会津若松城周辺の投稿です。西郷頼母近悳は戊辰戦争の時の会津藩の家老です。西郷家は元々は保科家の支流で頼母は通称、代々の家老職になるようです。近悳は藩校日新館を優秀な成績で卒業し文武に秀でていたとされています。23歳で家老職に就き、藩政に携わりました。
近悳は会津藩の中でも穏健思考で藩主容保の京都守護職拝命に当たっても否定的な意見を述べ容保の怒りを買っています。戊辰戦争の際には白河口総督を務めますが、戦いに敗れ帰藩し和議を主張するも退けられました。
新政府軍が会津城下町に攻め込んだ時に家族ら21人は邸宅で辞世の句を詠み自決しました。頼母は長男・吉十郎とともに城を去り、米沢・仙台を経て榎本武揚の艦隊に合流しますが、函館で武揚は新政府に降伏しました。
他にも会津戊辰戦争終結の地や、白虎隊隊士・井深茂太郎の生家跡を訪れています。茂太郎は16歳で飯盛山で自刃し、ソニーの創始者の井深大氏は親戚にあたるそうです。
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