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昌官忠

(東海&関西)遠征7日目:三雲城 (2025/05/21 訪問)

三雲駅から、徒歩40分ちょっとで、登山口手前空スペース(34.9815930、136.0952334)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、三雲城は六角氏重臣であり、甲賀五十三家に数えられる三雲氏によって築かれたようです。
一説に1487年(長享2年)三雲典膳が六角高頼の命で築いたとも云われています。
観音寺城の奥城とも呼ばれ、1568年(永禄11年)に織田信長によって攻められた際に六角承禎、義弼の亡命拠点として山深い甲賀地方でゲリラ戦を展開していたようです。
1570年(元亀元年)織田信長の武将佐久間信盛によって攻められ降伏開城しました。三雲氏はその後、蒲生氏や徳川氏に仕え江戸時代は旗本として存続したようです。

登城口にはパンフレットも置いてありますし、しっかり整備されていおり説明板もあるのでわかりやすくよかったです。
ただ、登城口に向かう途中で天気予報通り、大雨になり、傘を持ちながらの撮影はブレまくりです。
八丈岩の写真、雨で上を見ることが出来ず、大きさが全然わからないですね。
攻城時間は30分(大雨の為、早めに撤退)くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう為、三雲駅から石山駅に向かいコインロッカーから荷物を取り出した後、石山駅から電車で亀岡駅に向かいました。
三雲駅に着くころには、雨はやみました。三雲城でもう少し粘ればよかった。
歩行歩数=33953歩、歩行距離=23.8Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征7日目:多喜山城 (2025/05/21 訪問)

東宝ランドバス停から徒歩20分ちょっとで、日向山登山口駐車場(35.0239757、136.0220752)に着きました。

多喜山城はいわゆる「元亀争乱」の際に六角氏などの抵抗勢力に備えるために、織田信長の家臣である佐久間信盛が築城したと伝わっていますが定かではありません。
この地は奈良興福寺領であったことからそれ以前に地頭代によって城が築かれていたという説もあります。

現在城址は公園として整備されていますが、とにかく石段が多いです。
主郭まで721段の石段を登ることになりますが、とても歩きやすかったです。
主郭に土塁や枡形、石垣などの遺構が見られました。
手原駅に向く途中、旧和中散本舗大角家住宅の前を通りました。奥に庭があるそうですが、24時間営業のはずが、門が閉まってました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=三雲城へ行く為、手原駅から電車で三雲駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征7日目:関津城 (2025/05/21 訪問)

公民館前バス停から、徒歩5分くらいで、国道422号線城址入口(34.927148、135.922820)に着きました。

築城年代は定かでないようですが、宇野氏によって築かれたようです。
宇野氏は、清和源氏の流れをくむとされ、宇野守治が1221年(承久3年)承久の乱での功により、関津の地を与えられたそうです。
その後、代々この地を支配し、戦国期には佐々木六角氏の一族である青地氏の旗頭として草津・守山付近で勢力を伸ばしたとされます。

国道沿い西側土塁を確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=多喜山城へ行く為、岡の平バス停からバス➡電車➡バスを乗り継いで東宝ランドバス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征7日目:膳所城(滋賀県大津市内にある膳所城移築建物巡り) (2025/05/21 訪問)

宿泊ホテルのびわ湖浜大津駅から電車で京阪石山駅に向かい、JR石山駅のコインロッカーに荷物を預けました。
その後、ミディレンタサイクル石山駅北口で自転車を借りる予定でしたが、午後から雨予報の為、自転車を諦めてバス&電車で攻城することにしました。。

膳所城は今回2回目の攻城です。1回目は2018年9月22日に来ました。
前回は膳膳城跡公園と膳所神社付近を攻城したので、今回は滋賀県大津市内にある膳所城移築建物巡りを目的に攻城しました。

膳所城移築建物巡りは以下の順番で巡りました。まずは、膳所本町駅から徒歩10分ちょっとで、①に着きました。
①:芭蕉会館(旧膳所城本丸東側二重角櫓)(34.991611、135.884418)
②:膳所神社 南門前(34.994575、135.890438)
③:膳所神社 表門 鳥居前(34.994872、135.891113)➡鳥居奥にあります
④:膳所神社 北門前(34.994956、135.890430)
⑤:六体地蔵尊前(34.996794、135.887623) 
⑥:響忍寺 家老屋敷長屋門前(34.999674、135.889979)
⑦:和田神社 藩校門(34.997946、135.891935)➡鳥居奥にあります
⑧:膳所城城門(34.995022、135.894416) ➡写真の枚数の都合上、今回は投稿しません。
⑨:大養寺 家老屋敷長屋門(34.994368、135.891943)
⑩:篠津神社 北大手門(34.990634、135.893899)➡鳥居奥にあります
⑪:若宮八幡神社 本丸犬走門(34.987488、135.894824)
⑫:御霊神社 本丸黒門付近(34.972384、135.901854) バス&電車での攻城の為、断念
⑬:幻住庵駐車場入口(34.966735、135.890081)➡近津尾神社米倉門へ バス&電車での攻城の為、断念

攻城時間は80分(移動時間含む)くらいでした。次の攻城先=関津城へ行く為、瓦ヶ浜駅から電車➡バスを乗り継いで公民館前バス停に向かいました。

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しんちゃん

訪問しやすい (2025/04/13 訪問)

天神山城は上杉方の城で元亀3年(1572)越中・加賀の一向一揆が上杉方の火宮城、富山城を攻め落とした際に、火宮城からの注進が新庄城の鰺坂長実に届き、続いて天神山城の直江景綱を介して春日山へと伝達されたことから、重要な中継地点でもあったと考えられています。天正10年、織田勢が魚津城に猛攻を加えている際に、上杉景勝が天神山城に陣を敷きますが、救うことは叶わず魚津城の城将13人はことごとく討死したそうです。
郷土資料館から天神山まで道が続いていて、容易に山頂にたどり着くことが出来ます。この日は雨模様でしたが、傘をさしながらでも十分散策できるほど歩きやすかったです。主郭内に櫓台を備え南側には土塁が残っています。西の曲輪は二の丸と見られ、北側には竪堀も有りました。余湖さんの縄張り図を見ると、周囲に多数の曲輪(扁平地)が見られ、陣城らしい造りになっています。

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しんちゃん

信長に疑われ滅亡 (2025/04/13 訪問)

木舟城は寿永3年(1184)に石黒太郎光弘によって築かれたとされています。天正4年(1576)頃に石黒成綱が上杉謙信に属しますが、天正6年に謙信が急死すると、信長に通じ瑞泉寺や勝興寺(安養寺城)を攻撃します。天正9年には上杉氏の攻撃により木舟城を追われ、その後に信長に疑われ近江長浜で討たれ木舟石黒氏は滅びました。
木舟城は水堀の中に三つの郭が並んでいたとされています。

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ノボル

仕事の合間に (2025/06/16 訪問)

大田原で仕事があり、打ち合わせまで時間空いたので、紫陽花鑑賞に立ち寄りましたが、まだ少し早かったようです
堀の深さは見る価値ありです

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カズサン

二本松城-6/6 本丸石垣城塁西面北面編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-5/6 本丸」石垣城塁南面東面編の続です。

 本丸石垣城塁東面、南面を廻った後、西面、北面へ回り観察探訪、北東の天守台下に本丸旧石垣を移築展示されて居ましたので見学観察、南面下に旧石垣の大石垣が有りましたので降りて大石垣を見学観察、帰ってから本丸北面下に旧石垣である二段の石垣が在る事を知り、もう少し注意深く探訪して居たらと悔やまれました。
 これで3度目の登城終了です。
 
 長々と6編に渡りご覧頂きありがとうございます。

 この後は孫の居る宇都宮へ約150km19時着、孫達と楽しく食事が出来ました。
   

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ぴーかる

高屋敷館 (2025/04/27 訪問)

【高屋敷館】
<駐車場他>高屋敷館遺跡駐車場20台分程あり。
<交通手段>車

<見所>土塁・壕
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅2日目3城目。青森市のサイトによると高屋敷館は平安時代の環濠集落遺跡で広さが、南北約500m、東西約90mあるそうです。中心部は堀と土塁に囲まれていて竪穴建物跡や多数の出土品が出たそうです。2001年に国史跡に指定されたそうです。現在現地は整備されていますが、現地の遺構の説明板が全て無くなっていて、何だか忘れ去られたような史跡になっていました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

南二郭・主郭の石垣 (2025/04/07 訪問)

さあ合戦が始まりました。目指せ初勝利! 暑くなって来ましたね~、しばらく山城攻めはしんどくなりそうです。
南二郭の南方には複数の郭があり、それぞれの郭が石垣の上に築かれています。尾根上に北上して行くと、南北に長い南二郭がありますが石垣は崩壊しつつあるため、西の帯郭から郭に上がります。郭内には礎石らしい石が散見され、さらに北上して行くと主郭にたどり着きます。主郭の石垣も崩壊しつつあるようですが、部分的に形状を留めています。主郭や南二郭の西側にも郭らしき場所があるようですが、はっきりと形状を確認することは出来ませんでした。このあとは南曲輪虎口を目指すことにしました。

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カズサン

二本松城-5/6 本丸石垣城塁南面東面編 (2025/06/06 訪問)

 二本松城-4/6 本丸Ⅱ編の続です。

 本丸に東の乙森駐車場に駐めて本丸虎口桝形階段から進行し、天守台、東櫓台、西櫓台、本丸内部探訪し自尽の碑供養塔に参拝合掌の後、本丸石垣城塁の探訪へ、南面、東面の写真投稿致します。

 二本松城-6/6 本丸石垣城塁西面北面編に続く。
 

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朝田 辰兵衛

元館跡にも行ってみました… (2025/06/15 訪問)

グーグルマップで約400m南に「黒岩城(元館)跡」と表記された場所がありましたので行ってみました。もともと大迫城を散策する予定でしたので,スケジュール的には余裕がありましたので…。
「黒岩城(元館)跡」には標柱もパネルもありませんでしたが,広い土塁上の曲輪となっていました。

本日昼前,キャンセルが出たのか,北上の東横インにシングルのアキが,今週末1部屋出ました。速攻でリザーブしました。ホントは花巻駅前のホテルを狙っていたのですが,この際そんなこと言ってられません。大迫城を落としに向かいます。

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イオ

北田原城(奈良県生駒市北田原町イモ山) (2025/02/23 訪問)

北田原城(城びと未登録)は、南に清滝街道、西に磐船街道を見下ろす交通の要衝に位置し、詳細は不明ながら坂上丹後守の城と伝わります。

大阪府中世城館事典(戎光祥出版)において田原城とセットで紹介されていたこともあり、田原城に続いて登城しました。田原城の北東約1.5kmに位置し、駐車場はないので北田原町交差点付近の道路脇に路駐して登城開始。主郭南西麓の谷筋から登城できるようですが、民家の間にあるはずの登城口を見付けられず、やむなく南西尾根西麓の墓地から直登しました。西辺に土塁をめぐらせた中腹の帯曲輪でひと休みし、さらに直登して何とか南西曲輪に到達。しかし、たどり着いた南西曲輪は藪に沈んでいてほとんど探索できず、北側の虎口と藪の中に墓所を確認できたくらいでした。

南西曲輪東端の土塁を乗り越えた先は南曲輪との間の堀切になっていて、南曲輪の虎口へと続く土橋が架かっています。土橋の南側で堀切は竪堀となって落ちていました。また、南曲輪の南裾から東裾にかけては(藪と落葉でわかりづらいものの)10数条の畝状空堀群が設けられています。土橋まで戻って南西部の虎口から南曲輪へ。南東辺には巨大な櫓台が直下の畝状空堀群を見下ろしていました。南曲輪は南西曲輪ほどには藪化していませんが、北端まで来ると一気に主郭方向の視界が開けます。南曲輪と主郭の間には堀切があり、堀切の西側は谷筋への道へと続いています。想定ではここに登ってくるはずだったんですね。

主郭には送電鉄塔が建てられ、大幅に改変されていることは承知していましたが、手持ちの縄張図では鉄塔は主郭の中央部に描かれているところ、現在は主郭の西辺から西裾の帯曲輪にかけて移設されています。その際に西裾の帯曲輪も改変されたようですが、帯曲輪北西端の櫓台はかろうじて破壊を免れていました。

主郭からは南方向のほか北東と北西に支尾根がのびていますが、まず北西尾根の堀切まで下りて、そこから北東尾根に向かおうとするも、藪に加えて堆積した落葉で滑落しそうになり断念。この先に堀切や竪堀、竪土塁など見応えのある遺構があるはずなんですが…。やむを得ずそのまま北西尾根の曲輪群をたどって、北西端から下山しました。南側からだと遠回りになりますが、北西からの登城ルートが一番わかりやすいように思います。

北田原城は、縄張図で見る分には見応えある遺構が多そうなんですが、藪化により実際に目にすることができるものが限られてしまうあたり、もったいない城でした。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:壷笠山城 (2025/05/20 訪問)

穴太駅から徒歩35分ちょっとで、分岐点付近(35.056781、135.8502343)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、織田信長に敵対した朝倉・浅井連合軍が立て籠もった城です。
1570年(元亀元年)朝倉義景と浅井長政の連合軍は本願寺と結んで志賀郡へ侵攻し、織田信長の家臣森可成が籠もる宇佐山城を攻め、坂本へ出陣してきた森可成を討ち取りました。
摂津にいた織田信長はこの知らせを聞いて京へ急ぎ戻ると、宇佐山城を落とせなかった連合軍は「はちが峯」、「あほ山」、「つぼ笠山」に布陣しました。
この「つぼ笠山」が壺笠山城のようです。織田信長と朝倉・浅井連合軍との対峙は膠着状態となり、4か月後に和議となりました。
その後、坂本を領した明智光秀により修復された可能性も指摘されていますが詳細は不明のようです。

墓地の中にある穴太野添古墳群の道をひたすら進み、分岐点付近(35.056781、135.8502343)では進入禁止の看板のある方向へ進みます。
少し歩くと右手に黄色いテープが見えたら、そこが登り口なのですが、 この黄色いテープ捜しました。(分岐点到着から15分後に発見。また時間のロスです)
黄色いテープのが登り口から道なりに進むと主郭に着くとのことで、反時計回りに登り始めました。
10分ちょっと登った所で、選択した道があっているか方向音痴の自分には自信がなく、迷子の恐れと日没で暗くなった為、途中で断念しました。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、穴太駅から電車で、びわ湖浜大津駅に向かいました。
今日は散々な攻城日でした。
坂本城の石垣は見れず、JR湖西線の遅延、レンタサイクルは普通自転車で移動時間が計画オーバ、田中城での忘れ物、清水山城へのGPS設定ミス、壷笠山城で迷子になりかけた等。
明日はいい攻城ができますように!!
歩行歩数=35781歩、歩行距離=25.0Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:清水山城 (2025/05/20 訪問)

田中城(城びと未登録 滋賀県高島市)から自転車で45分くらいで、新旭森林スポーツ公園奥の防獣柵前(35.357236、136.024478)に着く予定が、GPS投入誤りで自転車でさえ通れない場所に着いてしまいました。
少しウロウロしましたが、レンタサイクルの返却時間も迫っているので、説明板前(35.357346、136.027092)に向かい、説明板の写真を撮って撤退することにしました。

築城年代は定かではないようですが、佐々木一族の越中氏(高島氏)によって築かれました。
越中氏は後に別れた高島七頭の惣領家で、戦国時代には浅井氏と結んで織田信長と敵対して敗れ滅びたそうです。

機会があればリベンジする予定です、近くまできたので仮攻城とします。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=壷笠山城に向かう前にびわ湖高島観光協会(新旭駅)で自転車を乗捨て、新旭駅から電車で穴太駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:田中城(城びと未登録 滋賀県高島市) (2025/05/20 訪問)

船木城から自転車で45分くらいで、案内板付近(35.328082、135.988858)に着き、その後、城址進入口(35.328386、135.987420)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代後期に田中氏によって築かれました。 田中氏は高島七頭の一人です。
1570年(元亀元年)織田信長が越前朝倉氏を討つ為、「田中の城」に泊まったという記述があり、その軍勢にはのちの豊臣秀吉・徳川家康もいたと伝わっています。
田中城は1573年(元亀4年)に信長によって攻略され明智光秀の支配を受けて終焉を迎えました。
また、近年発見された米田家文書には、若かりし頃の明智光秀が籠城した記述があり、明智光秀とのかかわりが注目されています。

土塁・土橋・堀切等の遺構が確認できます。
下城した後で忘れ物に気づき、再登城。時間の大幅ロスです。(この時点で2時間オーバ)
城びと未登録城の攻城をスキップしても2時間のリカバリは無理そうです。
攻城時間は95分(再登城分含む)くらいでした。次の攻城先=清水山城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:船木城 (2025/05/20 訪問)

大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市)から、自転車で45分くらいで、願船寺入口前(35.326215、136.068040)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、高島七頭の一人、佐々木師綱によって築かれたと云われています。

現在は願船寺となっていて、船木城出丸の石碑を捜しましたが見つけられませんでした。犬に結構吠えられました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=田中城(城びと未登録 滋賀県高島市)に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市) (2025/05/20 訪問)

大溝城から自転車で2~3分くらいで、大溝陣屋総門前(35.295081、136.011113)に着きました。

大溝城の跡地の一部に1619年(元和5年)、伊勢上野から分部光信が20,000石で入部し大溝藩となりました。
その際、織田信澄時代の大溝城の武家屋敷の門であったものを総門として、武家地と町屋地を分ける門として使われました。
その後、1755年(宝暦5年)に前身の門の部材を再利用して現在の門が建てられたとされます。
分部氏は明治維新まで11代の大溝の藩主でした。明治に入り、総門は民間に払い下げられましたが、2005年(平成17年)に高島市が買い取り、2022年(令和4年)より復元工事が開始され2024年(令和6年)完成しました。

総門以外に陣屋の遺構は無いです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=船木城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:大溝城 (2025/05/20 訪問)

打下城から自転車で5分くらいで、大溝城入口付近(35.293450、136.012477)に着きました。

1572年(元亀3年)織田信長が高島郡に進攻すると、1579年(天正7年)織田信澄(津田信澄)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りで大溝城が築かれました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、大坂で殺害されてしまいます。
信澄の後には、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく城主が替わりますが、京極高次が近江八幡へ転封となった後は無城主となったそうです。
1619年(元和5年)分部光信が伊勢国上野より20,000石で入封しましたが、元和の一国一城令の対象となり、三の丸を残して大溝城を破壊しました。
分部氏は三の丸に陣屋を構え、11代続き明治維新を迎えました。

天正前期と思われる野面積みの天守台が、崩れつつもしっかり残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大溝陣屋(城びと未登録 滋賀県高島市)に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征6日目:打下城 (2025/05/20 訪問)

事前に、びわ湖高島観光協会でレンタサイクルを予約していたので、JR近江高島駅構内観光案内所に向かいました。
JR近江高島駅構内観光案内所でレンタルできる自転車は普通車のみ(電動はありません)です。
5月15日の豊橋での悪夢が脳裏をかすめます。(城跡間に登坂があると恐怖です。移動時間が計画より多くなりそうです)
JR近江高島駅構内観光案内所から、自転車で2~3分くらいで、打下城跡登山口標識付近(35.291998、136.006763)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に林與次郎左衛門員清によって築かれたと云われています。

永禄年間(1558年〜1570年)頃は小谷城主浅井氏に従っていました。
1570年(元亀元年)浅井長政が織田信長を離反した後、1572年(元亀3年)織田信長が朝倉・浅井軍を追い込むと、打下城主の林員清は信長に降伏しました。
1575年(天正3年)林員清は越前国北之庄にて信長によって切腹を命ぜられたそうです。
その後は磯野員昌の養子となっていた織田信長の甥信澄が、1578年(天正6年)信澄が大溝城を築くまで居城としていたと云われています。

獣害防止柵を開け砂防ダムを越え川沿いを進みますが、滑落の危険があると感じた細い道が数ヶ所あるので気を付けて進みます。(自分は少し高所恐怖症気味です)
曲輪、堀切、土塁、石積、虎口などは確認できましたが、説明板はみていません。(先人の方の写真ではあったはずですが・・)
攻城時間は95分くらいでした。次の攻城先=大溝城に自転車で向かいました。

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