彫堂七館からの転戦です。現地での表示は西館で周辺の多くの施設には不動堂の名がついています。鶴頭の名称は公園に使われていました。成瀬川に面している小さな城ですのでサクッと巡ってしまいましたが、実は近くの皎善寺に移築城門(裏門)が残っていたのですね。夕刻となっていて城めぐりにスパートをかけていたので仕方ありません。いつか訪れることができますように。
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2025/05/12 07:11
ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり⑯ (2025/04/27 訪問)
彫堂七館からの転戦です。現地での表示は西館で周辺の多くの施設には不動堂の名がついています。鶴頭の名称は公園に使われていました。成瀬川に面している小さな城ですのでサクッと巡ってしまいましたが、実は近くの皎善寺に移築城門(裏門)が残っていたのですね。夕刻となっていて城めぐりにスパートをかけていたので仕方ありません。いつか訪れることができますように。
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2025/05/12 06:54
宇多須城 石川県金沢市 (2025/04/28 訪問)
GWの北陸旅、初日は金沢に宿をとりました。
朝は例によって朝駆けで近場の城を廻ります。
まずは近場の宇多須城、城びと未登録です。
金沢市街地の東側にある卯辰山に城跡があります。
卯辰山公園眺望の丘に車を置き少し登って行きます。
途中右下に降りる道があり、頭上には赤い橋がかかっています。
堀切のようにも見えますが果たして?
右手に進むと神社があり、この辺りが主郭部のようです。
残念ながら遺構は無さそうです。
城の詳細は不明ですが南北朝時代に築かれたようです。
金沢城を見渡せる位置にあるため江戸時代には庶民の立ち入りが禁止されていたそうです。
【見どころ】
・麓にある菖蒲園は開花時には綺麗そう
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2025/05/11 21:06
独特のフォルムを持つ中地山城 (2025/04/29 訪問)
小見城に続き立山観光の一環で訪れた富山県富山市の中地山城。
常願寺川山間部南岸の、小口川と和田川に挟まれた小さな盆地状地形を成す丘の北西部に築かれた城。
江馬氏本拠の飛騨高原郷(現在の岐阜県神岡)から北へ直線距離で約30km。城の西麓を通る"うれ往来"で結ばれていた地。
1570年頃までに江馬輝盛が築城し、定かではないが重臣の河上氏を配置。
1578年に上杉謙信が亡くなると、織田方の攻撃を受け落城したとのこと。
現在は、電力会社施設跡などの改変が見られるが、概ねの形状を残す土の城跡。
説明板が設置されているものの、実際に訪れるとC郭から先は割と未整備に近い状態。
立派な内堀はエリアでつくりが異なり、C郭付近は拡幅されたのでしょうか。
C郭から直接A郭へ急坂を登ると、途中で3つの開口部が存在。そこは左の開口部が通路で正面2つが狭間という枡形虎口のように見え、非常に興味深い構造。
枡形の裏には巨岩があり、A郭に上がると物見台のような高い円錐状の遺構が特徴的。
滞在時間は約1時間半。
随所に独特のフォルムが見られた、私の城郭巡りの208城目でした。
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2025/05/11 20:15
2025/05/11 19:47
【春の長崎天草を巡る⑭】(11)富岡城 (2025/04/03 訪問)
春の長崎天草を巡る旅、(11城目)は「富岡城」です。
富岡に宿泊した翌朝、まず富岡港から富岡城を見上げました。いい感じのアングルです(写真⑨)。そしてここからあの上に見える本丸まで登ります(徒歩で30分:車でも登れます)。
富岡城の築城者は唐津藩主「寺沢広高」です。豊臣政権下で小西行長の領地であった天草は、関ケ原後には唐津藩の領地となり、1621年には家老の「三宅藤兵衛」が城代として入ります。
実はこの三宅藤兵衛という男、明智光秀の孫にあたる人物です。燃え落ちる坂本城から明智秀満の家臣「三宅六郎太夫」から助け出され、京都で匿われた後、成長してからは密かに叔母ガラシャの庇護を受けます。しかしガラシャは関ケ原の直前、石田三成の兵に屋敷を囲まれたため自害。その後の籐兵衛は、唐津藩士の「天野源右衛門(安田国継)」に誘われ、寺沢広高に仕官します。そしてそこで才能を開花し、唐津藩筆頭家老にまで登り詰め、富岡城の城代となりました。実はこの安田国継という男は、明智秀満の元家臣で槍の名手。本能寺の変ではあの織田信長に傷を負わせた男だとされています!
しかしその後の藤兵衛は、広高の子で唐津藩を継いだ「寺沢堅高」の悪き命令に逆らえず、飢饉で米も取れぬ天草の農民に過度の重税を課し、払えぬ者にはキリシタン弾圧を名目に、泣く泣く拷問を行います。1637年これに反発した農民たちが蜂起し天草一揆が勃発! 藤兵衛は天草四郎率いる一揆勢と本渡で戦い、前回写真⑥の広瀬という場所で何と討ち死にしてしまいました。現在のその場所には、籐兵衛の墓が建てられています(写真⑦⑧)。そして籐兵衛死後も、3人の息子らが何とか富岡城を守り抜き、ここで細川忠利の軍勢が迫って来たため、天草四郎は大矢野へ戻れず挟み撃ちとなり、そこで海を渡り原城へ逃げ、島原の一揆勢と合流したようです。
熊本藩主の細川忠利は、この時自ら大軍を率いて藤兵衛を助けようと出陣しました。しかし時すでに遅く、籐兵衛は討ち死にした後でした。忠利の母は明智光秀の娘ガラシャ(玉)です。籐兵衛はガラシャの姉である岸と明智秀満(左馬之助)との間の子です。つまりこの二人は従弟同士、明智光秀の孫同士という事になります。二人はガラシャの下で幼い頃から兄弟のような親交があり、富岡と熊本の間でも何度か手紙のやりとりがなされていたようです。藤兵衛は、幼い頃から体の弱かった6才年下の忠利の事を心配し、熊本城の堀には蓮根畑があった事を思い出し、滋養強壮として辛子蓮根を考案し送ったとか。今では熊本名物になっています。
乱の後の富岡城には「山崎家治」が入り、富岡藩を立藩し荒廃した富岡城を幕府の援助で修築し、見事な石垣を築きました(写真②)。しかし3年後に家治は丸亀城へ転封となり、そこであの有名な高石垣を築きます。さすが名人家治の石垣です。
家治の後は天領となり、「鈴木重成」が代官として入ります。ここで重成は寺沢広高が定めた4万2千石か過分であり、これが天草の乱を引き起こすきっかけとなった事を幕府へ訴えます。しかし幕府からは却下されたため、領民のため切腹をもって再度訴えました。その死に免じ2万1千石へ半減されたそうです。また兄の正三は、領民がキリスト教から仏教へ改宗できるよう尽力しました。つまりこの二人の努力により、今の天草はあるのです。
現在の富岡城には、高麗門と櫓が復元されています(写真①)。山崎家治が築いた石垣も美しく残っています(写真②)。三宅藤兵衛時代の石垣は戦乱と一国一城令で破却されましたが、一部に家治の石垣とともに見る事ができます(写真⑤)。乱の時の焼け跡も残っていました(写真⑥)。
本丸から見た有明海と東シナ海の景色はとても美しく、私はしばらくこの景色に見とれてしまいました(写真③④)。藤兵衛もどんな気持ちで、ここからこの海を眺め、迫り来る一揆軍を迎え撃とうとしていたのでしょうか?
原城総攻撃では、細川軍は先陣を切って本丸へ突入し、そして天草四郎の首を討ち取ったとされています。つまり忠利は、藤兵衛の仇を何としてでも取りたかった、そして取る事ができたのでした。ちなみに藤兵衛の3人の息子は、そのまま細川軍に合流し、原城総攻撃でも活躍しました。その功績で、寺沢家改易後は細川家に無事仕官でき、代々幕末まで家老などの要職を務めたそうです。
つまり明智光秀の血は、この熊本の「細川家・三宅家」の中で代々受け継がれ、流れ続けていったのです。私はこの事に感動してしまいました。富岡城は訪れるには不便な場所ですが、明智光秀ファンなら是非1度は訪れ、三宅藤兵衛という明智光秀の血を引く男がここにいた事を知ってほしいと思います。
午後の便で、富岡港から長崎行の高速船「KIZUNA」(写真⑩)に乗り、長崎市(茂木港)へ渡りました。次は長崎市内を観光しようと思います。
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2025/05/11 17:16
陣城と言うなかれ (2025/05/01 訪問)
田上山城は、山頂の主郭を中心にY字型の尾根上に西側、南東側、北側の郭で構成されています。主郭は不等辺四角形で四方を土塁で囲まれており、虎口は北側と西側に配しています。北側の虎口には北郭に通ずる土橋が掛かり北郭の先には、角馬出が配されています。その角馬出の先には北外曲輪があり、その北外曲輪の最北端にはL字型の土塁があり虎口を設けています。
本郭の西虎口の先には西郭があり、主郭の西を防御する郭で北国街道を眼下に見渡せ、西郭の最西端の土塁には横矢枡形が設けれています。主郭の南には南曲輪があり四方を土塁で囲んで横矢折れも確認できます。
田上山城は賤ケ岳の合戦の折、羽柴秀長公が城を築き1万5千の兵を率い布陣した陣城と言われていますが、規模も大きく構造も立派でまさしく城と言っても過言ではないと思います。(私見)
意富布良(おほふら)神社駐車場に車を止め、神社境内の脇から田上山に登る道があり登城しました。登城路・城内は良く整備され、草木生い茂る5月とはいえ、難なく散策できました。
この城の見所は、秀長公が陣を敷いた城とはいえ、合戦をした記録もなく、すぐに陣を払っている為、遺構が良好に残り土塁、土橋、郭、堀切がはっきり分かる所だと思います。
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2025/05/11 15:30
例えば、空気を感じてみるとか? (2025/05/01 訪問)
『あれが安立寺かな?』と、写真①の高い場所を目指し歩いて行けば『立入禁止』の看板がありました。
『はい、失礼しました。』と、周辺の写真を写して退陣しました。
お城巡りをしていると『立入禁止』、よく見かけます。
私有地に勝手に入ってしまう、マナーの悪い方が過去にいたのでしょうか?それとも、筍泥棒?
昔、私のおばあちゃんちの裏山に竹藪があり、筍を勝手に掘ってしまう泥棒がいました。
おばあちゃんには
『筍を食べるイノシシを捕まえるのに、罠が仕掛けてあるから、裏山には行っちゃだめだよ。』と、よく言われてました。
心の中では、イノシシも泥棒も罠に掛かってケガしなきゃいいなと、思ってましたが。
私たちには「お城」でも、地元の方々にとっては生活の場です。今一度、マナーを守ってお城巡りを楽しみたいです。
トボトボ戻って来た私に相方は『もーいいの?何にもなかった?』と。
私は『あったかもしれないけど、空気を感じたからいいや。』と、詩人さながらな返事。
築城年数や城主が、いくつか説のある「犬成城」。
私の中で、空気も遺構の一つになりました。
、、、センチメンタルな「犬成城」攻めでした。
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2025/05/11 12:09
2025/05/11 09:31
南郭(出郭) (2025/01/05 訪問)
(続き)
副郭南西部からは長大な竪堀が出郭とも呼ばれる南郭の北西部まで続いています。竪堀を下りきり登城道を越えて少し上がると、今度は南郭の西側から南側を囲む横堀に至ります。主郭部外周の横堀や竪堀だけでも充分すぎるほどの見応えでしたが、出郭までこれほどの堀がめぐらされていようとは! こちらも倒木をかいくぐりながら堀底をたどり、横堀の南東端から谷に下りて行くと、副郭南東の横堀の合流点から続く竪堀が南郭の東側を走っていました。竪堀と横堀の間から南郭に上がると自然地形の土地が広がっています。自然地形の奥には幾段かの削平地があり、改修途中で廃城になったということでしょうか。南郭はおおむね灌木や藪が茂っていますが、南辺には一部土塁も見られました。
昨年末の城納めとして登城するつもりが龍王山城に時間をかけすぎたため断念し、年をまたいで今年の城初めとしましたが、技巧的かつダイナミックな堀は見応え充分。幸先の良い城初めになりました。手持ちの縄張図には載っていなかったため、登城道の説明板にある東郭奥の水場や南東尾根の堀を見落としてしまいましたが、いずれ再訪したい城ではあるので、その辺はまたの機会の楽しみにしておきましょう。
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2025/05/10 17:29
れきしるこまき企画展「史跡小牧山大手道発掘調査と石垣復元パネル展」 (2025/05/10 訪問)
織田信長が美濃進出のため築城し、小牧長久手の戦いでは徳川家康の本陣となった城です。れきしるこまき企画展「史跡小牧山大手道発掘調査と石垣復元パネル展」が開催されていることを知り登城して来ました。石垣は信長が築いたと推定されています。高石垣ではなく段々に構築される構造となっていて、今は一部が復元整備され少しですが、当時の状況を知ることができます。この城が使われたのは信長のいた時代(約4年)と小牧長久手の戦いの時だけなのですが、他にも空堀や曲輪跡、井戸跡などもあり思った以上に見どころのある城址です。
小牧山の山頂には信長の時代には物見櫓のような建築物があったという説がありますが、現在の建物は無関係の模擬天守です。パンフレットにも天守閣ではなく小牧市歴史館となっていました。この模擬天守は平松茂氏が私財を投じて建設し小牧市に寄贈したものです。そのモデルは西本願寺の飛雲閣というユニークな天守閣です。模擬天守は好きではないのですが、この話を知って少しだけ愛おしくなりました。今では小牧市のシンボルです。
名鉄小牧駅から、こまき巡回バス「こまくる」に乗り小牧市役所前もしくは小牧山前下車。目の前が城址です。「こまくる」は一日200円で乗り放題です。以前に小牧駅から歩いて登城しましたが、20分くらいでした。
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2025/05/10 14:58
鵯尾城 (2025/03/08 訪問)
【鵯尾城】
<駐車場他>駐車場はなし。鵯尾神社鳥居前、登城口<35.441327, 134.189627>に駐車できます。登城口までは、北東側にある玉津公園より獣よけの網を4箇所開け閉めして進みます。
<交通手段>車
<見所>曲輪・眺望
<感想>転送したら写真全滅だった件、再訪ラスト4城目。現地説明板を要約すると鵯尾城は築城年代不明、鳥取城とともに武田高信の拠点であり南因幡地方からの侵攻に備えた戦略拠点であった。1573年に因幡の甑山城に進出した尼子氏の山中鹿之助と戦ったが敗れ、鳥取城を山名豊国に明け渡します。1575年には毛利氏の家臣が在番し武田高信は城を追われていたと推定されます。諸説ありますが武田高信は後年山名豊国に誅殺されたようです。
駐車ポイント、鳥居のある場所から奥へ進むと登山口の場所に居館の石垣多くあります。近世の集落の石垣か、または当時の居館跡か判別は出来ませんでした。鳥居から1050mの登山です。中間地点に鵯尾神社があります。祠背後の山のピーク行ってみましたが何もありませんでした。そこから山の鞍部を経て再び登り始めます。尾根上の馬場跡に上がるまで小さな腰曲輪が2つあります。現地説明板に馬場⇒三の丸⇒二の丸と名称は付いていますが尾根上の細い尾根曲輪で一応土塁と段を付けている程度です。主郭へは少し登って到着します。中程度の広さで土居も何もありません。登城路の主郭の反対側の尾根には出丸跡があるようですが、低灌木がびっちり生えていて進めそうになかったので止めておきました。遺構に堀切とありますが、表面観察では見受けられませんでした。
これにてこの旅終了。大阪~東京間くらいの距離を走って山城4城攻略して、写真全滅した時は、ほんと超ヘコみましたけど、パソコンを更新してからは順調、再訪しこうして投稿できてよかった。お米・ねばりっこ・カレイの干物のお土産も買えましたし、満足旅でした。走行距離468㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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2025/05/10 13:59
2025/05/10 11:27
2025/05/10 09:33
主郭・副郭・東郭 (2025/01/05 訪問)
興福寺大乗院方衆徒の豊田氏が室町中期に築いて居城とした城で、松永久秀の大和国侵攻により落城すると松永方の城として改修されましたが、信貴山城の戦いで松永氏が滅亡すると廃城となったようです。
ぴーかるさんご紹介の倉庫前に車を駐めさせてもらって登城開始。県道沿いの登城口から入って説明板のある分岐から約10分で南郭(出郭)に到達。南郭は藪化していますが、縄張図であたりをつけて藪を突破して土塁を乗り越えると、副郭南側の横堀が広がっていました。
主郭部は最高所の主郭と主郭南下段の副郭からなり、外周を横堀で囲んでいます。倒木をかいくぐって堀底を進むと、副郭南東隅の張出部に馬出状の土塁が設けられていました。馬出から副郭に上がったところの窪地には石材が散乱していますが、櫓台としていた円墳の石室が崩落したことによるもののようです。副郭から主郭に上がるも笹藪に沈んでいたため早々に退散し、次は東郭に向かいます。
副郭と東郭の間には二重の横堀が南北に走り、二重横堀と副郭南側の横堀の合流点には馬出を設け、南に巨大な竪堀を落としています。技巧的かつダイナミックな縄張に思わず声が出ました。松永久秀すげぇぜ…。東郭も藪に覆われていますが、南辺に低い土塁、横堀に面した西辺には分厚く高い土塁が設けられていました。
東郭をひとめぐりすると、今度は二重横堀を北に進んで主郭外周の横堀をたどります。主郭北側には斜面を刻むように横堀が走り、横堀から3条の竪堀を落としています。主郭直下では堀切状となって北東尾根を断ち切り、そのさらに北下にも浅い堀切を設けていました。横堀は主郭西側に回り込んでさらに南に続き、副郭南側の横堀につながる…のかと思ったら一段高い位置で終了。複雑な造りになっています。そこから副郭南側の横堀に下りたところで、横堀が竪堀となって西方向と北西方向に分岐して続いています。まず北西方向の竪堀を下りて行くと、途中で北方向に横堀が派生していて、主郭西側は上下二段の横堀で守られていることになります。
竪堀の分岐まで戻って、今度は西方向への竪堀を下りて行きます(続く)。
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2025/05/09 22:21
2025/05/09 21:03
ここでリーチをかけました… (2025/04/27 訪問)
新井城から,「シーボニア入口」バス停まで徒歩で戻り,「三41」系統のバスで「油壺入口」バス停下車。ここより,徒歩約20分で到着しました。
道路ワキに碑&パネルが設置されており,散策に手間はかかりませんでした。
三崎めぐりを終え,復路は「天神町」バス停より「三61」系統のバスで,「三崎マグロ駅」へと…。
撮れ高がショボいので,この日の夕食「茅ヶ崎 海ぶね ODAKYU湘南GATE藤沢店」で食べた「ざるそばと天丼のセット」と,おみやげで購入した「横須賀海軍カレー」の画像も追加します。
神奈川県の城びと登録城,ここでリーチをかけました。
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2025/05/09 20:12
【春の長崎天草を巡る⑬】(10)本渡城 (2025/04/02 訪問)
春の長崎天草を巡る旅、(10城目)は「本渡城」です。
本渡バスセンター(終点)で降りて徒歩15分、小高い丘の上に本渡城はありました。ここはかつて天草五人衆の一人「天草氏」の居城です。ザビエルの後継として天草に上陸したアルメイダは、天草氏と志岐氏から布教許可を得て天草の地にキリスト教を広めました。医学にも長けていたため診療所なども開き、信者のアダム荒川に医学を伝授して、領民から信頼されていったようです。そのアルメイダとアダム荒川の碑が、城内のキリシタン墓地にありました(写真④)。
ここでは過去に大きな戦いが二度行われました。一度目は、九州を手中にしようとする豊臣秀吉の命で、加藤清正と小西行長がここ本渡城に籠る天草氏を攻めます。ここで小西行長はキリシタンであったため、同じキリシタンたちは保護しようとします。しかし加籐清正はそれを許さず、天草氏・志岐氏を攻め滅ぼしました。この時からこの二人は犬猿の仲となり、この後の朝鮮出兵でも対立します。
二度目の戦いは天草一揆です。ここ本渡は激戦地となりました。寺沢堅高の悪政に業を煮やし、大矢野島で決起した天草四郎率いる天草の一揆軍は、ここ本渡で唐津藩の軍勢と戦い勝利します。そして一気に富岡城まで攻めて行きました。ちょうど(写真⑦)に見えるあたり(本渡市広瀬)が激戦地だったようです。
本渡城の本丸とされる場所には、現在「天草キリシタン館」(写真①②)が建てられていて、天草島原の乱の内容が時系列でとても詳しく解説されています。ここには血染めの天草四郎陣中旗(ここが四郎のいる本陣である事を示す旗)も保管されています(撮影不可)。また乱の後に入った代官の鈴木重成が建立し(幕府軍・一揆軍)両者分け隔てなく弔ったとされる千人塚(写真⑤)や、四郎のいいなづけであったとされる「路香」を弔った「てまり塚」(写真⑥)もありました。ぜひ天草へ来られた時は、天草キリシタン館は見学してほしい場所だと思います。
午後に、本渡バスセンターから富岡港行のバスに乗り、富岡港のそばにある「ホテル四季彩館」に宿泊しました(写真⑧)。ここ富岡で贅沢をした頼山陽に習い、私も奮発して平目のお造りとアワビの踊り食いを注文しました。定年までがんばった自分から自分への御褒美という事で、皆様方お許し願います!(大満足😋天草は本当に魚が美味しいところです!)(写真⑨⑩)。
次は、「富岡城」に登城します。
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2025/05/09 07:14
大村公園 (2025/03/01 訪問)
JR大村駅から徒歩で向かいました。
出迎えてくれた美しい角堀から楽しい城さんぽのスタートです(^o^)/
ゆるい坂を上ると大村神社の真っ白な土塀とそれを支えるどっしりとした石垣が見えてきました。そしてカクカクの虎口門。遥々ここまで来てよかった。お城体験の思い出を重ねることができて感謝です。
見どころのひとつである空堀は草叢に覆われており一層遺構感を醸し出していました。
板敷櫓は開放期間ではなかったので入れませんでしたが、きっと素晴らしい眺めが得られるだろうと想像できます。
新蔵波止の方にくだり、板敷櫓台を見上げます。素晴らしい反りに惚れ惚れ。櫓の有無は未確定のようですが現在見せてくれるこの姿、眼福でした。
続いて井戸や穴門跡(立入制限中)を見学しました。ほかの多くのお城同様、石垣に経年による孕みや割れの問題が出てきているそうです。
大手門から再び本丸へ行き、最後に大村小学校の五教館御成門を見に行きました。駅への往復を除くと約1時間の滞在でした。
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2025/05/09 07:08
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