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しんちゃん

長崎デジマックス (2014/01/08 訪問)

タイトルは意味不明ですが、長崎の出島の投稿です。寛永11年(1634)に幕府が外国との交易とのために築造した人工の島で面積は3969坪、約15000平方メートルでそんなに広くはないようです。だいたい150m×100mの城館と同じくらいの広さです。
明治以降周辺の開発が行われ、かつて長崎港の南西に面していた出島は、北は中島川で区切られ、東西と南は埋立地に囲まれています。戦後、出島の復元整備事業が行われ商館長宅である「カピタン部屋」や水門、商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」など様々な建造物が復元され、限られた出島のスペースの中にひしめき合っています。2016年には明治時代の建造物である「旧出島神学校」や「長崎内外倶楽部」も復元されています。
また復元作業の際に、南側の131mの石垣の修復も行われています。

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チェブ

お城Expoの約束。 (2024/05/04 訪問)

安寧を願い、724年に「多賀城」は創建されました。
陸奥国府が置かれます。
賀(よろこ)び多き城、「多賀城」です。

昨年のお城Expoで、「多賀城」のブースの方に、『お正月に行っても、100名城スタンプは押せますか?』
の質問に、『大丈夫。でも、雪が、、、。』とのお返事。
多賀城市の積雪量は少ないそうですが、東京の端っこからだと、途中が危ないかもとの事です。
名城スタンプは、お正月に押せないパターンが多いので、確認しました。
あとはGWしかないと思い、この「多賀城」をゴールに進軍して来ました。

100名城スタンプを押す為に管理事務所に向かいます。「多賀城」のスタンプは屋外にあり、いつでもスタンバイしていてくれてます。
夕焼けの「多賀城」、四角く識別してある政庁を歩きます。
戦いで、取った取られたのお城ではなく、「多賀城」では厳かな気持ちになります。途中で見えた朱い門が、国府の風格を伝えてくれます。朱を見慣れてなかったからかもしれません。

お城Expoでの会話から、「多賀城」までやって来ました。お城のブースの方の熱量が高かったですが、その熱さに納得した「多賀城」攻めでした。

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零汰

再始動:川曲城(宮崎県五ヶ瀬町) (2024/05/25 訪問)

1年以上封印して開く事の無かった城関係サイトを4月から閲覧するようになりました。城びとサイトで真っ先に探したのはいんげん丸虫さんの投稿。1年余りの投稿を一気見しました。毎回渋くてコアな城跡をチョイスして、決して多くない文章と写真が私の好奇心をそそられます。相変わらずの破壊力は健在でした。最近お見掛けしておりませんが再開される事をひっそりとお待ちしています。

こちらは三方が川に囲まれた舌状地形で北側にはうのこの滝があります。東西に200m超・南北に広いところで50m程の範囲が城域のようですが当時は舌状地形全体を使用していたと思います。主郭北側に段曲輪が幾つかあり、4か所の堀切で各所を分断しています。
うろこの滝の景観がよいので滝だけで見るのも良いかもしれません。

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しんちゃん

無印投稿  岡山城 (2013/12/15 訪問)

古くは南北朝時代に名和氏の一族の上神高直が築いたとされています。天正元年(1573)この地方に勢力を伸ばしてきた宇喜多直家石山城(岡山城)に入り、城を改築したそうです。その後、さらに勢力を広げ備前、美作、播磨、備中の一部まで支配する地域を広げたそうです。宇喜多秀家の時代にさらに城の改修が進み、城も岡山城と呼ばれるようになったそうです。
関ヶ原の合戦の後は小早川秀秋が入りますが、嫡子も無いまま、すぐに亡くなってしまったので池田輝政の次男・忠継(当時5歳)が入ります。忠継も慶長20年(1615)に亡くなってしまったので、忠継の弟・忠雄が31万5千石で入ります。小早川、池田の時代にも城は改修され続けようやく縄張りの完成を見たようです。
このインパクトのある天守も太平洋戦争の岡山大空襲で焼失し、鉄筋コンクリートで再建されています。その際に瓦に桐の紋を入れるなど宇喜多秀家の意匠も取り入れているようです。

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イタさん

市民憩いの城址公園 (2024/06/22 訪問)

散歩する人、据え付けの遊具で遊ぶ親子、芝生広場で遊ぶ人たちが多い。桜、バラ、藤など季節の花が楽しめるようだ。

藤沢市関連のHPに、平安時代、付近を領有した大庭氏が築いたものと伝えられ、太田道灌(どうかん)が修築し、15世紀末から16世紀初頭には、道灌の主たる扇谷上杉定正・朝良の父子が相継いで居城したが、永正9(1512)年北条早雲の攻略するところとなり、廃城したものと言われる。この城を北条軍が攻撃し、この付近が戦場になったという記録はないが、城址の右端にある舟地蔵には大庭城にからんだ伝説が伝えられている。掘立柱建物址の表示板に、大庭状は台地上を東西に横断する三本の空堀により、一の郭から四の郭に分かれています。東斜面には腰郭、西斜面には二重の空堀と帯状の腰郭が残っています、と記載あり。

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小城小次郎

フットプリント (2023/12/10 訪問)

後藤(武雄鍋島)家が天正~慶長期に一時本拠としたとされるお城でシンプルながら重厚な土塁と堀、それに鉢巻状の石積みが見事。お城近くの石塔群はたぶん後藤家のものだろう。可愛いフットプリントも隠れた見どころ?(笑)

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トク

大野城でキャンプ(そこで私トクが見たものは?) (2024/06/18 訪問)

お城に全く関係ない話ですいません。

以前、佐土原城で「イノシシ注意!」の看板を見た時、私は大野城のキャンプ城でイノシシの子(うり坊)を見た事がありますよという話をお伝えしました。先週天気がよかったので1年ぶりにまた、その大野城のキャンプ場でキャンプをしてきました。福岡市中心部からも近く、私の自宅から車で30分くらいの所にあり、市営なので安く(テント持参なら2000円以下で)泊まれる所です。

よって土日や連休や夏休みなどは満員で人気の場所なのですが、この日は6月の平日だったせいか、うっそうとした深い山の中で宿泊者は私一人だけ(😱~!)。またイノシシが現れたらと思い、万全の対策(対決準備)をして行ったのですが、残念ながら今回は現れませんでした。イノシシはやっぱり秋に活動するようですね。そもそもここのトレードマークが「ババリイ」というイノシシのイメージキャラクター(写真③)なので、管理人さんに聞くと、よく現れるキャンプ場のようです。

朝の5時頃、小鳥のさえずりで目がさめ、いい感じでゆっくりコーヒーを飲んでいて、ふと目の前を見ると、なな何とキツネがいました!! 九州に野生のキツネがいるとは初耳です(最初はイタチかと思い、目を疑いましたがキツネでした!)。しかし写真を撮ろうとスマホを探している内に逃げられてしまいました(残念!)。ネットで調べたら、最近近くにも現れたらしいです。目撃者もいたので、間違えないと思います(そのネット上の写真①:こいつかも?)。また30分後には、ふとまた私の前には野生のうさぎも現れました(かわいいな!)(写真②)。

いや~、何かとても癒されたキャンプでした。自然はいいですね!
零汰さんもイノシシに会いたくなったら是非秋には大野城でキャンプを!(笑)
モトさんや、小城小次郎さんも訪れた、一ノ岳城や三瀬城などがある那珂川町からも車ならすぐ近くですよ!
 

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T-Shionoya

大給城で謎の石垣巡り (2024/03/01 訪問)

翌週の千田先生の講演に備え訪れた愛知県豊田市の大給城。

三河の山間部の巨岩が露出した標高204mの山に築かれた城。
西側を流れる巴川沿いの九久平は、小さな平地ながら足助街道と新城街道が交差するポイント。

1470年頃に長坂新左衛門の城を松平信光が攻略し、その孫と伝わる乗元から大給松平氏6代が居城とした城。
1584年頃に細川へ移住した以降は記録がないが、今見られる石垣はそれ以後に築かれたと考えられるとのこと。

現在は松平氏遺跡の1つとして整備された国の史跡。
実際に訪れてみると、乗元の墓を経て案内板の"現在地"に到着。そこは城の東門で、土橋状部分の北面にも石垣が存在。その虎口に入らず北へ進むと、石垣を擁した堀。
戻って東門から曲輪2の南を通り、館跡と推定される曲輪3へ向かうと、この北側にも隠れた石垣が点在。
土塁に囲まれた曲輪2から北へ下ると、大給城最大級の石垣であり謎でもある2段の水手曲輪DとE。
最後に頂上の曲輪へ上がると、北側虎口は枡形タイプ。また石塁で東と西に仕切られており、その石塁は南側で西側主郭の虎口も形成。

期待以上の城跡で、滞在時間は3時間。
見どころ満載の石垣の山城が、私の城郭巡りの176城目となりました。

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しんちゃん

二条城  蛍の光じゃ外 人さんは帰りませんよ (2024/04/19 訪問)

やはり二条城は良い城です。天守閣こそありませんが、見所が多く写真が山ほど溜っていきます。あまり撮りすぎるとデジカメが爆発‥はしないので大丈夫。さっきから「蛍のひかり」がず~っと流れているのですが、外 人さんたち帰りません。そもそも外国には音楽で帰りをうながすという文化は無いみたい。じゃあどうやっているんだろう。
まあ二の丸おでんはじっくり鑑賞したし、天守台にも登ったし、石垣を見ながらゆっくり帰ろう。この日は外 人さんにくっついて入ってきたので彼らのペースに合わせます。彼らが城内に居る限り、中に閉じ込められることは無い。ふふふふ‥

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零汰

城跡・テント:再始動 (2024/04/24 訪問)

一昨年末より仕事やらなにやらで城廻りは中断、時間が出来始めた矢先にバイク事故で歩く事さえ出来もしない。いい加減免許を返上して欲しいです。違和感無く歩けるようになったのが今年3月、無駄な時間に約5ヶ月費やしてしまっていました。2泊3日のテント泊は一日中城跡を歩き回って足の具合を確かめるのがもう一つの目的でした。

仲山城(高千穂町)を拠点に城びと登録2か所を含む、日之影町、五ヶ瀬町の城跡を宮崎県城郭報告書を元に訪問しました。直登は避けたかったので簡単な縄張図が有り、なるべく高低差が少ないであろう城跡をチョイスしました。約1年半年ぶりの城跡巡り再始動、2日間で12城、1か所当りの訪問時間は5分~1時間。さほど規模は大きくなくても遺構を見る事が出来て満足しました。

1日目:1.揚城①~2.鞍岡折立城②~3.荒谷城③~4.仲山城
2日目:5.坂本城④~6.原城⑤~7.川曲城⑥~8.樺木岳城⑦~9.桑野内の囲~10.大野原城(城びと登録)⑧~11.竹脇城⑨~12.中崎城(城びと登録)⑩  〇内は写真番号。 今後幾つかの城跡を個別で投稿するかもしれません。

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しんちゃん

二条城  二の丸・本丸 (2024/04/19 訪問)

二条城の二の丸御殿は城内で最も有名な建造物で国宝に指定されています。写真撮影NGなのが残念な限り。
本丸御殿は桂宮家が御所の北に建てた御殿の主要部を明治27年に明治天皇の意向で移築されたものです。徳川慶喜が建てた本来の御殿は明治14年に壊されていて、明治時代は二条城が天皇の離宮として使用されていたためのようです。
本丸に入ってすぐ目にするのが「御常御殿」で重厚さより、生活する上での快適さを求めた構造のようです。内部は意匠を凝らした贅沢な造りのようですが、二階は眺望に優れた数寄屋風の座敷になっています。その他は「玄関」「御書院」「台所及び雁の間」で構成されていて、天守台より全容を拝むことが出来ます。できれば公開してほしいですね。

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まさお

群馬 箕輪城 (2024/06/20 訪問)

岩櫃城から「原町の大ケヤキ」の脇をとおり、上信自動車道経由で1時間半くらいで到着しました。
登城スタンプは箕輪支所の2階の地域振興課という窓口でもらいました。
その際には「どこから来ましたか?」との質問があり、ちょっと驚きました。
箕輪城は支所から5分くらいの小学校の裏山でした。
規模の大きなすごい城跡でした。本丸跡は緑豊かなサッカーグランドのようでした。
大堀切もすごい迫力で圧倒されました。
私の勝手な印象ですが、先月お邪魔した新田金山城と箕輪城は群馬の城跡の双璧かなと思います。

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コウマくん

歴史民俗博物館と (2024/06/23 訪問)

土塁のお城、空堀が良くわかる。公園としてとても整備され清潔感があり心地よい。

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コウマくん

城山散策 (2024/06/23 訪問)

千葉氏の居城。近くに貝塚もあり、20万年前は海だったことも納得。

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コウマくん

藤棚 (2024/04/28 訪問)

城内に子供が楽しい公園があり、藤棚きれいでした。
天守閣からは富士山も望め、内部は昭和感あり居心地良かった。

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コウマくん

熊本のパワーを感じた (2024/03/03 訪問)

市内からの存在感に魅せられ、城内の雰囲気に居心地の良さを感じ、天守閣に復興の力強さを感じた。まさに名城。

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まさお

群馬 岩櫃城 (2024/06/20 訪問)

沼田城から日本ロマンチック街道に指定されている国道145号を走行し
1時間くらいで岩櫃城登山口下の駐車場に到着しました。
観光案内所で色々とお話を聞き、登城記念スタンプや記念はがきや
「上州真田三名城訪問記念ファルダ」をいただきました。
平沢登山口から本丸に向かおうとしたところ、6月になってからの熊出没注意の
警告看板が目に入り引き返してしまいました。
もう一度出直して登城を達成したいと思います。

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しんちゃん

留守氏館  大隅正八幡宮「四社家」の館 (2023/01/06 訪問)

大隅正八幡宮(鹿児島神宮)は和銅元年(708)の建立で、平安時代に八幡宮が勧誘されました。大隅国の一宮とされ鎌倉時代には源頼朝の庇護の下、勢力が拡大します。多くの神官・僧侶らが在住し「四社家」「十家」あるいは「一家」「衆徒十五坊」「殿守十二家」「四十七家」「隼人十八家」など百十家もの衆徒集団がいたようです。
「四社家」はそれらを統括する立場であり、世襲で行われ、桑幡・留守・沢・最勝寺らが知られており、留守氏は貞治2年(1363)に石清水八幡宮から当地に来たとされています。留守氏館は霧島市隼人町にあり大隅正八幡宮の南東側に控えています。辻公園の西側に位置し土塁が良好に残っています。
明治維新の際にもこれらの衆徒は存続していたようで、四社家だと桑幡家は神主、留守氏は執印留守、沢家は田所、最勝寺家は別当と家職が記されています。十家には桑幡性が二件含まれ、検非違使が三件います。時間の流れが止まっているようですね。
(三ツ石友三郎編 1985「隼人郷土史」参照)

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トク

106【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (安土で直政が見たものは?) (2024/04/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑧です。
高天神城攻めでの水の手を断った功績で、武田滅亡後に2万石に加増された万千代は、元服し名を「直政」と改めます(この時22才)。そして1582年、信長は武田を滅ぼした家康をねぎらうため、完成したばかりの安土城へ招待します。直政は、酒井忠次・石川数正・本多忠勝とともに家康の供として安土城を訪れました。

安土城へちょうど桜が満開の時に行ってきました。その様子は4月にお伝えしましたので、今回はその時に直政の気持ちになって登城した感想をお伝えします。

下から見上げると、この大手道のまっすぐな階段の先には黄金に輝く天主がありました(写真①)。直政はまずこの光景を、ここからどんな思いで見上げたのでしょうか? きっと信長への憧れが芽生えたのではないでしょうか?

この大手道は帝(おそらく正親町天皇)を招くために造られた道ではないかと伝わっています。今では誰もが登れますが、当時はそのため誰もここからは登る事はできなかったとか? もしそれが本当なら、家康一行はおそらくこの大手道は下から見上げただけで、実際は現在の摠見寺口(写真②)から入り、仁王門(写真③④)→三重塔(写真⑤)→本堂(写真⑥)を通り登城したと思われます。摠見寺は江戸時代末期の1854年に、仁王門と三重の塔以外は火災で焼失したようで、今はこの二つのみが現存しています。途中「仏足石」もありました(写真⑦)。信長の信仰心の厚さも伺えます。

そして途中にある石垣(写真⑧は天守台石垣)、おそらく直政は石垣造りの城を見たのはこの時が初めてだと思います。そして、ここで見た事・学んだ事・そして信長への憧れは、後の箕輪城の築城に大いに影響する事になります。それは箕輪城のどの部分に現われているでしょうか? 安土城と箕輪城の両方を訪れた事がある方は、思い浮かぶものがありますよね!(あれかな?🤔)

そして一行は、天主に招待され信長に謁見し、最上階から琵琶湖を眺めます。私も天主跡(写真⑨)に立ち琵琶湖を眺めましたが、さらにこの上に5層6階の高さ32mに最上階があったので、そこから見た琵琶湖はどんな景色だったのでしょうか? その高さから見て見たい気持ちになりました(展望台でも作ってくれないかな?)

そして、夜になると江雲寺御殿にて宴がもようされます。そこで魚の臭いに怒った信長が明智光秀を皆の前で折檻するという、あの有名な事件が起きてしまうのです。直政はこの事件の一部始終を、この時いったいどんな思いで見つめていたのでしょうか? ここも気になります。

一行は、この後京都に立ち寄った後、堺へ向かいます。そして堺見物の最中に、本能寺の変が起きてしまいます。

次は、「伊賀越え」に続きます。
途中に立ち寄ったとされる山口城(宇治田原城)を訪れます。
 

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しんちゃん

洲本城の石垣 (2023/08/12 訪問)

まちさんの投稿を拝見しました(城びとへようこそ)。洲本城の石垣で合ってますよね?
洲本城にこんな積み方をしている場所があったとは知りませんでした。今度訪問した際に、登り階段と合わせて確認したいと思います。洲本城は天正13年(1585)に脇坂安治によって石垣が築かれ天守が造営されたとされています。洲本城の各所の石垣を確認すると、まだ算木積の技術が完全に確立されていないようです。穴太積でつまれていますが隅部の石は加工がなされ、長方形の石でなんとか強度を確保しようとしているようです。洲本城の築かれている山は和泉砂岩の岩山と見られ西の丸あたりに石切り場があったようです。
投稿された写真の部分と天守台の部分の写真を確認すると、いずれも和泉砂岩を使用しているようです。天守台の部分だけ算木積の精度が高いですが、ちょっと詳しい方に確認してみようと思います。※
和泉砂岩は白亜紀の地層から採取される砂岩で岸和田城や和歌山城にも使われています。ちなみに淡路で取れる砂岩でも和泉砂岩です。おそらく石灰岩を除いて最も崩れやすく風化しやすい石材で洲本城もあちこち崩落しています。加工は比較的容易なのですが投稿された写真の箇所を見るに、よほど鋭角に加工せねばならないので、このような積み方になったのかもしれません。
若桜鬼ケ城の六角石垣もなんとか強度を保とうと苦心している様子が伺えます。隅部を鋭角に落として何とか重量を交互に支えていますが、あまり高く積むことは出来ません。投稿の部分は、後世に積み直したか、崩れたらまた積むからいいやで「えいや」で積み上げたのかは‥不明ですが、手前の石を取ってやりたくなりますね(全崩壊)。
雨でヒマなので投稿させていただきましたが、どなたか石垣に詳しい方、いろいろ補完をしていただけると助かります。

※すみません、ちょっと憶測でモノを言ってしまったので修正します。また確認が出来ましたら追って投稿させていただきたいと思いますのでご了承願います。

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