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しんちゃん

直虎さ~ん (2025/01/26 訪問)

井伊谷城は井伊氏の山城で山頂に主郭が設けられ、周囲を土塁で囲んだだけの比較的単純な縄張りです。永禄5年(1562)に井伊直親が謀殺され、井伊氏が存亡の危機を迎えた際に女性城主として気丈に振るまったのが大河の主人公にもなった井伊直虎です。
リアル女城主の城なので、某アプリで直虎さんが出てこないかな? と思って訪問しましたが、見つかったのはショボイ顔をした井伊直盛さんでした。誰だっけこの人・・あっ、直虎のお父さんだ・・。どうやら直虎さんはイベント限定で通常の城攻めでは見つけることが出来ないようです。テンションだだ下がりですわ。
井伊谷城は遺構はあまり残っていないようですが、周囲の見晴らしは良好です。主郭も2段になっていて、一段高い所に三角点があります。

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ぴーかる

砥石城 (2024/12/21 訪問)

【戸石城】
<駐車場他>砥石城跡駐車場・東麓にある陽泰寺にて御城印販売しています。
<交通手段>車

<見所>曲輪・堀切・主郭石積み跡
<感想>1泊2日上田の旅2城目。現地説明板によると砥石城は築城年代は不明だが、戦国時代に村上氏が小県方面に進出する拠点の城としていた。1550年武田晴信が大軍を率いて砥石城を攻めるが大敗させます「砥石崩れ」。1551年に真田幸隆は調略によって落城させ武田晴信より真田郷を与えられます。以降は真田氏の城となります。
 城は南西にある米山城、そこから北東の尾根を登って砥石城(砥石曲輪)、砥石城から北へ山の鞍部曲輪から本城(主要部の曲輪群)、主郭北の堀切から山頂の枡形城(物見曲輪か?)の4つの曲輪群から構成されています。
 麓の模擬城門櫓のある櫓跡から登城して山の鞍部尾根上に出ます。南西方向に登ったピークが米山城で上下段の曲輪があります。鞍部尾根に戻ってそこから北東方向に急峻な尾根を登りますが階段が付いているので体力次第で登れます。登ったピークが砥石城で周囲を高い切岸で囲んで南端の独立した出城といった感があります。砥石城から北が山の鞍部尾根曲輪になっていて本城(主要部)の南虎口曲輪になっていたようです。本城は一転し広大な段曲輪が広がり見応えがあります。また主郭の石積み跡が良く残されています。枡形城は主郭背後の大堀切をのぼったピークにあり物見がある小さな曲輪です。背後にミニ堀切を備え北東方向の真田氏館・真田氏本城が見渡せます。真田太平記や真田氏の歴史ドラマなどで頻繁に名が挙げられる城だったので行ってみたかった城の1つ。満足できるいい城跡でした。

<満足度>◆◆◇

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トク

花尾城(2/2):井戸周辺は圧巻です (2025/01/22 訪問)

花尾城の続きです。過去のとある煩悩さんの投稿に、井戸を観るために行ったとあり、何の事だろうと思いながら登りました。でもその理由が行ってみて分かりました。確かに!この井戸を観ずして何しにここまで登ったのかという感じです。本丸から下の段への石垣の左に(写真①)の標識がひっそりとありますので見逃さないように。そこから下はすごい角度の急斜面、鎖につかまりながら下ります(写真②③④)。すると二つの登り石垣と井戸が(写真⑤⑥)、またその横には石垣・畝状竪堀・大堀切があり(写真⑦⑧⑨⑩)、これはもう圧巻でした。大内・毛利・大友・豊臣など、東から攻めて来る強敵が多かったので、防御の中心を本丸の東側にあたるこの地に置いていたのではないかと思われます。きっとここで数々の戦が繰り広げられたのでしょうね。

とある煩悩さんが、この二つの登り石垣に囲まれた井戸にはどのような意味があるのだろうか? と思われていたようなので私も井戸の前に立ち考えてみました。すると二つの事が思い浮かびました。

まず一つ目は、ここは湧き井戸というより溜め井戸だったのではないでしょうか? 雨が降ると二つの登り石垣の間を雨水が川のように流れ落ち、一番下にある井戸に溜まっていくようにしたのではないかと思います。おそらく石垣の間は今では土が堆積していますが、当時は土などなく底には石を敷き詰めて流れやすくしていたのではないかと推測します。そして二つ目は、これもあくまで推測ですが、この井戸の中にはもしかして抜け穴があったのではないでしょうか? 二つの登り石垣の間は、今では土が堆積して浅いですが、当時はもっと深く、敵から見えないよう身を隠しながら移動する事ができ、そして井戸から城外へ出られる抜け道があったのではないかと推測しました。もしそうなら、城外の援軍との連絡や最後の脱出経路として使われたのかもしれません。井戸の底の横に小さな穴らしきものが見えたので、あそこの石を一つ外せば人が這って入れるトンネルがあるのでは?・・・なんて想像してしまいました。

いや久しぶりに、想像をかき立てられる、いい山城に出会えました。
 

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イオ

田中城(滋賀県高島市)・中腹の曲輪群 (2024/11/09 訪問)

(続き)

田中城の中腹には松蓋寺の寺坊跡を改修した曲輪群が広がっています。順路は曲輪群の東側を通って、内部に入る前に北東裾の遺構を見て回るよう設定されています。北東隅から数段下った曲輪にはいくつかの竪堀や土塁が見られ、北西方向へは横堀から続く竪堀が落ち、北側に下りて行くと武者隠しから堀切をはさんで細い土橋が北東方向に続いていました。土橋の先まで行って引き返すと、土橋を歩いている間ずっと武者隠しから狙い撃ちされていることを感じます。

順路の分岐まで戻り、今度は曲輪群の内部へ。中腹の曲輪群は土塁で方形に区画され、分厚く高さのある土塁も随所に見られます。あちこち寄り道しつつも順路に従って曲輪群の北辺を進むと、観音堂へと続く尾根筋を堀切で断ち切っており、堀切に面する曲輪には分厚い土塁がめぐらされていました。堀切を南に抜けた曲輪から順路は石段を上って観音堂へと続きますが、南に続く細長い曲輪に寄り道すると、道沿いに水の手が今も水をたたえていました。

石段を上ったところに建つ観音堂は松蓋寺の頃からの遺構なんだとか。また観音堂の南側一段上の方形の曲輪には松蓋寺の塔跡と思われる基壇と礎石がある…らしいですが、東端を通る順路さえわかりづらいほどの藪に覆われていて、何も見えませんでした。そして尾根筋に到達。尾根沿いに展開する曲輪群をめぐります(続く)。
 

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にのまる

落ち葉を踏みしめながら。 (2024/11/13 訪問)

磐越東線完乗に出かけた日。乗り通しにはこだわっていないので途中下車して三春城へ行くことにしました。(前回訪問時は東京⇆郡山⇆三春。)
三春駅から歩いて、搦手から登城。
深まりゆく秋の風景が美しすぎて、過去を訪ねる旅で出会えたこの時間と空間のことをきっとずっと覚えているだろうと思いました。
激しい戦さの時代が過去のものとなった今、このお城が辿った歴史を伝えつつ、訪れる人たちに癒しを与えてくれる、生きたお城として在り続けているのだなぁと感じました。

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赤い城

近場で (2025/01/12 訪問)

中途半端に時間が出来たので近場の前田城に再訪しました。
宝寿寺が二郭ですが寺の建物は廃墟となっていて倒壊注意。
堀切跡の通路を隔てた墓地が主郭です。
前回は夏に訪れたので周囲の堀は藪。
今回はどうかな?と行ってみると一部堀の形が確認できました。

十河城主、十河景滋の弟前田宗存が築城した城です。
ここも長宗我部元親の侵攻により落城、廃城となりました。

登城時の脳内再生は孤高の天才、前田智徳の応援歌でした♪
マエケンもいるんですけどね。

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しんちゃん

宇良めし也 (2024/09/18 訪問)

川崎城は塩谷城とも呼ばれ、平安時代の末から戦国時代にかけて塩谷地方の北西部を支配した塩谷氏の城でした。築城者は宇都宮業綱の次男で鎌倉幕府御家人である塩谷朝業とされています。朝業は鎌倉幕府三代将軍・源実朝と和歌を通して親交を深め「信生法師集」を残しています。朝業は文武両道に優れた武士でしたが、実朝の死を機に出家を決意し、八歳になる娘から恨み言を歌にして詠まれ、それに対して返歌を詠み、その二首が「信生法師集」に記されているようです。
川崎城は宮川の西岸に築かれ、南北に城域が広がっています。城域全部を見ることは出来ませんでしたが、一の堀は見ごたえがありました。本丸の南に南曲輪、北に二の丸、西に帯曲輪があり、本丸の周囲に一の堀が配されていました。

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しんちゃん

堀、土橋、土塁、虎口。 (2024/09/18 訪問)

岡本城は岡本北小学校の北側の河岸段丘の北側に築かれていました。段丘の先端が本丸で、かつては五重の堀を有していたようです。現在は本丸周辺の見学が可能で、土塁や堀切、虎口に続く土橋などの遺構が残っていて、状態はなかなか良いと思います。
岡本城は宇都宮氏の北の守りとして、岡本富高が南北朝期に築いたとする説と、寛正3年(1462)に玉生信濃守綱重が築いたとする説が有るようです。なんにせよ、このようにして見学をすることができるのは有難いことです。

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しんちゃん

放し飼い禁止。 (2024/09/18 訪問)

倉ヶ崎城ですが周辺で、でかいシェパードを放し飼いにしているオヤジがいたので、喜連川陣屋の門のみでの投稿になります。栃木にはまた行こうと思っているので、今回はこれで勘弁してください。今はこれで精いっぱい・・(リベンジを誓う)。
喜連川陣屋は関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川に興された喜連川藩の藩庁になります。喜連川家は足利尊氏の弟・基氏の子孫であるため幕府より10万石相当の格式を与えられていました。
道の駅喜連川では餃子を食べそこなったのでラーメンを頂きました。その名もSSTDX! なんじゃそりゃ?
しろびと・しんちゃん・とうこう・デラックス ということで。

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トク

花尾城(1/2):山頂からの眺望は抜群なのですが・・ (2025/01/22 訪問)

花尾城は、標高351mの花尾山の山頂に築かれた山城で、麻生氏が築いたとされています。大内・毛利・大友などに攻められ、幾度も戦場になったようです。そのせいか、至る所に石垣や畝状縦堀、大堀切や登り石垣といったものが見られ、かなり見応えがありました。麻生氏は、最後は豊臣秀吉に屈して所領を没収され、その後は筑前に入った小早川隆景の家臣となったようです。

ちょうど黒崎駅バスターミナル内で、花尾城の発掘調査に携わった木村幸雄さんという方の展示会が開催されていたのを偶然知り、これはラッキーと見学してから行きました。模型や発掘品や調査記録などがありました。とても尽力された方のようです(写真⑦⑧⑨⑩)。

黒崎駅バスターミナルから[73]の八幡駅行に乗り、花尾西登山口で下車(写真①)ここから歩いて40分程で山頂へ着きました。バスが標高150mの登山口まで登ってくれますので、残りの登りも最初の5分以外は緩やかでさほどきつくなく、ハイキングにはちょうどいい山だと思います。私もとある煩悩さんと同じ、中登山道から登り東登山道から下りました。

山頂本丸からは、北に洞海湾と戸畑・八幡・若松の街並みや、黒崎城も小さく見えました。また東には皿倉山も見えて眺望は抜群です。ただ晴天なのに何故か?・・・「もや」がかかっていて、響灘までよく見渡せなかったのがちょっと残念でした(写真⑤⑥)。天気予報によると、ここ1週間は3月並みの暖かい日が続いていたので、今年は早くもPM2.5が飛来して「もや」がかかっているそうです。今年は黄砂の飛来や花粉も早まるとの予報も出ているので要注意ですね。

次は、この城の最大の見どころ登り石垣と井戸を見て来ます。
 

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イオ

田中城(滋賀県高島市安曇川町田中)・山麓から中腹へ (2024/11/09 訪問)

田中城(上寺城とも・城びと未登録)は、高島七頭にかぞえられる田中氏が戦国期に松蓋寺跡を改修して築いた城で、近年、永禄9年以前に明智十兵衛が田中城に籠城していたことを示す史料が発見されました。信長公記には、織田信長が朝倉義景を攻める際に浅井氏の勢力下にあった田中城に宿泊したこと、その後、浅井長政の離反により信長の攻撃を受けて落城し、明智光秀に与えられたことが記されています。籠城するなどで田中城のことをよくわかっている光秀に任せた、ということでしょうか。

上寺停留所脇の駐車場から登城開始。駐車場奥の説明板に掲載された縄張図には散策コースと主な遺構が書き込まれていて、大いに参考になりました。また散策コース沿いの民家では、車庫内に田中城跡歴史ハイキングMAPが備え置かれており、こちらも大変役に立ちました(ありがとうございます)。そして田中城跡石碑脇の登城口のゲートから防獣柵を抜けて城内へ。

ゲートをくぐると順路の表示に従って防獣柵沿いに北へ進みます。少し行くと右手に家臣団の屋敷跡と思しき竹藪が見えてきました。ハイキングMAPによれば屋敷跡には土塁があるはずですが、防獣柵越しではよくわかりません。どうしたものかと思っていたら順路の突き当りにゲートがあったので、そこから防獣柵を出て竹藪に踏み込み、屋敷地を区画する土塁をしっかり確認できました。

ゲートに戻るとまた順路をたどって行く…つもりが、分岐を見落として中腹から山麓まで階段状に続く小曲輪群に迷い込んだりもしましたが、何とか順路に復帰して登って行きます。中腹の曲輪群の少し手前、登城道を見下ろす位置には見張所跡と表示された土塁が遺っていました。順路を外れて見張所跡奥の堀切と竪堀にも下りてみましたが、幅も深さもある堀切が尾根を断ち切り、派生した竪堀がはるか下まで落ちていて、大いに見応えがありました。

順路に戻って少し登れば、中腹の曲輪群に到着です(続く)。
 

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赤い城

神内城 香川県高松市 (2025/01/11 訪問)

城びと未登録城です。
道路沿いに説明板が立ち、民家の間の道を通って登城口へ。
山裾には神内氏の墓と云われる五輪塔が十数基あり、その背後から登ります。
登城路の藪は刈ってあり少し登ると主郭に到着。
主郭から堀切を隔てた2郭には明瞭な土塁も残っています。
さらに堀切を隔て、高くなった櫓台と思われる部分があります。
主郭には腰曲輪が付いていて急峻な切岸を見上げる感じです。

城主の神内氏はこの辺りに勢力を持った植田氏の氏族で屋島の源平の戦いにも参加しました。
その後、戦国時代には木太町にある神内城に移ります。

背後には藤尾山、東西に川が流れる立地で小規模ながらも見どころのある城でした。
【見どころ】
 ・二郭の土塁
 ・郭を隔てる堀切
 ・主郭の切岸

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ぴーかる

上田城 (2024/12/21 訪問)

【百名城71城目】
<駐車場他>上田城跡公園駐車場(無料)数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>本丸東虎口・内堀・二の丸北虎口石垣・尼ヶ淵
<感想>1泊2日上田の旅1城目。真田昌幸は大好きな武将なのでとって置きにしていた城跡、ついに攻城。上記駐車場から西櫓への階段を上がり⇒二の丸西虎口、ここは外堀の土塁遺構が良く残っています。⇒北虎口の石垣⇒内堀・二の丸跡⇒東側の外堀跡(線路跡)⇒観光会館にてスタンプ押印⇒東虎口の城門櫓から本丸内部を散策しました。冬季は現存櫓の内部が観覧できないのを知らなくて残念⇒昼食を取り⇒博物館を見学⇒駐車場に戻って尼ヶ瀬の岸壁・石垣・下から見る櫓を堪能しました。西にある移築現存門を痛恨の見落とししました。
 上田藩立藩後に仙石忠政によって全面改修・再建されましたが、外堀・内堀の深さや、堀の縁に沿って築いた土塁の高さは武田氏館跡と同じような情景が重複し真田昌幸の遺構も残っているように感じました。思い入れもあって満足度は1つおまけ。これにて信濃国の百・続百名城制覇。

<満足度>★★★★☆
<グルメ>観光会館の隣にある信州蕎麦の「草笛」にて蕎麦定食をいただきました。蕎麦旨し。くるみおはぎが半殺しの餅に胡桃の粉がまぶしてあって甘さ控えめ、やみつきになる旨さ。くるみおはぎは道の駅でも販売されています。

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しんちゃん

土塁ウォーク出来る。 (2024/09/18 訪問)

佐久山小学校の南の丘陵地が佐久山城の城址になります。麓の御殿山公園から道が続いていて、丘陵の上が本丸で北側に大きな土塁が残っていて、上を歩くことが出来ます。土塁への道がしっかり付いているので、遺構を崩す心配は必要ないと思います。
文治3年(1187)那須資隆の次男・泰隆によって築かれ、泰隆は佐久山氏を称しました。永禄6年(1563)泰隆の子孫・義隆は一族の福原資孝(大田原資清の次男)に滅ぼされ、佐久山城は廃城になりました。元禄15年(1702)に福原資倍が佐久山城の一部を補修し、山麓に陣屋を構え、明治まで続いたとのことです。陣屋跡は御殿山公園になったものと見られます。

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しんちゃん

乙畑孫四郎 (2024/09/18 訪問)

乙畑城は平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけて乙畑六郎兼房によって築かれたとされています。現在残っている遺構は16世紀の初めごろに喜連川塩谷氏によって築かれたものとされ、堀切などが確認できました。塩谷氏の流れを汲む城主・乙畑孫四郎は、永禄2年(1559)城を包囲した結城晴朝の軍と戦い、壮絶な討死を遂げています。
城址は住宅地に近い丘陵上にあり、不審者と思われても嫌なので、ほどほどに散策して引き揚げています。

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小城小次郎

兼続推しのイメージはいい意味で裏切られる (2024/04/28 訪問)

直江家の城なのでどうしても兼続愛に溢れたお城・・という先入観にやられてしまうが実城の先には曲輪・堀切・曲輪・堀切の山城パラダイスが展開し、いい意味で裏切られる。本与板城から与板城に移った時期は実は謎なのだそうだ。

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しんちゃん

野沢城とも (2024/09/18 訪問)

真木城(野沢城)は塩谷氏の居城・河崎城の支城とされ、城代・大舘弾正義則が寛正2年(1461)に築いたとされています。天正12年(1584)大舘義行の代に大田原綱記に攻められ落城しました。現在は箒根神社となっており、本丸の他に二か所の曲輪があるようです。空堀と土塁も残っていました。

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朝田 辰兵衛

踊場駅1番出口が最寄り🚉 (2024/12/24 訪問)

高校生の通学時間とかち合いました。この日は,どうも終業式っぽい雰囲気が漂っていましたが,学生の列はそれほど待たずに途切れました。
踊場駅からアクセスしましたので,にのまるさんの投稿にあった「ねこの踊り場」のパネルを発見📷。
住宅街ということもあり,早々に退却しました。

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イオ

登城案内 (2024/11/09 訪問)

ちゃんと下調べしていれば、普通は私のような間違い方はしないと思いますが、それでも登城口は結構わかりにくいので、簡単ながら登城案内を。

日吉神社の麓にある鳥居の手前を南に進み、金網フェンス沿いに細道を奥へ(写真①)。

小川に架かる小さな橋を渡って笹藪に突入します(写真②)。11月でもわりと茂っていたので夏場はもっと激しい状態かもしれませんが、笹藪は長くは続かないので、覚悟を決めてGo!

整備された登城道を進むと防獣柵のゲートがあるので開閉して(写真③)、谷を右手に見ながらさらに登って行きます。やがてガリバー堰堤と呼ばれるガリバー旅行記の絵(だと思います)が描かれた砂防ダムが右手に見えてくるはずです。

あとは案内表示に従ってひたすら登って行くと稜線に出ますので、長法寺跡との分岐(写真④)を打下城跡側に進めば5分ほどで到着です。


…ということで、皆さまが私のように、せっかくだから日吉神社にお参りしてから行こう(写真⑤)。登城口は日吉神社の南側だったよな、ああ、社殿南側のこのゲートかな(写真⑥)。道はあるけどほとんど整備されていないような…。あ、あれがガリバー堰堤だな……って行き止まりなんですけど!?(写真⑦) …なんてことにならないことを祈ります(ならねーよ(笑))。
 

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イオ

高島郡攻略の陣所 (2024/11/09 訪問)

戦国末期に浅井氏に仕えた林員清が高島平野と琵琶湖を見渡す城山に築いた城で、織田信長に降伏すると高島郡攻略の陣所となりました。林員清が内通の疑いで切腹させられると津田信澄が城主となりましたが、大溝城に居城を移したことにより廃城となったようです。

打下城へは日吉神社の鳥居の手前を南に進み、水路を渡って谷沿いに登って行くのが正しい登城道なんですが、何を思ったか日吉神社の社殿の南側から谷を左手に登って行ったところ、ガリバー堰堤と呼ばれる砂防ダムで行き止まりに…。「近江の山城 ベスト50を歩く」を見てみると「ガリバー堰堤を右手に見ながら」とあるので間違いに気付き、ということは谷の向こう側に登城道があるはず、と谷の水量が少なかったこともあって、少し戻ったところの梯子で谷に下りて対岸に渡り、何とか登城道に合流することができました。あとは案内表示に従って20分あまりで稜線に出て、長法寺跡との分岐から5分で中主郭南西下の堀切に至ります。

打下城は中主郭から派生する北・東・南の各尾根に曲輪を配し、南西方向を巨大な堀切と竪堀群で遮断しています。中主郭は土塁に囲まれた小さな曲輪で、北東部の虎口には石積みが見られました。虎口を出て東尾根を下って行くと、尾根を削り残して北辺の土塁とした広い曲輪が広がっています。虎口まで戻って今度は北尾根を下って行くと、小曲輪群が階段状に連続して北主郭へと続いていました。

北主郭の虎口は南側に開口していて、虎口に至る道は土橋状になっています。土橋の南東下には6条ほどの畝状竪堀群も見られました。北主郭は中主郭よりひと回り大きく、分厚く高い土塁で囲まれています。北主郭の東側と西側にいくつかの小さな曲輪があり、北東裾には畝状竪堀群も設けられています。

中主郭まで戻って最後に南郭を探索するつもりが、見当違いの方向に行ってしまい断念…。堀切や竪堀などそれ相応に見応えのある山城ですし、北主郭の石積みなども見落としているので、いつか再訪したいとは思いますが、わりとハードな山城でもあるので当面はちょっと勘弁かな、とも(笑)
 

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