にわせじょう

庭瀬城

岡山県岡山市

別名 : 芝場城、(庭瀬陣屋)
旧国名 : 備中

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

にのまる

境目七城、やっと2つ目。 (2024/08/06 訪問)

夏休みの帰省の途中です。
東京駅21:50発のサンライズ出雲でまず岡山に向かいました。
午前6時27分に岡山駅到着。出雲と瀬戸の切り離しを見届けて、ここから先は「お城双六」をしながら西へ向かいます。

1城目は山陽本線(または伯備線)2駅目の庭瀬で下車して庭瀬城。
駅から徒歩10分弱ですが、目にした瞬間から衝撃的でした。滑らかな水面と個性的な石垣をもつ水堀。その中にあるのはまるで現代版の環濠集落!!何か特別なここだけの呼称があればいいのにと思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

境目七城のひとつ (2024/07/07 訪問)

JR庭瀬駅から徒歩で10分、駐車場も完備されています。
秀吉の中国攻めでは境目七城のひとつとして毛利氏の防衛拠点となりました。
江戸時代には庭瀬藩の陣屋となっています。

駐車場から北に進むと大手門跡があり水堀の機能を持つ水路が走ります。
大手門の近くには復元された庭瀬港の常夜灯、このクリークエリアが瀬戸内海に繋がっていたこともわかります。

陣屋の中心部の中島には弁天宮が鎮座しています。
隣の清山神社にも石碑があります。
周囲の堀には大賀ハスも、登城時はまだ数輪咲いているのみでした。

100名城かるた、商品化決定おめでとうございます🎉
かなりの営業力が必要だったかと。
詳細の発表を心待ちにしてます!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

沼沢地の沼城・其の壱 (2023/10/15 訪問)

(年が改まっても昨年10月の城めぐりの投稿ですが…)

戦国後期に宇喜多氏への備えとして三村元親が築いた城で、西隣の撫川城と一体として機能したとされます。羽柴秀吉の備中高松城水攻めでは毛利方の備中境目七城のひとつに数えられるも落城し、宇喜多氏の城となりました。関ケ原の戦いの功により戸川達安が入ると、庭瀬城を廃して二の丸跡に庭瀬陣屋を構えました。江戸前期に戸川氏が無嗣断絶した後は、久世氏、松平氏を経て板倉氏が11代続いて明治を迎えています。

清山神社北側の駐車場から登城開始。市街化により遺構の多くは失われていますが、清山神社の境内には庭瀬城の石碑と説明板が立てられ、足守川河口の沼沢地に築かれた沼城だけあって清山神社の周囲には水堀と石垣が遺っています。

また、清山神社の北には大手門跡や庭瀬陣屋の説明板、東には戸川氏の墓所、北東には板倉氏の菩提寺があり、さらに北東に約2㎞の立成寺には表門が移築されている……ようですが、下調べ不足で全て見落としてしまいました…。

さて、すぐ近くに撫川城があるので、駐車場に車を駐めたまま、二つの城を分かつ水堀(法万寺川)を渡って撫川城に向かいます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

水堀と神社と石垣と (2019/12/29 訪問)

庭瀬城は庭瀬藩の中心をなす城で、宅地化がすすみ、今では寛政5年(1793)に
板倉勝喜が建立した青山神社と城址碑がかつての名残のようです。案内板によると
水堀に使用されている石垣はかつての庭瀬城のもののようです。藩祖の戸川達安は
元々は宇喜多家の家臣でしたが慶長4年の宇喜多家の家中騒動を機に宇喜多家から距離を
起き、関ヶ原では東軍につき当地に2万9200石を与えられました。達安の離反が
宇喜多家を弱体化させ、関ヶ原での戦闘にも少なからず影響があったのかもしれません。
こういった出来事の積み重ねが関ヶ原での勝利に繋がっていったのだと思われますが
徳川家康公のここ一番での勝負強さと引きの強さは尋常ではないと思います。もちろん
そこに至るまでの根回しの周到さがあってのことですが。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 三村元親
築城年 戦国時代
主な改修者 戸川達安
主な城主 三村氏、井上氏、戸川氏、板倉氏
廃城年 明治2年(1869)
遺構 曲輪、石垣、横堀
再建造物 石碑、説明板
住所 岡山県岡山市北区庭瀬
問い合わせ先 岡山県教育庁文化財課
問い合わせ先電話番号 086-226-7602