福岡県会津若松市の神指城は会津若松城の北西、阿河川のほとりに築かれる予定でした。慶長3年(1598)に上杉景勝が越後から会津に移封になり、慶長5年(1600)2月より築城を開始し、徳川家康の会津征伐の影響で6月に工事は中断し、完成には至りませんでした。
私は以前、関ヶ原周辺の投稿で関ヶ原自体が西(上方)から東(鎌倉・会津)に向かう敵を囲い込む城塞のようなものだと書いた記憶が有ります。外敵が襲来し上方が占拠された場合、天皇家や行政のトップを避難させる必要があり、それが鎌倉時代であれば鎌倉、豊臣政権の時代なら会津であろうと考えたわけです。関ヶ原を敵が突破したのなら東山道や東海道などを通過し、鎌倉や会津を狙うことが可能になります。よって関ヶ原の周辺の松尾山・山中・南宮山にはそれらを迎え撃つ仕掛けがあると仮説を立てました。
なぜ会津かというと豊臣家が頼りとする加賀の前田家、越後の上杉家は海に近く直接、外敵の攻撃を受ける怖れがあるからです。慶長2年(1597)に二度目の朝鮮出兵である慶長の役が始まりますが、その2年前の文禄4年(1595)から慶長3年(1598)まで蒲生家の御家騒動である蒲生騒動が発生し、蒲生秀行は宇都宮12万石に減封されてしまいます。
背後では豊臣秀吉の指示を受けた石田三成が暗躍していたという説もありますが、豊臣氏にとっては信頼のおける上杉氏を当地に封じ、万一日本勢が大陸で敗れ、敵が攻めてきた場合の避難先および反撃の拠点として会津を確保しておきたかったのではないかと考えます。
神指城の築城が家康の会津征伐を招いたとされていますが、正直 神指城は家康が目喰ら立てて脅威と感ずるほどの城ではありません。ただ、この城郭は構造がある宮城に似ています。そう平安京に似ているんですね。
神指城の規模は本丸が東西310m、南北340m 二の丸が東西710m、南北780m 比率はともに 1:1.1です
平安京の規模は東西4.5km 南北5.2km 比率は1:1.15 でほぼ同じなんですね。
いずれも北極星を基準に築かれているとされますが神指城はわずかに右に傾いています。この辺りについては会津若松市の文化財に詳しい方に相談をしていますが、私は京都が敵の手中に落ちた場合に敵勢力を打ち払い帰還を果たすという意味合いが有るのではないかと考えています。
上杉の治世が長く続いたのであれば城下町が形成され、周囲には総構が構築されたのではないかと思います。戦力としては家康の脅威にはなりませんが、豊臣家と天王家の避難場所として完成すれば、神指城の上杉氏を家康が攻めるのは難しくなると思います。家康としては城が完成する前に問答無用で叩く以外に選択肢は無かったのかもしれません。
実際に家康は秀吉の死後、豊臣家の頼りとする大名や拠点を着実に潰しに来ています。まずは加賀の前田氏、そして会津の上杉氏、加藤清正は大阪の陣の前に謎の死を遂げています。大阪の陣の後になりますが、広島城の福島氏が潰されたのも既定路線に沿って行われたのではないでしょうか。
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