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しんちゃん

伽羅御所 国衡館 (2017/05/02 訪問)

伽羅御所・・岩手県平泉町平泉伽羅楽にあった奥州藤原氏の居館跡です。奥州藤原氏三代秀衡が嘉応2年(1170)に鎮守府将軍・陸奥守に任じられた際に柳之御所が政庁として大改修されたため、新たに居館として築かれました。現在は市街地に飲み込まれ、かつての栄華を感じとることは難しそうです。

国衡館・・平泉小学校・幼稚園が館跡になります。藤原国衡(くにひら)は奥州藤原氏三代秀衡の長子でしたが、側室の子であったため当主にはなれず、泰衡や弟たちとの争いを傍観するしかなかったようです。奥州合戦で阿津賀志山の戦いに総大将として出陣するも戦死しています。館跡は周囲より高地にあり、雰囲気はあります。

同日に訪問した接待館の写真も掲載します。やはり春は良いですね。今は4月中旬か下旬ぐらいの頃が一番良い頃合いでしょうか。5月上旬はもう暑い気がします。

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しんちゃん

佐野厄除け大師 (2024/09/14 訪問)

佐野厄除け大師の名で知られる栃木県佐野市の惣宗寺には佐野城の門が移築されています。道路を隔てた向こうには物産館と佐野ラーメンの店があります。この一帯に佐野が詰まっている感じがしますね。後ろの写真は小山市にある壬生城の門です。

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しんちゃん

仕切られた主郭。 (2024/09/18 訪問)

飛山城の続きです。7つの郭で構成されているとされ、北西部の4~5つの郭が主郭という扱いになるようです。最も広くて、建物跡が多い曲輪4が主郭の中でも主要な部分になるのでしょうか。主郭が郭で仕切られているので、実際は異なる郭のように見えます。

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トク

引地山城と到津八幡神社 (2025/01/19 訪問)

到津の森公園から北東へ歩いて10分、地図で推測しながら国道3号線から少し坂を登り路地へ入った、このあたりの小山に本曲輪があったのではないかと思われます。今では座禅道場が建っていました(写真①②)。土塁や他の曲輪などもあるはずなので、少しでも見る事がでる場所がないか小山をぐるりと一周してみましたが、裏手からは土塁らしきものが少し見えるのですが、「私有地につき立入禁止」の札や柵があり結局は中に入れませんでした(写真③)。

ならば次は、ここからさらに東へ5分程歩いた所にある「到津八幡神社」へ行ってきました(写真④⑤⑥)。到津(いとうず)という地名の由来は、神功皇后が三韓征伐の折に宇美の里で応神天皇をお産みになり、豊浦宮へお帰りの際に御座船を当地に着けられたそうで「到津=着いた港」という意味のようです。そしてその皇后をここにお祀りしたのが起源だそうで、安産などの守り神となっているようです。

その後平安時代に入ると、神社は宇佐神宮の神領となり、宇佐大宮司の支族が到津氏を名乗ってこの地を守りました。鎌倉時代には宇佐宮司の清水氏が代官として派遣され、引地山城を築城します。戦国時代には大友宗麟との戦いで宇佐神宮が焼け落ちたため、宇佐の宮司たちは戦火を逃れて、しばらくこの地に滞在したようです。今では二つの山は別々になっていますが、これは住宅開発によるもので、かつての到津八幡神社と引地山城は、一つの尾根でつながった一つの山であったと思われます。

江戸時代には、神社は小笠原家から庇護を受けていたようです。小倉藩小笠原家と水戸徳川家は輿入れなどで縁があり、江戸の小石川後楽園から譲り受けたという石橋がここにありました(写真⑦)。水戸黄門様も渡ったことがある橋ではないかと言われているそうで、小笠原家と水戸徳川家との間には良縁があった事が想像できました。

次は、ここから西に見える花尾山(花尾城)に登ってみようと思います。

P.S チェブさんへ
ライオンまんじゅうのルーツは今川焼か🤔? 私もそこまではよくわからないので、ここは地元北九州出身の「にのまる」さんなら御存知かと(城野も北九州)。ちなみに左があんこ、右がカスタードでした。本物のライオンもいましたよ!
 

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赤い城

とりあえず「行った」ことにしておこう (2025/01/04 訪問)

土佐泊浦背後の松瀬山に城跡があります。
皆さんのレポート通り、南海病院の敷地となっています。
どうやら新病棟の工事中で病院に行くのも躊躇してしまいました。
周囲を一周して退却、とりあえず「行った」のポチはしておきます。
長宗我部氏の阿波侵攻で唯一落ちなかった城なのでいつか公開される日が来てほしいですね。

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天守無しがアツい

信玄ミュージアム (2025/01/12 訪問)

(HP)https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html#hotta

武田神社の向かいに信玄ミュージアムという施設があります。入館は無料…入口には信玄が着用したと伝わる兜と鎧(1枚目)が置いてあり、兜を被って鎧の後ろに回り記念撮影ができました。この白い毛が生えた兜…オリジナリティを感じたのでそれを被ってみました🪖

すると館員がそれに気づいて「お写真撮りましょうか?」と言ってくれたので、お言葉に甘えて2枚撮ってもらいました(1枚目はマスクをつけたまま…2枚目は表情が分かるようにそれを外して歯を食いしばり口を横に開きながら😬)

武田神社では躑躅ヶ崎館の御城印が扱われていましたが、ここでは武田氏館跡(2枚目右)と信玄ミュージアム(2枚目左)のが販売されてました

躑躅ヶ崎館=武田氏館と言えるので、信玄ミュージアムは一応別の建物だから…(躑躅ヶ崎館のは昨年(2024年1月に)購入済なので)片方だけの購入でもいい気はしましたが…「これが5種類ならともかく、2種類しかないから1枚も2枚も大して出費は変わらん」…というのもあり、結局両方買いました

この施設には常設展示室と特別展示室(有料)…そして旧堀田古城園という古民家と庭がありました。常設展示室では武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)にまつわる展示が…

奥の方に関連書籍がたくさん並べられてるコーナーあり…マンガを1冊読みました。それによると…信虎の政策は戰のために民に重税を課すのは当然…領主は民から搾り取り威圧的になる事で示しがつくというもの

けれど息子の信玄は…「人は城 人は石垣 人は堀 なのであり、圧政で支配するなんて間違っている」「人の和こそ最大の武器であり、民の生活の安定こそ第一に考えるべきである」というポリシーで父と対立

そして親父信虎を家臣と共謀して「駿河国に隠居していただきます」と告げて追放。この時信虎の命に従うものはおらず、周囲の者にあっさり取り押さえられる形で籠に乗せられたようなので…どうやらゼロと言っていいくらい…周りからの支持を得てなかったものと思われます

それから由布姫というカフェで…謙信ラーメンというメニューを摂りました。謙信の名が付いてはいても中身は…メンマとナルトとチャーシューとノリの入った醤油ラーメンです🍥🍜🐖

腹ごしらえを済ませた後はフォトブース陣屋にて甲冑の撮影をまたしちゃいました(3枚目)。ここのはお触り禁止であくまで撮影のみ…けれど甲冑の後ろに並ぶ武田軍の旗が格好良さを引き立たせており…(1枚目の甲冑とは)また違った魅力を感じた気がします

旧堀田古城園の建物は基本…外からの見学のみで、どうしても中に入りたいという場合には受付で許可を得てからと説明に書かれてました。けどそこまでしなくていいかなと思えたので、ここは外からの見学だけにしておきました

レコードに黒電話、レトロテレビなど昭和チックな部屋(4枚目)と屋敷全体(5枚目)を撮影してから特別展示室に向かいました。そこの館内は全て撮影禁止だったため、代わりに旧堀田古城園の画像を載せてる…とも言えますね

館内には武田氏の歴史を記録した甲陽軍鑑…武田氏館から出土した品々(銅銭、瓦、天目茶碗など)が展示。奥にある映像展示では…肖像画とアニメーションの融合とでも呼ぶべき映像が流れました

信玄の肖像画は幾つかありますが、そのどれもがかなり顔の印象が異なるもの…なのでどれが実際の信玄に近いのかははっきりとは分かっておらず、謎に包まれているそう

なので「これ最も近いかも」と伝わる肖像画を元に信玄の顔がアニメ化され…彼の生涯が紹介されていました(赤ん坊として生まれた→幼少期→初陣で勇ましく活躍→父を追放→三方ヶ原で家康に大勝する…)

そもそも…その肖像画も…信玄の死後、後世に描かれたものだって結構あるんじゃないかと思うんですよね。例えば信玄と家臣24人を描いたものがあるのですが…それは江戸期に信玄ブームというか人気に火がついたあたりに描かれたもの…本人の死後100-200年経ってからなので、本人および家臣の顔は作者の想像で描かれたのは言うまでもない😅

当時は肖像画しか人の顔を記録するものは無く、しかもそれだって本人の死後に描かれることは珍しくなかった…墓はあるようですが、そこに遺骨は果たしてあるのか?そう考えると…もはや本人は本当はどんな顔してたかなんて分かりようがない🤔

「信玄の死因」についての紹介文もあり…結核説…肺がん説…暗殺説…がありました。有力視されてるのは結核説。ちなみに修羅の刻(日本の歴史上人物が出てくる川原正敏先生のマンガ)では暗殺説…不破虎彦という若者に首の骨をへし折られてあの世逝き…👼

まぁ…当時は今より医学なんてかなり遅れていたと思われるし、そもそも結核(当時の呼び名は労咳)だったとしてもそれを診断できたのか?ガンならなおさら怪しい…診断できたとしても、特効薬も無いため気休めの漢方薬くらいしか出せるものがない…様子が目に浮かぶ

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しんちゃん

堀などの遺構が良く残る。 (2024/09/14 訪問)

犬飼城は康暦元年(1379)小山義政によって小山城の支城として築かれ、元亀4年(1573)に犬飼康義が城主になりましたが、宇都宮氏に攻められ廃城になったとされています。ただ案内板によれば、現在の縄張りは宇都宮氏によって南西方を守るために再構築されたものと思われるようです。
城址は私有地のようですが、駐車場や城址への案内の標識など、親切に整備されています。ありがたく散策させていただきました。主郭の周囲には堀が巡らされ、土橋で周囲の郭(二の丸)と繋がっています。竹や木が多いので写真では解りにくいですが、堀切などの遺構はなかなか見事なものです。

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しんちゃん

小野寺城 道の駅・どまんなかたぬま (2024/09/14 訪問)

栃木県栃木市岩舟町にある小野寺城は保元元年(1156)小野寺義寛によって築かれました。小野寺氏は藤原秀郷の流れを汲み、山内首藤氏の庶流であるとされます。また小野寺氏は多くの分流があるとされ、下野の小野寺氏が嫡流とされているようです。
城址は明治のころには土塁も残っていたようですが東北自動車道建設のために失われたとされ、周囲は畑地や宅地になっています。高速道路の東側のすこし南方に義寛(小野寺禅師太郎)の墓があります。義寛は源為義に仕えて軍功があったため、小野寺保を与えられ小野寺氏を称したとされます。義寛の子、道綱は承久3年(1221)68歳で京都宇治橋の合戦に参加し討死したと案内板には記載があります。

この日の昼食は佐野市の道の駅「どまんなかたぬま」でいただきました。名物佐野ラーメンと芋フライのセットでお得感があります。

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しんちゃん

十九夜堂 (2024/09/14 訪問)

宇都宮景綱の甥・泰貞が戸祭氏を称し、戸祭城を築いたとされています。十九夜堂と書かれた額のかかった公民館に石碑があります。

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朝田 辰兵衛

R246沿いなので,迷わないと思います… (2024/12/23 訪問)

丸山城址公園自体が巨大な土塁のようなので,愛甲石田駅からでも伊勢原駅からでも,R246沿いを進めば見落とすことはほぼほぼないと思います。
周辺を散歩されている方は多数見かけましたが,主郭部にはほとんど人がいなかったです。

伊勢原駅を中心とした,七沢城,糟屋館,丸山城,岡崎城の4城ですが,平塚駅を拠点として攻城しました。平塚駅北口と伊勢原駅南口間に,路線バスの運行数がかなりあるためです。小田急線沿いにこだわるなら,本厚木駅か海老名駅が拠点になるのかな…と思います。
なお,平塚駅北側には「平塚市総合公園」がありますが,「ひらパー」という人は見かけませんでした…<笑>。なんちゃって関西人なら,絶対言いそうなんだけど…。

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しんちゃん

半地下 (2024/09/18 訪問)

早雲さんを散策に出したら景勝さんを連れてきて急速に石高が足りなくなりました・・いえ、こっちの話。
飛山城の続きです。大手は東側に付いていて、堀と土塁が二重になっています。いずれも大規模なもので、中世の戦国城郭がこの規模で再現されているのは感動ものです。二つ目の堀を渡ると門があります。この門、4日前に夜襲に来たときには閉まっていましたが、この日は開いています。北と南を4号堀が仕切っていて、まずは南側を散策すると半地下の建物があります。この建物、以前訪問した時には中に入れた気がするのですが入ることは出来ません。記憶違いかな?
4号堀を越えて北にいくと曲輪4にたどり着きます。ここには掘立柱建物が再現されていました。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【城域1:曲輪群[主郭ゾーン]】
<見所>大空堀・土塁・曲輪群

<感想>瓜生山山頂を主郭とする曲輪群で主郭の西側に2つ腰曲輪があり、そこから西ゾーンと南ゾーンの連段曲輪群に枝分かれしていきます。主郭の東側は3段程に横に広い曲輪が広がり「報告書」の縄張り図では大きく6つ程の曲輪があります。この東側の曲輪群は各々の土塁虎口の遺構が明瞭に残り見応えがあります。主郭東側からの切通しは主郭西下段の副郭と思われる曲輪を分断しているためハイキングコースとして後世に人が通ったためにこうなったと考えます。主郭ゾーンと東ゾーンを分断する南北100m程はしる大空堀は圧巻の見応えで、おそらく箱堀、またはU字状の幅広の空堀と思われます。大空堀の南端は南からの谷の終着地点と繋がっていて、明らかに人為的に垂直に削った8m程の切岸(もはや垂直の壁です)なっています。ちょうどこの切岸の東側が東ゾーンの主郭部があり横矢の総攻撃が加えられる鉄壁の守りになっています。
 山頂の主郭は築城者の細川高国が勧請した将軍地蔵が当時があり、石積みの石室(現在はコンクリで間詰めされています)も残っています。主郭は大城郭の中心部にしては小さく、私の考えでは将軍義晴・義藤が籠城するのには吹きっさらしのこの場所ではないなと思いました。主郭の東側の曲輪群かあるいは別の場所(この次に投稿します)におわしましたと感じました。

<城域1の全体的な考察>いくつもの城域を束ねる心臓部にふさわしい城跡で、城域1は南から谷底を上がって来る敵を防御する造りになっています。谷は城域1の南側で幾筋かに分かれていますが、それぞれの山側の尾根に曲輪群を設けて谷に向かって両サイドから攻撃できるようになっています。城域1の北東部から北方向に太い尾根が伸びていて、100m程先のピークが堡塁になっていますが、堀切も何も無くて北側の守りは無かったように感じました。次の投稿は将軍山城の最後になります。[清沢の石切り場]と軽い[まとめ]です。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「細野城」。 (2024/12/29 訪問)

北条家の家臣、内藤 秀勝さんの居城「細野城」は国道412号沿いにあります。
しかし難攻不落の「細野城」。国道412号の曲がりくねる途中なので路駐ができません。左手に入ると、建物の駐車場になり行き止まりです。
で、戻り国道412号を左折。『馬渡大坂』がまた細く、カーブがきつい道でした。結果、ふもとの中津川の駐車場から歩きました。
「田代城」や三増合戦の古戦場は中津川の向こうです。

「細野城」は説明板があります。
建物の前は畑になっていました。畑に土塁が残っています。
中津川に戻ると滝の案内板がありましたが、そんな元気は残っていません。
退陣しました。

ちょっと脱線します。
トクさんの「ライオンまんじゅう」、今川焼の進化形ですよね。
会社で『今川焼今川焼』騒いでいたので、同僚が八王子駅の近くにある『都まんじゅう』を買って来てくれました。
今川焼より小ぶりです。*写真、ありません。
『都まんじゅう』を調べてみたらトクさんの地元、福岡県がルーツでした。
日本100名城の「八王子城」や続100名城の「滝山城」攻めのお土産にいかがでしょうか?

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トク

到津の森公園(ちょっと寄り道) (2025/01/19 訪問)

西小倉駅前から黒崎行のバスに乗り15分「到津の森公園前」で下車しました。さあここから「引地山城」を目指そうと思いましたが・・・

バスを降りると観覧車などの遊園地がすぐ目の前に見えて、案内図もありました。よく見ると、何やら珍しい動物たちがたくさんいそうな動物園もあります。しかも市営のためか料金も安い! これはちょっとだけ寄り道して行くことにしました。

日曜なので家族連れや多くの小さな子供たちで、とてもにぎわっていました。そして何とビックリ!「レッサーパンダ」がいました。私は見るのは初めてですが、動作が愛らしいですね。他にもキリン・虎・ライオン・ぞうなどなど大変多くの動物がいて、うさぎなどのかわいい小動物と触れ合えるコーナーもありました。時を忘れるほど見入ってしまい、ふと気がつくと1時間程度のつもりが3時間も長居してしまいました。最後にお腹が空いたので、名物「ライオン饅頭」を食べました。美味しかったです。

では本来の目的地へ、ここから歩いて10分の所にある、引地山城跡へ向かいます。
 

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イオ

城下町めぐりと岸和田古城 (2024/10/27 訪問)

(続き)

市営駐車場の東側一段上にある展望ポケットパークからは紀州街道の街並みが見渡せます。ここから紀州街道を端緒に城下町(と岸和田古城)をめぐってみるとしましょう。

紀州街道(岸和田市本町)
紀州街道は松平康重期に整備され、後に紀州徳川家の参勤交代道となり、城下町は街道沿いに発展しました。本町地区は岸和田市の歴史的まちなみ保全地区に指定され、古い街並みが遺っています。街道沿いには一里塚跡や吉田松陰の逗留地なども見られます。また、紀州街道の海側には同じく松平康重期に約800mにわたって整備された惣構の防潮石垣がわずかに遺っています。

蛸地蔵天性寺(岸和田市南町)
中村一氏期に岸和田城が紀州勢に攻められ落城の危機となったとき、大蛸に乗った法師と数千の蛸が現れて城を救ったとする蛸地蔵縁起絵巻と、法師に化身した地蔵菩薩像(鉄砲の傷跡が残る)が伝えられています。

松平康重墓(岸和田市南町)
岸和田城を近世城郭として完成させた松平康重の墓所です。心蓮寺跡とのことですが、柵で囲われた空き地に五輪塔と説明板だけが立っています。

岸和田藩薬園跡(岸和田市岸城町)
江戸後期にはあぶみ郭(馬出郭)に薬園が設けられ、様々な薬用植物が栽培されていました。現在は駐車場になっていて、説明板が立てられているのみです。

岸和田古城(岸和田市野田町)
岸和田古城(城びと未登録)は、南北朝期に南朝方として活動した岸和田氏が拠点とした城館で、戦国期に現在の岸和田城の位置に移って廃城となったと考えられます。三つの曲輪群を水堀で囲んだ平地城館で、近年まで本城が遺っていたようですが、宅地化により現在は本城跡に石碑と説明板が見られるのみです。

…というところで城下をひとめぐり。時間の都合で取りこぼしもありますが(だんじり会館とか?)、近場なのでその辺はまたいずれ。
 

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しんちゃん

刑部氏代々 (2024/09/14 訪問)

刑部城は旧上三川街道沿いに位置し、宇都宮頼業の子孫で上三川城主の横田師綱の次男・良業によって築かれたとされます。良業は刑部氏を称し、宇都宮氏の家臣として活躍しました。
現在も子孫の方が暮らしており、街道のある東側に土塁、堀が残っています。地名にも城にかかわるものが残っており、邸宅のあるあたりが「御城」、あたり一帯の地名が「堀の内」と言うようです。

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しんちゃん

雷電神社 (2024/09/14 訪問)

江曽島城は雷電神社のある微高地に築かれていたようです。個人宅に城址碑がありますが、誰もいないので遠景で・・。

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しんちゃん

平将門 (2024/09/14 訪問)

藤岡城は承平2年(932)に平将門によって築かれた花岡館が前身のようです。天慶3年(940)将門が討たれると廃城になり、寛仁2年(1018)足利成行が中泉城として再興し一族の佐貫太郎重光に守らせました。後に藤岡城と称されますが、豊臣秀吉の小田原攻めにより落城し、廃城になったようです。
本丸跡が三所神社として残され、他は田畑になったようです。

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しんちゃん

風化 (2024/09/14 訪問)

小谷城は久寿元年(1154)に小谷俊景によって築かれたとされています。小さな神明宮の近くに案内板と石碑がありますが、案内板は風化してほとんど読めません。ちょい寄りです。

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天守無しがアツい

稲荷櫓 (2025/01/12 訪問)

(甲府城HP)
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html

甲府城(天守)を訪れた事は(平成28年に)あるのですが、その時はまだ100名城スタンプの存在を知らず、スタンプ帳も持ってなかったため…まさにやり残しという存在でした。その回収をするために甲府市に来た今回の私🚃

スタンプ設置場所は2つあり、そのうちの1つが稲荷櫓(1枚目)という場所でした。今回はそこに入場…靴を脱ぎスリッパに履き替えて中に入ると…すぐそこにスタンプはありました

スタンプ帳に捺印(2枚目)…今回も試し押しして大丈夫と確認してからの本押しでした。他用あったため、手短に櫓内を見学

(HPからの案内文コピペ)
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

櫓は二層から成り立っており、1階には(上記コピペとほぼ同じの)説明パネルが何枚もありました。石落とし(床下の隅から石を落として敵兵を妨害する為の設備)も…🪨

その他には鯱鉾の展示がありました(3枚目)。鯱瓦というものがこの城には使われていたそうで、装飾性の高い…金の鯱を施した瓦(展示品)が使用されていた…ゴージャス感ありますね✨

ちなみに甲府城の城主には徳川家光の弟…忠長も。甲府藩主として238000石を拝領するも元服前(当時数え年で12歳あたり)という事で実際入府することはなく、藩の運営は家臣団により行われていたのが実情だそう…

その後彼は猿を殺し過ぎたり酒に酔って罪なき者を次々と手打ち…ご乱行が過ぎて庇いきれなくなり…親父(二代将軍秀忠)に勘当されたり改易(領地没収)されたりし…最期は幕命により切腹(享年29)という自業自得かつ悲劇的な運命を辿った男💀

2階にあるのはジオラマだけでした(4枚目)。これは江戸時代あたりの城郭を再現したものと思われ…この中の本丸部分しか当時の面影を残すものは無い

(4枚目の手前側に見える御殿のような建物は)県庁や駅に取って代わり現在に至るわけです🏢🚉 赤い目印がここ稲荷櫓🏯

ここには天守台こそあれど…天守は無い。それに関する説明が無かった気がするので(城主の変遷はあっても)、存在自体よく分かってないのではないでしょうか?それにこの櫓が天守の代わりを務めてるのかもな…と2階に上って窓から外を見た時に何となく思いました

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