁平地があります。ここが最初の郭ですね。この先に堀切が連続していて、尾根を登って行くと主郭と見られる山頂に到達します。連続する堀切の最初の方にかなり険しい堀切が有ります。
山城に慣れた人であれば、雨天でも無い場合、先に進めると思います。8つ目か9つ目の堀切が竪堀となって尾根に随走して上に向かって伸びていました。

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天守無しがアツい

西の丸三重櫓 (2025/06/22 訪問)

開国記念館で100名城スタンプを押して…城カードを買った際…御城印に「西の丸三重櫓」というのがある事を知る

スタッフにその位置を尋ねて…天守の裏側にある事を教わり…「ここ彦根城は2年前にも来た事あるが…そこはまだ行ってないと思われる…逃したくない!」と思えたので…それの御城印を購入後、そこへ向かう

入場ゲートを通ってから…ひたすら急な坂を上る…これだけで筋トレになるかもなくらい

ようやく櫓へ…靴を脱いで入場👞
三重櫓の名の通り…3階建て🏯
一層目は奥の部屋もあり…面積は広め
二層目以降に上がる階段が(天守の中のように)急すぎ
荷物を持ちながら上がるのは無理に思えたため、
「失くなりませんように😖」と願いながら…一層目の隅に置いて…二層目三層目へと上がる🪜

三層からの眺めはよい…二層のも…大河ドラマ江でこの櫓が使われた事あるそうで…その紹介もあり

なお…一層に戻り荷物確認…カバンだけでなく中に入ってる物も無事だったので…日本の治安に改めて感謝した😂

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ぴーかる

堀越城 (2025/04/28 訪問)

【堀越城】
<駐車場他>見学者用駐車場あり。トイレあり。
<交通手段>車

<見所>堀・土塁・虎口跡
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目8城目。第14回日本100名城、続日本100名城に負けない名城で特集された堀越城に行きました。午後4時前に到着し、三の丸跡から順に巡りました。平城ながら、見事な堀と土塁は圧巻の見応えで散策を楽しみました。主郭跡に入ったところで雨が降り出し、城跡の西側を散策できずに切り上げてしまいました。城跡見学後に行こうと思っていた資料館となっている旧石戸谷家住宅も4時に閉館したらしく、調査不足で御城印も買えずじまいとなってしまいました。城跡巡りを欲張りすぎて時間配分を間違えた。ここは見応えある城跡なので結構時間かかる。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

延岡城 (2025/05/05 訪問)

延岡城の本丸南東には天守台があり、周囲に石垣も残っています。有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」には「天守台」と記載がありますが、天守閣は描かれていないようです。慶長年間の「日向国絵図」には望楼型の三重天守が描かれているとされ、現在でも天守があったのか、はっきりしていません。
明治初年ごろの絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓が有ったとされますが明治10年の西南の役で焼失してしまいました。明治11年に梵鐘が今山八幡宮に寄進されますが、後に天守台に移設されました。初代の鐘は教育委員会に保存され、今 天守台にある鐘は二代目にあたります。

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しんちゃん

魚津の漢達(うおーづめん) (2025/04/13 訪問)

天正10年(1582)「魚津城の戦い」では柴田勝家率いる織田の大軍が魚津城を包囲しました。上杉から離反した椎名氏が討伐されると、上杉方の重要な拠点となりましたが、魚津城の戦いで中条景泰ら「魚津在城十三将」とされる上杉方の主将13人がことごとく果て、魚津城は落城しました。しかし、落城の前日には織田信長が本能寺で横死したとの知らせが入っており、織田軍は撤退、魚津城は再び上杉方の手に戻りました。その後、佐々成政の手に落ちますが「富山の役」の後に前田利長に受け渡され青山吉次などが城代を務めました。

今日は忍びを放って、探りを入れてみたら合戦の勝者に「安(つね)」さんが配られていました。女武者+鎧の組み合わせ、いいですね。個人的にちょっとツボです「おつやの方」とか「直虎」さんとか。
戦が終わったので、あとは鎧をぬが(ザクッ!!)・・・

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