庭瀬城は庭瀬藩の中心をなす城で、宅地化がすすみ、今では寛政5年(1793)に
板倉勝喜が建立した青山神社と城址碑がかつての名残のようです。案内板によると
水堀に使用されている石垣はかつての庭瀬城のもののようです。藩祖の戸川達安は
元々は宇喜多家の家臣でしたが慶長4年の宇喜多家の家中騒動を機に宇喜多家から距離を
起き、関ヶ原では東軍につき当地に2万9200石を与えられました。達安の離反が
宇喜多家を弱体化させ、関ヶ原での戦闘にも少なからず影響があったのかもしれません。
こういった出来事の積み重ねが関ヶ原での勝利に繋がっていったのだと思われますが
徳川家康公のここ一番での勝負強さと引きの強さは尋常ではないと思います。もちろん
そこに至るまでの根回しの周到さがあってのことですが。
+ 続きを読む