さとみじょう

里見城

群馬県高崎市


旧国名 : 上野

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todo94

実家から3番目に近い城 (2024/01/02 訪問)

旧榛名町の城ですが、実家からの距離は城びと登録の城の中で高崎城と僅差の3番目に近い城です。(北新波砦が1番、高崎城が2番。)里見氏発祥の城として、先月放映された「英雄たちの選択・選~戦国パイレーツ里見一族の野望」にも登場してうれしくなりました。入口の表示はすぐに見つかりましたが、標柱と説明板にたどり着くのは少し難しかったです。

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イタさん

城山稲荷神社の背後にひっそりと。 (2023/11/29 訪問)

説明板には、新田義重の子、義俊が里見郷に築城し、その後、里見氏を称する。里見氏十代、義基が結城合戦で戦死、子の義実が房総に移る290年間あまり、この城に依拠した。本郭の東・南・西には高さ2.5メートルの土塁が巡らされ・・・、南西方向には腰郭、東方向には堀切が・・・。南北朝時代に南朝方で活躍した新田義貞は、幼少期にこの地で育ち、新田宗家の養子に入った・・・、と記載がある。

城山稲荷の一の鳥居脇に駐車。社殿脇の参集殿前に2台停められる。参道には小振りな鳥居が幾つも連なる。社殿裏が一段高く平地になるが、墓地が占めている。墓地の西側も幾段かの平地となり畑もある。平地の北側に民家・作業場が建ち、南は道路を挟み、城山団地が展開する。先人の情報では、道路は堀跡、団地は郭ではとある。本郭方向と思われる民家のある道は、私有地で作業中の方がおり、通る許可と情報を聞いた。快く許可されたが、「城跡は整備されず、草が生い茂り行けない」と言われたが、民家脇を進むと、虎口らしき高まりがあり、郭内は確かに草がすごい。周囲には枯れ草の高くなった場所があるので、そこが土塁跡では。草地を歩き回る気がせず、数枚の写真を撮り戻る。

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カズサン

里見氏の故郷 (2021/10/10 訪問)

 鷹留城を登城ミスで終えて完備された広域営農団地農道/フルーツラインを南下し約4、5km程の所に在る里見城を目指す、駐車位置を城山稲荷神社にナビ設定して走行、近くの鷲の峯カントリークラブ側から入り細い山道を通り城山稲荷神社参集殿駐車場に着く2台可能(36°21'34"N 138°54'60"E)

 稲荷神社から周囲を見渡し、上部果樹園、奥の山手、草茂り、墓地など案内板、指示板も見つからず奥に在るだろう本曲輪に足を踏み入れに躊躇し、3曲輪下の城山団地、2曲輪の果樹園、城山稲荷神社の周辺を見て終了としました。

 城山稲荷神社由緒に由ると新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に居を定め築城したもの、鬼門に稲荷大明神を祀った。と有ります、この辺りは新田里見氏の故郷で安房里見氏、戦国大名として活躍する礎の里の様です。
 ガイド案内と情報は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに由ります。

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赤い城

安房里見氏のルーツ (2021/01/30 訪問)

城山稲荷神社の大鳥居前に空き地があり車を停めました。
少し登ったところに墓地があり、
その先の畑の畦道を進むと本丸があります。
本丸には説明板が立っています。
本丸手前には土橋や堀の跡も残っていました。
二郭、三郭は畑となっているようです。
当然里見氏の岩盤堀切はここでは見ることが出来ません。
武田信玄の箕輪城攻めの際に落城したそうです。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 新田義俊
築城年 保元元年(1156)?
主な城主 里見氏
廃城年 嘉吉元年(1441)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(里見城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 群馬県高崎市下里見町字古城
問い合わせ先 高崎市文化財保護課
問い合わせ先電話番号 027-321-1292