筑紫広門の続き(6/6)です。八女(やめ)市にある福島城を訪れてきました。八女と言えば、今では日本有数の「ひな人形」の産地として有名です。
猫尾城のある黒木から堀川バス(羽犬塚駅行)で少し戻り、途中の福島で下車しました。西鉄久留米駅からは西鉄バス八女営業所行に乗り福島で下車しても交差点を挟んだ場所に停車します。そこから徒歩5分の市役所前にある八女公園が、福島城の本丸があった場所です。現在は本丸の櫓台跡が残っていました(写真①②)。
1588年に秀吉から上妻郡1万8千石を与えられた広門は、いったん蒲池氏の支城であった山下城に入りますが、山城で手狭であったため、翌年新たに麓の平地に福島城を築き居城としました。
そして広門は、この福島城から秀吉の命で二度朝鮮へ出兵します。そしてその後の関ケ原では西軍に付き、毛利秀包(久留米城主)・立花宗茂(柳川城主)らとともに関ケ原へ向かいますが、大津城で京極高次の足止めにあい、1日の差で本戦に間に合わず、福島城へ引き返します。しかし帰郷してすぐ、家康から改易されてしまいました。関ケ原の後、ここは筑後柳川に入った田中吉政の領地となり、吉政はこの福島城とその城下町の整備を行い、三男の田中康政を城主として入れますが、その後の一国一城令で廃城となったようです。
吉政は三重の堀で城を囲み。商人を集めて城下町を形成したようです。その堀は現在ほとんど埋められていますが、わずかに残っている場所もありました(写真③④)。また歩いて5分の所にある八女民俗資料館には、吉政当時の天守の鯱が保存されていて、当時の模型なども展示されていました(写真⑥⑦)。白壁の町並みは今でも城下に残っており、散策するにはとてもよい所でした(写真⑧⑨)。さすがは吉政! 本当に城下町作りの名人ですね(写真⑩)。
改易された広門は、黒田・加藤・細川を頼り転々と流浪して亡くなったようです。同じく改易された立花宗茂は3代徳川家光の時に柳川藩主に復帰しますが嫡子がなく、弟直次の子忠茂が柳川藩2代藩主となります。そしてその血筋が幕末まで代々柳川藩主を務めます。そしてその末裔の方が今でもいらっしゃいます。広門には養子がいて、大坂の陣でも活躍し、旗本として3000石が与えられますが実子ではなかったようです。
つまり、直次の妻は広門の娘なので、広門の血は立花家の中で流れ続け、そして400年以上たった今でも彼の血は絶えずに流れ続けているという事になるのです。おそらく広門は、立花家の中ではあれど、血を絶やすなという家訓が守られている事に安堵し、あの勝尾城の山頂からこの筑後の街を見守っているのかもしれませんね😊。
以上、全6回読んでいただきありがとうございました。
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