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小城小次郎

鬼の頭と波多氏の思い (2023/12/10 訪問)

鬼の頭みたいな形をした山城は寺沢氏によって石垣造りのエリアに縮小されたが、波多氏時代には広大な城域を有していた。この地域で営まれていた小さな安穏を文禄慶長の役と名護屋城でぶっ壊された波多氏の思いはいかばかりか。

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しんちゃん

岡城の遺構・中川覚左衛門屋敷跡 (2014/01/13 訪問)

現在残っている岡城の石垣は、文禄3年(1594)に豊臣秀吉の命で入った中川秀成によって3年がかりで築かれたとされています。広い城域を総石垣で覆い、その眺めは実に壮観です。本来、石垣だけだと寂しい感じがするのですが、岡城や竹田城のような名城は、むしろすがすがしささえ感じられます。石垣の芸術を見ているようで、建造物が無い分、余計に石垣の存在感が増しているように思えます。
城内の北西端には家老の中川覚左衛門の屋敷跡があります。古田織部の弟の子孫とされ、岡藩の中で2300石を取る身分であったようです。ちなみに赤穂浅野家筆頭家老の大石内蔵助良雄が1500石ですので、結構な高給取りだったのではないでしょうか。

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織田小学校 (2024/06/29 訪問)

 芝村藩は織田信長の弟である織田有楽斎の四男織田長政が開いたことに始まる藩です。以前は戒重に陣屋がありましたが1745年、第7代藩主織田輔宜の時に芝へと陣屋を移しました。桜井市立織田小学校周辺が跡地です。校門の脇に説明板があります。小学校から徒歩10分くらいの場所にある慶田寺に移築門があります。

 JR巻向駅より徒歩で箸墓古墳の横を通り約15分で行くことができます。

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牛頭天王社 (2024/06/29 訪問)

 窪城氏が築城したと伝わっています。方形の東郭と西郭が残っています。東郭には牛頭天王社(八坂神社)があり土塁、周囲には空堀が残っています。西郭は藪となっていて侵入していません。西郭に北側にはいい空堀が残っていますが、倒竹が多く行く手を阻んでいました。東郭と西郭の間と東郭北側の空堀は何とか散策できます。

 JR帯解駅から徒歩15分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

愛知県の観光地 常滑市・登窯 新城市・阿寺の七瀧 (2021/05/30 訪問)

中世の遺構では無いのですが、常滑市のやきもの散歩道には登窯(陶榮窯)があります。明治20年頃に築かれ昭和39年まで使用されました。17度の傾斜角を持ち、8つの焼成窯と10本の煙突を備えています。常滑市のやきものは六古窯の一つに数えられ、中世には織田信長の経済力の基盤となり、尾張徳川藩の庇護の下、繁栄を取り戻しました。
阿寺の七滝は阿寺川にかかっており、合計の落差が62mに達する、七段の優美な滝によって構成されています。国の名勝と天然記念物に指定されており、日本の滝100選にも選ばれています。安倍晴明は若いころに修行したという伝説も残っているようです。

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東市小学校 (2024/06/29 訪問)

 大和の有力な国人であった古市氏の城です。奈良市立東市小学校付近が主郭であったと伝わっています。グランドの片隅に城址碑がありました。フェンス越しに写真を撮って退散しました。

 近鉄奈良駅よりバスに乗り南古市バス停下車。近くの坂を上ると小学校ですが、城址碑を撮影するために土手を少し登りました。

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朝田 辰兵衛

ららぽーと横浜の鬼門除け…? (2024/04/29 訪問)

JR鴨居駅から,ららぽーと横浜をスルーして向かいました。駅で降りた人の群れは,8割以上がららぽーと横浜に吸い込まれて行きました。その,ららぽーと横浜の北東に位置するのが池辺陣屋(宗忠寺)です。

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ぴーかる

井田城 (2024/05/11 訪問)

【井田城】
<駐車場他>井田公園駐車場
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅2城目。井田城の築城年代・築城主は定かではないが、松平氏・徳川氏の始祖とされる松平親氏の子とされる酒井広親の子の氏忠から忠次の5代まで酒井氏の居城であったとされます。酒井忠次は1527年にこの地で生誕しました。
 井田公園の東側にある城址から少し高台になっていて、城址箇所が主郭であったようです。現地は公園と城山稲荷があり主な遺構は残っていません。西側の法面が当時の土塁であったかどうかといったところ。

<満足度>◆◇◇

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零汰

トンネル貫通している岬上 (2024/05/21 訪問)

こちらのチャシも岬上で下をトンネルが貫通しています。平面上は細く長く海へ突き出ています。チャシ上から見る海岸線は美しいです。
木製の遊歩道を進むと橋を渡ります。橋から堀切を眺めるとそこには春先で成長著しい若き雑草がすくすくと育っていました。

次の日に向かう予定だった神威岬はこちらを見た為に当日中止しました。これまで多くの岬を見て来たため飽きてきていたからです。今はチャシの投稿が続きそろそろ飽きてきそうです。

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チェブ

まさに難攻不落のお城。 (2024/05/05 訪問)

「若林城」は1628年に、伊達 政宗さんが隠居する為に築城されたました。
もともと、国分氏のお城があった場所のようです。

この日は「若林城」の近くにある『仙臺だんご いち福』という お団子屋さんを楽しみにしていました。
開店前に、ちょっと城攻めしようと、進軍して驚きました。
「若林城」は『宮城刑務所』でした。
「若林城」の石碑と説明板が駐車場のフェンス外にありました。『刑務所作業製品展示場』の駐車場です。
展示場は開店してません。路駐で写真を写し退陣しました。
土塁の上に赤い煉瓦の塀があり、いろんな意味で絶対に入ってはいけません。
朝田 辰兵衛さん風
『ココもフェンス越しに覗き見、、。』です。

この後のお団子屋さんは、長蛇の列。辛抱の足りない私は、またしても退陣です。

伊達 政宗さんの防御が、こんなかたちで役立っていたのか?と、感心した「若林城」攻めでした。

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カズサン

【下野 畠山陣屋】栃木県栃木市 陣屋門、連子窓土塀が見所 (2024/06/05 訪問)

 城郭放浪記さんの毎日、毎月の閲覧件数トップ10を毎日チェックして居りますが、以前畠山陣屋が気に掛かり、何時か探訪をと思っていました、今回宇都宮の孫の所へ家内と出掛けましたので、リニューアルした佐野SAで昼食、佐野ラーメンを頂き、栃木ICを降りて畠山陣屋初探訪。

 住所:栃木県栃木市嘉右衛門町1-12
 駐車場:嘉右衛門町地区無料駐車場(栃木市小平町3-2)、陣屋北隣接地も陣屋専用駐車場有り、トイレは約400m南の蔵の街広場にトイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクショングーグルマップに依る。
 開館日:金曜・土曜・日曜・祝日の午前9:30~午後5:00まで、平日は予約のみ開館。

 嘉右衛門町地区無料駐車場よりぶらぶら歩いて約100m超、角の神明神社を南へ旧例幣使街道を歩いていくと、城郭放浪記さんの写真で見慣れた陣屋の連子窓の付いた瓦屋根付土塀、畠山陣屋と刻まれた立派な石碑、と正面門、南隣の岡田記念館、代官屋敷城門、此処で当日水曜日は公開日で無い事を認識し、外観、土塀の連子窓から書院式台を見て撮影、当然翁島別館も休館、玄関先の石橋、枡形、遠く別館を覗き撮影、旧例幣使街道沿いの町屋は伝統的建物群保存地区に成っており街並み町屋の風情が江戸明治期を彷彿させます、良い感じです。蔵の街遊覧で有名な乗船場は約1km程南なので諦め、蔵の街広場でトイレ休憩、案内板、解説板を観て孫の処へ。

 代官屋敷城門の前にパンフレットが置いてありましたので頂きました。
 畠山陣屋は元禄元年(1688年)高家畠山基玄によって築かれた。(城郭放浪記さん情報)
 畠山陣屋は岡田嘉右衛門屋敷に置かれて、岡田嘉右衛門が代々、代官を勤めたようです、岡田氏は武士より帰農し荒れ地を開墾し嘉右衛門新田を開発し町名も嘉右衛門さんからとり名主も務める。
 内部を見学できませんでしたが、外側から見学、例幣使街道建物群の見学と大変楽しませていただきました。
 

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しんちゃん

扇谷上杉家居館 太田道灌無念の地 (2024/01/26 訪問)

糟屋館は産業能率大学の敷地内に築かれていたようで、現在は駐車場の周辺を発掘調査しているようです。結果が楽しみですね。
家臣の讒言を受けた扇谷定正によって太田道灌がこの地で最期を遂げたとされています。産業能率大学の北東の水路沿いには武者走り土塁遺構とされる土盛りが連なっていました。

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しんちゃん

伊予松山城の天守閣 (2013/12/13 訪問)

現在目にすることが出来る伊予松山城は慶長7年(1602)関ヶ原の合戦の功で20万石に加増された加藤嘉明によって築かれたとされています。創建当時は五重の天守だったようですが寛永12年(1635)に松平定行が15万石で入り、寛永19年(1642)に三重の天守に改築したようです。天明4年(1784)には天守を含む本壇(天守曲輪みたいなもんか)の主な建物が焼失し、今の天守や本壇の建造物は安政元年(1854)に再建されたものになります。幕末の建造物で、天守としてはだいぶ新しいものになりますね。当時は避雷針などないので、山上の櫓や天守は雷にとっては格好の標的になるみたいですね。落雷による天守の焼失は結構多いですね。

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しんちゃん

むじるし徳島城の阿波青石 (2013/12/10 訪問)

徳島城は至徳2年(1385)に細川頼之によって築かれたとされ、家臣の三島外記が守ったとされています。天正10年(1582)には長宗我部元親が阿波を平定しますが、豊臣秀吉の四国征伐により蜂須賀家政が18万6千石で入り、平山城として改修を受けたようです。
石垣には眉山の三波川変成岩が使われているようです。表御殿庭園には阿波青石(緑泥片岩)が多く使われています。青石を繋いだ見事な石橋はこの庭園の最大の見どころだと思います。青石にもいろいろあるようで、紀州青石や伊予青石は緑色片岩とされ産地によって材質や名称が異なるようです。
紀州青石は和歌山城に多く使われ加太の城ヶ崎周辺や雑賀崎で採取されるものを使用しています。

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朝田 辰兵衛

ここの砦跡は遠望で…👀 (2024/04/29 訪問)

墓地裏の高所が砦跡のようですが,進入経路が見当たらず。こんなところでウロウロしたりキョロキョロしたりしていると,間違いなく不審者扱いされるので,遠望をパシャリ📷して撤退しました。

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しんちゃん

伊勢宗瑞も攻めあぐねた堅城 (2024/01/26 訪問)

岡崎城は前期と後期に分かれ、前期は岡崎義実によって岡崎神社を中心としたあたりに築かれたとされています。後期(戦国時代)は無量寺を中心とした大規模な範囲に築かれていたようです。後期の城は三浦氏の持ち城とされ、養父の三浦時高を滅ぼした(!)三浦道寸(義同)が居城としたとされます。小田原城を奪い相模平定を狙う伊勢宗瑞に狙われますが、堅固な岡崎城を攻めあぐね17年もの間にらみあいが続いたそうです。その岡崎城も永正9年(1512)ついに落城し、道寸は逃れますが、永正13年に新井城にて一族とともに滅びたそうです。位置的に無量寺が主郭と見られ、背後(西側)に堀切が見られます。西側から南に曲輪が続いているようですが、一度寺から出て、北側から細い道を回り込んでいきます。細い道から折り返すように上に道が続いているので、登っていくと堀道の右手に扁平地がいくつかあ有りました。これらが曲輪跡と見られ、一部は畑になっているようです。これらの曲輪は進入禁止になっているので、ひとしきり確認した後は、堀を登って無量寺に戻りました。

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零汰

城びと登録本土最北端 (2024/05/19 訪問)

昨日の投稿に引き続きこちらも岬上がチャシ跡です。写真3.4では薄っすらとそれらしく見えますが、近くではっきり認識出来ない(写真8)濠で区画されてはいます。規模はだいぶ小さいです。

昨日思い付きで書いた四極云々、本土城びと登録に限れば最東端はポイモイチャシ、最西端は長崎県の籠手田城、最北端はこちらのチャシとしれっとリーチ、残るは最南端鹿児島か・・・。そう気が付いて一人で盛り上がっていた自分が俗物で恥ずかしいです。

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ぴーかる

上野上村城 (2024/05/11 訪問)

【上野上村城】
<駐車場他>上郷区民会館駐車場
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅1城目。豊田市の公式観光サイトによると上野上村城は1467年頃、伊勢貞親の被官であった戸田宗光による築城(ちょうど応仁の乱の頃です。足利義政とのつながりの深かった伊勢貞親の命で築城したかもしれません)と伝えられています。宗光が渥美半島に移った後は、阿部氏が治めていましたが、1493年に井田野の戦いに勝利した松平家の居城となりました。松平家の内乱後は、酒井忠尚が城主になりましたが、1563年に忠尚が三河一向一揆の総大将として蜂起したため徳川家康に攻め落とされました。榊原康政はここより300m南にある会下城が生誕の地ともされています。
 現地は区民会館と上郷護国神社になっていて、大鳥居の奥の平場が主郭であったようです。周囲より1段高くなっているので名残があります。また現地説明板によると、区民会館奥の城山稲荷社の部分が櫓台地土塁の一部が残されているようです。現地で知って、区民会館にて御城印が販売されいるようですが、朝6:00着でしたので買えませんでした。

<満足度>◆◇◇

<追記>しんしんちゃんさん、ちょこ城は別にちょこ城®ではないのでご自由にお使い下さいませ(笑)。私の造語を使ってくれてありがたく、また逆に広まるといいなあ。なんて思っとります。私も夏季この日からちょこ城巡りにスイッチしました。土塁が1畝だけ、堀が少し残ってる、移築城門がある城跡はちょこ城の自分の識別をどうしようかなあ?なんてつぶやき楽しみながら巡っております。

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しんちゃん

名護屋城の空は青かった (2014/01/07 訪問)

名護屋城は何度か訪問しています。周囲の陣所を見て回るだけでも相当なボリュームになるんですね。城びとの城は陣所とかが少ないんですよ。かつては周辺に陣所がひしめき合って、城下町も築かれ壮観な眺めであったと思います。
島原の乱の後、一揆の拠点となるのを防ぐため石垣は、要所要所が破壊されています。これらは安土城や美濃金山城などと同じようです。
遺構も人心も諸行無常の感はありますが、空は変わらず青いですな。

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しんちゃん

小さいオジサン天守なのだ (2018/01/03 訪問)

タイトルだけだと意味不明ですが、丸亀城の天守の投稿です。現存で最も小さい天守は備中松山城の二重二階の天守です。実際には石垣の中に地下階があり、角度を変えて見ると三重の天守に見えなくもないですけど。まあ最小天守の座は松山城に譲るとして、三重三階の天守では最も小さい天守は丸亀城だと思います。日本屈指の高さを誇る壮大な石垣の上に小さい天守がちょこんと乗っかっている絵面はいささかシュールでもあります。ちょっとバカボンのお巡りさんの下の歯にも似てますね。
もうちょっと本丸周辺に城壁や櫓を残しておいてほしかったのだけど、まったく明治のヤツらときたら(プンスカ)。
でも石垣と天守や大手門が残っただけでも御の字としますか。天守だけあって、唐破風とか付いているんだけど、建物が小さいからか、なんとなくオジサンのヒゲみたいに見えるんですよ。下から天守を見上げると、小さいオジサンがこっちを見てるような気がします。
よっ元気か? なんて声が聞こえてくるような気がしませんか?

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