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しんちゃん

さざえ堂 会津若松市 (2015/05/02 訪問)

栄螺堂(さざえ堂)は白虎隊自刃の悲劇で有名な飯盛山の中腹に建っています。「旧正宗寺三匝堂」が正式名称ですが、たいがい「さざえ堂」の方で通ってます。六角形の特殊な構造の中に二重螺旋構造の斜路が続いています。斜路には和歌山城の御橋廊下のような滑りどめが付いています。
飯盛山の山頂には白虎隊の少年隊士の像があり、鶴ヶ城(会津若松城)の方を覗いています。麓にある戸ノ口堰洞穴は猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地に水を引くための用水で全長31kmに及びます。慶応4年(1868)の戊辰戦争の時、戸ノ口で敗れた白虎隊中二番隊20名が潜った洞穴とされています。

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ひろ

七尾城 (2024/06/30 訪問)

七尾城

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零汰

トンネル貫通している岬上 (2024/05/23 訪問)

こちらもトンネル上の岬が目的地です。トンネル周囲には登る場所は見当たらず根元の旧道へ向かいましたが住民の方々がいて気まずくて通り抜けました。カムイチャシの様に階段などあると良かったですがそういう設備が無いと訪問は厳しい場所でした。

数日後、男鹿半島の双六館に訪れた際にもトンネル上の岬でしたが旧道には軒並み住宅が建っており登り口など見つかりません、九州でもトンネル付岬城郭は1か所見る事が出来ませんでした。たまたまかもしれませんがこのタイプの城跡訪問とは相性が悪いようです。

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カズサン

北に伸びる半島状丘陵に四連郭式城郭 (2024/06/07 訪問)

 昨年11月に甲斐武田氏発祥の地武田館を初登城し、パンフレットに近くの多良埼城跡も紹介されていましたがその時点では他の探訪計画が有り、認知しただけで終わりました、今回の城探訪企画で多良埼城と水戸周辺未踏の城と合わせて実施し、飯沼城から北東約25km程の多良埼城初登城。

 駐車場:多良埼城跡登城口前に路駐(36°25'50"N 140°34'24"E h=20m)
 参考資料:城郭放浪記さんさん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北関東道の終点に近いひたちなかICより北に勝田ゴルフクラブを目指し県道31号線を西進、勝田ゴルフクラブを少し過ぎて北に伸びる舗装された道を登ると約800mで登城口に着きます。道は樹木が茂りトンネル状態、余り交通量は無い。
 登城口に解説板、石碑、石垣の入口、登ったり降りたりし途中に赤い看板で一の木戸、二の木戸が有る、一番高い所が本郭、閉鎖されてる駐車場から登って切る道と交差した処を本郭に入る、虎口大手門に成っている、方形の大きな郭、南東、南西に隅櫓跡と案内図に有ったが良く分からないが太い土塁です、周囲は土塁が囲み西側には内側に堀?溝?が南北に通ってる、北の虎口を通て二の郭へ北側は高土塁と堀が有る、二の郭も周囲は土塁、本郭より狭い、北の虎口から三の郭へ、北側は高い土塁と堀が有る、三の郭は三角型で北が細く狭い平坦地、狭い道を北の先端へ四の郭で細長い郭、北西に塚の様な土盛り案内板によるのろし台?か良く分からない。四の郭にはツツジが植栽されて刈り込み生垣の様になっているが周囲の樹木が高く見晴らしは良く無い、先端に多良埼城跡付近の城館跡解説板が立っている。本郭が高く逓減されて二の郭、三の郭、四の郭、四の郭から郭の東側に登城口までの道が繋がっている。

 6月初めで樹木は茂り見通しは悪いですが冬の葉が落ちた時期には土塁、堀、各郭が良く分かり素晴らしい城探訪に成るでしょう、県道31号線からの林道のような道が樹木が茂り薄暗いので樹木伐採をして頂けたらありがたい。

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しんちゃん

松坂城 きたい丸と天守台 (2024/02/17 訪問)

きたい丸は本丸とほぼ同じ高さにあって、城の周囲を良く見渡すことができます。ここから本丸上段を経由して本丸に向かいました。「きたい丸」の名前の由来ですが、城主である古田重勝の子・重恒の幼名「稀代丸」に由来するそうです。かつては曲輪の各隅部に櫓が建っていたそうです。本丸上段には天守台が接合し、かつては三層の天守が建っていたとのことです。三重三階であってますかね?

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しんちゃん

いきなり石垣! そして‥ひたすら石垣! (2024/02/16 訪問)

松坂城は石垣で持つ城です。まあ実際に石垣しかないわけですが。おおよそ三段で構成されていて、本丸上段が最高所で天守台も残っています。その下に本丸やきたい丸のある段があり、その下に二の丸のある段があり、歴史民俗資料館や本居宣長記念館もそのあたりに居候しています。いずれの石垣も素晴らしく、普段山城で怪しい石垣に首をひねっている自分はなんだろう(今更ながら地元の山城を攻めています)と思いますが、それも城郭の奥深さというやつですか。中には石垣の積み方が異なる箇所もあるようですが、はて?

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ぴーかる

沓掛城 (2024/05/11 訪問)

【沓掛城】
<駐車場他>沓掛城址公園駐車場 北に8台、南に2台分あり。公園にトイレと自販機あり。
<交通手段>車

<見所>堀
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅3城目。現地説明板によると沓掛城は14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、室町時代を通して近藤氏が城主としていました。9代目の近藤景春は今川方に属し桶狭間の戦い直前には今川義元はこの城に入城し軍評定を行い出立します。その後、桶狭間にて今川義元が討死すると城主の近藤景春は沓掛城に戻りますが織田勢の攻撃を受け落城、討死します。織田方の城となってからは簗田政綱に城を与えられ⇒織田信照⇒川口宗勝は関ケ原の戦いで西軍に付いたため、戦後城は接収され廃城となりました。
 現地は主郭部分が明瞭に残っており、主郭と主郭を囲む堀と北西部にある土塁と曲輪が見られます。現地説明板にある古城絵図には二の丸内部に馬出しが描かれていますが、現在はその遺構は見られません。堀が深くなかなか見応えありました。

<満足度>◆◆◇

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yoda 1253

天守も石垣もなし (2024/06/05 訪問)

25万点の遺跡の発掘は価値大
保存されていて良かった

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カズサン

方形主郭がよく残ってる (2024/06/07 訪問)

 宇都宮の孫の行事が終わった翌日に、昨年11月甲斐源氏発祥の地、武田館を訪ねた折りパンフレットに紹介されていた多良埼城を探訪したいと一日多良埼城から水戸北部の未踏の城探訪を企画し、高速道の都合上、北関東道茨城西町ICを降りて南に約3km程の飯沼城を初登城。

 駐車場:福性寺南東裏の参拝者駐車場(36°17'20"N 140°22'59"E h=20m)、トイレ不明。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場から堀跡道へ進み福性寺側にも土塁が残っており、東側に飯沼城主郭土塁、と東側の虎口、主郭は約50m四方で周囲に土塁が廻り堀で囲まれていた、南郭は現在墓場、北側は北東側に墓場、北側は北郭の跡形が判らないが北郭主郭南郭に堀が廻った連郭式城郭。

 案内板によると
 南北朝時代は南朝方に属し、戦国時代の城主として桜園氏の名が知られてる、文明年間(1500年)頃には江戸氏の影響下に入り、天正18年(1590年)佐竹氏に滅ぼされた。
 
 主郭の土塁、切岸土塁、堀跡も残り駐車場も有り大変探訪しやすい、春の桜、秋の紅葉と季節ごとに美しい景観に染まる事でしょう、季節外れでも十分楽しませてくれます。
 

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たぬぬ

正蓮寺 (2024/06/28 訪問)

渋川駅から徒歩で20分で城跡の正蓮寺に至ります。目立った遺構はありませんが、堀跡が一部残るなど城郭の雰囲気はあります。
境内に古い城址がありました。

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しんちゃん

山城国一揆最後の戦場 (2024/04/19 訪問)

稲八妻城は南稲八妻跨道橋を越えた先の竹林の丘が城址のようです。バーが有るので跨いで入って登っていくと曲輪らしき扁平地がありました。頂部あたりに主郭があり土塁が比較的良く残ります。ここまでの比高はそれほど高くないです。丘城になりますが、山城のように南と西の尾根に曲輪が配されています。
山城国一揆で蜂起した一揆勢が最後に寄った城とされています。守護代として入ってきた古市澄胤の軍との戦いは激しく双方の戦死者は200にも及んだそうです。抵抗むなしく稲八妻城は陥落、山城国一揆は終焉となりました。

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しんちゃん

謎の城主・白井織部是房 (2024/01/27 訪問)

白井織部是房館跡と書かれた石碑があります。是房は座間七村の地頭を務めていた人物のようですが在城していた時期などはっきりしません。戦国時代の人物ではあるようです。とりあえず周囲の高台などもぶらぶらしてみました。城も城主も謎が多いです。

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しんちゃん

扇谷上杉家 (2024/01/27 訪問)

七沢城は七沢リハビリテーション病院脳血管センターのあたりに築かれていたようです。扇谷上杉家の城で、山内上杉顕定が攻めてきた際に、扇谷上杉定正が少数の兵で川越より一昼夜で駆けつけ、敵を破ったそうです。
ここ以外にも見城山なる遺構が存在する? マジっすか。

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赤い城

篠原神社と真観寺 (2024/06/16 訪問)

城北高校の北側、住宅地の中にある篠原神社と真観寺一帯が城域となります。
駐車場は無く、短時間なので真観寺に停めさせていただきました。
篠原神社が主郭のようで一段高くなっています。
真観寺の門に旧今切城址の文字が入っていました。

三好氏配下の篠原長秀の居城でしたが細川氏に攻められ落城しました。

徳島と言えば徳島ラーメンですがこの日は寄れず、またの機会に食べたいな。

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モト

水門の石、神籠石 (2024/06/11 訪問)

古代山城シリーズです。
第一水門に今も水が流れてました。
また、ここにある神籠石は一部、唐津城の石垣に使用されたそうです。
歴史的な列石を石垣に使用するというのはすごい。
はたしてその当時に神籠石の歴史的な価値を分かった上で使用したのか、それとも石の形が石垣にピッタリだからとう単純な理由だったのか。
いずれにしてもかつて日本をを守る為に使用された石が再び城の石垣としてその領地を守る為に使用されるという事に、なんとも言えないロマンのようなものを感じてしまいました。

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しんちゃん

咋岡神社一帯が城址 (2024/04/19 訪問)

咋岡神社周辺が城址となっているようですが、うっすらと土塁が見える以外は、特に遺構を見つけることは出来ませんでした。
応仁の乱の後、畠山氏の跡目争いの舞台になり、文明14年(1482)畠山政長勢のこもる草路城を畠山義就勢が攻撃し、草路城は落城、数十人が切腹させられたとのことです。両畠山氏の争いは山城国の国一揆を招き、両畠山氏は山城国から撤退するも、明応2年(1493)一揆勢力内の対立に乗じて古市澄胤が抵抗する勢力を破って一揆は終結したとのことです。

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イタさん

塚越城・埼玉県坂戸市塚越 (2024/06/25 訪問)

西光寺さんに駐車させて貰う。西光寺の北東に城跡は標示されている。詳細は分からないが、小島氏の居館跡らしい。堀跡の一部は墓地になり、他の堀は歩きづらく、土塁・その他は藪化している。城跡の東に会社があり、一角は高い土塁を思わせるが、分からない。時間に余裕があれば、西光寺の南西に大宮住吉神社、神社南に弁天池があり、寄ってみるのも良い。

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イタさん

往事を偲ぶ板石塔婆 (2024/06/25 訪問)

館跡は台地の端にあり、南には九十九川、越辺川が流れる低地が広がる。館跡に青蓮寺が建ち、墓地が寺域の半分は占めているだろうか。館の遺構は消滅しているのか、うまく探せなかった。弘安四年銘の板石塔婆が保存されいる。脇の説明板に、小代氏四代・重俊の人徳を慕って、また祖先供養のため、小代氏一族関係者が建立した。小代氏は武蔵七党・児玉党の入西資行の次男・遠弘が移り住み、小代を名乗る。その後、肥後国野原庄(現・熊本県荒尾市)の地頭職に任じられ・・・。青蓮寺のほぼ東隣に正代御霊神社が建ち、古くはないが市指定民俗文化財の「正代の祭りばやし」が載っている。青蓮寺山門前、神社社殿前からは、意外に高低差がある風景が眺められる。

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豊臣秀長 (2024/06/29 訪問)

 久しぶりの大和郡山城です。筒井順慶が居城としたこともある城ですが、豊臣秀長が入城したときに大規模な城郭に改築が行われ、現在見られる城郭の基本的な骨格が形成されたとされています。この城の魅力は高石垣と堀と思っています。ただ冬季に来ると遺構もより楽しめると思うにですが、その時期には来たことがありません。今回も葉が繁り石垣など見にくいところもありましたが、それでも十分楽しませてくれる城址です。

 近鉄郡山駅より徒歩10分くらいで行くことができます。

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小城小次郎

鬼の頭と波多氏の思い (2023/12/10 訪問)

鬼の頭みたいな形をした山城は寺沢氏によって石垣造りのエリアに縮小されたが、波多氏時代には広大な城域を有していた。この地域で営まれていた小さな安穏を文禄慶長の役と名護屋城でぶっ壊された波多氏の思いはいかばかりか。

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