春の長崎天草を巡る旅、(8城目)は「原城」です。
原城は、元々は「有馬晴信」が居城である日野江城で戦をするのは手狭で不向きなため、万一戦が起きた時のために築城したものです。今では普通に見れば有明海の海が綺麗に見えるとても穏やかな丘陵地です(写真④⑤)。 何も知らなければ、ゆっくりとハイキングなどをして楽しむにはとてもよい所かもしれません。この日もバルーンでの模擬天守が建ち、桜がとても綺麗に咲いて花見を楽しんでいる人もいました(写真⑥)。本当に何も知らなければ、とてもよい所だと思います。しかし実はこの場所で、1637年(寛永14年)「日本の歴史史上で最大の一揆」があった事を皆さんは御存知でしょうか?🤔
島原城を落とせなかった島原の一揆勢2万5千、富岡城を落とせなかった天草の一揆勢1万2千、両者合流し合わせて3万7千人となった一揆軍が「天草四郎」を総大将としてこの原城に立て籠もります。3代将軍「徳川家光」は、島原藩主の松倉勝家(重政の子)と唐津藩主の寺沢堅高(広高の子)が、過度の重税を課し納めない者はキリシタン弾圧を名目に拷問にかけ殺すという、前代未聞の悪政が乱の原因であった事に大激怒!!! 勝家には切腹も許さず斬首の刑を、堅高には蟄居自害させ、両家とも断絶改易とします。そして家光の命を受けた知恵伊豆と異名をとる老中「松平信綱」率いる総勢12万5千人の幕府軍が、現在の国道を挟んだ丘陵地に陣を張り対峙しました。つまりこれは、幕府の威信をかけての戦いだったわけです。
当時の原城は、まだ石垣や塀や櫓なども残っており、一揆軍の中には戦の経験豊富な小西行長や有馬晴信の元家臣がいました(写真⑦⑧)。一方の幕府軍は戦経験のない若い者が多く、初戦で大将の板倉重昌が討ち取られるなど、前半は一揆軍優勢で進みます。しかし2カ月3カ月と時が経つにつれ、やはりだんだんと食料や弾薬が不足して、数に勝る幕府軍が有利となってきました。幕府は投降を呼びかけますが、死を恐れぬキリシタン達は応じません。
そしてついに3カ月後、信綱は一揆軍の食料が尽きたと判断、幕府軍は総攻撃を開始します! 壮絶な戦いの末、内通者で絵師の「山田右衛門」(写真⑩)一人を除き、一揆軍は全員が皆殺しにされたと伝わっています。そしてその3万7千の遺体のほとんどは、今でもこの地中に埋められたまま残っているそうです。(写真⑨)の付近では発掘調査で大量の人骨が発見され、その時の発掘調査の様子が有馬キリシタン遺産記念館で再現されています。一揆軍と言えども半分は女子供です。徳川家光はこの機に、幕府に反抗するキリシタンを根絶やしにし、幕府の威信を示す事で徳川政権の安泰を計りたかったようです。
一揆軍の総大将であった天草四郎は、この時まだ若干17才くらいの少年であったと言われています。彼は戦を好まず、本当はここから見える故郷の大矢野島で、皆と一緒に平和に暮らしたかった、ただその思いだけだったのではないでしょうか? 天草四郎の像は、手を合わせて祈るように、その故郷大矢野島の方を向いていました。そしてその目には、うっすらと涙が浮かんでいるように、私には見えました(写真①)。
次は、島原から天草へ渡り、その四郎の故郷大矢野島へ行こうと思います。
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