怪談グランプリで入賞経験もある「深津さくら」さんをはじめ、おばけ座がお届けするこわーい話や不思議な話。
あなたはどこまで耐えられるか!恐怖の夏を岸和田で体感!
参加者様は岸和田城庭園への「夜間特別入場」もして頂けます。
8月4日開催、チケットは只今販売中です。お待ちしております。
https://teket.jp/9607/35576
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2024/07/05 19:57
2024/07/05 19:50
伊達行朝 (2023/05/04 訪問)
天慶3年(940)藤原秀郷が平将門を追悼する際に築いた上館・中館・下館の三つの館のうちの中館を伊佐氏が改修したものが伊佐城であるとする説があるようです。南北朝の時代には伊達行朝が伊佐城に入り、北畠親房に呼応し北朝の高師冬の軍と戦ったとのことです。伊佐城は興国4年(1343)に落城しますが、行朝と同族の中村経長は囲いを突破して奥羽に帰って行ったようです。
伊佐城跡は現在観音寺になっていますが、境内になぜか伊達行朝の供養塔らしき塔が残っています。
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2024/07/05 19:40
大桑城(愛知県豊田市大桑町) (2024/05/25 訪問)
城びと未登録の城に行ってまいりました。ほんとは道の駅だけを寄るつもりが、道の駅にたくさんの御城印が売ってたので行ってみました。ただとにかくアクセスが悪く、結構小さいお城でした。しかし、一応武田信玄の支配下にあったという深い歴史や、遺構も土橋と土塁で成り立った虎口がきれいに残っていたので未登録な割にはすごいなと思いました。現在は主郭しか残っていないようですが、その主郭を土塁が囲み、虎口の手前には土橋と堀切が設けられていました。また、井戸も残っていて、歴史背景を感じられるお城でした。
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2024/07/05 19:05
見落とす (2022/11/22 訪問)
訪問データー:1時間15分:2.6km:累計高低差229m
342mの山頂を主郭として南東に2か所、南西に1か所の曲輪群を尾根の通路で繋げているようです。その他にも幾つかの曲輪が点在しています。南西に2か所の堀切を設けており、南東には畝堀が存在してします。(鬼神城郭放浪記さんより)
ルート図より右下の案内板の位置に駐車して半時計周りで主郭を目指しました。直登でしたが歩き易いので割と早く畝堀を伝って南東の曲輪に辿り着き、赤ルートで進み2本の堀切に到着しました。帰宅後城郭放浪記さんの縄張図で復習したところ主郭から南西の派生尾根にもう一つの曲輪群を見落としていた事に気が付きました。その曲輪群の西の畝堀も見落としてしまい残念です。尚、正規のルートは時計回りのようです。
こちらが城訪問中断前の最後の城となりました。今年4月まで1年半の長く痛い中断期間でした。
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2024/07/05 08:03
東の城 (2024/05/04 訪問)
詳細は不明ながら、南北朝期に愛洲氏の居城として一之瀬川の段丘に築かれた城で、南朝方についた愛洲氏は宗良親王を一之瀬城に迎えています。室町中期に愛洲氏が五ヶ所城に居城を移したことによって支城となっていましたが、北畠信意(織田信雄)が大河内城から田丸城を居城とすると、田丸具忠が一之瀬城に移りました。
一之瀬城には東の城と西の城があり、まずは東の城から。旧小学校前の東の城駐車場向かいのトイレの脇に一之瀬城の説明板があり、その隣に一之瀬城の資料や縄張図の入ったボックスが設置されています。ネットで拾ってきた縄張図くらいしか手元になかったので、大変参考になりました。ありがとうございます。
一之瀬神社の裏山が主郭で、主郭の西側に横堀がめぐらされています。堀底道を進んで北側に回り込み、この横堀を一条目と数えて段丘北端を三重の堀切で遮断しています。内側の横堀(堀切)は東端で竪堀となって東下に落ち、竪堀の脇には主郭への木製階段が設けられています。主郭の切岸はなかなか切り立っていて、西側や北側からはよじ登るのは困難なので階段は有難いですね。階段を上がったところは枡形状の小曲輪になっていて、その先が主郭です。主郭には案内表示があるくらいですが、端から切岸の下を見下ろすと足がすくむくらいの高さがあります。主郭南下の腰曲輪を経て東下に下りて行くと、浅くなってはいるものの竪堀群が見られました。竪堀群から南に進んだ先にも竪堀があり、資料の縄張図によれば、一之瀬神社の社殿造営時の整備で失われてしまった主郭南側の三重堀切(内側)から続く竪堀のようです。一之瀬神社にお参りして最後に段丘の南へ。南端部には見張り台と呼ばれる曲輪があり、宗良親王御遺跡の石碑が立てられています。見張り台は三方が断崖になっていて、その名の通り往時は見晴らしが良かったと思われますが、現在は木々が生い茂ってほとんど眺望はききません。
登城口の資料に加えて、あちこちに案内表示があり階段まで設けて見学しやすく整備されています。南側の三重堀切が失われたのは残念ですが、北側の三重堀切は見事に遺っていて大いに見応えがありました。次いでは資料にもある西の城(青木山城)に向かいます(続く)。
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2024/07/05 07:21
大石信重 (2024/01/28 訪問)
二宮城は大石氏の祖・大石信重によって築かれたとされます。二宮神社が城址とされ、周囲より高地になっています。信重は南北朝時代には北朝方に属し1351年の笛吹峠の合戦では先陣を務め、新田義貞の三男・義宗の軍と戦ったそうです。その時の戦功で武蔵国入間・多摩に13郷を与えられ、二宮に館を構えたとされています。
特に遺構は残っていませんが、神社の階段の上から周囲を見渡すと城址としての雰囲気を感じ取ることは出来ました。
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2024/07/05 06:55
堀を流れる水も清らか (2024/06/19 訪問)
陣屋跡には西条高校が建っています。
当然中には入れないので堀の回りを一周しました。
大手門のある東側の堀は広く、陣屋というよりは平城と言っても過言ではありません。
北側から西側に回ります。
西条は水が綺麗な街としても有名ですが堀底が見えるほど綺麗な水が流れています。
市内の至る所に「うちぬき」と呼ばれる地下水の自噴井があり、水汲み場も設置されています。
この水で造るお酒も美味しい!
話が逸れました。
堀の回りを歩き、最後は大手門。
西条高校の校門になっていて両脇を土塁が支えていました。
西条郷土博物館や五百亀記念館も隣接していますが時間の都合で見学は次回。
お昼の西条ナポリタン食べに向かいました。
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2024/07/04 21:43
夏の散歩 堺 (2024/07/04 訪問)
戦国時代の小説を読んでいると頻繁に登場する堺の街。一度歩いてみたいと思い行って来ました。
16世紀、南蛮貿易によってさらに盛んになった海外貿易と鉄砲生産によって会合衆などの豪商が莫大な富を蓄え大きな力を持ち黄金の日々を謳歌していました。西側は海、他の三方を濠で囲んで防御する「環濠都市」を形成し外敵の侵入を防ぐことで、戦国時代にあっても大名に支配されない自治都市を築いていました。堺に滞在したポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラは「日本のベニス」と本国への報告書に記載しています。ポルトガルから種子島に伝来した鉄砲ですが、堺の商人がいち早く島を訪れてその製法を習得し生産を始めました。そして堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地となりました。
ただ大坂の陣や大東亜戦争時の堺大空襲により当時の面影はほとんど残っていません。鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代の唯一残っている鉄砲鍛冶の作業場兼住居です。妙国寺は新しくなっていますが、本能寺の変のときに徳川家康が滞在していた寺と伝わっています。他には環濠の一部と千利休屋敷跡や街の中に立っている石碑などが当時を教えてくれます。それなりの楽しく散策しました。
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2024/07/04 21:15
三重三日月堀は昔のまま (2024/01/01 訪問)
史跡公園ではなく都市公園として模擬天守ありきで整備されたが、このお城を特徴づける「三重三日月堀」だけは整備事業とは無関係に整備前の姿を保っている。整備前の姿を知っているのでこれだけは間違いない。
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2024/07/04 20:40
松坂城 二の丸の石垣 (2024/02/17 訪問)
松坂城は江戸時代の元和5年(1619)に紀州藩の藩領となり城代が置かれました。二の丸の高石垣には周囲の野面積みと比べて積み方の異なる箇所が有るようです。打込接の石垣のようで、意匠用の大きな石も用いられています。このあたりは紀州藩の時代に積み直されたのではないでしょうか。紀州藩の持ち城になるわけですが、石垣なら本家の和歌山城にも負けていない気がします。
石垣しかないような書き方をしていますが、他にも歴史民俗資料館や本居宣長旧宅、本居宣長記念館などが居候しています。推しますね‥本居宣長を。
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2024/07/04 20:27
巽櫓をじっくり見学 (2024/06/23 訪問)
(HP)https://sumpu-castlepark.com/gomon/
駿府城には坤(ひつじざる)櫓…紅葉山庭園…そして巽(たつみ)櫓という施設があり、坤櫓は訪れた事あれど、その他はまだ…そして駿府城の御城印と100名城スタンプをまだ得てない…という事情あり、再び私は駿府城へ向かうことにしました
料金所の傍に100名城スタンプが設置してあり、逃さず真っ先にスタンプ帳にそれを押しました。100名城と続100名城…計200のスタンプ欄があり、その全てを達成するなんてほぼ不可能…そう…コンプなんて鼻から狙ってません…けれど1個押す度に満たされる想いが湧き立つのは確かですね(^∇^)
入館してすぐの場所にあったのがジオラマ(1枚目)。駿府城全体を再現したもので、各所のボタンを押せばそこがスポットライトを浴びるかの如く目立つ仕組みになってました
駿府城歴代城主を紹介するパネル(2枚目)。家康は2度ここを治めており、2度目は征夷大将軍を引退してここ駿府に隠居してからの統治…城の大改修を命じたそう
5代目の頼宣は家康の十男…水戸藩初代藩主頼房の兄であり、紀州徳川家の初代…そして6代目は忠長…彼は家康の孫であり、3代将軍家光の弟…紹介文には「28歳で自ら命を絶った」
正確には兄家光により命を絶たされた…切腹を命じられた…ようですがね😅💀 一言で言えば彼には統合失調症なところがあり、殺傷禁止の場所で猿をたくさん殺したり、癇癪を起こして何人もの人間を手打ちにしたりして…父秀忠や兄家光の怒りを買い…改易…勘当…蟄居…そして切腹という末路
(徳川忠長wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7
駿府城にはかつて天守(江戸城よりも立派な)天守がありました🏯 けれど火災により焼失してそれからは天守台のみ残ってましたが、それも明治になって取り壊されました
その地は現在、発掘調査現場として工場のフェンスで覆われ、9:00-17:00はフェンス内に入口から入れて、遺跡の周囲から見学こそ可能であるけれどそこから中には入れません
駿府城の天守台が造られた時の様子が紹介されてました。まず採石場で石垣にする大きな石を集める。それから溝を掘って基礎の石を置き、根石を置いてから、土砂や川原石を敷き詰めて…石垣を造るそうです(3枚目)🏯
そういう作業工程で一生懸命頑張ってる作業員の姿が印象的に見えたので添付画像にしてみました👷🪨
櫓の奥には御城印や城カードを扱う売店があり、その2つと静岡茶のティーバックを買いました。そこは1階で2階には何と…家康が幼少期(今川氏の人質となっていた頃)を過ごした四畳半の間(4枚目)が再現されており、要チェケラかつ要撮影と言えました
「文化財に匹敵する展示のため中には入らず外から見学するように」との案内があり、それに従う形で外からのみ見物をしました。中への立ち入りを認めてしまうと荒らされてしまう恐れがあるので、それは正解と言える判断でしょう
四畳半と言うと…フツーの子供部屋並に狭いスペース…こんな中で幼き家康は学問に励み忍耐力を養っていった…のかな
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2024/07/04 19:19
2024/07/04 18:59
2024/07/04 18:54
博多祇園山笠-2024(飾り山) (2024/07/03 訪問)
7月に入り、福岡市中心部には、博多祇園山笠の飾り山が各地で展示され、大変華やいでいます。山には2種類あり、「飾り山」は各商店街が展示する山で、「追い山」はタイムを競うために担ぐ山です。その飾り山を全て見学してきました。写真ではなかなか分かりづらいかとは思いますが、どれも高さが20mくらいもありかなりの高さです。実際に下から見上げるとすごい迫力でした(😱~)。今回はその中からいくつかを、ご紹介させて頂きます。
【三番山:中州流】
●奇襲桶狭間(写真②)
今川義元を織田信長が奇襲し討ち取り天下にその名を轟かせた姿を描いています。
【八番山:上川端通】
●不惜身命真田幸村(写真③)
真田幸村が大坂の陣で徳川家康を追い詰める勇壮な姿を描いています。
【十一番山:博多駅商店連合会】
●商都博多偉人伝(写真④)
中世に商都博多の基礎を築いた商人、島井宗室・神屋宗湛・大賀宗九の功績を描いています。
【十二番山:キャナルシティ】
●刀伊入寇隆家勲(写真⑤)
藤原道長から大宰府に左遷された藤原隆家が海賊「刀伊」を撃退する姿を描いています。
●光源氏胡蝶舞宴(写真⑥)
紫式部と光源氏が見守る優雅な宴の世界を描いています。
【十四番山:ソラリア】
●黒田鍋島天神大普請(写真⑦)
九州の関ケ原で黒田長政に助けてもらった鍋島直茂が、そのお礼にと福岡城の築城時に堀を掘るのを手伝ったという話を描いています。
●管公西下創造多故事(写真⑧)
大宰府に左遷された菅原道真が博多の港に着いた時の姿を描いています。
【十五番山:新天町】
●サザエさん(写真⑨)
福岡出身の漫画家「長谷川町子」さんを偲んで作られています。
【十七番山:天神一丁目】
●嗚呼壮烈岩屋城(写真⑩)
岩屋城に籠城した大友宗麟の家臣高橋紹運が薩摩の島津勢と戦う壮烈な姿を描いています。
さあこれから15日の本番に向け、今度は追い山が動き始めます。ふんどし姿の男たちによる「オイサ!」の掛け声が街中に響き渡り、博多の街はいよいよ夏本番を迎えます。
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2024/07/04 18:49
楽しい (2022/11/22 訪問)
訪問データー:2時間40分:3.5km:累計高低差449m
大きく分けて荒滝山山頂付近を主郭部とし段曲輪を配置して西北側に西郭、東側にある出丸の3つで構成されています。主郭に行き着くのは駐車場から約40分です。ルート図をトレースすると主な遺構を見る事が出来ますが、主郭北側の畝堀を見る事は出来ません。城内の案内は設置されています。
主郭から出丸の間には曲輪南に連続竪堀、出城を遮断する見栄えの良い竪堀が存在しています。主郭から西郭の間は多重竪堀だか空堀が折り重なっていて真っ直ぐに歩けなく楽しい。この周辺は低木が多く見晴らしが悪いので低木だけでも伐採すると起伏のある空間を目で楽しむ事も出来るのでは無いでしょうか。ですがそこは想像力でカバー。西郭北には大きめの波で見栄えの良い畝堀があります。
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2024/07/04 11:18
平将門の絡みも有る藤岡城 (2024/06/07 訪問)
小谷城を終えて西に約7km程、栃木市小山市2城目の藤岡城を初登城。
駐車場:無し、光和化成第二工場東前三角コーナー路側帯に路駐(36°15'25"N 139°38'39"E h=20m)
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
東武日光線藤岡駅を東から北に廻り込む様に西側のネクスタパッケイ(株)栃木工場の南側の小道に藤岡城への案内指示板が出てる、小道には轍が有るが私の車では無理、周辺を探して路駐場所に車を駐めて、徒歩で案内板に従って約200mの三所神社、藤岡城跡へ初登城、西側の水田から一段高い丘に藤岡城跡がある、現在は三所神社として祀られている、鳥居の前に私製印刷の様な案内板が有り、平将門の名前が出て来てびっくり、将門との絡みが有ったのでしょうか?それにしてもロマン感じる藤岡城です。
西側に降りて西から南の周辺を水田、曲輪法面現在は工場群を眺めて終了。
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2024/07/04 10:34
石碑と案内板は剥落 (2024/06/07 訪問)
常陸多良埼城、主の未踏の城探訪7城を終えて、まだ陽も有り5日畠山陣屋の後に探訪を企画していた、栃木市小山市の未踏の城4城、駒城から西北西約20km程で最初は小谷城(コヤジョウ)を初登城。
駐車場:無し、県道174号線は交通量が多いので石碑横東入る、路駐牛舎が近くで臭いがきつい。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
県道174号線東に小山が有り石碑と神明社、案内板があります、案内板は剥落して読めません、グーグルマップの史跡マーク小谷城跡に該当します。余湖図コレクションさんの案内ではその東奥の神明神社が該当マークに成っていましたので確認しましたが、神社が有り特に案内板は有りません、この一帯を思川南の堀として城郭を構えていたのでしょう、思川を通じて小山城祇園城とも行き来が出来ます、祇園城の支城だったとも?思川は南で渡瀬川と合流し一大湿地帯に成っています。
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2024/07/04 08:14
主郭を取り巻く竪堀群 (2024/05/04 訪問)
南北朝期に北畠氏家臣の加藤甚左衛門が赤羽川と江ノ浦の間の丘陵上に築いた城で、甚左衛門は赤羽谷の奥村氏の侵攻を迎え撃つも、内通により敗れて自刃しました。戦国末期、加藤氏五代・甚五郎は北畠信意(織田信雄)より奥村氏とともに北畠旧臣と結んで敵対する熊野の堀内氏攻めを命じられ、三木城を攻め落とすも堀内氏の反撃を受けて撤退。何とか長島城に帰還したものの、寝返った奥村氏に火をかけられて城は焼失し、甚五郎も自刃しました。
登城口はいくつかあるようですが、南東麓の長楽寺から登城しました。長楽寺は加藤氏の菩提寺であり山麓の居館跡でもあるようで、山門の脇には長島城跡説明石板が建てられています。長楽寺の脇から山中へは津波避難道が整備されていて、避難道を登って行くといくつかの石碑が建てられた平坦地があり、中腹の曲輪跡のようです。ここで長島神社からの道(たぶん)と合流し、さらに登って行くと愛宕社を過ぎたあたりから道はシダに覆われるようになり、シダをかき分け進んだ先が主郭です(登城口から約15分)。
主郭は東西二段になっていて、南東隅の虎口から入ると長島城跡の石碑があり、西側上段の手前に説明板、上段には通信施設が建っています。主郭には土塁もなく特に見るべきところはありませんが、主郭の南下には竪堀と帯曲輪があり、西下は両端が竪堀となって落ちる堀切が西尾根を断ち切り、北西下から北下にかけては3条+3条の連続竪堀が横移動を封じ、東下も南北両側に落ちる竪堀が東尾根からの侵攻を遮断しています。
東尾根を下って行った先には加藤甚五郎一族の五輪供養塔が建てられています。ここも中腹の曲輪跡のようで、説明板によればこの五輪塔は江戸中期に菩提寺の長楽寺から移されたものとのことです。ここからはとばつびしゃもんさんに倣って郵便局の前に下りて行くつもりが、分岐を間違えてより北側の青面金剛童子の脇に出てしまいましたが、道中に湾の先に広がる熊野灘を眺めることができたので、これはこれでヨシ! としておきましょう(主郭周辺からは眺望がききません)。
私の拙い写真では伝わりませんが、藪に沈んでいたり浅くなっていたりはするものの、主郭を取り巻く竪堀群はなかなか見応えがありました。あとはシダをもうちょっと何とかしてもらえれば…。
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2024/07/04 07:03
山上部の石垣が素敵 (2024/06/16 訪問)
14年ぶりの再訪です。
ここも前回は駆け足程度、麓の御殿部分を回ったくらい。
ほぼスタンプ目的でした。
今回は山上部のメイン部分も見学できました。
公園駐車場に車を置き、まずは堀の回りを1周です。
復元鷲の門から堀沿いに石垣を見ながら進みます。
北側には海蝕痕があり、太古の昔はこの辺りまで海だったことがわかります。
西の丸を経て鷲の門まで戻りここから入城。
ちょうど博物館で企画展「幻の城徳島城」が開催されていたので見学しました。
博物館の入場券で庭園も見学できます。
さらっと見学した後はいよいよ山上部へ。
東坂口から登っていきました。
東二の丸には天守跡もあります。
さらに上へ、本丸北東の石垣は高さもあり見応えあります。
本丸は広く北側と西側に枡形虎口がありました。
西側から西二の丸、西三の丸へと降りて行きます。
こちらも石垣が素敵。
感心しながら西坂口へと降りて行きました。
阿波の青石と呼ばれる緑色片岩で濡れると色が変わる、と。
次回は雨の日に行ってみようかな。
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2024/07/03 22:41
詰城だと思われます… (2024/05/04 訪問)
北赤井神社が登城口。この周辺に居館跡を思わせる石垣や削平地が散見されます。天白城は有事の際の詰城だと思われます。見どころは,主郭東側の堀切です。
にのまるさんへ…
越後へようこそ。日付を確認したら,その日,私はにのまるさんのご実家エリアを満喫していました。昨年は雨でスケジュールが頓挫しましたが,今年はムシムシしながらも曇り時々晴れ。計画通り実行できました。いずれ投稿いたします。
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