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移築門 (2024/07/04 訪問)

 狭山陣屋の大手門は本願寺堺別院に移築されています。堺の街散歩をしているときに立ち寄りました。

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しんちゃん

住宅地の近くの山城 (2024/01/28 訪問)

初沢城は初沢川の東にある丘陵の頂部に築かれています。片倉城主の長井氏によって築かれたとされていますが、江戸時代に記された「新編武蔵風土記稿」によれば横山党の一族・椚田氏の居城と推測されています。
比高100mほどの標高294mの地点に本丸が有りますが、近くまで住宅地が迫っているので、車はポリコウに捕まらない所に置いて遊歩道を登って行けば、さほど苦労せずにたどり着くことが出来ます。水タンクのある周辺が二の丸跡とされ、本丸の周辺には腰曲輪も残っているようです。本丸からは周囲を見渡すことが出来(木々が生い茂っていますが)南側には堀切があり、その先は二の丸跡に繋がっています。

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しんちゃん

滅んじゃいねーぜ (2024/01/28 訪問)

八幡八雲神社が横山党の根拠地とされており、境内に横山党始祖・横山義孝を祭る横山神社が建てられ、近くに案板板が立っています。横山党は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて存在した武蔵国の武士団「武蔵七党」の一つであり、その中でも70余りの氏族を含む最大規模の勢力を持っていたようです。
鎌倉時代、梶原氏の失脚後、北条氏の勢力が拡大し「和田義盛の乱」の際には一族の棟梁・横山右馬介太郎時兼は和田氏に味方し、一族ともども討ち果たされてしまいました。しかし時兼の子・野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散らばっていったそうです。

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AJ

聖地巡礼 (2024/07/06 訪問)

江戸時代の後半にはすでに観光地化していたといいます。川中島古戦場(長野市)。遡ること16世紀中頃、領土拡大を目指した武田信玄と、その被害を訴えた豪族を助けに赴いた上杉謙信が何度か衝突した地としてあまりに有名ですね。

風林火山ブームというのは、徳川幕府が甲州軍学を教育現場で採用した頃にもあったようです。家康が武田の旧臣を多く召し抱えたことと無関係ではないでしょう。この頃編纂されたのが軍記「甲陽軍鑑」。幕臣をはじめ、広く庶民に読まれた物語で、そのクライマックスの信玄vs謙信の一騎打ちのシーンは浮世絵などで描かれ、講談でも派手に語られたといいます。わくわくの止まらなかった人々はその足で当地を訪れたのだと思います。今で言う「聖地巡礼」ですかね。

軍鑑の史料的価値については、これまで何度か触れたので割愛しますが、そこに描かれた両雄の一騎打ち(川中島第4次。八幡原の戦い。1561)の信憑性についても疑いが残っていますので、付け加えておきます。

というわけで、すっかり“巡礼者”の仲間入りを果たした小生。大会戦におけるひとつひとつの場面の真偽はともかく、決戦の地の空気感や距離感、高低差、そして海津城(現在は松代城。真田の本拠ですね)はしっかり味わってから帰ります。

*隣接する長野市立博物館内に「川中島の戦い」の常設展示あり。入館料一般300円。

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チェブ

頑張ろう 東北。頑張ろう 日本。 (2024/05/05 訪問)

石碑を探すのに苦労した「下野郷館」です。
「若林城」がある仙台市から車で30分位で「下野郷館」近辺に到達しました。

『何もない所だなぁ。』
不快に思われると思いますが、この辺りの第一印象です。
写真⑤を見つけ、諦めようとすると東日本大震災の津波到達点のプレートがありました。
ショックでした。海は見えません。こんな所まで、津波の被害があったなんて、と呆然としました。
何もない、じゃなく、なくなってしまった場所です。
石碑を整備していただいたのだったら、絶対に「下野郷館」を探します。

『お城を探す』の「下野郷館」の近くに駐在所と消防団のポンプ置場があります。
その奥に集会所がありました。建物の左側に「矢野目足軽城」の石碑と「下野郷館」の標柱があります。

18人1組の10組で構成された足軽の方々。
足軽とはいえ、伊達家直参として政宗公の信望厚く、と石碑は語ってます。
「矢野目足軽城」、足軽の方々にとって誉れなお城です。

東日本大震災から13年経ちました。
忘れてはいけないと思っていたのに、忘れてました。
父は宮城県石巻市出身で、親戚が津波の被害にあい、泣いた日々があったにもかかわらずです。

石碑と標柱を整備してくれた地元の方々に感謝です。
東京の端っこは37℃予報です。籠城して、東北の頑張ってきた歴史を読んでみようと思います。

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しんちゃん

茶臼山城 (2018/01/03 訪問)

香川県さぬき市の富田茶臼山古墳は四国最大の前方後円墳で国の史跡に登録されているのですが、戦国時代には城郭として改造され、使用されています。石積みがいつの時代のものかは解りませんが、角度を変えてみると城郭にしか見えません。
城主は寒川右馬允とされ、築城時期は不明です。戦国時代の武将が古墳を何だと考えていたかは不明ですが、忍城攻めの際に石田三成が埼玉古墳群の一つを陣所として使用しています。古墳ファンには申し訳ないのですが、思わずニヤッとしてしまいますね。

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しんちゃん

高知城の御殿・天守閣 (2013/12/14 訪問)

現存天守である高知城の外壁には土佐漆喰と呼ばれる特殊な漆喰が使用されています。石灰石に塩を加えて焼いた地灰とネズサという発酵処理した藁スサを混ぜて水ごねしたもののとされています。キメが細かく厚塗りが可能で雨に強いという特徴があります。
土佐は台風の常襲地域とされ、土佐漆喰や水切り瓦を伝統的に使用しているようです。塗り立て直後はクリーム色ですが、時間経過と共に白色に落ち着いていくようです。天守閣そのものは、それほど大きくは有りませんが、高知城は平山城で高所に築かれているので、周囲の眺望は素晴らしいです。

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イオ

愛洲氏の里 (2024/05/04 訪問)

南北朝期に南朝方として活躍した愛洲氏が、北から西を五ヶ所川が流れる断崖上に築いた城で、室町中期には一之瀬城から五ヶ所城に居城を移しましたが、北畠信意(織田信雄)に攻められて愛洲氏は滅亡。五ヶ所城も廃城となりました。

西麓の愛洲の館の駐車場から登城開始。鍛錬の段と銘打った階段から主郭へ向かいましたが、比高30mの断崖を一気に登るため、急であるばかりか一段一段の奥行が狭く、足元に注意しつつ手すりを掴んで昇り降りするのが無難です。鍛錬の段を上り切ったところに主郭に南接する曲輪があり、南の曲輪を東に抜けて南側からの登城道に合流し、北に進むと主郭に至ります。

主郭は東辺から南辺にかけて横堀を二重にめぐらせ、それぞれ南辺は竹藪と化していますが、東辺は竹が刈られて見やすく整備されていました。主郭内には城趾碑と説明板に加えて、愛洲公顕彰碑、剣祖愛洲移香斎生誕之里の石碑が立てられています。主郭の南東辺や北辺には土塁がめぐり、北辺の土塁を越えて下りたところには堀切が北西方向への小尾根を断ち切っています。堀切の東側の主郭切岸には石積も見られました。

主郭に南接する曲輪は農地として改変されていて、西辺に土塁と堀らしきものが見られるくらいです。果樹園の中の登城道を南に下って行くと、西側に愛洲氏館と呼ばれる居館跡が広がっています。北辺から北西辺にかけて土塁をめぐらせ、南側に開口部があり、登城道から開口部へ続く道は堀切跡のようです。石積もあるようですが、草木が茂っていてよくわかりませんでした。愛洲氏館からさらに南に下って突き当りを東へ、そして案内表示に従って民家の間の路地を進むと塔頭と呼ばれる愛洲氏一族の墓所がありました。ひとつひとつは小さいものの20数基の五輪塔が建ち並ぶ様子には、この地に刻まれた愛洲氏の歴史を重みを感じました。そして最後に愛洲の館で五ヶ所城のジオラマや愛洲移香斎に関する展示を見学して…と思っていたんですが、閉館間際だったため断念…。最初に行っておくべきでした。

…ということで、周辺の史跡も含めてひとめぐりしたものの、愛洲の館だけでなく古井戸も見落とすなど、どうも要領の悪いルートでした。主郭だけしか行かないというのでなければ鍛錬の段なんぞ通らずに、愛洲の館(見学) → 塔頭 → 愛洲氏館 → 主郭 → 古井戸 → 愛洲の館とめぐったほうが良かったように思います。ともあれ、二重横堀や堀切などの遺構はなかなか見応えがありました。
 

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しんちゃん

後楽園 (2013/12/15 訪問)

岡山城に隣接する後楽園は岡山藩主・池田綱政が貞享4年(1687)から14年の歳月をかけて造築させた大名庭園で、日本三名園に数えられています。とはいえ栗林公園などもありますので、本州三名園のほうが正しいのかもしれません。
訪問時は12月の寒気だったので正直地味ですね。良い庭園ではありますが、訪問時のお勧めは田んぼに水の張った5月ごろや井田に稲穂が実った秋ごろが良いのかもしれません。

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しんちゃん

神島- 弐 (2022/10/30 訪問)

灯台を訪問した次は小説のクライマックスの舞台になる監的哨跡を訪問します。太平洋戦争中の遺構になりますが、コンクリート造りの建物は案外しっかりしていて中を散策しても問題は有りません。島の南部はカルスト地形で周囲に石灰岩がむき出しになっています。
この周辺は小説の中でもニワの浜として登場しています。ヒロインの初江さんが海女さんなので、子の浜でアワビとり競争を行った描写が有るようです。

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しんちゃん

神島 (2022/10/30 訪問)

三重県鳥羽市の神島は三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となったことで有名になりました。周囲は3.9km 基本移動は徒歩になりますので高低差などを含めると結構な距離ではあります。映画化も5回行われており、ロケも神島で行われています。観光客以外にも釣り人にも人気の島のようで、往復3000円の観光船は訪問客でいっぱいです。
鳥羽市になりますが愛知県田原市の方が近く、観光船なら15分で到着です。東周りに周遊するコースで、まずは小説にも登場する神島灯台を訪問します。

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西光寺 (2024/07/06 訪問)

 葛西清重が出家し居館があった場所に創設したのが、西光寺と伝わっています。山門横の塀から説明板が顔を出していました。

京成本線四ツ木駅から徒歩5分くらいです。

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葛西城址公園および御殿山公園 (2024/07/06 訪問)

 葛西城址公園および御殿山公園として整備されています。遺構はないようですが、御殿山公園に説明板や石碑などがありました。

京成本線青砥駅より徒歩15分くらいです。

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多聞寺 (2024/07/06 訪問)

 多聞寺北側の台地付近が城址と伝わりますが、遺構はないようです。多聞寺山門周辺を見て退却しました。
京成本線東中山駅から徒歩約5分で城址とされる多聞寺へ行くことができます。

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馬加康胤 (2024/07/06 訪問)

 実籾城から徒歩にて登城しました。20分くらいです。遺構はないようなので赤い城さん投稿の「例のマンション」の写真を撮影して退却しました。
 帰りは京成幕張駅まで歩きました。約15分です。

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妙見社 (2024/07/06 訪問)

 妙見社を目指して行きました。宅地になっていてあまり散策できないので、付近を歩いて来ました。

京成本線実籾駅から徒歩15分くらいです。

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しんちゃん

阿坂城の「附(つけたり)」 (2024/02/17 訪問)

枳城は標高180mの尾根の頂部に築かれています。阿坂城の出城とされ、「附」として国の史跡に指定されています。林道が近くまで続いていますが、状態が悪く車が大事な人は歩いてきた方が無難です。主郭は頂部に築かれ、東西に堀切が配されています。北側には帯郭が配されており、南側の通路も帯状の平坦地とされています。主郭には案内板が設置されており、仏像が一体据え置かれ、訪問者を出迎えてくれます。

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しんちゃん

山科本願寺南殿 (2024/02/10 訪問)

延徳元年(1489)75歳になった蓮如は、本願寺の東800mあたりの土地に隠居寺を造り、居住したとされています。跡を継いだ息子の実如が住まう北殿に対し南殿と称され、一辺200mほどの方形をした居館で周囲を堀と土塁で囲まれていたとされ、いまでも土塁が残っています。見学には光照寺の許可が必要ですが、インターホンで確認をとれば特に問題無く見学することが可能です。

山科本願寺南殿跡‥光照寺 京都市山科区音羽伊勢宿町

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ぴーかる

吉川城 (2024/05/11 訪問)

【吉川城】
<駐車場他>駐車場はなし。どんどん庵大府宮内町店で食事し駐車しました。北にある吉川熊野神社に駐車できるようです。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅7城目。吉川城は1397年、吉加波入道によって築城されたとされます。戦国時代には花井氏の居城となったそうです。1580年に花井氏は寺本城に居城を移したため廃城となったようです。
 現地に遺構は残されておらず、城跡碑と城内にあったと伝わる弁財天が祀られています。同時期に創建された吉川熊野神社には寄りませんでした。

<満足度>◆◇◇

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零汰

佐野鞍懸城(大分県豊後高田市):ひっそりと石垣 (2019/07/27 訪問)

最狂長岩城や一ツ戸城その他大分県は石の城が多いイメージがあります。地元がほぼ土の城一択なので余計にそう感じるのかもしれません。
こちらは一ツ戸城と同じく樹木の生える山頂にひっそりと佇んでいます。違いは破壊が少なく石垣の体を保っている場所が見受けられる事です。標高は100m程度、小規模な城ですが石積ではなく石垣を見られるので国東半島に行かれる際には訪れたら如何でしょう。

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