みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:弥勒寺山城 (2025/05/28 訪問)

JR和歌山駅バス停からバスで秋葉山バス停に着きました。そこから徒歩5分弱で、秋葉山プール入口付近(34.199323、135.170724)に着きました。
この付近で駐輪した後、階段を登り、徒歩で歴史と風土の丘(34.199243、135.173096)に向かいました。

1577年(天正5年)雑賀孫一によって築かれました。
弥勒寺山城は「雑賀合戦」の舞台となった城で、孫市が織田軍を迎え撃つために山全体を城塞化しましたが、信長は6万の大軍で攻め寄せ、最終的に降伏しました。
その後、1585年(天正13年)には羽柴秀吉による「紀州攻め」がおこなわれましたが、このときの史料には現れないため「雑賀合戦」の時点で廃城となったようです。

現在城址は「秋葉山公園」として整備されています。
明確な遺構や城跡碑はありませんが、秋葉山古戦場跡(雑賀合戦)の説明板などがあります。
山頂の展望台からは和歌山城が見えることを期待するも木が邪魔をして見えませんでした。。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=雑賀崎台場を目指す為、秋葉山バス停からバスで雑賀崎遊園バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和佐山城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
千旦駅から徒歩20分くらいで、高積神社参道入口(34.234126、135.254390)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、延文年間(1356年〜1361年)に紀伊国守護の畠山尾張守義深によって築かれたと云われています。

道を間違え分岐点を反対に曲がってしまい、気が付いたら、神社についていました。後で調べたら、高積神社上ノ宮でした。
方向音痴の自分には登城口からの案内標識がほしいです。
分岐点まで戻り、このまま攻城すると電車の時間に間に合わない為、途中で断念しました。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=弥勒寺山城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べる為、千旦駅から電車で和歌山駅に戻りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:秋月城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分ちょっと走って、耕月寺入口付近(34.2299032、135.204850)着きました。
その後、秋月城跡付近(34.229896、135.204170)に向かいました。

延徳年間(1489年〜1492年)紀俊連によって築かれたと云われています。
その背景には雑賀党の勢力拡大があり、日前神宮と國懸神宮の社領を守るために土豪の飯垣周防守に守らせたそうです。
秋月城は太田城を居城とする太田党の支城でしたが、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めで落城し、そのまま廃城となりました。

城跡周辺、及び耕月寺周辺を歩きましたが遺構らしきものはありませんでした。
耕月寺は朝早い為、閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=和佐山城を攻城する為、和歌山駅から電車で千旦駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

福井県立郷土歴史博物館 (2025/06/23 訪問)

福井城の本丸から少し歩いた場所にある博物館
撮影禁止の展示が多かったため…撮影OKの場所のみ撮影&添付

受付で福井城の特別御城印を買う…北庄城・西光寺・福井城すべての御城印を揃えると…(おまけとしてもらえる左下に該当するピースと合わせて)一つの絵となる

館内には古代から現代までの福井県の歴史が紹介されてる
古墳時代の棺…越前(福井県)で戦死した新田義貞…江戸時代あたりの九十九橋…福井城の復元ジオラマ

福井藩が生んだ…若くして花開き散った秀才…橋本左内
明治における福井の偉人
福井空襲(火災から逃れるために避難民は、城の水堀に飛び込んだが、そこは焼夷弾の熱により高温と化しており…多くの人々がそこで亡くなった🔥)
戦後間もなくの福井大地震…天守跡の石垣が崩れて…今でもそれは残ってる

それとは別枠に…北庄城を拠点として越前を治めていた柴田勝家およびその妻お市…関ヶ原の戦い以降に統治者となり、福井城を築いた結城秀康…の紹介コーナーもある

来館したのは18:10あたり…閉館時間ギリギリの18:59まで…眺めるだけ展示を眺めた

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

登城ルートより 険しい堀を越えて山城に向かう (2025/05/05 訪問)

こんなマイナーな城、他に誰も来ないだろうと思っていたら、ニッポン城めぐりの口コミで1件ありました。伊東48城の一つとされ、城主は米良氏とされています。せっかくなので、登城ルートを含めてもう少し詳しく。
城址は坪谷小学校の裏山から取りつくことが出来ます。昌福寺の西の脇道から城址に登りましたが、小学校の中からの方が楽に取りつくことが出来ます。裏山に墓地がある関係からか、休日でも学校の門は解放されていましたが、平日は了承を取る必要があると思います。この解放感は都市部の学校では、少し考えられないですね。
墓地の裏手を登って行くと、小さな城址碑のある広い扁平地があります。ここが最初の郭ですね。この先に堀切が連続していて、尾根を登って行くと主郭と見られる山頂に到達します。連続する堀切の最初の方にかなり険しい堀切が有ります。
山城に慣れた人であれば、雨天でも無い場合、先に進めると思います。8つ目か9つ目の堀切が竪堀となって尾根に随走して上に向かって伸びていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

西の丸三重櫓 (2025/06/22 訪問)

開国記念館で100名城スタンプを押して…城カードを買った際…御城印に「西の丸三重櫓」というのがある事を知る

スタッフにその位置を尋ねて…天守の裏側にある事を教わり…「ここ彦根城は2年前にも来た事あるが…そこはまだ行ってないと思われる…逃したくない!」と思えたので…それの御城印を購入後、そこへ向かう

入場ゲートを通ってから…ひたすら急な坂を上る…これだけで筋トレになるかもなくらい

ようやく櫓へ…靴を脱いで入場👞
三重櫓の名の通り…3階建て🏯
一層目は奥の部屋もあり…面積は広め
二層目以降に上がる階段が(天守の中のように)急すぎ
荷物を持ちながら上がるのは無理に思えたため、
「失くなりませんように😖」と願いながら…一層目の隅に置いて…二層目三層目へと上がる🪜

三層からの眺めはよい…二層のも…大河ドラマ江でこの櫓が使われた事あるそうで…その紹介もあり

なお…一層に戻り荷物確認…カバンだけでなく中に入ってる物も無事だったので…日本の治安に改めて感謝した😂

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

堀越城 (2025/04/28 訪問)

【堀越城】
<駐車場他>見学者用駐車場あり。トイレあり。
<交通手段>車

<見所>堀・土塁・虎口跡
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目8城目。第14回日本100名城、続日本100名城に負けない名城で特集された堀越城に行きました。午後4時前に到着し、三の丸跡から順に巡りました。平城ながら、見事な堀と土塁は圧巻の見応えで散策を楽しみました。主郭跡に入ったところで雨が降り出し、城跡の西側を散策できずに切り上げてしまいました。城跡見学後に行こうと思っていた資料館となっている旧石戸谷家住宅も4時に閉館したらしく、調査不足で御城印も買えずじまいとなってしまいました。城跡巡りを欲張りすぎて時間配分を間違えた。ここは見応えある城跡なので結構時間かかる。

<満足度>◆◆◆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

延岡城 (2025/05/05 訪問)

延岡城の本丸南東には天守台があり、周囲に石垣も残っています。有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」には「天守台」と記載がありますが、天守閣は描かれていないようです。慶長年間の「日向国絵図」には望楼型の三重天守が描かれているとされ、現在でも天守があったのか、はっきりしていません。
明治初年ごろの絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓が有ったとされますが明治10年の西南の役で焼失してしまいました。明治11年に梵鐘が今山八幡宮に寄進されますが、後に天守台に移設されました。初代の鐘は教育委員会に保存され、今 天守台にある鐘は二代目にあたります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

魚津の漢達(うおーづめん) (2025/04/13 訪問)

天正10年(1582)「魚津城の戦い」では柴田勝家率いる織田の大軍が魚津城を包囲しました。上杉から離反した椎名氏が討伐されると、上杉方の重要な拠点となりましたが、魚津城の戦いで中条景泰ら「魚津在城十三将」とされる上杉方の主将13人がことごとく果て、魚津城は落城しました。しかし、落城の前日には織田信長が本能寺で横死したとの知らせが入っており、織田軍は撤退、魚津城は再び上杉方の手に戻りました。その後、佐々成政の手に落ちますが「富山の役」の後に前田利長に受け渡され青山吉次などが城代を務めました。

今日は忍びを放って、探りを入れてみたら合戦の勝者に「安(つね)」さんが配られていました。女武者+鎧の組み合わせ、いいですね。個人的にちょっとツボです「おつやの方」とか「直虎」さんとか。
戦が終わったので、あとは鎧をぬが(ザクッ!!)・・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シェル

出丸リベンジ!! (2024/06/27 訪問)

 京成佐倉駅から徒歩20分・JR佐倉駅から徒歩30分ほどです。
 約8年ぶり、二度目の登城です。前回は国立歴史民俗博物館の見学でかなり時間をかけてしまい、麓の出丸跡の遺構を見逃してしまったので、今回はリベンジということで、出丸の見学を目的に登城しました。まず京成佐倉駅前の観光協会で御城印を購入。(謙信一夜城、臼井城などの御城印もこちらで販売されています。)
 京成佐倉駅側の田町門跡から城内に入りました。城跡は佐倉城址公園として整備されています。
 両町橋→田町門跡→愛宕坂→復元角馬出→へび坂→出丸跡(薬医門)→清水出丸→台所門跡→本丸→一の門跡→出土の礎石→二の丸→二の門跡→三の門跡→大手門跡の順でぐるっと見学してきました。
 麓の両町橋・田町門跡周辺と二ヶ所の出丸の周辺には、水堀が残存しています。北西側の出丸には、現存する薬医門が残されています。
 空堀もかなりの深さがあり、見ごたえたっぷりです。特に三の門跡の空堀は見学しやすいのでおすすめです。国立歴史民俗博物館そばには、大規模な角馬出も復元されています。こちらの馬出も圧巻でした!!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シェル

住宅地に上杉謙信ゆかりの地 (2024/06/27 訪問)

 京成臼井駅南口から徒歩5分ほど。
 駅前から南に少し歩くと一夜城公園があります。公園内の南西角に、大きな謙信一夜城の石碑があります。
 上杉謙信が臼井城攻めの際の陣城として利用した場所ということですが、遺構はなく、一般的な住宅街の公園という雰囲気でした。
 京成臼井駅から一駅先の京成佐倉駅の駅前観光案内所では、謙信一夜城の御城印が販売されています。訪問記念ということで購入しました!!

+ 続きを読む

シェル

上杉謙信を跳ねのけた城 (2024/06/27 訪問)

  京成臼井駅から徒歩20分弱。
道中はアップダウンがけっこうあります。公園にはトイレ、駐車場が設置されています。
 駐車場から土橋のそばへ向かう階段は、スズメバチ注意の貼り紙があり、立ち入り禁止になっていたので、回り道をして城址碑と説明板のある西側の入り口から公園内に入りました。
 臼井城は永禄九年(1566) 北条方の千葉氏の家臣 原氏が城主の時に、関東に出兵していた上杉輝虎(謙信)の攻撃を受けますが、撃退することに成功しました。この謙信の敗北以降、関東は北条氏優勢に転じ、佐竹氏ら関東諸氏の中では、上杉氏離れが起きるなど関東の戦国時代のターニングポイントになったお城として知られています。
 現在は公園内に二の郭と本郭が残っています。二の郭と本郭の間には空堀・土橋が残存しています。また本郭の虎口も良好な形で残っています。また本郭からは、印旛沼を望むことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トビシマカンゾウ (2025/06/16 訪問)

相川金山地区から、佐渡ヶ島西岸を北上して小川台場へ。満開時期は逃しましたが、トビシマカンゾウがまだ咲いていました。西海岸には、佐渡ヶ島の激しい隆起と日本海の荒波が作った絶景が続きます。よく道を作ったなあと感心する箇所も多々。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

夏草茂る真壁城-3/3 曲輪編 (2025/06/07 訪問)

 夏草茂る真壁城-2/3 虎口編の続です。

 チョイ寄りの真壁城は9年振り2度目の登城です、真壁体育館駐車場を利用し本丸東虎口土橋より二の丸へ、二の丸の若干高い所で真壁城を東に眺めれば筑波山山系の北側に位置し西に広がる山麓に扇状地の様に広がる、城域を見る事が出来素晴らしい景観です、時は夏、夏草茂る真壁城は圧巻の景色。
 今回チョイ寄りに付き、遊歩道伝いの散策探訪です、二の丸、中城、中城の会所、中城北側はブルーシートに覆われて発掘調査中の様です、外曲輪、東突き当りの鹿島神社、外曲輪北虎口を移動したエリアです。
 本丸の真壁城解説板に依ると、国指定史跡エリアは125,000㎡(37,900坪)本丸跡から東方向の二の丸、中城、外曲輪が入ります、草が茂りますので、曲輪、虎口、土塁、濠・壕・堀の草刈整備が大仕事に成ります。
 今回土塁上には登りませんでしたので、土塁編投稿は無しですが、曲輪編に写ってる土塁で情景をお察してください。

 今回は孫の運動会観戦で宇都宮へ、翌日には創建1300年の多賀城外郭復元南門初対面、帰路に陸奥八丁目城、陸奥土合舘、16年振りの二本松城、翌々日には前年時間切れで断念した常陸石岡城、チョイ寄り志筑城、今投稿の真壁城と廻り同日夕方遅くに浜松帰宅、1500km程の走行距離でした。
 
 長々と投稿ご覧頂きありがとうございました。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

大徳寺 龍源院(京都市北区紫野大徳寺町) (2025/03/08 訪問)

龍源院は戦国初期に畠山義元、大友義長、大内義興らが創建した大徳寺最古の塔頭で、創建当初から遺る国重文の表門、附玄関(唐門)、方丈のほか、方丈の周囲に配した一枝坦(方丈前庭)、龍吟庭、東滴壺、滹沱底(阿吽の石庭)などの禅宗庭園が見どころですが、もちろん単なる寺院や庭園めぐりではなく、金森長近ゆかりの地として(ニッポン城めぐりの地域イベントとしても)訪れました。

金森長近は織田信秀に仕えた際に信長の守役となったようで、信長が家督を継いだ後も赤母衣衆として側近くで支え続けました。また、長近の嫡男・長則は近習として信長の嫡男・信忠に仕えていました。そして迎えた本能寺の変…。幼少期より見守ってきた主君だけでなく嫡男まで失った長近は、大徳寺住持・春屋宗園の下で剃髪して法印素玄と号し、金森氏の菩提寺として、そして信長の追福のために大徳寺に金龍院を創建しました。

金龍院は明治の区画整理により龍源院に統合され、跡地には石碑が立てられています(見落としてしまいました…)。統合に際して金龍院に伝わる金森氏ゆかりの品は龍源院に引き継がれ、日本最古とされる金森可重所用の火縄銃や、徳川家康と豊臣秀吉が伏見城で対局した際の碁盤と碁笥(長近が秀吉から拝領)が寺宝として展示されていました。

金龍院が廃寺となったのは残念ではありますが、金森氏ゆかりの品が引き継がれているのが救いですね。龍源院の庭園も、禅宗庭園のことなどさっぱりわからない私にも、なんかすごい…と思わせるものがありました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

住宅地の中に (2025/06/18 訪問)

仕事で近くまで来たので立ち寄りました。
地下鉄の守口駅から向かい、徒歩で5分くらい。
難宗寺周辺が主郭跡ですが遺構は残りません。
このお寺には太鼓楼があり、城っぽさはなんとなく?
太鼓楼の前には京街道の石碑が立っていました。

近くの盛泉寺周辺が二郭跡とのこと。
こちらも遺構は残りません。
この2つの郭で成る連郭式平城だったとされています。

時間的にもあまりウロウロ出来なかったので早々に立ち去ることにしました。

【見どころ】
 ・難宗寺の太鼓櫓

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

万博翌日の攻城⑤ (2025/05/11 訪問)

難波宮からの転戦です。多門櫓、千貫櫓、焔硝蔵の特別公開は真田丸の年2016年と2018年の2回、参加しましたが、乾櫓の特別公開は、未体験です。残念ながら5月6日が公開最終日でした。そんな中、狙っていたのは豊臣石垣館でしたが、大天守のチケット売り場の長蛇の列を目にしてあっさりと断念いたしました。混雑する城は開城前に並ぶに限りますので、朝一で駆け付けられる機会を待ちたいと思います。G24献血ルームでの献血を狙う際がチャンスかなと思っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:太田城 (2025/05/27 訪問)

宿泊ホテルから徒歩10分くらいで、堤防跡付近(34.234547、135.200632)に着きました。
その後、来迎寺山門前(34.230459、135.1958040)に向かいました。

延徳年間(1489年〜1492年)に第64代国造俊連が築城したとも云われて、太田氏の居城として知られています。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による「太田城の戦い(太田城水攻め)」の舞台となった城であり、この合戦は備中高松城、武蔵忍城ととも「日本三大水攻め」のひとつに数えられています。

水攻め堤、いい味出してました。
来迎寺山門入って左側に説明板がありました。
来迎寺の跡、大立寺に移築城門を見に行く予定でしたが、雨が降ってきたので、ここで撤収しました。
本日の夕飯は、めはり寿司とくじらの刺身です。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先ホテルに戻りました。
歩行歩数=36384歩、歩行距離=25.5Kmです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:土丸城 (2025/05/27 訪問)

雨山城からの転戦です。

1347年(南朝:正平2年/北朝:貞和3年)ごろに北朝方の日根野氏が築城したとされています。
1347年(南朝:正平2年/北朝:貞和3年)北朝の足利尊氏の命を受けて、和泉国守護に就任した高師泰は、雨山の麓、熊取荘に隣接する日根荘の武士であった日根野盛治にこの城の守備を命じました。
しかし、尊氏・直義兄弟の内乱(観応の擾乱)から高師泰は左遷され、南朝方が勢力を盛りかえした結果、1352年(南朝:正平7年/北朝:観応3年・文和元年)から翌53年の戦いで日根野氏は南朝方に土丸城を奪われました。
1378年(南朝:天授4年/北朝:永和4年)南朝方の橋本正高・和田正武らが土丸城を拠点として北朝方と戦ったが敗れました。
橋本正高は、1379年(南朝:天授5年/北朝:永和5年)と翌1380年(南朝:天授6年/北朝:康暦2年)にも当城に拠って戦ったが山名氏清らに敗れ、高名里で戦死したと伝えられています。
その後も楠木正勝や山名義理らが当城および雨山城に拠り、15世紀以降も山名氏や畠山氏らの抗争の舞台となりましたが、最終的には1617年(慶長20年)の一国一城令で雨山城と共に破却されたと伝えられています。

土丸城には雨山城の主郭と千畳敷跡の間の道から行くことが出来ます。
土丸城は、雨山城の三の丸とも言われています。
雨山城から土丸城まで結構近いと誤解してしまい、攻城時間の見積もりを間違いました。
このまま土丸城を攻城すると、本日最後の攻城先=和歌山の太田城に日の入までに間に合わない恐れがでた為、途中で攻城を諦め引き返しました。
攻城時間は100分(雨山城+土丸城)くらいでした。次の攻城先=太田城を目指す為、浪商学園前バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、東岸和田駅の宿泊先ホテルに戻り、預けた荷物を引き取りました。
その後、東岸和田駅から和歌山駅に向かい、本日の宿泊ホテルにチェックインした後、太田城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(東海&関西)遠征13日目:雨山城 (2025/05/27 訪問)

浪商学園前バス停から徒歩20分弱で、雨山城跡駐車空スペース(34.374629、135.364009)に着きました。

1346年(南朝:正平元年/北朝:貞和2年)に南朝方で楠木氏一族の橋本正高が築城したとされています。
橋本正高は、当城と土丸城とを拠点として、1378年(南朝:天授4年/北朝:永和4年)ごろに度々北朝方と交戦したが、山名氏清軍の攻撃を受けて落城し、1380年(南朝:天授6年/北朝:康暦2年)に高名里で戦死したと伝えられています。
1388年(南朝:元中5年/北朝:嘉慶2年)には、南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、籠城したものの、北朝方の山名義理の攻撃により落城したようです。
その後は、根来寺の根来寺衆の拠点となった時期を経て、1617年(慶長20年)一国一城令で土丸城と共に破却されたと伝えられています。

一郭には休憩所があり、祠が祭られています。1郭南側下に井戸があり、この井戸の下の側面部から土丸城の方に向かいます。
攻城時間は100分(雨山城+土丸城)くらいでした。次の攻城先=土丸城に徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ97