石がゴロゴロしてるから、足元の注意は必要だが比較的登りやすい城跡。
石垣跡、大堀切、連続の堀など見れます。
帰りは害獣避けの柵をしっかり閉めてかえりましょう。
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2025/01/26 13:36
2025/01/26 13:25
2025/01/26 12:14
下世話で申し訳 (2013/12/14 訪問)
またちょっと古い写真で申し訳ない。天守がリニューアルしたというので是非再訪したいと思っていますが、今年はまとまった休みが取れそうもないので訪問は正月以降になりそうです。天守以外にも見所が多い城なので楽しみにしています。
城主が宇喜多秀家→小早川秀秋→池田氏と変わっているのも非常に興味深いですね。そういえば小早川秀秋と言えば男色家の側面があって、けっこうエグいエピソードが残っているようですが、美丈夫で有名な秀家にことをどう見ていたのかな? 小早川家と言えばもとは大老格なので顔を合わせる機会も多かっただろうし。じつは真面目に興味があります(ポカッ!)。ちなみに私にそっちの趣味はありませんぞ。
慶長4年(1599)に家康追及の動きが有った際に諸大名の動向は割れ、伏見の家康邸と大阪の前田邸に諸大名が集結しましたが、秀秋の動向は分かりません。「関ヶ原軍記大成」には小早川秀包が前田邸に終結したとありますが秀秋の名前はどちらにも無いですね。
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2025/01/26 11:27
2025/01/26 11:13
2025/01/26 09:43
2025/01/26 09:25
城域1 (2025/01/18 訪問)
狸谷山不動院より登城しました。駐車場から250段の階段を上がり、清水寺の清水の舞台と同じ懸崖造りの本堂を横目に進んで行くと登城口に行くことができます。熊出没注意の看板があり、京都市内でも熊が出るのかと熊鈴を装着して登城路を登って行くと15分くらいで本丸といわれている奥の院に着きました。
京都府教育委員会文化財保護課のHPより縄張り図は参考に散策しました。ぴーかるさんが登城時参考にされた「京都府中世城館跡調査報告書」の図と同じものと思います。1~4までの曲輪群がありますが、城域はかなり広いので今回は城域1と2を散策しました。狸谷山不動院より登城すると奥の院のある瓜生山山頂には容易に行けます。説明板があり北白川城本丸跡の記載がありました。周辺および尾根に曲輪が展開しています。京都一周トレイルのコースになっている周辺から外れて尾根の曲輪を散策すると倒木なども多く歩きにくい場所もありますが、それなりに進むことはできます。曲輪、空堀、土塁などが残っていました。
自分なりに各尾根の曲輪も散策したつもりでしたが、ぴーかるさんの投稿を見直してみるとかなり見落とした場所もあるような気がします。機会があれば、他の城域も含め散策したいですね。
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2025/01/26 02:38
でかい土塁 (2014/10/06 訪問)
今日は26日なので、すこし26(ふる)い写真を・・。今年のGWとお盆は最大4連休取れれば御の字です。遠出はしばらく難しそうです。
特別史跡・水城ですが天智2年(683)白村江での戦いで敗れた後、唐・新羅の日本への信攻に備えて大野城や基肄城と同時期に築かれました。全長1.2km、幅77m、高さ9mのでかい土塁で吉松丘陵と国分の丘陵を塞ぐように築かれています。当時の日本にこれだけの城柵や山城を築く能力があったことに驚かされます。
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2025/01/26 00:22
2025/01/25 22:57
遺構は良く残っている。 (2024/09/18 訪問)
いんげん丸虫さんの投稿にもありますが、確かにこの城址には複数の呼び名が付いているようです・・宇津野城、鳩が森城など。
鳩ヶ城は寛治2年(1089)山本家隆によって築かれたとされています。山本氏は後三年の役の際に源義家に従って軍功をたて、現在の塩原町から矢板市にかけての箒川筋八ヶ村・伊佐野郷十五ヶ村を領有していました。
城址は箒川の西の丘陵に築かれ、主郭の周囲には土塁や堀が良く残っています。南側にも郭がありますが、比較的小振りな城址だと思います。土塁は良く残っているほうですが、草ぼうぼうで少しわかりづらい。まあ土ですからね・・草も生えますね。wwWWww
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2025/01/25 22:41
2025/01/25 22:14
奥平信昌 (2025/01/23 訪問)
1600年関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が娘婿奥平信昌を加納藩主10万石に据え、加納城築城を命じました。当時の目的は西国大名への抑えでした。岐阜城の石や建物を移したとされ、東北隅櫓は岐阜城の天守を移したと伝わっています。二の丸にあたる岐阜地方気象台に石垣が残っていました。それ以前にも城はあり文永2年(1445年)、守護代斎藤利永によって築かれたのが最初のようです。城主は斎藤妙椿、妙椿養子の妙純と続きます。斎藤妙純の失脚により一度城はその機能を失いました。発掘により本丸周囲は障子掘であった可能性が高いようです。
本丸の形状が四角形ではなく凸型になっていて、これは出枡形を本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴のようで加納城がその初現ということで「加納城型」ともいわれています。本丸周辺は石垣がよく残っています。
今までは夏にしか来たことがなく石垣も草に隠されたところがあり、一度冬に登城したいと思っていました。岐阜市に所用があり、JR岐阜駅からも徒歩約15分で登城できるので、空き時間を利用してぶらりと行って来ました。
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2025/01/25 21:27
まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)
【清沢の石切場跡】
<登城路>大山祇神社から比叡山に到る旧道を進みます。城域1の南側の谷に3股に分かれる分岐があります。そこを直進すると着きます。ちなみにその分岐の右手の沢を登っていくと城域2に到ります。
<感想>登城時には石切り場跡とは知らずに城域1の東ゾーンを散策中、上から谷に堡塁が見えて、切岸を頑張って降りて見ると谷一帯に石垣群が広がっていました。こんなすごい遺構が何で誰も取り上げていないのだろうと、帰宅後インターネットで調べた限りですが、「城中心のお出かけ記」さんに同じような事が書かれていました。そこでは清沢の石切場というらしく、検索すると「瓜生山歩人」さんに石切場の事がアップされていました。そこには昭和15年の地図に石切場の記号が書かれていました。
谷は主郭の手前で2手に分かれて、右手に行くと上部の大空堀の南端とぶつかります。左手に行くと両サイドから城門みたいな岩壁で間口を狭くして、中がホール状の行き止まりになります。ここは岩場の感じは全くないです。また南ゾーンの尾根先が2股に分かれた間の谷に見事な曲輪の石垣が残されています。谷底の通路壁の石垣や谷の土留めの石垣、虎口や堡塁にも石垣が残り私にはどう見ても城跡の一部だったように見えました。(まだ納得いっていない)当時はどんな感じだったろうと想像すると、大空堀の南端はぷっつり切れて崖になっているので削り取られた感があります。尾根の曲輪群は輪郭がきちんと残っているので改変されていない、谷のすぐ上部が主郭主要部になることから当時もこの谷に何らかの防御の施設があったはず、と考えたい。想像と浪漫をかきたてられる場所でした。
<軽いまとめ>曲輪群の多さに日を分けて攻城し、投稿をまとめるのに数日かかって、もはや我が城のように愛着がわきました。将軍山城はそこを占拠した者が都度改修したり、曲輪群を造成したり、出ていく時には城を焼いたりして手を加えてはいますが、その分曲輪群が多い凄い大城郭となった。私が見た感想ですが、やはり南方向の麓の北白川から谷を登って攻めてくる敵を強く意識した造りになっていると感じました。戦国時代は最後に比叡山に陣取った浅井・朝倉軍を京への侵攻を押さえるために明智光秀が軍を詰めています。それにしては比叡山からの進入口にあたる城域2の北東方向の守りは薄いように感じました。私自身は光秀はあまり手を加えていないように思いました。山から京都市街が一望でき、足利義晴・義藤父子が見えているのに入京(御所に入れない)できない悔しい思いの方が強く印象に残りました。(もしかしたら籠城とはいっても慈照寺に常駐してたかも)
読んで下さった方、長々とお付き合いいただきありがとうございました。拙い文章であまり良く伝わらなかったとは思いますが、とにかく凄い城跡だった事は確かです。また城びとで全ての遺構を巡れたのは私が初めてであろう、ちょっと自慢で満足しています。忘れられない城跡となりました。
<満足度>◆◆◆
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2025/01/25 18:25
見処一杯 (2024/12/31 訪問)
整備された見学しやすい城跡ということ
で、公園化されてるのかと思い、あまり
期待しなかったのですが、遺構満載の
素晴らしい城跡でした。
石積み、虎口、堀切、横堀、畝状竪堀群
などなど、、未訪の方は是非どうぞ。
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2025/01/25 18:09
2025/01/25 17:52
北曲輪群(北城) (2025/01/25 訪問)
鞍馬街道と敦賀街道とを押さえる要衝の地にある城で城谷山の山頂部にある北曲輪群(北城)と東部尾根部分(シロヤマ)にある南曲輪群(南城)に分かれています。文明年間に山本佐渡守尚親が築いたとも、明応年間に山本対馬守資幹が築いたともいわれていますが、詳細は不明です。
北曲輪群(北城)は現地の縄張り図では本丸と表記されていました。
主郭周辺より3方の尾根に曲輪が展開しています。北西の曲輪に浅くなった堀切がありました。石垣が残っていると書かれた本もありましたが、よくわかりません。
静原神社付近より北曲輪群へ登城するルートもありますが、自分は静原小学校跡より南曲輪群へ向かいました。右参道静原山の石碑より歩いて行くと城跡の標識があり、それに従って山へ向かいました。すぐに道がわからなくなり右往左往しながら麓に辿り着きました。登城口がわからず仕方なく直登始めると、すぐに京都洛北ライオンズクラブと左京消防団静原分団設置の標柱を見つけ見上げると木にピンクリボンを見つけました。標柱は山岳ルートへの救助用標識だと思います。そこにはそれなりの踏み跡があり、ほっとして、その道(踏み跡ですが)を登りました。ところが途中でピンクリボンを見失い、また直登。しかし少し登って見上げると石垣があり、何とか城域に辿り着きました。南曲輪群から北曲輪群へはなだらか坂で倒木はありましたが、ストレスは少なかったです。帰りは静原神社側へ下山しましたが、こちらは急坂でトラロープたよりに降りて行きました。登城口さえわかれば南曲輪経由で登城した方が負担は少ないと思います。
地下鉄国際会館駅より静原までバスがありますが、本数が少ないので注意が必要です。
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2025/01/25 12:00
番外編、小山田 信茂墓(伝)鎧塚の巻。 (2024/12/29 訪問)
東京都あきる野市にある山城「戸倉城」。
登山経験がなく体力が人並み以下なので、攻め込む事ができません。
なので今回は、以前、所用でこの辺りの地図を見ていたら意外なお名前に出会ったので確認しに向かってみました。
「小山田 信茂墓 鎧塚」
武田家家臣がなぜ、北条領に?
五日市街道から檜原街道に曲がり、少し先に五日市警察があります。その裏手に『あきる野市郷土館』と『五日市高校』。この『五日市高校』の敷地の少し高い所に「鎧塚」の石碑がありました。
フェンスがあり中には入る事はできません。
小山田 信茂さんは、武田家の滅亡の話しには必ず登場する人物です。いわゆる裏切り者です。
その後、甲斐善光寺で処刑されます。
山梨県大月市にある、信茂さんの「岩殿山城」へおじゃました時には、大軍勢が攻め込まないように守ってくれたヒーローだったと受け継がれてました。。(こちらも山城なので登山口で退陣しました(´ε` ))
東京都あきる野市に小山田 信茂さん、信光さん親子が落ち延びたという伝承があるようです。
大月からあきる野への間道があったのでしょうか?
ギリギリ北条領なので、見つからないで良かったです。
私は昔、あきる野市民だったので、今でも通っているお店があります。JR五日市駅からバスに乗るまでの空き時間、檜原街道を歩くと、美味しいお土産と「鎧塚」に出会えますよ。
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2025/01/25 05:38
二階堂氏 (2024/09/14 訪問)
須賀川城は本丸跡に二階堂神社があり、南の市民交流センターが二の丸にあたるようです。周囲は堀と町屋によって囲まれ、橋によって繋がっていたようです。応永6年(1399)足利満貞・満直の家臣・二階堂行続によって築かれたとされています。
戦国時代から幕末まで城主が幾度となく変わりますが、寛永4年(1627)加藤嘉明が会津藩主となった後、廃城となりました。現在は市街地に飲み込まれ遺構は有りません。北西にある神炊館神社は二階堂氏によって城域内に勧請されたものとされます。
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2025/01/25 05:22
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