イベントの伊豆半島めぐりで土肥金山を訪問しました。金山は以前訪問しているので今回は寄っただけですが、真冬に咲く土肥桜が咲いていました。じきにライトアップすると思います、梅よりも早いんですね。今年一番の桜です。
フェリーが運航するのは今週末ごろなので、イベントクリアはまだですが、「伊豆水軍」のゲットは近いです。
やはり日本人は城、桜、富士山ですね。
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2025/02/03 21:07
2025/02/03 16:51
那珂氏と言ってもいろいろですね。 (2024/02/19 訪問)
JR水戸駅北口から茨城交通「野口車庫」または「御前山車庫」行のバスに乗車し、「宝憧院前」で下車、徒歩5分。
城跡は現在、宝撞院というお寺になっていますが、土塁と空堀がかなり良好に残っています。特に北西側の空堀と土塁の遺構は、見ごたえがあります。
宝撞院の南西端の土塁上に城址碑があり、説明板は、山門の脇と土塁上の城址碑への階段の手前の二か所に設置されています。
説明板によると藤原秀郷流の那珂氏の城と考えられてきたが、現在は那珂氏(大中臣氏系)の城といわれているようです。
気になったので、いろいろ調べてみましたが、常陸国の那珂氏は、那珂西城の大中臣氏系と藤原秀郷系の那珂氏の二つの家がいたようです。
現在、那珂西城の城主と考えられている大中臣氏系那珂氏は、南北朝時代に常陸から丹波国に移住したといわれているようです。
藤原秀郷流の那珂氏は、南北朝時代は南朝方に属し、北朝方に敗北。その後、生き残った那珂氏が江戸氏を名乗り、戦国時代には水戸城や河和田城に入ったみたいです。元々の居城は従来、那珂西城だといわれてきましたが、現在は茨城県常陸大宮市の那賀城(城びと未登録)だったと考えられているようです。
近い場所に那珂氏がニつも存在すると、複雑になってしまいますね。常陸大宮市の那賀城も機会があれば、行ってみたいと思います。
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2025/02/03 15:38
人取橋古戦場 (2024/09/16 訪問)
福島県本宮市にある人取橋古戦場は人気のない丘陵上の田畑の中にひっそりと石碑が佇んでします。天正13年(1585)11月17日、常陸の佐竹・会津の芦名・白川・石川・須賀川の二階堂・磐城・相馬の連合軍約3万と伊達政宗の軍勢7千余がここで戦いました。
闘いは連合軍の優勢に進み、伊達方の鬼庭’(茂庭)佐月・伊場野遠江が討死しましたが、佐竹の軍師が家僕に殺されたため、連合軍は兵を返し、戦いは伊達方の有利に終わったようです。
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2025/02/03 15:23
2025/02/03 15:14
ここは地獄の八丁目 (2024/09/16 訪問)
金曜に一緒に仕事をした同僚がコロナで休んでいるので、私も午後から自宅療養です。俺はコロナじゃねー。
まあ明日になったら疑いも晴れるわけだけど。某サイトのイベントがらみで、土日で伊豆を一周し、そのまま関東を一周しながら160城を攻略してきました(2日でですぞ)。なかなかハードだわ、これ・・城びとの城攻めとは異なるしんどさです。とりあえず、今月500城攻略目標で。
もちろん城人の攻略も忘れてはいませんぞ! 八丁目城ですが本曲輪である愛宕社のある丘陵(愛宕館)と南曲輪のある八幡館の二つがあって、それぞれに道がついています。愛宕館の主要部は二段構造になっていて、下段に愛宕社、上に毘沙門天の御堂のある郭があります。西側には大堀切も有りました。
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2025/02/03 08:13
岩神館(滋賀県高島市朽木岩瀬) (2024/11/09 訪問)
岩神館(城びと未登録)は、鎌倉前期に朽木荘を領した朽木氏が拠点とした城館で、室町中期に拠点を朽木城に移した後も、戦国期には戦乱の京を逃れてきた室町将軍を岩神館に迎え入れ、足利義晴は約3年、足利義輝は約6年半にわたって滞在しています。岩神館跡には江戸前期に秀隣寺が創建され、後に興聖寺が移って朽木氏代々の菩提寺となりました。
興聖寺の駐車場には朽木氏岩神館遺跡の説明板が立てられています。駐車場から興聖寺に向かうと、境内北東隅から北辺と東辺に石垣が続いています。古くからの石垣のようですが、岩神館の頃からのものなんでしょうか。石垣沿いに南に進むと興聖寺の入口があり、説明板と冠木門が立てられています。入口の南側にも石垣が続いていますが、こちらは近年に積み直されたのか新しい感じでした。
冠木門をくぐると拝観料(300円)を払って境内を散策します。境内南東部の旧秀隣寺庭園は、足利義晴の滞在中に朽木氏らの依頼により細川高国が作庭したとされる豪快な石組みを配した池泉鑑賞式庭園です。紅葉にはまだ早い時季でしたが、安曇川と対岸の山並みを借景として将軍の無聊を慰めるべく築造された見事な庭園でした。境内南部は墓地になっていて、墓地の背後には岩神館の土塁が遺っています。土塁は墓地の西辺から南辺を囲むように続き、その外側には堀切があるはずですが、防獣ネットがめぐらされていてよくわかりません。そこで境内を出て北側から西側に回り込んでみると…おお、確かに! 土塁も堀切もはっきり確認することができました。
庭園も土塁も堀切も見応えありましたが、何より「麒麟がくる」で義輝が十兵衛に「麒麟がくる道は遠いのう…」と嘆いたのはこの地だったんだな…と考えると(義輝と十兵衛の会談はフィクションだとしても)感慨深いものがありました。そういえば、その回の麒麟がくる紀行も興聖寺でしたっけ。…などと満足しつつ興聖寺を後にし、帰宅する車中でふと思い出しました。土塁と堀切を見るために外へ出たまま、本堂内を見学するのを忘れてたーっ! 興聖寺の本堂は主目的ではないとはいえ、せめて楠木正成の念持仏と伝わる不動明王坐像くらいは見ておきたかった…。
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2025/02/02 23:01
磐越東線完乗記念 (2024/11/13 訪問)
三春城見学後いわきまで磐越東線に乗車して無事完乗を果たしたので、あとは特急ひたちに乗り換えて品川に戻るだけですが、乗り換え時間が約30分あるので磐城平城を探してみることにしました。
駅前とはいえ、本丸は公開されていないようですし、かと言って山の向こう側の何かありそうなところまで行く時間もなさそう…と城めぐりの成果が得られるか不安なまま改札を抜けたのですが目の前にそれとすぐにわかる“城山”が!
見上げるだけで散策などはできませんでしたがそこにあると確認できてほっとしました。
駅前の広場には説明板と絵図があり、歴史や発掘調査で明らかになったこと、また、私が立っているところが内堀で駅があるのも城内で、ということなどが実感としてわかりました。私有地ですから一般人が勝手に入れないのは当然のことですが、親切な説明板のおかげでお城に来た感を得ることができて感謝感謝🙏です。
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2025/02/02 17:39
いつ与板に移ったのだろう (2024/04/28 訪問)
与板城ともども直江氏の城で本(もと)与板城→与板城と変遷したのは事実だろう。問題はいつ移ったかなのだが直江家は信綱も兼続も養子なのでどちらにも人心一新ニーズがあってややこしい。勘だけで言えば信綱なのだが。
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2025/02/02 15:38
伊勢亀山城探訪 (2025/01/24 訪問)
伊勢亀山城を訪問しました。このお城も明治時代の廃城令により、ほとんどの建物は取り壊されたそうですが、多門櫓と石垣などが遺構として残っています。
見どころは現存する多門櫓です。三重県で唯一現存のままに残る建物だとのことで石坂から望む多門櫓は見ごたえがありますね。
登城日は残念ながら平日のため内部の見学ができませんでした。(土・日・祝日のみ見学可)
また、周囲を散策すると西出丸跡、三重櫓跡、復元整備された二ノ丸帯曲輪を見ることができます。
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2025/02/02 11:45
北畠氏館・霧山城探訪 (2025/01/24 訪問)
北畠氏館を訪問しました。三重県美杉町にあり、山麓に居館跡、その裏山に詰城跡で、山頂に霧山城跡があります。
登城の前に美杉ふるさと資料館に立ち寄りました。ここでは、霧山城跡までの登城案内及び関連情報を入手することができます。霧山城跡まで登城する場合はお勧めです。
山麓の居館跡は、現在北畠神社が建っています。遺構は少ないですが、館跡庭園があります。
北畠神社でお参りしてから、山城である霧山城跡を目指して登城します。登城道入口から霧山城跡までは約40分の道のりとなります。
10分程度登ると詰城跡です。そこから南曲輪跡(鐘突堂跡)まで登り、次が頂上にある米倉跡、本丸跡、矢倉跡となります。頂上までは迷うことなく進むことができました。
全行程2時間弱でしたが、山城登城の達成感を味わいました。
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2025/02/02 11:39
田丸城探訪 (2025/01/24 訪問)
田丸城を訪問しました。田丸城は南北朝時代の北畠氏の砦から始まり、戦国時代に織田信雄が天守閣を含めたお城に改修したとのこと。その後城主が変わりながら紀州徳川家の家老久野氏が明治維新を迎えています。
玉城町役場に自動車を駐車し大手口門跡から登城しました。二の門跡を通り小学校敷地を迂回して本丸虎口から城内を散策しました。
建物の遺構はありませんが、二の門跡、本丸跡の石垣は見事です。石垣好きにはたまりませんね。なお、天守跡にはライトアップ用天守が建っています。
城内は遊歩道が整備され、石垣を眺めながら周ることができ、散策し易いお城だと思います。
なお、玉城町役場のロビーにパンフレットがありますので、散策の参考になりますので寄ってみるのをお勧めします。
伊勢神宮から近いですので、参拝の後に訪問するのも良いと思います。
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2025/02/02 08:39
雨の中津城 (2025/02/01 訪問)
あいにくの雨、寒かった。
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2025/02/02 08:27
雪の高取城 (2025/01/11 訪問)
「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」 大和盆地から見た高取城威容を歌ったものですが、江戸期を通じ植村家の家禄は多くて僅か2万5千石程度の小藩であったにも拘わらず、よくこんな大規模な山城を維持していたと感心してしまいます。
今回は久しぶりに、上土佐の街中から大手道を登り、最奥は弥勒堀切まで見てきました。
最後はヘロヘロになったため、岡口門址へ行くのは諦め、真っ直ぐ大手道を引き返しました。
所在 奈良県高市郡高取町高取
登城 令和7年1月11日
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2025/02/02 08:08
西山城(滋賀県高島市朽木市場・荒川・西山) (2024/11/09 訪問)
西山城(城びと未登録)は、文献資料に記載がなく詳細は不明ながら、朽木氏が朽木城に拠点を移した後に詰城として築いたと考えられています。
朽木陣屋から北に約200mの住宅地奥に西山城の登城口があります。登城口から少し行くと西山城遺跡の説明板があり、その先は軽トラが通るような未舗装道(愛宕神社の整備道?)をひたすら歩きます。登城口から約25分で尾根筋に出て、出曲輪の表示もあったのでやっと着いた…と思いきや、そこから主郭部までまだ10分ほどかかりました。
主郭西麓の愛宕神社にお参りしてから登って行き、主郭南下段の南曲輪に取りつきました。南曲輪は南裾の尾根筋を堀切で遮断し、東辺は主郭から続く土塁の外側に竪堀を落としています。南曲輪の北西部には主郭に通じる枡形虎口が設けられていました。
主郭は周囲に土塁をめぐらせていますが、北端のひと際分厚く高いコの字型の土塁は、西山が地元で烽台(ホウダイ)と呼ばれていることから烽火台の遺構と考えられるようです。現在は樹木で眺望はききませんが、東に安曇川、西に若狭街道を見下ろす位置にあり、なるほど烽火台や見張台には好適地ですね。
主郭北西部の虎口から北下段の北曲輪へ。北曲輪の北辺から東辺にかけて土塁がめぐり、東辺の土塁の食い違い部の石積みは溜桝の遺構と考えられています。北曲輪北裾の尾根筋は3条の堀切で断ち切り、その先には北出曲輪がある…らしいのですが、手持ちの縄張図には載ってなかったため、堀切までで引き返してしまいました(主郭にある説明板の周辺図には載っています)。
小規模な詰城ながら烽火台も堀切もなかなか見応えがありました。ただ、登城道もよく整備されていて歩きやすく傾斜も緩やかなのはいいんですが、そこそこ距離があるため、打下城と田中城で結構歩きまわった身には地味に堪えました…。
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2025/02/02 06:05
福岡城天守論争に進展(ついに天守台発掘調査へ)
福岡城の天守論争で新たな動きがありました。福岡商工会議所から、有識者と経済界で意見をまとめた、今後の福岡市のとるべき方向性を示す「提言書」が出され福岡市長に手渡されました。内容をまとめると
① 天守は江戸初期(慶長期)に建てられそして(元和期)に壊された。
② 構造は五重六階・地下一階で姫路城と同程度の大きさであった。
③ 外観は黒を基調にした下見板張りと白漆喰であった
④ 市民へのアンケート結果で59.1%が復元に賛成である。
よって完全な復元ではなく、資料などを多面的に検証した、実物に近い形の「復元的整備」で今後迅速に進めるよう市長へ提言する。といった内容でした。
これに対し、文化庁の見解は今までと変わらず慎重で、
① 城の設計図や写真などの直接的資料がない。
② 福岡城は国の史跡なので復元には国の許可が必要。
③ 今ある石垣の上に建てても地盤が耐えられない。
という事で、現時点では「復元的整備でも不可能」というスタンスを崩していません。
この提言を受けて福岡市長は、ならば文化庁と本格的に学術的な発掘調査を、まだ手付かずの天守台を中心に一緒に行いましょうと提案し、国の発掘許可も下りそうなので、その費用を来年度予算案に計上するという発表がありました(写真①②)。
提言の内容を見る限りでは、私には目新しいものは感じられず、復元ありきで観光の目玉にしたいという経済界の意向が強いような気もしますが、ならば市としてはまず天守が確かにあったという痕跡を探すため、掘ればまだ地中に壊した時の柱や瓦の一部がもしかして眠っているのではないか? そのような決定的な証拠を見つける事で、天守が建っていたかいなかったかの論争の部分からまず決着を図りたい考えのようです。また並行して文献資料の再調査も福岡市博物館で行なわれるとの事です。
関ケ原後の1602~1607年頃にかけて福岡城は黒田長政により築城されますが、1644年の正保の絵図には天守台には何も描かれておらず、この時期には間違えなく天守は無かったようです。1620年頃に、徳川秀忠に細川との騒動の弁明をするため江戸に行った黒田長政は、徳川に忠誠を誓うための証として福岡城の天守を自ら壊した旨を報告しています。同じ頃の細川忠興の手紙などからも、長政は自ら天守を壊してその部材を徳川大坂城の築城に差し出した旨が記録されています。家臣の手紙には、天守を御建てになったとか天守の欄干が腐ったので修理せよなどと欄干付き天守があった事を示す手紙も発見されています。しかし有識者の間では、それは小天守の事で大天守は最初から家康をはばかって築かれてはいなかったので復元する事自体がおかしいという意見と、いや大天守は最初から築かれていたので復元するべきであるという意見に分かれて今日まで論争が続いてきました。
さあ掘って本当に何か出てくるのでしょうか? もし万一大天守の存在を示すような決定的な証拠が出てくれば、市長と経済界の逆転ホームランになり復元への機運が一気に高まるかもしれませんね!(逆に出なければどうなるのだろう🤔?)。 長く続いているこの論争、1年後にはどのような進展が待っているのか? それを楽しみに見て行きたいと思います。
今年のさくらまつり期間中も、また幻の天守ライトアップが行われるようです。ただし終了後に発掘調査を始めるので、幻の天守期間中も天守台へは登れませんが、終了後も発掘調査のため天守台とその周辺は一部立ち入りが規制されそうなので、その際は御協力をお願いしますとの事でした。
これまでの提言内容に至った経緯の詳細を知りたい方は、以下にまとめられたHPがありますので、よければ御覧下さい。また地元テレビ局のニュース映像からわかりやすいよう要点を抜粋してみました。御参考まで(③~⑩)。
https://www.data-max.co.jp/article/71404
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2025/02/01 22:54
藤堂高虎 (2025/02/01 訪問)
久しぶりの津城です。天正年間に織田信長の弟、織田信包が築城し、慶長13年(1608年)の藤堂高虎が伊予から入国し大改修を行いました。お城公園として整備されています。
模擬三重櫓が目につきますが、石垣が魅力的な城址です。一部野面積みの石垣がありますが、織田信包や富田信高の時代に築かれた石垣で、藤堂高虎が改修した以後の石垣は打込みはぎもしくは切込みはぎのようです。
模擬三重櫓から徒歩5分くらいの百五銀行丸之内本部棟横で数年前発見された内堀の石垣が復元整備されていました。
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2025/02/01 22:33
大多和監物 (2025/02/01 訪問)
織田信長の伊勢侵攻に際して木下藤吉郎がこの城を攻めましたが、大多和監物が濃霧の助けもあり守り抜いたと伝わる城です。土塁に囲まれた主郭を中心にして、東と北に曲輪があります。また堀切を隔てて南東の尾根も曲輪であったと思われます。主郭の出入り口は東と南にありました。南の虎口から出ると堀切があり橋が架かっていましたが、ロープで遮られ通行できません。裏登城路と標識のある井戸跡から堀切付近を通って行くと南東の尾根に行くことができました。南東の尾根の西と東に堀切があります。東の堀切は浅くなっていますが、西側の堀切は見応えがあります。井戸のある場所は谷と思っていましたが、歩いて見ると空堀のようにも思えます。井戸は2カ所あると記載された情報もありましたが、一つしかわかりませんでした。
城域は広くありませんが、堀切、土塁、曲輪などが明瞭で楽しく散策できる城址です。
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2025/02/01 22:22
2025/02/01 22:16
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