「城攻めは 上中下なり 石垣山(しろぜめは じょうちゅうげなり いしがきやま)」
自身の石垣山の投稿が多くなって来たので、これはただのお城川柳として投稿させていただきます。以前「上山城」の投稿で、沢庵和尚の教えの「政は上・中・下」を書かせていただきました。これは城攻めに当てはまる場合もあると思います。
豊臣秀吉の城攻めは「劇場」のような要素を持っていて、見る者や人づてに聞く者に多大なインパクトを与えると思います。
「鳥取城攻め」の場合は周辺まで陣城が迫り、下側から圧力を加えました。もちろん太閤ケ平からのプレッシャーもありますが、この位置的な意味の「中」は今回は省きます。
小田原攻めの場合は上側から圧力をかけています。小田原城内もしばらく揉めたようですが、黒田孝高と織田信雄家臣・滝川雄利らの降伏勧告に応えて開城しました。滝川雄利自身も小牧・長久手の合戦の際に松ヶ島城に籠城し、羽柴秀長の軍勢の前に降伏・開城しているので、使者としては適任だったのかもしれません。この場合は孝高と雄利が「中」の役割を果たしたのだと思います。
沢庵和尚の教えでは中は上と下の間に線を引き、口で意志の疎通をはかるとされています。
「開城の 意志も城主の 度量成り」
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