1600年関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が娘婿奥平信昌を加納藩主10万石に据え、加納城築城を命じました。当時の目的は西国大名への抑えでした。岐阜城の石や建物を移したとされ、東北隅櫓は岐阜城の天守を移したと伝わっています。二の丸にあたる岐阜地方気象台に石垣が残っていました。それ以前にも城はあり文永2年(1445年)、守護代斎藤利永によって築かれたのが最初のようです。城主は斎藤妙椿、妙椿養子の妙純と続きます。斎藤妙純の失脚により一度城はその機能を失いました。発掘により本丸周囲は障子掘であった可能性が高いようです。
本丸の形状が四角形ではなく凸型になっていて、これは出枡形を本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴のようで加納城がその初現ということで「加納城型」ともいわれています。本丸周辺は石垣がよく残っています。
今までは夏にしか来たことがなく石垣も草に隠されたところがあり、一度冬に登城したいと思っていました。岐阜市に所用があり、JR岐阜駅からも徒歩約15分で登城できるので、空き時間を利用してぶらりと行って来ました。
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