茂庭氏が17世紀半ばまで使っていただけあってエッジの効いた遺構が残る。もともとここにいた遠藤氏はかの文覚上人の子孫だとか。三の丸を中心とする公園は御本丸公園というのだが字名が本丸なのであながち間違ってはいないかも。
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2025/07/17 20:31
2025/07/07 19:55
弁慶坂から本丸へ (2025/01/03 訪問)
千石城は県道242号線の東の丘陵上に築かれていて、三の丸が駐車場になっています。三の丸から南に二の丸、本丸と続き周囲に曲輪などが残っています。今回は南の県道沿いから「弁慶坂」を登って行って本丸からアクセスしています。
弁慶坂を登って行くと周辺に曲輪などが見られるため、駐車場から訪問するより多めに城址の雰囲気を楽しむことができます。
遠藤盛遠(文覚上人)もしくは、その後裔によって築かれたとされ、天正16年(1588)には遠藤高康が千石館の主であったとされています。
同年の中新田合戦では伊達の軍勢が千石館を基地として参集し、天正18年の大崎一揆の平定に際して、伊達政宗が入城しており、遠藤氏は伊達氏に従い大崎氏と対抗していたと見られ、千石館はその拠点であったようです。
遠藤氏が領地替えになった後も、江戸期を通して使用されますが、館主である茂庭良元が慶安4年(1651)に上野館に隠居し、子の定元も上野館に移り、千石館には三の丸に家臣が一名置かれるのみとなりました。
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2025/05/13 07:10
ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑰ (2025/04/27 訪問)
朝田辰兵衛さん、神奈川コンプリートおめでとうございます。遠方への遠征に力点を置いている私にとって、関東地方のコンプリートは非常にハードルが高くなっています。古希を迎える前に達成できるかどうか、かなり怪しい状態です。
さて、4月27日の攻城も終焉が見えてきました。千石城はコスモス園(松山御本丸公園)という広大な公園として整備されています。駐車場のキャパシティも非常に大きいです。公園としての整備が加えられすぎているようにも感じますが、堀切など、城の遺構も楽しむことはできました。
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分類・構造 | 山城 |
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築城主 | 遠藤盛継 |
築城年 | 応永8年(1401) |
主な城主 | 遠藤氏、石川昭光、古田重直、茂庭良元 |
遺構 | 曲輪、腰曲輪、土塁、堀切 |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 宮城県大崎市松山千石字本丸(御本丸公園) |
問い合わせ先 | 宮城県北部地方振興事務所地方振興部 |
問い合わせ先電話番号 | 0229-91-0763 |