中尾城から徒歩25分くらいで、京都トレイル(バプテスト病院)(35.034230、135.797047)に着きました。
1520年(永正17年)管領・細川高国は、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、築城し陣を構えます。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていました。
大物崩れで、1531年(享禄4年)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取されました。
1546年(天文15年)将軍足利義晴が細川晴元と対立するようになると、義晴は北白川城を大改修しました。
1547年(天文16年)3月、足利義晴は征夷大将軍を子・義輝に譲り自らは大御所となり、細川晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城します。
しかし、細川晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣を張り周辺地域を焼き討ち。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出しました。
1561年(永禄4年)六角義賢が畠山高政と組んで京へ出陣し、家臣永原重澄を将軍山城へ入れましたが、三好方は松永久秀が将軍山城を攻め、守将永原重澄を討ち取りました。
その後幕府は軍勢の拠点を中尾城、霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかったようです。
1570年(元亀元年)9月から11月まで志賀の陣(織田信長と浅井・朝倉が対峙)となり、明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺を牽制しますが、織田信長の京都支配が確立すると、その軍事的意義を失って廃城になったそうです。
通常は狸谷山不動尊から登るようですが、バプテスト病院前の道から登るのが最短コースのようなので、こちらから登る予定でしたが、天候不順で雷が鳴っており登城せず登城口で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。その後、明日の攻城先=東山霊山城を目指す為、バスと電車で本日の宿泊先がある祇園四条駅に向かいました。
+ 続きを読む