群馬県最大級の山城です。大道寺政繁が大改修しました。豊臣方の大軍を1ヶ月食い止めました。
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2025/06/25 12:29
2025/06/25 10:16
白亜の天守と再現された鉄板は綺麗でした (2025/06/07 訪問)
福山城は3回目の訪問ですが、北面に鉄板が張られリニューアルされてからは初めての訪問です。外壁も塗り直され屋根や内装もとても綺麗に生まれ変わっていたのでビックリしました。中は歴史博物館になっていて、春風亭昇太さんが解説するビデオなどもあり、とても楽しく分かりやすい展示でした。また見入っているとホテルウーマンのような制服を着た方が来て説明してくれたので、何やらちょっと緊張しました。まるで高級ホテルにいるような雰囲気です。そういえば現在はキャッスルステイもできるそうなので、どなたかぜひ宿泊体験を!(一泊2名で132万円)。でも入場だけなら500円です(笑)。
築城者の「水野勝成」は家康の従弟にあたり、関ケ原や大坂の陣での活躍で福山10万石を賜り、伏見城の伏見櫓は家康からプレゼントされ移築したようです。またわずか10万石にもかかわらず50万石に相当するようなこのような大城郭を築けたのも、家康からこれで西国を監視せよとのお墨付き(金銭援助)があったからだとか。これで当時は外様しかいない西国大名たちに「おれは譜代、しかも従弟だぞ!」と自慢したのかもしれませんね。
幕末の城主、日米和親条約を結んだ事で有名な「阿部正弘」は、江戸で生まれ福山には1回しか帰れなかったと知りました。でもその時は農民一人一人にも笠をとって手を振ったとか、温厚な人柄が偲ばれます。しかしそれ以降、ペリーの対応に忙しく激動の時代に老中首座を務め、その心労からか37歳の若さで亡くなったそうです。さぞかし無念だっただろうと思いました。
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2025/06/25 08:08
…船岡山城よ、私は帰ってきた! (2025/03/08 訪問)
応仁の乱において西軍が船岡山に築いた陣城で、戦国前期には細川政賢が籠って大内義興と戦いました(船岡山合戦)。また戦国後期にも足利義輝が布陣して三好長慶と対峙しています。
船岡山の南西麓に自転車を駐めて登城開始。長く続く階段を見上げると、6年前に早春の雨に打たれながら自転車を走らせてここまで来たものの、この階段を見上げたところで心が折れて登城を断念したことが思い出されます。…船岡山城よ、私は帰ってきた! このイオは6年待ったのだ!(ガトー風に)
船岡山の西部は船岡山公園として整備され、東部には建勲神社が鎮座しています。南西の山頂部は東西二段に細長く削平されていますが、公園整備よるものか城郭遺構は見られません。比高は50m程度ながら独立丘のため周囲の見晴らしは良く、陣城には最適の地であることがわかります。山頂部北側の山腹には塹壕のような横堀が東西に長く続き、北麓からの侵攻に備えています。横堀は西端では竪堀となって落ち、東端からは北西に折り返して続いていました。横堀北端近くの削平地は展望所となっていて、眼下には広大な大徳寺が広がっています。
船岡山は豊臣秀吉により織田信長の霊地とされ、明治に信長を祭神とする建勲神社が創建されました。まずは建勲神社に参拝。拝殿には秀吉や柴田勝家、丹羽長秀ら家臣団を描いた額が掲げられていました(金森長近は…?)。縄張図によれば、本殿の奥には堀切・竪堀・竪土塁・横堀を複雑に組み合わせた遺構がある…はずですが、柵に鉄条網までめぐらせて立入禁止になっているため、北裾と南裾から柵越しに覗くことができるのみです。
…ということで、6年越しでリベンジを果たすことができましたが、遺構としては山腹の横堀くらいしか見るところはなく、入れ込んでいた割には…という感じでした。ただ、眺望と建勲神社、そして様々な合戦の舞台に立っているんだ、という感慨は悪くありませんでした。
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2025/06/25 07:00
田んぼの中に (2025/06/08 訪問)
館跡は水田と住宅地になっています。
邪魔にならなさそうなところに路駐して散策しました。
城マークが示す場所には土塁の一部が残っています。
ただし私有地なので中には入れません。
時季的に土塁も明確な形を確認することはできませんでした。
鎌倉時代から室町時代前期に築かれたとされます。
賀陽氏は近くの吉備津神社とのつながりが強い地元の豪族だそうです。
【見どころ】
・田んぼの中に一部残る土塁
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2025/06/25 05:10
(東海&関西)遠征12日目:野村城 (2025/05/26 訪問)
平井山本陣から車で20分くらいで、厄除八幡宮駐車場(34.783765、134.922728)に着きました。
そこから、あぜ道入口(34.786641、134.921406)に向かいました。
詳細は不明のようですが、1469年(文明元年)別所氏の家臣の野村氏が築城しました。
天文年間(1532年〜1555年)に落城するまで野村氏が城主だったようです。
また、天正年間(1573年〜1592年)に羽柴秀吉の家臣宮部善祥坊が城主であったとも伝わるようです。
奥の山裾に見えるリボン付近から登るとの情報があり、リボンを捜しましたが見つかりません。
帰ってから調べたら、登り土塁の所を登ればよかったようでした。
攻城時間は30分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、加古川駅でレンタカーを返却し、加古川駅から電車で東岸和田駅に向かいました。
歩行歩数=32821歩、歩行距離=23.0Kmです。
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2025/06/25 04:58
(東海&関西)遠征12日目:平井山本陣 (2025/05/26 訪問)
豊地城から車で15分くらいで、登城口前駐車場(34.809790、135.013483)に着きました。
そこから、愛宕社➡太閤道➡主郭➡大手口方面と進み、戻ってきました。
登城口前駐車場から徒歩5分くらいの場所に、竹中半兵衛の墓入口(34.809240、135.010790)があります。
1578年(天正6年)三木城の別所長治が織田氏を離反し毛利氏に付いたため、これを攻略するための付城群の本陣として織田信忠が築き、その後に羽柴秀吉が入ったようです。
なお、1579年(天正7年)に当地で竹中半兵衛が亡くなっています。
主郭の仮設展望台は、ありませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=野村城へ向かいました。
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2025/06/25 04:53
(東海&関西)遠征12日目:豊地城 (2025/05/26 訪問)
久下城から車で50分くらいで、観音堂南側(34.881309、135.014922)に着き、路駐しました。
そこから、観音堂(34.881773、135.014906)向かいました。豊地城は道路を挟んで反対側にあります。
築城年代は定かではないようですが、金谷経氏の居館と伝わります。
守護が赤松氏、山名氏時代も城館としては機能していたようです。
1336年(建武3年・延元元年)に北朝方によって焼き払われました。
応仁年間(1467年〜1469年)頃になると国人の依藤氏(よりふじ)の居城となりました。
1483年(文明15年)赤松政則は真弓峠で山名政豊に大敗すると、重臣の浦上則宗らは東条に諸将を集めて会談を行い赤松政則を追放しました。
1530年(享禄3年)別所村治(就治)は柳本賢治の援軍を得て豊地城に攻め入りますが、浦上村宗の援軍と柳本賢治が陣中で急死(暗殺とも)し、依藤氏は攻勢に転じて別所勢は敗走しました。
しかし、1559年(永禄2年)頃には依藤氏は別所氏によった滅ぼされました。
その後、永禄年間(1558年~1570年)は別所重棟が城主となりました。
1578年(天正6年)別所氏本家の長治、兄の吉親が織田氏から離反しますが、重棟は羽柴秀吉に従いました。
1580年(天正8年)三木城合戦で別所氏が滅ぼされると豊地城も秀吉の命で城は破却されました。
重棟は1585年(天正13年)に但馬八木城、15,000石を秀吉から与えられました。
現在は観音堂の所に石碑があり、南側は堀跡、東には高土塁が残っていますが、周辺は田んぼになっています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=平井山本陣へ向かいました。
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2025/06/25 04:47
(東海&関西)遠征12日目:久下城 (2025/05/26 訪問)
黒田城から車で20分くらいで、案内板(35.084571、135.047607)を経由して、長慶院付近(35.086195、135.047298)に着きました。
久下氏は清和源氏の祖源満仲の弟・武末の孫である基直が武蔵国大里郡久下郷(埼玉県熊谷市久下)を本領としていました。
1180年(治承4年)頼朝が旗揚げをした時、大庭景親に属していた久下直光・重光父子は、頼朝のもとに馳せ参じます。
重光の代に源平の争乱で先行をあげ、1221年(承久3年)承久の乱の後に、恩賞として丹波粟作郷の地頭職に任じられ重光の孫・直高がこの地に移り住みました。
室町時代は丹波守護代をつとめた久下氏でしたが、1493年(明応2年)細川政元による「明応の政変」をきっかけに勢力を失います。
戦国末期には黒井城の赤井氏に従属しており、1579年(天正7年)の明智光秀を中心とした丹波攻略によって落城しました。
長慶院が改装工事中でした。長慶院は久下氏の菩提寺です。
長慶院裏の墓地で直登ルートを捜しましたが、自分には無理と判断して撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=豊地城へ車で向かいました。
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2025/06/25 04:42
(東海&関西)遠征12日目:黒田城 (2025/05/26 訪問)
光竜寺山城から車で20分ちょっとで、黒田城趾駐車場(35.053069、135.001911)に着きました。
そこから以下の順番で巡りました。
①登城口(35.053223、135.001992)
②姥が懐(35.053904、135.003206)黒田家の居館跡
③黒田城跡(35.053187、135.003584)清綱稲荷大明神
④黒田官兵衛生誕の里碑(35.052764、135.002192)
⑤荘厳寺入口(35.050558、135.014066)
真田昌幸&黒田官兵衛推しの自分としては、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地の黒田城訪問が今回遠征の目的の一つでした。
ちなみに、もう一つの目的は、真田昌幸が亡くなった九度山を訪問することです。(5/29(木)に訪問予定)
黒田城の詳細は不明のようですが、赤松円心の弟円光を始祖として息子、七郎重光が丹波との国境の黒田の地に1351年(観応2年)居を構えました。
1572年(元亀3年)石原掃部助と田高川湿地帯で戦い中、背後より赤井五郎の軍に襲われ戦いに敗れ、初代七郎重光より220年に渡りこの地を治めた黒田城は落城壊滅しました。
諸説あるうちのひとつに、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地といわれています。
登城口を階段ではなく左の小道へ行くと、黒田家の居館跡(姥が懐)に行けます。
時間の都合で、詰の城方面、多田構居跡入口/案内板には行っていません。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=久下城へ車で向かいました。
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2025/06/25 04:36
(東海&関西)遠征12日目:光竜寺山城 (2025/05/26 訪問)
野間山城から車で2~3分くらいで、町民グランド駐車場入口(35.012730、134.908281)に着きました。
そこから、登り口/案内板付近(35.013065、134.907759)に向かいました。
詳細は不明のようですが、在田筑前守村長が本拠地を野間に移した際、野間山城の整備と同時に築いた城と考えられているようです。
主に政治的、経済的権威を示すために造られた見せるための居城だったそうです。
ガルテン八千代・町民グランドの搦手口ルートから登城しました。
本丸・二の丸の曲輪も史跡公園としてきれいに整備されていました。
たんたんと攻城した為、写真をあまり撮っていませんでした。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=黒田城へ向かいました。
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2025/06/24 22:16
マツエ・ジョー (2025/04/05 訪問)
マツエ・ジョーを知っていますか?
2011~2にかけて開催された、カルチャーイベント「米子映画事変」のシンボル的な作品「大特撮ネギマン」に登場するキャラクターです。製作はあの「ガイナックス」で「ネギマン」の3~4話に登場して強烈な印象を残しています。
長い年月を経て、付喪神と化したという設定で、何の脈絡も無く松江に現れたネギマンと激しい戦いを繰り広げます。しかも、ネギマンが登場する時に、三の丸に鎮座する島根県庁を激しく壊しながらやってきます。なんで島根県庁を壊しながらやって来るの? 会場は大ウケだったと思いますね・・。島根と鳥取の関係性ってどうなんだろ?
最期は宍道湖に、元の天守の姿で落ち着くのだけど、作中に出てくる新聞に「松江城国宝化へ?」といった描写があったりします。松江城の国宝化にネギマンの貢献がどれだけあったのかは不明ですが、予言は見事に的中しましたね。
国宝になってから、松江城に来るのは初めてです。松江城は慶長12年(1607)~16年(1611)正月にかけて堀尾吉晴の子・忠氏によって築かれました。以前は天守に千鳥破風や唐破風なども有ったそうですが、元文3年(1738)~寛保3年(1743)の大改修で今の質実剛健な姿になったようです。天守の中には井戸や塩蔵もあり、外見に違わぬ実戦重視の城だと感じました。天守の最上階からは松江の街や宍道湖を良く眺望することが出来ます。
追記・「ネギマン」は今でもユーチューブで見ることが出来ます。ジョーの鉄砲狭間や石落としを使った攻撃は見ててジワジワ来ますよ。バンダイさん、プラモかスーパーミニプラで出してくれないかなあ・・(超合金は高い)。
ネギマンは・・要らんなあ。 ソフビでもいいですよ。
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2025/06/24 22:16
2025/06/24 21:54
大湯館散策1/2(大手登城口~二ノ丸,清姫神社) (2025/05/17 訪問)
現地では大湯城のほうが一般的なようです。郭を空堀でしっかり区切っているのが印象的でした。当時からプライベート空間の確保にこだわった居住スペースづくりは,現代的思考の表現と言えるかもしれません。実際,そんな意識ではなかったと思いますが…<笑>。
しかし,複数の神社が同一城内に存在しているということは,まんざらでもないのでは…とも考えてしまいます。
にのまるさんへ…
若桜鬼ヶ城の「8の字廻り」を参考にしてくださり,恐縮です。もう3年も前です。山陰地方に3年もごぶさたということにもなります。思い出のモノの中に,若桜鉄道のきっぷがあります。いまだ現役の「硬券」。改札ではさみを入れてもらった瞬間は凝視してしまいました✂…👀
山の中では少ない情報でも心の支えになることが多々あります。私の「8の字廻り」が,にのまるさんの攻城推進力となったのであれば幸いです。ラストの倒木越えのオマケも笑い飛ばしておられたようで,精神的にも強靭化したように思います。
さて,6/26~7/2まで遠征に出かけます。✈で飛び,北Qバックで下関にも立ち寄ります。先日レポートされた「勝山城」も行ってみる予定です。雨男なのに今のところ晴れ続きという天気予報が不思議です…。
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2025/06/24 20:09
シャイな島根っこたち。 (2025/04/05 訪問)
もうじき松江でお城EXPOが開催されますね。合戦で2連敗して、「黄梅院」「安(つね)」さんをゲットし損ねたので、限定武将ガチャにかけています。ガラシャさんをゲットしたいですが、なんとなく「淀どの」を引きそうな気がします、なんとなくですが。
この日は松江城と城下でお祭りが開催されていて、松江大名行列も見ることが出来ました。桜も満開だし、良い一日でしたよ。市長が堀尾吉晴に扮してやって来るので「殿~」と声をかけてくださいと頼まれました。で、「殿~」と声をかけてみたら、声を出したのオイラだけでした。えっ? お祭りなのにノリが悪くない? あとで松江城のスタッフに聞いたら、島根の人達はシャイなんだそうです。
まあ、旅の恥はかき捨てってやつで、何度も来てるけど。
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2025/06/24 19:56
2020.3.22登城 (2020/03/22 訪問)
成田山新勝寺の東側にある台地に寺台城址があります。
現在、物見台のあった場所が城址公園として整備されています。
それ以外の郭は藪化が激しく、散策は困難となっています。
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2025/06/24 19:54
2020.3.22登城 (2020/03/22 訪問)
広の台城から国道408号を南下するとすぐに田んぼの中に小山が見えてきます。
この小山が長沼城址となります。
ちなみに往時は田んぼでは無く、長沼という沼に囲まれていた様です。
現在は長沼市民の森として整備されており、空堀や土塁などの遺構が確認できます。
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2025/06/24 14:18
8の字まわり。 (2025/03/25 訪問)
鳥取から18きっぷと若桜鉄道1日フリー切符で若桜まで行きました。若桜鉄道も若桜駅舎も温もりと懐かしさに溢れてとても心地よかったです。
観光案内所は開館時間前だったので帰りに寄ることにして先にお城に向かいました。
八幡広場登城口から登ることにしましたが、
“えっ?ほんとにここ⁇ここから登るの⁈”
と体が固まって思考も停止してしまうような細ーい道。
「これが無理なら諦めなさい。」
ということなのでしょうか。。。
はい🙌
諦めません。
案内板も立っているし、滑り台を逆から上がるようなものだと思えば平気平気!この先に登山道があるはずだしと心を整え、グラウンドゴルフをされている方々に笑顔で見送られ登城開始しました。(杖と熊鈴装備)
果たしてすぐに歩きやすい道が現れほっとしました。朝田さんご投稿の“8の字まわり”が初めから終わりまですごくありがたいヒントになりました。ありがとうございます。
また、分岐ごとにわかりやすい道標を立ててくださっていたので安心して進むことができました。(行きは「尾根経由」です。)
40分くらいで三の丸広場に到着しました。
二の丸、本丸、天守台と見学します。電気柵は外されていました。
結構すごいところに来ちゃったかも⁉︎という焦りの気持ちも石垣や瓦片を見ると満足感に変わります。破城痕と今なお踏ん張る石垣に枡形跡。眺望も素晴らしかったです。登城ノートがあったので記入しました。
山頂でおにぎり🍙タイムにするのが好きですが熊出没注意の山では食事はしないことにしているので、充分に満足したところで下山します。
精神的・体力的に無理そうだったら馬場の駐車場でタクシーを呼んで迎えに来てもらうという保険をかけていたのですが、近くでチェーンソーっぽい音がして人がいることがわかったので六角石垣経由で徒歩下山することにしました。
チェーンソーの音は六角石垣の上からで、四阿の解体修理をされていました。雪解けを待って作業に取り掛かられたのでしょうか。ありがたいです。
あとはひたすら下を目指します。
階段設置のところやはっきり道筋があるところは慎重に歩けば大丈夫でしたが、一カ所とてもありがたかったのが写真8枚目のピンクリボンとガムテープ。もしこの目印がなかったらそのまま突進していたかもしれません。ここで右に折れるのが正解でした。どなたがマークしてくださったのか知るすべはありませんがとてもありがたかったです。私もどなたかのお役に立てるお城めぐりができたらいいなと思いました。
登城ノートにも書きましたが無事下山してこその城めぐり。まだ雪の残る古城を経て30分弱で8の字のクロスしている地点に到着。ここから第一町民体育館方面に下りました。
と、最後の最後で折れたてほやほやの倒木が通せんぼ😱
横の急斜面は歩けそうもなく、倒木の下を潜るのも無理。出口はすぐそこに見えているのに何という試練😭
乗車予定の列車は20分後に迫っています。八幡広場に引き返すのは面倒くさいし時間もありません。
最後かつ唯一の手段と、リュックとポーチを倒木の向こうに投げ、枝をガシッと掴みヨイショと乗り越えました。
無事帰還に感謝。
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2025/06/24 13:03
企画展「十返舎一九と蔦屋重三郎」を開催します!
十返舎一九といえば、『東海道中膝栗毛』で知られる江戸の爆笑ヒットメーカー。その才能を見いだしたのが、出版文化に新たな流れを生み出した蔦屋重三郎です。本展では、そんな二人が築いた江戸出版文化の華やかな世界を、厳選された76点の貴重な資料とともに紹介します。
また、前期・後期で展示替えを行い、より多くの貴重な展示品をご覧いただけます!
◆会期: 2025年7月5日(土)~8月24日(日)
【前期】7月5日(土)~7月27日(日)
【後期】7月29日(火)~8月24日(日)
◆開館時間:9時~18時(展示室入場は閉館30分前まで)
◆休館日7月7日(月)、14日(月)、22(火)、28(月)、8月4日(月)、18(月)
◆観覧料 ※詳細は添付画像をご覧ください。
さらに、講演会や歴史を楽しく学べるトークイベントなど、関連イベントも多数開催予定です。詳細は静岡市歴史博物館ホームページ(https://scmh.jp)をご確認ください。
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2025/06/24 12:17
西光寺 (2025/06/23 訪問)
特別御城印…北庄城・西光寺・福井城を全て揃えると1つの絵になる…キャンペーンがあったので…柴田神社(北庄城跡)を巡り北庄城の特別御城印を購入してから西光寺へ🚶♂️
境内に入ると…柴田勝家の墓があったのでお参り🪦
ちなみにこれは慶長年間(慶長元年=1596年)建立されたそうで、勝家は天正十一年(1583年)に自害…つまり亡くなってるから、死後10年くらい経過してから造られた
おそらくこの墓に遺骨は無く…供養塔という意味合いの強い存在なのではないかと推測。現に勝家とお市の亡骸は自害した跡に(燃えさかる城内と共に)火にくべられた…と北庄城の案内板にあったから…行方不明状態のままなのではないか?
資料館があったけど閉まっていた…境内隣に幼稚園があり…そこの事務所で西光寺の特別御城印と御朱印をいただけたのはツイていた
御朱印は西光寺のみ(500円)or西光寺・勝家(2ページにまたがる)(1000円)の2種類…せっかくここまで来たので出費は惜しまない…後者を選んだ私
帰り際に…勝家の墓にもう一度手を合わせた際…幼稚園から出てきた女の子に「なにやってるの?」と聞かれる。私はこう答えた…「墓参り…せっかくここまで来たから思い残す事無いよう十分に…🙏」と
見ず知らずの人に「なにやってるの?」と話しかけること…大人になるとなかなかできなくなると思う。子供って純粋でいいなあ😊
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2025/06/24 11:20
夏草茂る真壁城-2/3 虎口編 (2025/06/07 訪問)
夏草茂る真壁城-1/3 濠・壕・堀編の続です。
9年振りのチョイ寄り散策探訪でしたがしっかりと1時間超の経過、真壁城本丸跡に在る体育館駐車場から、本丸虎口土橋を渡り二の丸へ、二の丸高台より筑波山山麓に広がり、夏草が茂った真壁城東方面が雄大に俯瞰できます、素晴らしい景観です、二の丸跡南側に二の丸東虎口跡、ここは元からの残りかも、中城に進み南西虎口、櫓台、土塁、Ⅲの堀に木橋が架かる、土塁、木橋、濠、虎口と復元されている、中城に戻り南東虎口へ、遊歩道から外曲輪南虎口へ、土塁、虎口、Ⅳの堀が復元されている、戻って遊歩道を伝い外曲輪鹿島神社へ、鳥居を潜って参拝、鹿島神社の北東に外曲輪東虎口があり左右に外曲輪Ⅳの堀、壕が広く甦っていた、よく復元されて居ますが夏草に覆われていますが良く分かります。少し戻って外曲輪北虎口へ、虎口と土塁、Ⅳの堀も確認、夏草の葦の間を歩いていると、既に夏気分、此処三日、太陽に当たり腕は赤くなって日焼けがひどい。帰って来てから腕の皮が剥けました久しぶりの経験でした。
夏草茂る真壁城-3/3 曲輪編に続く。
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