とまつりじょう

戸祭城

栃木県宇都宮市

別名 : 戸祭中城
旧国名 : 下野

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朝田 辰兵衛

【Makuake】通知設定が完了しました… (2024/02/23 訪問)

“【Makuake】通知設定が完了しました”と,Makuake運営担当からメールが届きました。
しかし,プロジェクト開始日は「城の日」。すでに攻城予定を入れているので,夜になっちゃいますが…。
ということで,CFの通知設定完了です。
あれっ,宣伝画像の読み札差し変わってるゾ…。
これは,スタッフから私に対するメッセージ性を感じます。
こういう投稿を欲しがっていたでしょ…???

戸祭城はバーターのバーターです。この一手はたぶん読まれていたと思いますので,早出しします。
「戸祭城 標柱1本 ポチひとつ」
久々のお城川柳ですが,ある城の上五を変えただけ。
見つけるのに難儀するかな…と思っていたら,すんなりでした。

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にのまる

宇都宮城から徒歩で行きました。 (2023/08/16 訪問)

宇都宮城から2kmくらいです。
途中、中央通りといちょう通りの交差するところに大きないちょうの木が見えました。
近づいてみると、この場所は宇都宮城の三の丸と百間堀の境の土塁で、いちょうの木は宇都宮城の清明館で催されていた「うつのみやの戦災展」でいただいた資料にあった「復興のシンボル 大いちょう」でした。宇都宮空襲で被害を受けて黒焦げになってしまったものの翌年には新芽を吹き、青々とした葉を茂らせたのだそうです。隣接するビルの9階よりも大きいです。
推定樹齢400年ということは、宇都宮家終焉の頃に芽吹き、秀忠から家慶までの日光社参や、本多正純の町づくりから改易までも見てきたのでしょう。戊辰戦争では、この木自身が危ない目に遭ったかもしれません。

その先には宇都宮城大手門跡。
戸祭城に向かっているのですが、まだまだ宇都宮城内です。

県庁の西側、昭和小学校の裏の路地に戸祭城の城碑がありました。お住まいの方以外の人や車は通らないような静かな通りです。

石碑が城址を示すだけではありましたが、戸祭城のおかげで宇都宮城の見ていなかった遺構や跡地を通ることができたので、行ってみてよかったです。

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新ろくべえ

戸祭城(戸祭中城)に行ってきました (2023/08/05 訪問)

戸祭城は、宇都宮家七代目当主・宇都宮景綱の
弟・宇都宮盛綱の子・宇都宮泰綱が戸祭に住み、
戸祭氏を名乗って城を建てたのが始まりの城です。
近くにある祥雲寺は、戸祭氏の子孫の戸祭備中守高定が、
戸祭城の鬼門よけとして作ったと言われています。
戸祭氏は代々宇都宮氏に使えましたが、
1597年(慶長2年)に、宇都宮国綱が改易となり
宇都宮氏も滅亡したため、戸祭城も廃城となりました。

【城情報】
・形式       ❙平城
・築城年      ❙鎌倉時代中~後期
・廃城年      ❙1597年
・築城者      ❙宇都宮泰綱(戸祭泰綱)
・最後の城主    ❙?
・廃城理由     ❙主君・宇都宮国綱の改易のため
・主な城主     ❙戸祭泰綱、戸祭備中守高定
・遺構       ❙ なし
・主な建築物    ❙ なし
・説明看板、石碑  ❙石碑→側面に説明の文字(とても見にくい)
・駐車場、トイレ  ❙駐車場 無 トイレ 無
・天守       ❙なし
・保存状態(自身判断)❙遺構はなく、石碑のみ
・城レベル     ❙1(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙・祥雲寺によると、備中守高定の屋敷は、
          ❙ 戸祭全体といわれている。
   

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チェブ

白い建物に白い石碑。 (2023/05/06 訪問)

鎌倉時代、宇都宮 泰貞さんが築いた「戸祭城」。

『とちぎテレビ』方面から侵攻すると、見つけにくいかもしれません。
住宅地の細い道に『十九夜堂』がありますが、お堂と言うよりも会館や集会場のような白い建物でした。
その白い建物の右手に、白い「戸祭中城跡」の石碑があります。
近くのお宅に立派な門があり、そちらばかり気にしていたら見逃しました。

戸祭とは、「宇都宮城」の西北の入口を祀ったと、ありました。土地を祭る、から名付けられたともあります。
白い「戸祭城」の石碑、右カーブの手前ですよ。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 戸祭高定
築城年 不明
主な城主 戸祭氏
遺構 消滅
再建造物 石碑
住所 栃木県宇都宮市戸祭元町