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カズサン

【陸奥・小松柵】岩手県奥州市 安倍貞任叔父の小松館跡 (2024/05/23 訪問)

 衣川地区の接待館、衣川柵を終えて、前の道を西に約300m進み道沿い田圃側に案内板が有り寄ってみました。

 住所:岩手県奥州市衣川区横道下
 駐車場:無し交通量少なく案内板前に一時路駐
 参考資料:グーグルマップに依る。

 案内板には小松館跡(伝)、グーグルマップの史跡マークは小松柵(小松館)跡と成っています。現在は東北高速道東直近で田圃です。
 
 案内板によると
 康平5年(1062年)8月磐井郡の小松柵において、源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った安倍貞任の叔父、僧良照の居館であったと伝えられる。東側は衣川が蛇行南流して断崖に成っており、西及び南側は小成沢(東北高速道建設の為側道として埋められた)の崖に囲まれ北館から続く台地の突端部で広さは東西60m南北150mに及ぶ。中世、葛西氏の家臣が館を建て天正18年(1590年)秀吉奥州仕置きで廃された。
   

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カズサン

衣川柵初登城 (2024/05/23 訪問)

 接待館を終えて、前の道を西に約800mで衣川柵案内板に着きます。衣川柵初登城です。

 駐車場:無し、交通量は少なく案内板前に幅寄せして一時路駐。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 衣川柵と聞くと安倍貞任と源義家の騎馬による歌合せ古代の武士の戦いは優雅だったのでしょうか?小学生の頃の日本史絵本が甦ってきます。
 事前に案内板だけと聞き及んでいましたので案内板と周辺、少し北奥を眺めて終了。

 案内板によると
 永承元年(1045年)安倍頼時が当時一帯に本拠を構えた、康平5年(1062年)9月安倍貞任撤退まで18年間安倍氏の政庁であった。その翌年の康平6年(1063年)から永保3年(1083年)までの20年間は安倍氏に替って奥六郡を支配した清原氏三代の政庁もしくは居館であったと言われる。
 

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カズサン

接待館初登城 (2024/05/23 訪問)

 白鳥舘遺跡を終え、衣川地区隣接地南西に約3~4km程の接待館を初登城。

 駐車場:接待館解説板前のジャリ地駐車エリア。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 平泉には中尊寺、柳の御所、毛越寺、高館と何度かに分けて訪ねているのですが歴史で有名な衣川柵など安倍氏の遺構は訪ねて居ませんでした、今回の東北城探訪岩手県2日目に未踏の白鳥舘、接待館、衣川柵を入れて企画し訪ねました。
 事前に案内板?の探訪と覚悟はしていましたが、案内解説板と周辺を眺めて終えました。
 
 でも案内板を見ると結構広い遺構で東西約120m、南北約65mを堀と内外の土塁が廻っていた。堀と土塁で囲む中央に大量のカワラケを捨てた溝が発見されている。
 安倍氏の時代から奥州藤原氏の時代の伝承地も数多くあるようです。安倍貞任の活躍が有ったのでしょうか?古代中世のロマンでしょうか、中尊寺の北、衣川が蛇行して外堀の役目をしてる居館を造るのには適正地だったのでしょう。
  

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カズサン

安倍氏白鳥舘 (2024/05/23 訪問)

 八森城、沼館城を終えて秋田県城探訪往復約200km程経て東北道経由、前沢SAで昼食を摂り、平泉前沢ICよりR4、県道237、箱石橋手前を左折し白鳥舘案内所駐車場へ、東北城探訪4日目岩手県2日目、安倍貞任弟白鳥八郎則任の白鳥舘を初登城。

 駐車場:白鳥舘案内所兼駐車場(39°01'23"N 141°07'52"E h=40m)トイレ有、パンフレットボックス有り。
 参考資料:余湖図コレクションさん、白鳥舘遺跡パンフレット、グーグルマップに依る。

 北上川蛇行地に北東に突出た半島状の丘陵に、前九年の役で源頼義・義家父子と戦った安倍貞任の弟白鳥八郎則任の伝館と有り、またまた胸震え探訪を開始。
 案内所より順路に従って郭沿いの西下道を進行、郭間の堀切3條、案内所に近い南の郭は樹木が茂り、4郭3郭は住宅地と成っている、2郭南は住宅地ですが入口に白鳥舘の標柱、そこより西下への順路に従い降りると案内板とパンフレットボックス設置、約200m進むと北への道と西の1郭2郭への登城道に分かれてる。
 登城路堀底道を進み堀跡案内板、1郭と2郭の間に在る、堀切道で1郭と2郭の切岸を眺めて、1郭東の帯郭へ、北へ伸びる帯郭と順路、北側及び周辺の探訪は取り止めて、2郭東虎口より2郭内部へ白山神社白鳥神社?が鎮座、神社裏より堀切越しに1郭を眺め、2郭南虎口より一部民家経由西下道へ探訪終了。
 近くの史跡マークに箱石橋展望台と北上川に箱石が有るので箱石橋展望台に上り眺めるが良く分からないが北上川の眺めは素晴らしい。

 歴史は案内板パンフレットによると
 白鳥舘は前九年合戦(1051~1062)で、源頼義・義家父子と戦った安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の居所と伝えられてきました。現在遺跡には、堀跡や郭、土塁など15世紀の城館の痕跡がよく残されています。これまでの発掘調査によって、10世紀から16世紀まで長期間にわたり使われていたことが明らかに、10世紀は集落、12世紀~14世紀は手工業生産遺跡、15世紀は城館、16世紀は集落として利用、特に12世紀から15世紀までの間は、北上川の湊として機能したと考えられる。
 白鳥舘遺跡は川湊には最適の場所で北上川航路物流拠点として奥州藤原氏繁栄を支えた側面を示しています。

 広い城域遺跡にて、すべては見切れませんでしたが1郭、2郭中心に探訪しました堀切、堀切道探訪が楽しい白鳥舘でした。
   

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しんちゃん

無印投稿  杵築城 (2014/01/14 訪問)

杵築城は別府湾に面した内湾状になっている部分の丘陵に築かれています。内湾に突き出した部分の北側には高山川が流れ、南には八坂川が流れていて、南側の丘陵がそれで、近くに杵築大橋が築かれています。
訪問時、文化財指定がされていたか記憶に無いのですが、2016年に県の史跡に指定され、2017年には国の史跡を目指して発掘調査が行われ、城郭のあった台山地区(模擬天守のある小山)と藩主御殿地区が国の史跡に指定されたようです。
古くは明徳5年(1394)に木付頼直によって築かれ、戦国時代には島津氏に攻められるも、これを退けたことがあるそうです。主君である大友氏が朝鮮出兵時に改易を受けると、木付氏も自刃して果て、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功績で細川忠興が豊後国に所領を得て、家臣の有吉立行が城代として入ったそうです。天守は慶長13年(1608)に落雷で焼失しますが、後に三重の層塔型の天守が再建されたと考えられています。いまは三重の望楼型の模擬天守が鎮座しています。

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しんちゃん

無印投稿  伊予松山城 (2013/12/13 訪問)

伊予松山城は慶長7年(1602)関ヶ原で20万石に加増された加藤嘉明によって築造が開始されました。勝山(城山/松山)山頂に本丸が築かれ、西寄りの南麓に二之丸史跡庭園があります。愛媛県美術館のある堀之内地区が三の丸跡のようで周囲を堀で囲まれています。
山上の城と麓の城が一体になった城郭でロープウェーで本丸のすぐ近くまで行くことが出来ます。
昭和8年の放火で大天守以外の天守曲輪(本壇)の建造物を焼失し、その後も空襲や精神病の患者の焚火などで四棟の建造物を焼失しています。えらく試練の多い城ですが大天守が焼失せずに残ったのは不幸中の幸いだと思います。21棟の建造物が重要文化財に指定されており、22棟の建造物が木造で復元されています。ひとえに地元の行政、住民の努力の賜物だと思います。
建造物の多さは全国でも指折りで、非常に見応えのある素晴らしい城です。

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小城小次郎

看板がホワイトボード (2023/12/09 訪問)

徐福が見つけたというびっくり伝説も残る古い温泉地を見下ろす山に城があった。公園化による改変もある上、どんなお城だったかを示す看板がことごとくホワイトボードと化しているのだが、綺麗な石積みなども僅かに残っている。

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淵野辺義博 (2024/06/20 訪問)

 南北朝時代このあたりの地頭であった淵野辺氏の館跡です。淵野辺義博は太平記では護良親王を殺害したと記載されています。石碑はありますが、遺構はありません。

 小野路城跡から並木バス停に出て乗車、山王平バス停下車、バス停から約3分で石碑のある場所へ行くことができます。帰りは淵野辺駅まで歩きました。約15分です。

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小山田有重 (2024/06/20 訪問)

 小山田氏の城と伝わっています。説明板があり、遺構としては曲輪、井戸、土塁などを観ることができます。神社のある主郭以外の曲輪も散策しましたが、季節的に草が多くわかりにくいところもありました。

 町田駅近くの町田バスセンターからバスに乗り扇橋バス停下車して西側から登城しました。こちらから行くと高低差はあまりありません。帰りは南へ下りて並木バス停より帰りました。

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鳴瀬四郎太郎 (2024/06/20 訪問)

 鎌倉初期にこの地を所領した横山党の鳴瀬四郎太郎の居館ともいわれていますが、詳細はわかっていないようです。城址碑と説明板がありました。

 成瀬駅から徒歩約15分で行くことができます。

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神庭緑地 (2024/06/20 訪問)

 日吉駅からバスに乗り「さくらが丘」バス停下車。徒歩3分くらいで高低差なく城跡地とされる神奈川県立中原支援学校(2023年4月1日中原養護学校より改名)、神庭緑地に行くことができます。神庭緑地の古墳らしい隆起を見て退却しました。

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しんちゃん

片倉城跡公園 (2024/01/28 訪問)

片倉城は北の湯殿川と南の兵衛川に挟まれた丘陵地の先端部に築かれた丘城(平山城)です。現在は片倉城址公園として整備されていて北東部の住吉神社の南の小高い所に本丸があり、周囲に土塁が残っています。その先に堀切があり橋を渡ると二の丸に到達します。
八王子市とはいえ東京で、遺構の残っている城は貴重だと思いますね。
歴史は古く和田合戦で和田義盛が滅んだあとは、和田氏に味方した横山党も衰退し、当地は大江広元の領土になったそうです。室町時代には大江氏の流れを汲む大江師親か長井時広が在城していたとされ、この時には既に片倉城は築城されていたようです。後に北条氏の城となり、北条氏が武田信玄と戦った三増峠の戦いでは北条氏照と氏邦の兄弟が片倉城より出陣したそうです。
後の豊臣秀吉の小田原征伐の際に八王子城と共に落城し廃城になったものと思われます。

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しんちゃん

美しい枡形が連続する (2024/01/26 訪問)

小田原城は明応4年(1495)には大森氏の城でしたが、伊勢新九郎盛時(北条早雲)がこれを奪い、以後北条氏の城になりました。二代目の北条氏綱の時に北条氏の本城となり、豊臣秀吉の北条征伐で戦国大名としての北条氏が滅んだ後は、大久保忠世が入り、以降近世城郭としての現代の小田原城に整備されました。
私は北条氏の系列の土の城が好きなので、かつての総構を備えた北条氏の小田原城を見てみたいとずっと思っていました。支城である山中城や八王子城でさえあの凄さなのだから、本城である小田原城はさぞや‥と思ってしまいます。詮方ないことですが。
でも久々に訪れてみると、近世城郭の小田原城も良いです。馬屋曲輪から二の丸を経由して本丸に向かっていくと次々と枡形に遭遇します。特に馬屋曲輪から眺める二の丸の枡形は得も言われぬ美しさです。良い‥実に良い。
家康家臣としては少し地味なイメージが有る大久保氏ですが、この小田原城の枡形にこだわった造りは実に良いです。

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イタさん

志摩城・千葉県多古町 (2024/06/17 訪問)

現地案内板に、栗山川流域に広がる低地のなかに島のように浮かぶ標高18mの独立台地に占地する。縄文時代から平安時代の包蔵遺物として塙台遺跡とも呼ばれ、・・・。また千葉氏宗家終焉の地の舞台ともなった・・・。千葉氏宗家16代胤直一族は、享徳4年(1455年)に起きた内紛により猪鼻城を追われ、胤直は志摩城に、子息・宣胤は多古城に籠もりが敗れ自害。多古にて千葉宗家が滅亡する。古代の発掘について・・・、と記載されている。

明確な遺構は分からないが、主要部と思われる場所には八幡大神が祀られ、神社の南から東に広がる平坦地は一面畑になっている。内部を区画する遺構らしきものは見当たらない。畑地(台地)の東端からは並木城が見える。神社の石段の南一帯には幾段かの削平地が見られるが、ベンチが所々に設置される公園なので、後の造成かも知れない。駐車場・道路を挟んだ西は台地で、二の台とあったようだが、こちらは行けなかった。

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零汰

立ちすくむ (2024/05/21 訪問)

忽然と現れる深い堀切やウネまくる地面、荒々しく不揃いで見栄えのない石積など予期せぬ遺構を見ると驚きで立ちすくむ事があります。こちらは土塁と空堀だけで美しさを作り出し、いい塩梅に劣化して嫌味の無い門や橋がそれに溶け込み、煩わしくない樹木が良いアクセントとなっていて思わず立ちすくんでしまう場所でした。

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カズサン

【出羽・沼館城】秋田県横手市 沼の柵 (2024/05/23 訪問)

 八森城を堪能し終えて、怖い県道32号線を通らない横手に抜ける道を総合支所の方に教わって国道107号線で横手市へ、東北城探訪4日目秋田県2城目の沼館城へ初登城。

 住所:秋田県横手市雄物川町沼館429(蔵光院)
 駐車場:沼館地区交流センターの駐車場利用、沼の柵本城址標柱の直北。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北東角の土塁に「後三年の役 沼の柵本城址」の標柱が有り、出羽の戦い、清原氏と源義家の抗争がこの横手の地区で繰り広げられた900年前が広がってくる思い、北側に虎口に似た山門が有り、沼の柵趾碑、沼の柵跡・蔵光院の説明板、現在跡地には蔵光院が建っています。虎口山門を潜って寺院内へ、蔵光院を参拝して、内側の土塁を確認、南東角の内側は池越しに高土塁が見える、南西の土塁出入口を出て南側から土塁と堀跡を確認、南西から南、東に廻って周囲の土塁を確認、高く分厚い土塁が圧巻です。
 沼館地区交流センターの南には残存高土塁が確認出来て3郭南の土塁の残りかも? 本城1郭の北西側は2郭で元雄物川北小学校跡地、その北に3郭が広がっており住宅、北角に沼館八幡神社が有り3郭の北側土塁が残存。

 山門の説明文によると。
 平安後期後三年の役において、清原家衡が源義家・清原清衡を迎え撃ち勝利した古戦場跡と伝えられている、この後は金沢柵の籠城戦で清原家衡は攻め落とされて後三年の役は終結、その後清原清衡改め藤原清衡からの奥州藤原三代の栄華が始まります。
 時代は変って戦国期の初め稲庭城主小野寺氏が沼館城を築いて移り本拠地とした、今に残る高土塁、広い堀跡は戦国期の小野寺氏の築城遺構の様です。
 
 この後、沼館地区交流センターによって資料と情報を入手し、合わせて雄物川郷土資料館にも寄り見学と資料、情報を入手し両係員の方に感謝申し上げます。

 横手市には20代の頃から仕事で訪ね、城廻秋田県でも何度となく訪ねていたのですが沼館城は見落としていました、土塁、堀の遺構の素晴しい城郭です。
 
 

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イオ

まさかの電気柵… (2024/04/27 訪問)

室町中期に北畠氏一門の北畠雅俊が築城して坂内氏を名乗り、代々北畠三大将の一人として坂内御所を称しました。北畠信意(織田信雄)が北畠氏の家督を継ぐと、坂内氏六代・具信、七代・具義らは謀殺されて坂内氏は滅亡し、阪内城も廃城となりました。

阪内城は坂内御所(坂内館)と呼ばれる山麓の居館と山上の詰城からなり、坂内御所の遺構は消滅していて、跡地の子育て支援センターの入口脇に坂内城阯碑と坂内城跡・坂内御所跡の説明板が立てられているのみですが、子育て支援センターは土日祝は閉まっているため、金網越しに跡地や石碑と説明板の裏側を確認することしかできませんでした。

坂内御所を満足に見られなかったのは残念ですが本題は詰城のほうだから、と気を取り直して県道沿いに東に進み、「天守・ガイコツ峠」の案内表示から山手に入り、小川を渡って進むと前方に電気柵が張られているのが見えてきました。防獣柵もめぐらされているし、このあたりもシカやイノシシが出るんだろうな、などと考えながら歩いていると、「天守」の案内表示のすぐ先の登城道が電気柵で封鎖されています。…えっ!? いやいや、市指定史跡への道を電気柵で通れなくしてしまうなんてあり得る?? どこかに通行できるゲートなりがあるのでは? と考えて周囲を見渡すも見当たらず、ゴム軍手で電気柵を掴んで突破しようかという考えも頭をよぎりましたが、やはりその勇気は無く(そんな勇気は無くていい)、しばらく未練たらしく行きつ戻りつした挙げ句、断念して撤退しました。

…ということで、山麓の居館跡は満足に見られず、山上の詰城にはたどり着けずで何とも消化不良に終わってしまいましたが、さすがにこのままずっと山上の詰城には登城できません、ということにはならないんじゃないか、何らかの手立てが講じられるんじゃないかとも(多分に願望を込めて)思いますので、いつかまた登城できるようになったら再挑戦したいものです。
 

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しんちゃん

無印投稿  宇和島城 (2013/12/13 訪問)

宇和島城は元々は板島丸串城といったらしいのですが、文禄4年(1595)に藤堂高虎が7万石で入り現在の石垣が築かれたようです。こぶりな現存天守は宇和島伊達家の築造によるものらしいですが、この見事な石垣は藤堂氏によるものです。各地を転々とし、見事な石垣を築いて去っていく。実に漢前です。なんかアナグマに似てますね。穴を掘ったアナグマが去った後にタヌキやイタチなど他の動物が入ってくるといった構図になりますが、高虎さんが築いていった石垣の城に他の大名が「ごっつあん」といって入ってきて建物などを作っていく‥まさに偉大なさまよえるアナグマです。
伊達家の築いていった天守も素晴らしいです。たしかにちっちゃいですけど、天守があるだけで華やかさが増します。ショートケーキの上にのってるイチゴのようなもので、これを取られてしまうと凄く悲しい気分になりませんか?

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しんちゃん

無印投稿  大洲城 (2013/12/13 訪問)

大洲城は元々は宇都宮の分家(そのまた分家)の伊予宇都宮氏の城です。伊予国で毛利氏が勢いを増し、毛利氏の軍門に降るも長宗我部氏に通じた家臣の裏切りで国を追われ、その後大洲城は湯築城の支城になりました。
1595~97あたりで藤堂高虎が入場し、高虎と慶長14年(1609)に洲本城から転封になった脇坂安治らによって大洲城が近世城郭として整備されたようです。藤堂さんが石垣担当で脇坂さんが天守などの建物担当といったところでしょうか。
コンクリ造りの模擬天守が多い中、粘り腰で木造再建した意味は大きいと思います。レプリカなどと揶揄する人もいるでしょうが、それを言ったら首里城だってレプリカになってしまいます。いつの間にやら大量の国費が注入されることになっている首里城ですが、できるだけ当時と同じ工法で再建を志すことはアイデンティティの維持と地元の人達の心のよりどころになるという意味では有意義だと思います。
私は無謀で愚かな戦争で失われた城郭建造物についいては国が率先して再建を志す責任が少なからず有ると思います。
TVをつけると、やたら多様性を口にする人が多いですが、私は信用しません。まずは日本と日本人としてのアイデンティティをしっかりと持ったうえで多様性や寛容さについて議論するべきだと思います。多様性=アイデンティティの喪失になりつつある今の流れには少し違和感を感じます。

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赤い城

田中城 香川県木田郡三木町 (2024/05/26 訪問)

雷八幡神社の北東に位置します。
周囲は水田となっていて遺構は残りません。
この水田のあたりに堀があったようです。
道路を進んで行くと民家の脇に石碑が立っていました。
細川氏の家臣、三木高長が入った平城です。

讃岐にも遺構が残らない城は多いですが石碑があるだけでもありがたいです。

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