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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:籾井城 (2025/05/23 訪問)

淀山城から車で10分弱で、禅昌寺手前空スペース(35.072690、135.347073)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)籾井照綱によって築かれたと云われています。
織田信長の命を受けた明智光秀によって、1576年(天正4年)、1577年(天正5年)と二度にわたる攻撃を受けて、籾井城は落城し、籾井氏も没落しました。
黒井城主赤井(荻野)直正が波多野氏の赤鬼と呼ばれたのに対して、籾井城主籾井教業が青鬼と呼ばれ勇猛な武将として伝承されていますが、教業に関してはその実在が疑われているようです。

籾井川沿いから山に登る図がインターネットにあったので、川沿いを歩きましたが、金網で上に登る道がありません。
戻って墓方向に歩いてみましたが、ここも上に登る道がわからず、時間も押していたので攻城を諦め麓で撤収しました。
家に戻り、調査したところ籾井川と墓方向の道の中間辺りに城跡公園に登る道があることがわかりました。
入口は分かりづらいみたいですね。
攻城時間は25分(城跡公園に行く道を捜した時間になります)をくらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:淀山城 (2025/05/23 訪問)

八上城から車で10分ちょっとで、溜池東空スペース(35.071835、135.311513)に着きました。
池の右側のあぜみちを北西側に進むと登り口&説明板があります。電気柵開閉して入ります。
駐車場所より主郭まで500mくらい?15分くらいで主郭に着きます。

築城時期は不明のようですが、南北朝の頃に波々伯部(ほほかべ)氏よって築かれ、戦国期の頃改修されているようです。
波々伯部氏は足利尊氏に従ったとされ、丹波の有力な豪族となったとされます。
その後、丹波守護の山名氏、細川氏に従い、戦国期に入り八上城の波多野氏に従いました。
天正年間(1573年〜1592年)に明智光秀の軍勢によって八上城が攻められた後に帰農したそうです。

よく整備されており、竪堀、空堀など見所が多くて楽しめる城跡でした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=籾井城に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:八上城 (2025/05/23 訪問)

沢田城から車で10分くらいで、八上城登山者用駐車場(35.066496、135.2502876)に着きました。

八上城は、丹波富士とも呼ばれる高城山に築かれた山城で、戦国時代に多紀郡(現篠山市)を支配した波多野氏5代にわたる居城です。波多野秀治の居城として知られています。
初代清秀は応仁の乱(1467年~1477年)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ八上へ入ります。
その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、1527年(大永7年)に管領細川高国を放逐、1538年(天文7年)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558年~1559年)には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げます。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代秀治はそれに従わず、1575年(天正3年)信長が派遣した明智光秀の攻撃を受け、1579年(天正7年)4年にわたる籠城戦のすえ落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命します。
この時、なかなか城が落ちないので、光秀は母親を人質に出して波多野秀治らの安全を保証して投降を誘い、光秀は彼らを信長の下に連れていったところ、思いもかけず磔に処され、ために光秀の母も城内で殺害されてしまったとういう逸話があります。
ただし、創作の可能性が高いとされています。
明智氏の滅亡後は羽柴秀勝や前田玄以の属城となり、江戸時代には徳川家康の実子である松平康重が入城しますが、天下普請によって篠山城が築かれたため、八上城は廃城となりました。

高城山北西麓の無料駐車場を利用し春日神社より。1㎞、45分の案内です。(自分も見学しながら本丸まで45分かかりました)
登山道は整備されていて登りやすいですが、山頂までずっと階段です。道に迷うような事はありませんが、ちゃんとしたシューズと飲料を用意して臨んで下さい。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=淀山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:沢田城 (2025/05/23 訪問)

土居の内(大渕館)から車で15分弱で、澤田山小林寺駐車場(35.079105、135.226716)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に小林近江守長任によって築かれました。
小林氏は八上城波多野氏の命によって築いたと云われ、 天正7年(1579年)明智光秀の丹波侵攻により落城しました。

小林寺・本堂の廊下下をくぐる通路が「玄奘三蔵法師聖骨塔 参道」となっています。その奥の階段を進むと城域になります
寺の山門付近に案内があり本丸跡には石碑があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=八上城へ向かいました。

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朝田 辰兵衛

主郭は整備の手が行き届いていない様子… (2025/05/17 訪問)

2郭は整備されていましたが,主郭は整備の手が行き届いていない様子でした。残念です。大日神社境内には「民舞伝習館」があり,興味が湧きましたが,閉まっていました。なかなか簡単に来れる場所ではないので,気落ちしました。

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しんちゃん

落ちない城だって? ふっふっふっ (2025/04/20 訪問)

白旗城は南北朝時代に赤松円心が新田義貞の大軍相手に耐え抜いたことで「落ちない城」として受験生の皆さんに人気があるらしい。
まあ「嘉吉の乱」で〇〇してるんだけどね。ちなみに私、ありとあらゆる「落ちない城」とやらを訪問していますが、人生でさんざん「奈落」「転落」「落選」「堕落」を経験しています。「逆」に今のうちにいっぱい〇〇〇おいて、しぶとさを身に着けた方が良いかもよ。

この城は比高が400mあって、それだけでもなかなかのボリューミーなんだけど、それ以上に登城道が岩だらけでヒザに厳しいです。これだけ登りにくい登城道もなかなか無いですわ。しばらく登って行くと、道が城址方面に折れて、その先に堀切があります。
まずは四郭とされる、櫛橋丸を攻略します。この辺の道も急で滑りやすいので注意。その先は尾根上に二の丸・馬場・本丸と続いて、その先に三の丸があり、周囲には複数の腰郭が付いているようです。

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厳島古戦場 (2025/06/19 訪問)

 厳島合戦の舞台として知られている城址です。公園として整備されているため、どこまでが当時の地形かわかりません。「安芸の城館」(ハーベスト出版)には「東から延びる低い丘陵先端を2本の堀切で区切り、長さ約250mを城域とする」とありました。堀切は一ヵ所確認できました。
 厳島神社の他、厳島合戦関連の地を散策しています。塔の岡は陶晴賢が本陣を構えた所です。塔の岡の地名の起源となった五重塔は保存修理工事中(2026年12月20日までの予定)でした。元大浦にある厳島合戦跡の説明板は破れていて読めません。

 昼飯は御茶処沖みつさんで、あなごめしをいただきました。

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しんちゃん

南曲輪虎口 (2025/04/07 訪問)

主郭まで行った後はそこから西に降りて三郭に戻ってくるルートが有るようなのですが、道が良く解りません。こういう場合は、登ってきた道をそのまま引き返します。その前に南曲輪虎口の石垣を見に行くことに。
この辺りは、石垣が比較的良く残っていて、石段も残っています。この城址でもっとも見栄えする石垣だと思います。

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シェル

レンコンと常磐線 (2024/06/20 訪問)

JR常磐線 土浦駅東口(霞ヶ浦側)から徒歩15分ほどです。
 常磐線沿いに進んでいくと、説明板を発見。城址碑が常磐線の車両基地内にあるみたいですが、関係者以外立ち入り禁止となっており、見学はできません。城跡は常磐線の車両基地となり、周囲は一面のレンコン畑が広がり、遺構のようなものは確認できませんでした。
常磐線を渡り、西側に行くと信太範宗の墓があります。信太範宗は木田余城の築城者とされているようです。小田氏治の命で、菅谷氏によって謀殺されたようです。
 その後は小田氏が小田城(茨城・つくば)を失った際に、木田余城が小田氏治の居城となったこともあったようです。

 JRの敷地にある城址碑は、常磐線の土浦―神立間を下り列車で通過する際、注意深く観察すると車両基地内に石碑があるのが、一瞬見えました。しかし、私の撮影の技術不足もあり、ちょっと撮影は厳しかったです…
 常磐線の列車でこの区間を通る際は、城址碑をぜひ探してみてください。

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しんちゃん

本丸・二の丸 山鹿素行 (2025/04/20 訪問)

赤穂城本丸には天守台・庭園があり、御殿や建造物等をコンクリートの上に間仕切などで再現してあります。暗渠などの排水路の跡もありました。天守台も城の規模に合わせた立派なもので、天守は築かれなかったものの、十万石の城に匹敵する天守台だと思います。
本丸門は門を二ヵ所備えた枡形を良く再現してあります。二の丸庭園の入口に設けられた門は大石内蔵助良雄の大叔父に当たる、大石頼母良重の屋敷門で、良重は藩主浅野長直の信頼を得て二の丸に屋敷を構えていたそうです。
兵学者・儒学者として有名な山鹿素行は浅野長直の千石で召し抱えられ、承応2年(1653)には赤穂城の二の丸虎口の縄張りを一部変更して、家中に兵法を指南しています。
その後、素行は幕府の忌諱に触れることとなり、寛文6年(1666)~延宝3年(1675)まで赤穂に流されることになり、大石頼母の屋敷の一角に蟄居することとなりました。ここで「武家事紀」などの書物を完成し、後の関ヶ原の陣地図などで、神谷道一氏の「関ヶ原合戦図志」に大きな影響を与えることになりました(私はそう思っています)。個人的には少し、胡散臭い所がある人のようにも見えますが・・。

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ぴーかる

弘前城と桜 (2025/04/28 訪問)

【百名城79城目】
<駐車場他>弘前さくらまつり富士見橋臨時駐車場(無料)に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>現存櫓・現存門・天守・石垣
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目4城目。今回の旅のメイン弘前城です。北側の一陽橋から入り、北門⇒二の丸丑寅櫓⇒有料区域の北の郭⇒本丸・天守⇒南から抜けて二の丸南内門・辰巳櫓・未申櫓⇒追手門⇒本丸東面石垣を見て⇒東内門⇒東門の順で巡りました。
 桜が有名な名城は数多くありますが、人の混雑が嫌で、桜の時期に行くことはありませんでした。2回目来れるかどうか分からない遠方でもあり、どうせ行くなら桜の時期と決めて、無事訪れる事ができて良かった。現存の櫓・櫓門と桜が見事に調和した光景は心に残りました。天守ももうすぐ元の位置に戻されて今の景色は見られないでしょう。沢山あるのに、天守しか現存建造物に入れなかったのが、少し残念なところでした。これにて現存12天守制覇です。

<満足度>★★★★★

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カズサン

江戸期は本堂氏陣屋が置かれた (2025/06/07 訪問)

 前年時間切れで探訪できなかった石岡城を終えて時間も有り、城びとで近く探し、西に約4km程の志筑城と定めて初登城しました。
 国道6号線を南に進行し恋瀬川を渡って西に進攻し、志筑城の西虎口坂道を登り、志筑城跡旧志筑小学校跡の校門より進入。車は元グラウンドと思われるエリアに駐車する。

 校門の石柱横に志筑城の案内解説板がある、反対側には立派な忠魂碑、通って来た道が1郭南の土塁、堀跡の道の様、案内板を読むと平成23年に移転して更地に成った。旧小学校の庭園と中心に楠木の大木が残って居る、根元には小さな志筑城址碑が在り、少し離れて伊東甲子太郎の碑文の刻まれた顕彰碑、伊東甲子太郎顕彰碑柱と解説板が楠木に覆われて立っている。

 伊東甲子太郎の名を見て幕末新選組の参謀伊東甲子太郎がなぜ此処に、本堂家家臣鈴木忠明の長男と記されている、水戸、江戸で学び伊東精一道場で北辰一刀流を極める、新選組に参謀として使える。映画ドラマでは新選組を離れて暗殺されましたが、ここの地が出身地だったのかと、歴史ドラマが甦りました。

 志筑城は案内解説板によると。
 志筑城は恋瀬川を望む半島状に台地上に位置してる。平安期末から鎌倉初期に下河辺政義にて築かれた、源頼朝から地頭職に任じられ、常陸南部を治める、政義以降その子孫は益戸氏を名乗り代々志筑城を治めた。南北朝時代の城主は国行で、小田氏の旗下で南朝方に属していた、北朝方の高師冬佐竹氏大掾氏に小田氏が負けると、志筑城益戸国行も開城し落ち延び廃城に成った様です。
 時は流れて、関ケ原後佐竹氏水戸から秋田へ国替えにて、出羽国仙北郡(秋田県仙北郡美郷町)本堂城主本堂茂親が常陸志筑地域(8500石)へ国替え慶長6年(1601年)、正保2年(1642年)から明治の廃藩置県まで本堂氏の陣屋が置かれた。

 グーグルマップ航空写真を見ると妻瀬川流域は干拓田圃整理が整い霞ヶ浦まで繋がっている、余湖図コレクションの情報では霞ヶ浦が昔は志筑城付近まで広がっていた、南側の池は堀であり、かっては川が城の周囲を流れていたととありますが、航空写真を見るとその様にも見向けられます。

 又志筑城校門から南へ500m程で県道138号線に合流しますが、その突き当りに志筑城移築陣屋門が在ります、走行中におや?民家の門にしては立派!と目視したのですが写真撮らず。

 歴史800年を重ねる志筑城、関ケ原後の国替え、幕末の擾乱が織りなしてる志筑城探訪でした。
   

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イオ

突出部のある館城 (2025/02/23 訪問)

築城時期等は不明ながら南山城の国人・草内氏の城館とされ、室町期には興福寺領の政所が置かれていましたが、応仁・文明の乱の終結後もなお続く畠山氏の内紛の舞台となり、山城国一揆でも畠山氏により活用されたと考えられます。

城跡には咋岡神社が鎮座し、鳥居前の空きスペースに駐車させてもらって登城開始。鳥居をくぐってすぐのところに草路城跡の石碑が立てられています。草路城は周囲を水堀で囲んだ方形単郭の城館ですが、西辺に突出部を設けて横矢掛りになっています。突出部から南辺にかけて土塁をめぐらせてはいるものの、高さはないので遠目にはよくわかりません。北辺の横堀は二重になっていて、内側の堀は境内に明瞭に遺っています。

境内をひとめぐりすると、今度は外周を時計回りに一周。北辺には境内で見た二重横堀の外側の堀の名残の水路が東西に走っています。東辺から南辺にも細い水路が続き(たぶん道も堀跡)、南辺の水路越しに境内を覗くと南辺の土塁がよく見えました。外側からは突出部南西隅の土塁もよく見えます。西辺の突出部の周囲では水路の幅が広くなり、往時の水堀に少しは近い感じでしょうか。

境内に遺る土塁や横堀だけでなく、外周を一周すると方形城館の雰囲気が感じられるので(時間が許せば)おすすめです。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:土居の内(大渕館) (2025/05/23 訪問)

細工所城(荒木城)城から車で15分ちょっとで、大渕福寿会館駐車場?(35.083061、135.254708)に着きました。
そこから徒歩2~3分くらいで、土居の内跡(35.082249、135.256451)に着きます。

史料には大渕古館とあるようです。室町時代に造られた在地土豪の居館跡で、天正期に地元の豪族畑氏(畑左近允能綱・同弾正守広)が築いたとされます。
当時、篠山市内の範囲にいくつも存在した館形式のようですが、現在、このような館跡はここだけになったようです。

自宅に石垣をめぐらせている家はありますが、水堀と高い土塁をめぐらせてみるというのはインパクトがあります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=沢田城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:細工所城(荒木城) (2025/05/23 訪問)

橋爪城から車で25分くらいで、荒木城趾駐車場(35.089395、135.317799)に着きました。荒木城登城口標識はすぐ横にあります。

1550年(天文年間末)頃に荒木山城守氏綱が築いた山城で、荒木城・井串城とも呼ばれています。
氏綱は波多野秀治に属し「丹波の荒木鬼」と恐れられましたが、1577年(天正5年)明智軍の猛攻をうけ落城しました。
氏綱は東本荘の館に隠退し、子の氏清ら一族は光秀に従い1582年(天正10年)の本能寺・山崎合戦・坂本籠城にも参加しました。

登城路後半は急勾配となりますが、鎖やトラロープが設置してあり、整備が行き届いていますので登城しやすいと思いますが、軍手&トレッキングシューズは必須です。
現在城址には曲輪や土塁、堀切などの遺構を確認することができ、主郭周りには、竪堀、貯水枡跡もあり、眺めも良いお城です。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=土居の内(大渕館)へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:橋爪城 (2025/05/23 訪問)

須知城から車で15分くらいで、常照寺手前空スペース(35.181461、135.386190)に着きました。

築城時期、築城者など詳細不明のようですが、三ノ宮城を本拠とした山内氏の城とされています。
山内但馬守盛豊は江戸時代に土佐藩の祖となった山内一豊の父とされます。

高台にある常照寺の下まで行き右手の小道を行きます。
常照寺の境内西側から山に入る道があり獣除けフェンスがあります。その先に墓地があり、これの背後を直登します。
墓地の斜め左手から登りますが斜面はそんなにきつくはないです。見上げると城壁が見えています。
主郭との間の虎口と思われる開口部には東側が土塁になってます。
主郭の北側下には切岸と堀切があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=細工所城(荒木城)に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:須知城 (2025/05/23 訪問)

御影山城から車で35分くらいで、玉雲寺入口付近駐車場(35.140786、135.434372)に着き、そこから徒歩5分くらいで、登城口付近(35.143171、135.433707)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に須知景光によって築かれたと云われています。
1579年(天正7年)織田信長の命を受けた明智光秀による丹波侵攻では、当初は織田方として参戦しますが、途中で離反したために光秀の軍勢に攻められ落城し、須知氏は滅亡しました。
その後は明智氏の丹波支配の拠点として利用されたそうです。
山麓の玉雲寺は須知出羽守慶吉が開山した寺で、落城の際に兵火で焼失したものを光秀が再興したそうです。

③写真の場所の上をさらに100m行くと登山道入口があるはずですが、自分にはみつけられませんでした。
15分くらいウロウロしましたが、断念しました。結構ショックです。高石垣みたかったのに。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=橋爪城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:御影山城 (2025/05/23 訪問)

亀岡駅でレンタカーを借り、車で10分くらいで出雲大神宮正面表参道駐車場(35.058351、135.578402)に着きました。

築城年代など定かでないようですが、京都で一時勢力のあった柳本伊予守が築城したとの説があります。
伊予守は1530年(享禄3年)播磨で討死し、その後は丹波守護代の内藤国貞が支配下に置いたそうです。
明智軍が侵攻した際は、国人衆が防戦したと伝わっています。

山頂付近は石積み、土塁、堀切等良い遺構が多くあるようですが、御影山全体が麓の出雲大神宮の御神体であるため入山禁止となっています。
出雲大神宮のお参りして撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=須知城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠9日目:亀山城関連(南郷公園) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連(聖隣寺)から徒歩15分くらいで、南郷公園(35.014831、135.581724)に着きました。

~南郷公園での確認内容~
①明知光秀公築城碑➡確認できませんでした
②明知光秀公の像
③堀跡の南郷池
最悪です。亀山城の鯱瓦説明板の写真は撮っているのに、鯱瓦そのものの写真を撮っていませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=御影山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:亀山城関連(聖隣寺) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連(移築城門)から徒歩30分くらいで、聖隣寺(35.008084、135.586132)に着きました。

~聖隣寺での確認内容~
①山門の袖塀に狭間が設けられている 
②達磨太子像が山門の左隅に立っている
③毘沙門堂の屋根に細川家の家紋「細川九曜」と豊臣ケ家紋「五七の桐」
④織田信長の五輪塔(供養塔)がある
⑤木造の毘沙門天立像がある➡確認できませんでした
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(南郷公園)へ徒歩で向かいました。

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