続日本100名城

はらじょう

原城

長崎県南島原市

別名 : 原の城、志自岐原城、志自岐原の城、日暮城、有馬城、春の城
旧国名 : 肥前

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原城
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トク

【春の長崎天草を巡る⑩】(8)原城 (2025/04/01 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(8城目)は「原城」です。

原城は、元々は「有馬晴信」が居城である日野江城で戦をするのは手狭で不向きなため、万一戦が起きた時のために築城したものです。今では普通に見れば有明海の海が綺麗に見えるとても穏やかな丘陵地です(写真④⑤)。 何も知らなければ、ゆっくりとハイキングなどをして楽しむにはとてもよい所かもしれません。この日もバルーンでの模擬天守が建ち、桜がとても綺麗に咲いて花見を楽しんでいる人もいました(写真⑥)。本当に何も知らなければ、とてもよい所だと思います。しかし実はこの場所で、1637年(寛永14年)「日本の歴史史上で最大の一揆」があった事を皆さんは御存知でしょうか?🤔

島原城を落とせなかった島原の一揆勢2万5千、富岡城を落とせなかった天草の一揆勢1万2千、両者合流し合わせて3万7千人となった一揆軍が「天草四郎」を総大将としてこの原城に立て籠もります。3代将軍「徳川家光」は、島原藩主の松倉勝家(重政の子)と唐津藩主の寺沢堅高(広高の子)が、過度の重税を課し納めない者はキリシタン弾圧を名目に拷問にかけ殺すという、前代未聞の悪政が乱の原因であった事に大激怒!!! 勝家には切腹も許さず斬首の刑を、堅高には蟄居自害させ、両家とも断絶改易とします。そして家光の命を受けた知恵伊豆と異名をとる老中「松平信綱」率いる総勢12万5千人の幕府軍が、現在の国道を挟んだ丘陵地に陣を張り対峙しました。つまりこれは、幕府の威信をかけての戦いだったわけです。

当時の原城は、まだ石垣や塀や櫓なども残っており、一揆軍の中には戦の経験豊富な小西行長や有馬晴信の元家臣がいました(写真⑦⑧)。一方の幕府軍は戦経験のない若い者が多く、初戦で大将の板倉重昌が討ち取られるなど、前半は一揆軍優勢で進みます。しかし2カ月3カ月と時が経つにつれ、やはりだんだんと食料や弾薬が不足して、数に勝る幕府軍が有利となってきました。幕府は投降を呼びかけますが、死を恐れぬキリシタン達は応じません。

そしてついに3カ月後、信綱は一揆軍の食料が尽きたと判断、幕府軍は総攻撃を開始します! 壮絶な戦いの末、内通者で絵師の「山田右衛門」(写真⑩)一人を除き、一揆軍は全員が皆殺しにされたと伝わっています。そしてその3万7千の遺体のほとんどは、今でもこの地中に埋められたまま残っているそうです。(写真⑨)の付近では発掘調査で大量の人骨が発見され、その時の発掘調査の様子が有馬キリシタン遺産記念館で再現されています。一揆軍と言えども半分は女子供です。徳川家光はこの機に、幕府に反抗するキリシタンを根絶やしにし、幕府の威信を示す事で徳川政権の安泰を計りたかったようです。

一揆軍の総大将であった天草四郎は、この時まだ若干17才くらいの少年であったと言われています。彼は戦を好まず、本当はここから見える故郷の大矢野島で、皆と一緒に平和に暮らしたかった、ただその思いだけだったのではないでしょうか? 天草四郎の像は、手を合わせて祈るように、その故郷大矢野島の方を向いていました。そしてその目には、うっすらと涙が浮かんでいるように、私には見えました(写真①)。

次は、島原から天草へ渡り、その四郎の故郷大矢野島へ行こうと思います。
 

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にのまる

この空の下で (2025/01/19 訪問)

島原城見学後、島鉄バスで原城へ向かいました。乗車時間は約1時間。帰りのバスとフェリーの時間を考えると見学時間も約1時間。
現地に1時間しかいられないのはもったいないかなと思いましたが、ここまで来て行かないのはもっともったいない!
ということで駆け足態勢で臨んだのですが、城内のあまりの心地よさについ歩みがゆっくりになってしまいました。
しかしそれも束の間、全域を理解し、崩れた石垣遺構をひとつひとつ確認しながら歩いていると、島原・天草一揆の凄惨さが目に浮かんできて、「歴史」とはその時代を生きた人々の生命の証しなのだということに改めて思いを致しました。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/02/16 訪問)

長崎県の城制覇3日目の行程
※前日、諫早駅にあるホテル泊
※島原城とともに登城

7:44諫早(島原鉄道)、8:55島原,9:05島原駅前(路線バス)、10:00原城前
 (徒歩12分)原城跡(続百名城スタンプ:原城跡総合案内所9:30-16:30) ※有馬キリシタン遺産記念館も押印可(9:00-18:00:木休)

11:48原城前(路線バス)、12:47大手 
 (徒歩9分)島原城(百名城スタンプ:9:00-17:00最終入場:無休) 

15:14島原(島原鉄道)、16:19,16:35諫早(JR)、17:56佐世保(徒歩3分),18:51駅前バスターミナル(路線バス)、20:19猶興館高校入口
 ※ライトアップされた平戸城を散策
  城内は神社辺り以外は街灯がなく参道は暗いので明かりの用意を

 泊:平戸

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しんちゃん

キリシタン達の遺骸が眠る本丸を朝焼けが包む。 (2020/01/02 訪問)

原城は島原の乱の最期の戦場で、天草四郎を始め、多くのキリシタンが命を
落とした場所です。今でも多くの遺骸が眠っているらしく、城好き以外でも歴史に興味の
ある人なら一度は訪れてみたい場所だと思います。もともとは有馬貴純によって築かれ
有馬晴信によって近世城郭に整備されますが、一国一城令のあおりで廃城になっていました。
有明海に突き出た丘陵上に築かれ、海に面した本丸、二の丸、天草丸の南側は絶壁になっています。
城域は非常に広く、全体を見回ろうとすると2時間では足りません。本丸は北側と西側を石垣で
防御し、北には枡形と大きな空堀を備え、その先に広大な二の丸を備えます。さらに北東に三の丸、
本丸の西側には鳩山出丸と天草丸が配されています。
農民主体の一揆のイメージが強いので訪れてみると、その実が強固な防御力を備えた近世城郭で
あることに驚くかもしれません。13万ともいわれる幕府軍に対して、籠城する一揆勢は27000~37000
しかも半数は女・子供・老人などの非戦闘員でした。本丸が陥落する前日、広大な二の丸に幕府の大軍が
陣どり、本丸を包囲したそうです。登城時、二の丸から本丸を見やれば、決戦を前に荒ぶる幕府の
諸将の気分に浸れますが、逆に本丸から二の丸を見れば、明日に迫った確実な死を前にした
キリシタン達の絶望を感じることになります。

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城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 明応5年(1496)
築城者 有馬貴純
主要城主 有馬氏
文化財史跡区分 世界遺産(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)、国史跡(原城跡)
天守の現況・形態 なし
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、虎口
住所 長崎県南島原市南有馬町乙
問い合わせ先 南島原市企画振興部世界遺産推進室
問い合わせ先電話番号 0957-73-6706