しょうぐんやまじょう

将軍山城

京都府京都市

別名 : 勝軍山城、勝軍地蔵山城、瓜生山城、北白川城
旧国名 : 山城

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城域2 (2025/01/18 訪問)

 奥の院のある本丸跡から比叡山方面へ向かうと城域2を散策することができます。4カ所に城域は分かれて存在しています。それぞれ曲輪が残っていて楽しむことができますが、倒木などもあり歩きにくい所もありました。白鳥山頂が主要な曲輪で、北白川城出丸(北城)の説明板があります。

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城域1 (2025/01/18 訪問)

 狸谷山不動院より登城しました。駐車場から250段の階段を上がり、清水寺の清水の舞台と同じ懸崖造りの本堂を横目に進んで行くと登城口に行くことができます。熊出没注意の看板があり、京都市内でも熊が出るのかと熊鈴を装着して登城路を登って行くと15分くらいで本丸といわれている奥の院に着きました。
 京都府教育委員会文化財保護課のHPより縄張り図は参考に散策しました。ぴーかるさんが登城時参考にされた「京都府中世城館跡調査報告書」の図と同じものと思います。1~4までの曲輪群がありますが、城域はかなり広いので今回は城域1と2を散策しました。狸谷山不動院より登城すると奥の院のある瓜生山山頂には容易に行けます。説明板があり北白川城本丸跡の記載がありました。周辺および尾根に曲輪が展開しています。京都一周トレイルのコースになっている周辺から外れて尾根の曲輪を散策すると倒木なども多く歩きにくい場所もありますが、それなりに進むことはできます。曲輪、空堀、土塁などが残っていました。

 自分なりに各尾根の曲輪も散策したつもりでしたが、ぴーかるさんの投稿を見直してみるとかなり見落とした場所もあるような気がします。機会があれば、他の城域も含め散策したいですね。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【清沢の石切場跡】
<登城路>大山祇神社から比叡山に到る旧道を進みます。城域1の南側の谷に3股に分かれる分岐があります。そこを直進すると着きます。ちなみにその分岐の右手の沢を登っていくと城域2に到ります。

<感想>登城時には石切り場跡とは知らずに城域1の東ゾーンを散策中、上から谷に堡塁が見えて、切岸を頑張って降りて見ると谷一帯に石垣群が広がっていました。こんなすごい遺構が何で誰も取り上げていないのだろうと、帰宅後インターネットで調べた限りですが、「城中心のお出かけ記」さんに同じような事が書かれていました。そこでは清沢の石切場というらしく、検索すると「瓜生山歩人」さんに石切場の事がアップされていました。そこには昭和15年の地図に石切場の記号が書かれていました。
 谷は主郭の手前で2手に分かれて、右手に行くと上部の大空堀の南端とぶつかります。左手に行くと両サイドから城門みたいな岩壁で間口を狭くして、中がホール状の行き止まりになります。ここは岩場の感じは全くないです。また南ゾーンの尾根先が2股に分かれた間の谷に見事な曲輪の石垣が残されています。谷底の通路壁の石垣や谷の土留めの石垣、虎口や堡塁にも石垣が残り私にはどう見ても城跡の一部だったように見えました。(まだ納得いっていない)当時はどんな感じだったろうと想像すると、大空堀の南端はぷっつり切れて崖になっているので削り取られた感があります。尾根の曲輪群は輪郭がきちんと残っているので改変されていない、谷のすぐ上部が主郭主要部になることから当時もこの谷に何らかの防御の施設があったはず、と考えたい。想像と浪漫をかきたてられる場所でした。

<軽いまとめ>曲輪群の多さに日を分けて攻城し、投稿をまとめるのに数日かかって、もはや我が城のように愛着がわきました。将軍山城はそこを占拠した者が都度改修したり、曲輪群を造成したり、出ていく時には城を焼いたりして手を加えてはいますが、その分曲輪群が多い凄い大城郭となった。私が見た感想ですが、やはり南方向の麓の北白川から谷を登って攻めてくる敵を強く意識した造りになっていると感じました。戦国時代は最後に比叡山に陣取った浅井・朝倉軍を京への侵攻を押さえるために明智光秀が軍を詰めています。それにしては比叡山からの進入口にあたる城域2の北東方向の守りは薄いように感じました。私自身は光秀はあまり手を加えていないように思いました。山から京都市街が一望でき、足利義晴・義藤父子が見えているのに入京(御所に入れない)できない悔しい思いの方が強く印象に残りました。(もしかしたら籠城とはいっても慈照寺に常駐してたかも)
 
 読んで下さった方、長々とお付き合いいただきありがとうございました。拙い文章であまり良く伝わらなかったとは思いますが、とにかく凄い城跡だった事は確かです。また城びとで全ての遺構を巡れたのは私が初めてであろう、ちょっと自慢で満足しています。忘れられない城跡となりました。

<満足度>◆◆◆

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域1:曲輪群[主郭ゾーン]】
<見所>大空堀・土塁・曲輪群

<感想>瓜生山山頂を主郭とする曲輪群で主郭の西側に2つ腰曲輪があり、そこから西ゾーンと南ゾーンの連段曲輪群に枝分かれしていきます。主郭の東側は3段程に横に広い曲輪が広がり「報告書」の縄張り図では大きく6つ程の曲輪があります。この東側の曲輪群は各々の土塁虎口の遺構が明瞭に残り見応えがあります。主郭東側からの切通しは主郭西下段の副郭と思われる曲輪を分断しているためハイキングコースとして後世に人が通ったためにこうなったと考えます。主郭ゾーンと東ゾーンを分断する南北100m程はしる大空堀は圧巻の見応えで、おそらく箱堀、またはU字状の幅広の空堀と思われます。大空堀の南端は南からの谷の終着地点と繋がっていて、明らかに人為的に垂直に削った8m程の切岸(もはや垂直の壁です)なっています。ちょうどこの切岸の東側が東ゾーンの主郭部があり横矢の総攻撃が加えられる鉄壁の守りになっています。
 山頂の主郭は築城者の細川高国が勧請した将軍地蔵が当時があり、石積みの石室(現在はコンクリで間詰めされています)も残っています。主郭は大城郭の中心部にしては小さく、私の考えでは将軍義晴・義藤が籠城するのには吹きっさらしのこの場所ではないなと思いました。主郭の東側の曲輪群かあるいは別の場所(この次に投稿します)におわしましたと感じました。

<城域1の全体的な考察>いくつもの城域を束ねる心臓部にふさわしい城跡で、城域1は南から谷底を上がって来る敵を防御する造りになっています。谷は城域1の南側で幾筋かに分かれていますが、それぞれの山側の尾根に曲輪群を設けて谷に向かって両サイドから攻撃できるようになっています。城域1の北東部から北方向に太い尾根が伸びていて、100m程先のピークが堡塁になっていますが、堀切も何も無くて北側の守りは無かったように感じました。次の投稿は将軍山城の最後になります。[清沢の石切り場]と軽い[まとめ]です。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 細川高国
築城年 永正17年(1520)
主な改修者 内藤彦七、足利義晴、明智光秀
主な城主 細川氏、足利氏、明智光秀
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 京都府京都市左京区北白川清沢口町
問い合わせ先 京都府教育庁指導部文化財保護課
問い合わせ先電話番号 075-414-5903