小磯城は長尾景春の乱の際に、景春の被官・越後五郎四郎が籠った城とされ、太田道灌に攻められ落城したとされています。現在は大磯城山公園とされ、整備がされていますが明治時代には三井総領家三井八郎右衛門高棟)の別荘・城山荘が建てられていたようです。
麓には郷土資料館があり、華やかな別荘文化の展示がされていて、伊藤博文寄贈の甲冑や城山荘の模型を見ることが出来ます。
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2024/06/27 21:14
城山荘跡 (2024/01/26 訪問)
小磯城は長尾景春の乱の際に、景春の被官・越後五郎四郎が籠った城とされ、太田道灌に攻められ落城したとされています。現在は大磯城山公園とされ、整備がされていますが明治時代には三井総領家三井八郎右衛門高棟)の別荘・城山荘が建てられていたようです。
麓には郷土資料館があり、華やかな別荘文化の展示がされていて、伊藤博文寄贈の甲冑や城山荘の模型を見ることが出来ます。
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2024/06/27 19:11
ビバさいたま (2024/05/05 訪問)
今年は連休の時だけなぜか忙しく、長期連休を取ることが出来ません。GWも東北遠征を計画していたのですが、4連休しか取れなかったので関東首都圏ちょこ城牧場周遊コースとあいなりました。まあ、このあたりを適当に流していると勝手に「いった」が増えていくし、なんだかんだで歴史の深いエリアなので結構楽しかったりします。神奈川、東京は人も自転車も多いので、すごく気を使います。大阪も同じような状況ですね。名古屋は大都市なのになぜか人が少ないです。比較して埼玉はいいですね。埼玉は最高です。適度に開けていて、車を留める場所もある。ついでに適度に田舎で、ちょこ城も遺構の有る城もいっぱいありますし、ビバさいたまですよ。
深谷城は康正2年(1456)深谷上杉氏の上杉房憲によって築かれたとされ、現在は東曲輪のあった周辺が深谷城址公園になっています。遺構はほぼ消滅していますが、外堀の一部が深谷市の史跡になっているようです。文化会館の東の浅間神社の南の道沿いにあるようですね。グーグルマップに記載が有ります。見損ねた!
※ぴーかるさん ちょこ城を有効に使わせていただいております。感謝のお気持ちを伝えさせていただきます。ビバちょこ城
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2024/06/27 19:07
ポイモイチャシ:最東端の城郭 (2024/05/11 訪問)
根室半島チャシの中で最東端=日本最東端の城郭って事になりますよね。日本最東端城郭証明書とかないのですかね。日本四極端証明書みたく日本四極城郭証明書みたいな形式でどうでしょう。
納沙布岬から徒歩で行くことの出来る距離にあり岬がチャシ跡です。こちらは全体的に熊笹とその他の雑草が目立ちます。こちらも年中整備はないのかも。飛び出た部分に足を踏み出すと一部濠に思える場所がありますがそうかどうかは確信有りません。標柱の先はくびれており、雑草の厚みがあって怖くて先には進めませんでした。先端には平滑な範囲が見えます(写真4)。こちらがきっと祭祀場かと。端部に刈った雑草を積み上げていると思っていましたが、近くに寄ると土塁でした。
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2024/06/27 18:42
侘びと寂び (2024/05/04 訪問)
世田谷城は足利氏の一族・吉良氏の居城とされています。案内板によると貞治5年(1366)吉良治家によって築かれた可能性があるようです。15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟を結び、吉良頼康の代には小田原北条氏と縁戚関係を持つまでに至りますが、豊臣秀吉の北条征伐ののち、吉良氏は上総国生実に逃れ、世田谷城は廃城になったようです。
豪徳寺はかつての世田谷城の城域に建っているようです。なかなかキャラの立っているお寺ですので合わせて訪問することをお勧めしたいです。肝心の世田谷城ですが、現在城跡公園で、かろうじて堀が残っているくらいです。雰囲気を味わっていただければと思います。
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2024/06/27 17:52
見晴らしと石垣が良好 (2014/01/04 訪問)
少し古い写真で申し訳ないけど相方城の投稿です。主要郭の西側の郭まで車で登ることが出来、一台程度なら駐車も可能です。ただし、離合が難しいため徒歩での登城が推奨されているようです。当時の愛車は軽量なイストだったので問題なく上まで登ることが出来ましたが、今のフリードスパイクは初期のハイブリッドエンジンを積んでいるためパワーに不安があるので、昔の写真を掲載させていただきます。標高191mの「城山」頂部に築かれていて、周囲を良く見渡すことが出来ます。地元に勢力を持っていた宮氏もしくは、有地民部少輔元盛の城であったとされています。主要部にはテレビ塔が建ち、当時の石垣を比較的よく残しています。相方城は毛利氏の直轄になり、毛利氏によって整備がなされたと見られ、今見られる石垣は毛利氏によって築かれたと見られます。また付近の雑木林にはニホンマムシが居るようなので、注意が必要みたいです。
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2024/06/27 13:30
黒田時代の石垣が見られます。 (2024/06/11 訪問)
白米城、最近は平田城と呼ばれているらしいです。
旗も多く立ってました。
城跡にはすぐ下に駐車場とトイレが完備されてました。
ただ、実際の城跡へは金網の扉を開けて入ります。
夕方に訪れた私は獣と遭遇しないか少々ドキドキでした。
城跡は南台、北台と別れてありますが、北台はフェンスなどで囲まれている為に見学ができるのは南台です。
ですがこちらに本丸跡があります。
本丸には碑が建ってますが、見応えあるのはその本丸跡の北台側にある石垣です。
石垣好きな私ではありますが、そうでない方も満足できる遺構ではないかと思います。
地図で見ると北台にも井戸跡などの遺構が残っているそうですが、いつか見学できる日を心待ちにして城跡を後にしました。
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2024/06/27 12:49
2024/06/27 12:11
山城の遺構がよく残ってる長命館・冠木門から曲輪Ⅱ編 (2024/05/24 訪問)
前日古川市のホテルに泊り翌早朝に東北城探訪宮城県1城目花山館を終えて2城目の長命館へ、秋田県八森城への県道峠越えで怖かったので、古川市からの峠道越をパスし高速道築館IC経由花山館攻城としましたので、下りの長者原SAで昼食し昼頃に長命館南入口到着、初登城。
駐車場:冠木門広場南入口に車椅子マーク駐車場1台(38°18'51"N 140°51'32"N h=70m)と、めるへんの森幼稚園と加茂はげみホームの間に専用駐車場13台時間は9時~18時(38°18'54"N 140°51'34"E h=60m)が有ります。トイレは冠木門広場に有り。
参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。
長命館跡は長命館公園としてよく整備されています、案内板、案内指示板、解説板も整い、快適に探訪できます、南入口より入り冠木門と広場、トイレも有り、冠木門を潜り、曲輪Ⅰの物見岡と曲輪Ⅲ、Ⅱへの分岐点、曲輪Ⅲ、Ⅱを選択し、曲輪Ⅲの南手前に小曲輪土塁、空堀、堀跡の小看板、曲輪Ⅲの西張出曲輪切岸脇を通り、曲輪ⅡとⅢの堀切を通り中間に曲輪Ⅱの南階段を登って曲輪Ⅱへ梅園に成っているが草も茂っている。曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの間に南北の堀切を渡り曲輪Ⅰへ物見岡には櫓展望台が有り、当日は下の「めるへんの森幼稚園」の園児大勢がが昼弁当と昼遊び中で曲輪Ⅰは大賑わい。
曲輪Ⅰの内部と周回路を腰曲輪も囲ってる、1周しまた内部へ、帰りは通らなかった曲輪Ⅰから南に直接降りる東の下城路で冠木門へ、帰路も園児と一緒でゆっくり探訪、曲輪Ⅱ、Ⅲの東側が観察できます。
長命館の南麓は冠木門広場、幼稚園、福祉ホームの開発で消滅していますが、仙台の市街地によく山城が広く残り、整備されているなと感心、よく整備されて市民の憩いの場に成っております。
写真を多くとりましたので、冠木門から曲輪Ⅱ編と曲輪Ⅰ物見岡編に分けて2件投稿致します。
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2024/06/27 11:30
107【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (伊賀越え=山口城(宇治田原城)) (2024/04/07 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑨です。
伊賀越えで途中に立ち寄ったとされる山口城(宇治田原城)を訪れてきました。
近鉄新田辺駅からバスで木津川を渡り「郷之口」で下車(写真⑩)、そこから徒歩5分程の所です。新田辺駅のバス乗り場にはなぜか「一休さん」の銅像がありました。ここは一休さんゆかりの地でもあるようです(写真⑥⑦⑧)。とんちを楽しみながら歩ける「とんちロード」があるようで、私もとんちを楽しんでみたかったのですが、バスが来るまで時間がなかったので残念です。バスに乗るとすぐ、車窓からは木津川が見えました。家康一行は、おそらくこの川のこの写真の場所あたりを渡ったものと思われます(写真⑨)。
山口城の跡地は、現在は看板があるのみで茶畑になっていました(写真①②)。そしてその茶畑の隣にある極楽寺の山門は、城の城門が移築されたものだと伝わっています(写真③④)。
信長から安土城で接待を受けた家康一行は、その後の堺見物の最中に本能寺の変を知り、信長が明智光秀に討たれたという事に衝撃を受けます。ここで家康は、自害しようとしますが家臣らに止められ、最終的には伊賀を越えて岡崎へ戻る事を決断します。
途中の宇治田原で、直政は当時城主の山口秀康を味方に引き入れ、秀康は木津川まで配下を迎えに行かせ(おそらく写真⑨の場所まで)、一行はここ山口城で昼食をとり休憩した後に馬を換えて出発し、翌日に秀康の父である多羅尾光俊の小川城で一泊したと伝えられています。この間、直政は一睡もせずに家康を警護したとか・・・
ここでひとつ、直政に関するおもしろいエピソードがありました。一行は木津川を渡った所で、空腹のあまり小さな神社に供えられていた赤飯を思わず口にしたそうです。その時なぜか直政だけは口にしなかったとか。家康がなぜ口にしないのか聞くと、「敵が来たら私は踏み留まり討ち死にする覚悟。その時、腹の中から赤飯が出てきて飢えのあまり供え物に手を出した事が敵に知れれば、武士の名折れです!」と答えたそうです。その心意気に家康は感心し、後に孔雀の陣羽織を与えたそうです。
直政はこの地で、家康からますます信頼されていったというわけですね。そして一行は無事に岡崎へたどり着く事ができたのでした。
しかし岡崎でゆっくりとしている暇はありません。信長亡き後、空白地帯となった旧武田領を狙う北条・上杉との争奪戦(天正壬午の乱)が始まります。わずか2週間後には、家康とともに直政は岡崎から急ぎ浜松へ戻り、すぐさま甲斐へ出陣する事になります。
次は、その(天正壬午の乱)に続きます。
「井伊の赤備え」誕生の舞台にもなった(新府城)を訪れます。
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2024/06/27 10:53
丸亀城 (2024/06/05 訪問)
四国の現存天守めぐり1個目
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2024/06/27 07:26
洲本城の石垣 (2013/12/10 訪問)
おはようございます。まちさん洲本城の写真で合ってましたね。私も洲本城には2回行ってるので、古い写真をゴソゴソあさってみましたが、該当の場所が出てきませんでした。個人的に興味が出てきたので兵庫県立考古博物館の方に聞いてみましたが、見た記憶はあるけど該当場所はちょっとわからないとのことでした。天正13年(1585)10月に脇坂安治が入り、石垣の大改修が行われているので石垣の技術が異なる場所がありますね。まちさんが投稿された箇所は、鈍角で石が積みづらいので、技術的な問題でそうなったようです。あくまでそうだろうということで、実際は積んだ人に聞いてみないとわかりませんが。
丹波の須知城の本丸の東側の石垣も似たような積み方をしているようです。ネットで調べるとすぐに出てきます。
若桜鬼ヶ城の六角石垣はちょっと積み方が面白かったです。中にはスイカバーみたいなとがった石もあって試行錯誤してる感じで面白いです。
洲本城の東の丸周辺の石垣は少し古く、本丸周辺は脇坂時代にだいぶ改修が入っているようです。石垣の隅部に差異が顕著に出ていているように見えます。天守台は特に算木積の精度が高いように見受けられます。最初は後世の物かと思いましたが、脇坂時代のもののようです。兵庫県立考古博物館の方に「淡路洲本城」という本をオススメされたのですが、けっこう高いので図書館に取り寄せをお願いしています(笑)。2週間くらいかかるので、じっくり読んで再訪の際の参考にさせていただこうかなと思っています。
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2024/06/27 07:06
東京優駿当日・献血前の攻城 (2024/05/26 訪問)
始発のあずさで立川駅にアクセスし、徒歩にてアプローチしました。献血前の攻城です。立川献血ルームをチョイスしたのは東京競馬場に近いルームだから。立川献血ルームがリニューアルされたばかりというのは全く知らずに予約を入れていました。普済寺が立川氏館跡で土塁が残っています。説明板を読んでみると、1995年に火災があったようで、釈迦牟尼座像などの文化財が焼失してしまったようです。
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2024/06/27 06:45
六条城 香川県高松市 (2024/06/09 訪問)
由良山城の出城とされ、現在は長専寺が建っています。
遺構はありません。
二本の川に挟まれていてすぐ北側で合流していたことから当時はそれなりの要害だったと思われます。
石碑等も無く今ではほぼその名残を見ることはできませんが周りの水路は堀があったところかな?と想像するのも城めぐりの一興かも。
人それぞれですが。。。
朝田さん、荏田城は周りを歩き、内部に入れるところは無いか探しました。
マンション横も覗いてみましたが・・・。
遺構は残っているようなので入れないのは残念ですね。
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2024/06/26 21:45
2024/06/26 21:30
「エクセル江田」奥から眺望👀 (2024/04/29 訪問)
小黒谷戸バス停前の「エクセル江田」奥から近づき,眺望を撮影して終わりにしました。たぶん,チェブさん,赤い城さんの撮影ポイントもココではないかと思います。
余談ですが,チャキチャキの江戸っ子や越後人は「い」と「え」の発音が逆転します。道案内でそんな人に遭遇してしまうと,川崎の「井田城」を紹介される可能性があります。また,その逆もあり得るでしょう。予備知識として頭の片隅にでも入れておいて損はないかと思います。
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2024/06/26 21:10
むじるし河後森城 (2018/01/06 訪問)
河後森城は渡辺氏の城とされており、長宗我部氏の調略を受けた家臣の裏切りによって城を奪われたようです。風呂ヶ谷を囲うように曲輪が配され遺構が良好に残って(再現されて)います。西端にあたる西第十曲輪には虎口に門が復元されていて、土塁と建物も復元されています。城跡を訪問して最初に見る曲輪になりますが、城内では本城・古城と並んで大きな曲輪で見せ場の一つでもあります。河後森城は続百名城の中ではマイナーな部類に入ると思いますが、城域を散策しながら遺構を確認することが出来、本丸虎口には石垣も残っています。土の城好きであれば十分楽しめる良い城だと思います。
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2024/06/26 20:40
赤須城 (2024/04/20 訪問)
【赤須城】
<駐車場他>駐車場あり<35.725319,137.958682>
<交通手段>車
<見所>堀切・石積み跡
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅ラスト9城目。現地説明板によると赤須城は船山城を拠点に発展した片切氏の分流で片切孫三郎為幸がこの地に居城を構え赤須氏と称したとされます。赤須城も1582年に織田信長の進攻により滅びたようです。
城跡のど真ん中を道路が縦断していて、だいぶ遺構が改変されているのが残念です。この城も天竜川によって削られ残った河岸段丘の城で、東の突端部に主要部を置いています。西側の平坦部は畑地になっていて遺構はよく分かりません。二郭跡の土塁が明瞭に残っていてなかなかの見応え、駐車場のある曲輪と二郭を隔てる堀切が深く、ジグザグに曲がる谷道には礫石が相当な数が落ちています。礫石は窪地に溜まっているのではなく、土塁の上に密集しているので、折れ曲がりの虎口か櫓台かの遺構が崩れたものであるかもしれません。一帯はかつての想像を膨らませる雰囲気を漂わせる見応えがありました。城跡を見終え、西に見える残雪の木曽山脈が素敵でした。
これにてこの旅終了。640㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
<あとがき>山城シーズンを終え、伊那地方の天竜川沿いに並んでいる城びとフラッグに着目していました。城跡の中身を詳しく調べず、公園が多かったので、平城のちょこ城ばかりだと思い込み、駐車ポイントだけ10城程調べて出発しました。1城目の鈴岡城跡から「あれ?ここは河岸段丘のなかな見応えある平山城だな」と思い、巡るうちにどんどん「全部河岸段丘の凄い城跡ばっかりやん!」となりました。ちょこ城先入観で行ったので、フェイント、逆によく新鮮で大満足の1日でした。気候的にもちょうどよかった。
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2024/06/26 20:38
石垣山城の石垣 (2024/01/26 訪問)
石垣山城の石垣は崩落している箇所が多いです。一部破城の跡もあると思いますが、大正12年の関東大震災が追い打ちをかけて崩落が進んだみたいですね。震災前の石垣山城の写真って無いのかな? 破城といえば最近訪問した美濃金山城もだいぶ崩されていました。近くにある小里城の天守台の石垣がキレイな状態で残っているのとは対照的でしたね。小里城の本丸石垣にも破城の痕跡はありますが、天守台はそのままの形で残っています。やはり規模の大きい近世山城は一揆などに利用される可能性があったということですか。
石垣山城は本丸の石垣、特に二の丸側と西曲輪あたりの石垣の崩れが大きいです。二の丸側は近年でもじわじわ崩れてきているみたいですね。破城を受けた山城は修復や保存も難しいと思うので、やはりできるだけ今のうちに訪問して見ておいた方が良さそうです。
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2024/06/26 19:08
チャルコロフィナチャシ:お勧め・残念・必見 (2024/05/11 訪問)
チャシを5か所廻りたいのだけどお勧めは?と聞かれたら間違いなく選択するチャシです。ですが評価が芳しくないです。
残念な事にこちらは年中海沿い全体が熊笹まみれで整備はなされておらず、駐車スペースも見当たらないようで敬遠されるようです。種類はほぼ熊笹で低く高さも揃っているので濠のウェーブを綺麗に見る事が出来るのでこれはこれで美しく思えますがどうでしょう。
根室半島チャシの中で最大面積で、隣接して1号2号が配置されています。立地と配置を考えると祭祀用が主な目的だと思います。1号については海に向かって濠で区画する一般な構造です(写真2~4)。必見のポイントは2号です(写真5~10)。今回お題で廻ったチャシで唯一土塁にて区画をしている構造です。高さが大体1m~1.5mで出入りの為の開口が幾つか設けられています。他に道内全体で考えると同じ様な構造があるのかもしれません。そう考えると見て良かったと思っています。
5か所の訪問でチャシを味わうのなら外せないチャシの一つだと思います。
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2024/06/26 11:41
前九年合戦安倍貞任の陣城2/2 (2024/05/24 訪問)
前九年合戦安倍貞任の陣城2/2からの続きです。
城びとでは花山館、案内板は渕牛館(崋山城)、城郭放浪記さんでは渕牛館、余湖図コレクションさんでは渕牛館と呼ばれてる城郭ですが素晴らしい遺構が残ってる山城です、ただし樹木、杉の植林で遺構がよくは見えません、私は中に踏み込めず遊歩道、人踏道からの探訪で写真を見返しても、余湖図コレクションさんの俯瞰図に在る様な縦横無尽の周囲の横堀更に二段を明確に見る事は出来ませんでしたが俯瞰図を対比しながら訪ね想像を膨らませての探訪も良いものです。
東屋から北へ延びる尾根曲輪道を進み、樹間の西、東の横堀、土塁を木々の間から良く観えないが確認、2郭に登り、東の1郭方向を見るが木々が多く茂り人踏道も確認できず樹間眺めるだけ、2郭に北へ2段の階段が降りている、その間に横堀、土塁を確認できる、その道は北西尾根に伸びてるが眺めて、元の戻る、東屋の南西にダム湖に添った尾根の道が伸びて居る。
木々がよく茂り良く郭、横堀、横土塁、二重の横堀がよく観察できませんでしたが、木々の伐採景観整備、観察道など整備頂けると大変ありがたい。
しかし良い山城、安倍氏に関わる城を探訪させて頂けて大変感謝です。大きな駐車場が有るということは多くの人が季節によって賑わうと言いう事なのでしょうか?
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